2019年4月8日月曜日

有機体なき身体

またか。

ま、オレはアルトーなんて断片拾い読みしただけだからさ、だからテキトーに書いただけなのは間違いないさ。

でも、ドゥルーズ&ガタリは「器官なき身体」を、有機体なき身体(あるいは有機体なき「真の器官」)と解釈するようになったんでね、

われわれはしだいに、CsO(器官なき身体 corps sans organes)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官 les organesではない。有機体 l'organisme こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化 organisation des organes qu'on appelle organisme に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官 organes vrais」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ il s'oppose à l'organisme, à l'organisation organique des organes 。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』1980年)


ようするに「器官なき身体」でもジジェク のいう「身体なき器官」でもどっちでもいいんだよ。これは両方とも、ラカンのいう《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(S23、1976)ってことだ。

で、この「有機体なき身体」の一つが、グロソラリア glossolalia であるのはたぶん間違いないだろ?

いまや勝利を得るには、語-息 mots-souffles、語-叫び mots-cris を創設するしかない。こうした語においては、文字 littérales・音節 syllabiques・音韻 phonétiquesに代わって、表記できない音調 toniques だけが価値をもつ。そしてこれに、分裂病者の身体 corps schizophrénique の新しい次元である輝かしい身体 corps glorieux が対応する。これはパーツのない有機体 organisme sans partiesであり、吸入 insufflation・吸息 inspiration・気化évaporation・流体的伝動 transmission fluidique によって、一切のことを行なう(これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体 corps supérieur、器官なき身体 corps sans organes である)。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第13セリー」1969年)

臨床ラカン派的にはこうだ。

ラカンは言語の二重の価値を語っている。肉体をもたない意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen, 2016)


ようするに「有機体あり身体」は、ファルス享楽的身体、「有機体なき身体」は女性の享楽的身体(自ら享楽する身体)だ。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、他者によって話される身体 corps parlé、享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 le corps parlant とは、自ら享楽する身体 corps qui jouit である。 (Florencia Farìas、Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010ーー身体の多重性


もう少し記せば、意味の論理学32セリエでは、原ナルシシズムと器官なき身体を等置している。

Le moi, comme terme du « narcissisme primaire », git d'abord en profondeur, dans la boule elle-même ou le corps sans organes. (trente-deuxième série)


ラカンは、原ナルシシズム narcissisme primaire、自体性愛 auto-érotismeを自閉症的享楽 jouissance autisteと等置している。(S10、05 Décembre 1962)

自閉症的享楽ってのは、厳密に言わなかったら、分裂病的享楽だよ。ドゥルーズの「分裂病」概念自体、厳密じゃないから、これでいいだろ?

で、原ナルシシズムとは、去勢という穴の周りの循環運動のこと。

原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

で、原ナルシシズムは、のちの概念「女性の享楽」のこと。そして「女性の享楽」とは身体の自動享楽 auto-jouissance du corps であり、死の欲動のこと。

このあたりはいままでの日本ラカン派注釈はオレの知る限り全滅なので、「女性の享楽簡潔版」を参照のこと。


で、S(Ⱥ) は、女性の享楽なんだからさ。「神の享楽」で文句あんのか?

私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit(神は死んでいない)ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ま、いま書いたこともテキトウだけど、前回のテキトウよりはましだろ。

以上。


いやあ読み返してみると、貴君のおかげですばらしいまとめができちまったよ、10分ほど時間をロスしたけどな。今後、知的退行組院生がなんたらいってきたら、この程度をつきつけといたらいいさ。