2019年4月7日日曜日

症状のない主体はない

おい、「症状のない主体はない」がラカン派の最も基本テーゼだ。だから「焼酎図書の無知集団」のたぐいの輩ーー自らの症状に気付いていないようにみえるヤツラーーは信じがたいのだよ、オレには。

肝腎なのはこれなんだけどな。

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)

以下、最も初歩的な基本文献の列挙。これさえわかってねえんじゃないかな、ひょっとして。あの連中は。すくなくともあきらかにやりすごしてんだろうな。




◼️症状のない主体はない(対象a=固着=サントーム)
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である(サントーム)。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》という無意識とは異なり、その外に出る(外立する)もの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(Lacan, S22, R.S.I., 1975, pp.106-107摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の固有の享楽を示す。《私は症状を、皆が無意識を享楽する仕方として定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine》(S22, 18 Février 1975)。

ラカンは対象aよりも症状概念のほうを好んだ。「性関係はない」という彼のテーゼに則るために。(ポール・バーハウ他 Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)


◼️症状という解決法 
ラカンの教えにおいて、症状概念は進化することを止めない。そして最後のラカンは断定する、症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptômeと。この意味は、症状は単に障害であるどころか、また解決法 aussi une solution であるということである。

逆説ではなく、われわれは言うことができる。人はみな、自らの症状のおかげで適応すると。何に適応するのか? 言説(社会的結びつき)の規範に適応するのではない。言説については、人の症状は障害に似ている。つまり症状は規範言説による統制に異議を唱えるものである。しかし症状は、無意識から生じる構造に適応する。この無意識は分析自体において光が照射されるものだ。そしてラカンはこれを無意識の特性としての現実界と呼んだ。この現実界的無意識は「性関係はない Y'a pas de rapport sexuel」と定式化される。この意味は、言語の構造において、性はどんな徴を以ても書かれていない le sexe ne s'inscrit sous aucun signe ということである。徴、つまり「一つになって他の諸享楽と結びつくconjoindre l'une et l'autre jouissances」ことを可能にする徴である。言語は、フロイトが夢みた融合としてのエロスには適していないのである le langage est impropre à l'Éros de la fusion dont rêvait Freud.

しかし、他の性の刻印の不在のなかにà défaut d'inscrire l'Autre sexe、症状がある il y a le symptôme。この症状が無意識によって発明されるのである。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)



◼️対象a=リビドー固着の残存=症状
ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父の隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式のもと、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父の隠喩」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残余 restes」があるのである。その残余が分析を終結させることを妨害する。残余に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望にはどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまたファルス期 phallisch-genitalen Platz にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残存物 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)



◼️骨象a=固着
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)


◼️サントームΣ=固着
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」(リビドー固着)として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)