2019年6月1日土曜日

オスキナヨウニ




私は、1925 年以来、これらの写真の 1 枚を所有している。それは、フランスの精神分析学者の草分けの一人であるボレル博士からもらったものである。この 1 枚は、私の人生において、決定的な役割を持った。私は、この恍惚としている(?)ようでもあれば、同時に耐え難くもあるこのイマージュに絶えることなく付き纏われてきた。私は、サド侯爵は、現実の処刑――それは彼が夢想しながらも接し得ないものであった――に立ち会うことがなかったが、そうだとしても、処刑のイマージュ像から何を引き出し得たろうかと考える。彼は、その図像を、あれやこれやのやり方で、たえず自分の目の前に掲げたことであろう。けれども、サドは孤独の中において、少なくとも、相対的な孤独の中において、それを見ようとしたであろう。その孤独なしには、恍惚的で悦楽的な結果はありえないからである。

Je possède, depuis 1925, un de ces clichés (reproduit p. 234). Il m’a été donné par le Dr. Borel, l’un des premiers psychanalystes français. Ce cliché eut un rôle décisif dans ma vie. Je n’ai pas cessé d’être obsédé par cette image de la douleur, à la fois extatique (?) et intolérable. J’imagine le parti que, sans assister au supplice réel, dont il rêva, mais qui lui fut inaccessible, le marquis de Sade aurait tiré de son image: cette image, d’une manière ou de l’autre, il l’eût (sic) incessamment devant les yeux. Mais Sade aurait voulu le voir dans la solitude, au moins dans la solitude relative, sans laquelle l’issue extatique et voluptueuse est inconcevable. (バタイユBataille『エロスの涙 Les Larmes D'Eros』)


ろくでもない精神分析家だな、電気ショックよりはすこしだけましって程度だ、とくに父の梅毒による拷問刑に幼少時から直面していたバタイユにとっては。





いやあボレルってのはひどい「病人」の顔だね、フロイトやラカンよりももっとビョウキっぽいや。だいたい分析家ってのは自らがひどいビョウキだから分析家になるんじゃないかね。「他者の治療によって自己治療が代替される」ってヤツだ。そこのきみもやってるんじゃないかい? この治療行為を。

中井久夫は人間の治療行為を『治療文化論』で次のように整理してるけどさ、人はどれかの精神治療をやってるはずだよ。やらなかったら身がもたないね。





ところでアドリアン・ ボレル Adrien Borel は、ロベール・ブレッソンも分析治療しているらしい。で、ブレッソンの「田舎司祭の日記 Curé de Torcy Journal d'un curé de campagne」(1950年)にまで出演している。






当時はインテリ連中のあいだではやったんだろうな、分析をうけるのが。

アドリアン・ ボレルはパリ精神分析協会 Société Psychanalytique de Parisの創設者の一人で、1932年から1934年にはボスだったそうだけどさ。仏ってのは独英にくらべてだいぶ遅れたからな。だから初期には藪医者がことさら多かったんだろうよ。

ドイツ語圏や英語圏の国々に比べて,精神分析の導入が一世代分遅れたフランスでは,その本格的な制度的取り組みの開始は, 「パリ精神分析協会(Société Psychanalytique de Paris = SPP)」が結成される一九二六年まで待たねばならなかった.(『応用精神分析と反哲学 ──医学,哲学と精神分析──』 立 康介 、2016)

現代仏ラカン派の分析家はこんなこと言ってるけどさ。

バタイユは追い詰められてアドリアン・ ボレル Adrien Borel に到った。ずたずたになって、孤独による腐食、飲酒の泥沼、そして苦悶に窒息させられて。1924年、27歳の時、それまで或る種の敬虔なダンディだったバタイユは放蕩に陥った。教会から娼窟へ。1925年、友人 Dausse 医師がバタイユにボレルを紹介した。ボレルとの分析は救命ブイ、天運だった。それは短いが決定的だった(1926年の夏に始まり一年続いた elle débute l'été 1926 et dure un an)。

分析は、怪物的基盤をもった手始めの行為によって方向づけられる。1925年、ボレルはバタイユに図書館に行くことを進めた。写真を見るようにと。それが、バタイユをいかに衝き動かすのかを知らないままで。ジョルジュ・デュマ Georges Dumasによる心理学の論文のなかに複写された中国の拷問写真である。(Michel Bousseyroux, La psychanalyse de Georges Bataille 2018)


「短いが決定的だった」ってあるけど、悪い方に決定的だったんじゃないかな。

バタイユは分析において熱中して話し続けた。苦痛と死への凝視に囚われた満足をsatisfaction prise à la contemplation de la douleur et de la mort 。彼の盲目の父、インポテンツで、梅毒の最終段階へと病苦する父への凝視を。彼は1934年8月、ドイツ軍侵攻の際、爆撃のもと、家政婦に任せたまま、父を置き去りにして母とともに逃げ出した。バタイユは話しに話した。空虚のなかに喪われた父 perdus dans le vide、父の白眼 blanc des yeux、排尿のたびに踠き叫ぶ脊髄癆の全き苦痛の眩暈のもと、肘掛椅子のなかで引き裂かれた父を。痙攣的な笑い rires spasmodiques を以て、である。(Michel Bousseyroux, La psychanalyse de Georges Bataille 2018)

ーーということはラカン派が言っているのであって、「善人」のみなさんはけっして信じてはなりません。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)

ボクはどっちかというと好きじゃないけどな、クリシェだらけの「善人」ってのは。 ま、でもオスキナヨウニ。

私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』)

バタイユの愛人で35歳で死んじまったロールはこう言ってるけどさ、バタイユ宛の手紙で。

《あなたがこの世で最も忌み嫌っているものよりももっと忌まわしいものであるすべを知ること,自分をもっと忌まわしいものにするすべを知るべきであるように思われます》

《悪をその根源に至るまで追求し,傷口に真正面から向い合い,それを直視すること一一それを暴くこと》

ーーこっちのほうが好みだな、ボクは軟弱だから「せいぜいどっちかというと」ということだけど。

ところで、あの拷問刑の写真の恍惚の表情は大麻のせいだということだ。拷問者たちは切り刻む楽しみを長引かせるために、刑の最初に一服盛るらしい。キーワードは、神のエクスタシーと究極の恐怖 l'extase divine et une horreur extrême、すなわち享楽と去勢 la jouissance et la castrationだ。

バタイユが生涯魅惑された写真ってのは、ボクはまったく趣味じゃないけどさ、女の恍惚の表情だったらちょっといけるな。





去勢 Kastration ⋯⋯とは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

ーー《享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…》(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


⋯⋯⋯⋯

マルキ・ド・サドは、他者に苦しみをもたらしたと伝えられるが、半生涯を刑務所で過ごした。そしてマルキ・ド・サドの秘密はマゾヒズムであるとラカンは強調している。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)

ラカンは、「 サドの秘密はマゾヒズムである」と直接的に言っているわけではない。でも、次のほぼ同時期の二文を混淆させればそうなる。

享楽への意志は、モントルイユ夫人によって容赦なく行使された道徳的拘束のうちへと引き継がれることによって、その本性がもはや疑いえないものとなる。la volonté de jouissance ne laisse plus contester sa nature de passer dans la contrainte morale exercée implacablement par la Présidente de Montreuil(ラカン, Kant ·avec Sade, E778, Avril 1963)
大他者の享楽の対象になること être l'objet d'une jouissance de l'Autre、すなわち享楽への意志 volonté de jouissance が、マゾヒスト masochiste の幻想 fantasmeである。(ラカン、S10, 6 Mars 1963)


義母モントルイユ夫人への手紙をひとつ引いておこう。

これ以上はっきり申し上げられるでしょうか、マダム? 私の胸の裡をこれ以上はっきりお聞かせできるでしょうか? どうかお願いですから、私のおかれた状態を少しは憐れんでください! 恐ろしい状態なのです。そう申し上げることで私があなたを勝利者にしてしまうことくらい承知しています。しかしもうそんなことはかまいません。私はあまりにも不運なやりかたであなたのお心の平安を乱してしまったがために、マダム、私の犠牲であなたに勝利をご提供致すはめになったことを悔やむ気にすらなれないのです。あなたはご自分の力を尽くして、ひとりの人間が蒙りうる最高度の辱めと、絶望と、不幸とに私が見舞われるのをご覧になろうとしたわけですから、どうぞご享楽ください、マダム、さあどうぞ、なぜならあなたは目標を達せられたのですから。私はあえて申しますが、人生を私ほど重荷に感じている存在はこの世にひとりたりともおりません。 (サド「モントルイユ夫人宛書簡」1783 年 9 月 2 日付)


このラカン派観点は、ドゥルーズが『マゾッホとサド』で示した観点とは大きく異なるが、それについては人はお好きなように解釈なさったらよろしい。

晩年のフロイトのマゾヒズムはこうである(1920年以降、大転回がある)。

マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)