2019年7月6日土曜日

「異者としての身体」の享楽なる「自閉症的享楽」

スイスの精神科医オイゲン・ブロイラー Eugen Bleuler は「分裂病 Schizophrenie」と「自閉症 Autismus 」概念の創出者だが、ここで核心のひとつとして扱う「異物 Fremdkörper」概念も、ブロイラーがフロイトと共同研究していた際の『ヒステリー研究 予備報告』(1893年)に初めて現れる概念であり、その報告の文脈を読むかぎりで判断すれば、おそらくブロイラー起源だと思われる。

そして以下に文献列挙して示すが、ラカンのサントーム(原症状)の享楽とは、「異物の享楽(異者としての身体を享楽すること)」として捉えうるのである。この異者としての身体とは、(究極的には)「去勢によって異物になってしまった身体」という意味である。現在ラカン派ではこの享楽(反復強迫・身体の自動享楽)を「自閉症的享楽」「女性の享楽」等と呼び、これこそ本来の享楽自体だとしている。さらにいえば、これらの概念自体、フロイトの「外傷神経症=死の欲動」に限りなく近似する。

そしてこの観点からは、「真珠貝の法話」でいくらか冗談めかして記したが、あれはマジ話なのである。あそこにこそフロイト・ラカン理論の核心がある。

ここではそこからポール・バーハウの文のみを再掲する。

フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」という名高い隠喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、すなわち原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。

フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「Somatisches Entgegenkommen」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)

⋯⋯⋯⋯

さて以下、核心的文献列挙である。


自閉症=自体性愛=原ナルシシズム
ブロイラー
フロイト
自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである。Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt.(オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911年)
ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)


身体自体の享楽=自体性愛=原ナルシシズム=自閉症的享楽
異者としての身体
ラカン
鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) [去勢]という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに備給されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。

ーー身体自体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste(ラカン、S1005 Décembre 1962
フロイトは、幼児が身体自体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。

…私は、これに不賛成 n'être pas d'accordである。…

自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的 hétéroである。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro. 

…ヘテロhétéro、すなわち「異物 (異者étrangère)」である。
(LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
ラカンの外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物(異者としての身体 corps étranger) のようなものである。…外密はフロイトの不気味なもの Unheimlich でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)
自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. Jacques-Alain Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 02/05/2001) 


異物=トラウマ
中井久夫
フロイト
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(ブロイラー&フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


原ナルシシズムの根にある去勢
ミレール 
フロイト
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、身体自体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。( J.-A. MILLER, Introduction à l'érotique du temps、2004)
自我の発達は原ナルシシズム(一次ナルシシズム)から出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
去勢 Kastration とは⋯、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢解釈』1900年ーー1919年註)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


去勢=享楽の喪失
フロイト
ラカン
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutterとして、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』1909年ーー1923年註)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ。問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ。(Lacan parle à Bruxelles, Le 26 Février 1977
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S1714 Janvier 1970)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして、去勢は「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER,  Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


身体の享楽=女性の享楽=自体性愛=自閉症的享楽=享楽自体
=サントーム
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre (=女性の享楽、身体の享楽)とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011
自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。……自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。(ミレール, L'être et l'un、2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …Miller, L'Être et l'Un2 mars 2011)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
享楽は身体の出来事である。la jouissance est un événement de corps…身体の出来事は、トラウマの審級にある。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, …この身体の出来事は、固着の対象である。l'objet d'une fixation. ( J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 06/06/2001
身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
S2なきS1=自閉症的シニフィアン

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(MILLER、L'Être et l'Un, 23/03/2011)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)
◆S2なきS1=現実界的シニフィアン

シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne Colette SolerLacan, l'inconscient réinventé, 2009


サントーム(原症状)=トラウマによる反復強迫
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。 Le sinthome, c'est le réel et sa répétition (MILLER、L'Être et l'Un, 9/2/2011)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (Lacan, S23, 10 Février 1976)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマtraumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(Lacan, S23, 13 Avril 1976)
◆反復強迫

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)

サントーム=固着
ラカンが症状概念の刷新 rénovation du concept de symptômeとして導入したもの、それは時に∑(シグマ)と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne、1987)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつきconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯
抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。

フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。

Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,L'être et l'un 30/03/2011)

リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。…

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1917年)
より初期の段階のある部分傾向 Partialstrebung の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着 Fixierung、欲動の固着 Fixierung (des Triebes nämlich)と呼ばれるものである。(フロイト『精神分析入門』第22講、1917年)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である。la jouissance est un événement de corps…身体の出来事は、トラウマの審級にある。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, …この身体の出来事は、固着の対象である。l'objet d'une fixation. ( J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. ( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…

これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée ( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011
…この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)




・・・というわけだが、とっても長い文献集であるな、われながら。

若いころわたくしが最も愛した書のひとつは、ドゥルーズの『ニーチェ』である(『ニーチェの哲学』ではない)。あの書はほぼ三分の二ほどがニーチェからの直接の引用文献で占められている。人はああいった書物を作るべきである。自分の言葉で原典を劣化させて示すばかりの、ロラン・バルトのいう《要約というイデオロギー》の囚人たちの書き物ばかりが跳梁跋扈している現在、人は反時代的に振舞うべく是非、ドゥルーズの『ニーチェ』のような書を作らねばならぬ(・・・と記して気づいたが、誤解のないように言っておかなくちゃいけないが、まともな研究者だったらな、ということでありボクはそんなことはケッシテしないけど)。


話を本題に戻そう。

ラカン派的観点における本来の享楽自体である「身体自体の享楽としての自閉症的享楽」が上に示されたが、ここでの身体自体とは、じつは究極的には自分の身体ではない、ということがおわかりになったであろうか? あるいは原ナルシシズム者が愛する身体とは自分の身体ではないことが。愛するのは「異者としての身体」なのである。わたくしは何度か「暗闇に蔓延る異者としての女」と表現してきたが、これが、ブロイラー=フロイトの「異物」であり、ラカンの「外密」であり、「原対象a」である。ラカンは別に「穴」とも言っている。

長くなりついでに、それを明晰に示す文をさらに掲げておこう。フロイトは幼児にとって自分の身体器官は外部にあると言っている。これこそラカンの外密 Extimité であり、異者としての身体 corps étranger である。




異物=外密=穴=対象a(永遠に喪われている対象)
ラカンの外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物(異者としての身体 corps étranger) のようなものである。(Jacques-Alain Miller, Extimité, 1985)
乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感覚 Empfindungen の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、 さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。

乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、自分の興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自分自身の身体器官Körperorganeに他ならないということが分かるのはもっとあとのことであるーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「外部 außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
(フロイトによる)モノ、それは母であるdas Ding, qui est la mère。(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
対象a とは外密的である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)
大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
穴=トラウマ troumatisme (ラカン、S21、19 Février 1974)
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)