2019年7月23日火曜日

赤いおまんこ

どのようにして批評を読むのか。唯一の手段はこうだ。私は、今、第二段階の読者なのだから、位置を移さなければならない。批評の快楽の聞き手になる代わりにーー楽しみ損なうのは確実だからーー、それの覗き手 voyeur になることができる。こっそり他人の快楽を観察するのだ。私は倒錯する j'entre dans la perversion 。すると、注釈は、テクストにみえ、フィクションにみえ、ひびの入った皮膜 une enveloppe fissurée にみえてくる。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

………

倒錯者としての蚊居肢散人は、話としてはたいして面白くない小津安二郎の作品も「倒錯して」鑑賞せざるをえない。たとえば小津の『彼岸花』( 1958年)は、結婚前の娘たちの「赤いおまんこ」の話ではなかろうか、と。




事実、彼岸花には毒がある。フロイト主義者でもある蚊居肢子はここで処女性のベラドンナをも想起せざるをえない。

私の美はベラドンナ(毒薬)の美よMeine Schönheit ist die der Tollkirsch。それを享楽する Genuß 者は、狂気と死の餌食となるわ Ihr Genuß bringt Wahnsinn und Tod(フロイト『処女性のタブー 』1918)




もちろん次のように引用することだってできるが、これではあまりに露骨すぎて上品な蚊居肢散人の趣味ではないことをお断りしておかねばならぬ。

小箱、箱、大きめの箱、箪笥、長持、暖炉、その他洞穴、船、容器類いっさいは女体の象徴である。ーー夢の中の部屋 Zimmer はたいていの場合「女の部屋Frauenzimmer」、部屋の出口、入ロが表現されていれば この解釈はますます疑いのないものになる。部屋が「あいている」か「しまっている」か[ »offen« oder »verschlossen«] という関心は、この関連において容易に理解されるだろう。さてその部屋の扉がどういう鍵で開かれるかは改めていう必要はなかろう。(フロイト『夢解釈』1900年)


ところで1958年の「赤いおまんこ」は、翌年以降、小津の最晩年にむかって、緑のおまんこ、黄のおまんこ、シルバーのおまんこ(生身のおまんこ)に変貌してゆく。




上のふたつは、『お早う』(1959年)、『秋日和』(1960年)からであり、下のふたつは、小津の遺作『 秋刀魚の味』( 1962年)からである。

右下の画像は次のようなシークエンスのなかで現れる。





ーー最後の場面で笠智衆はナマのおまんこから水を飲むのである。

小津の母あさゑは1962年2月に死去しており、遺作『秋刀魚の味』は、1962年11月公開である(小津安二郎は1963年12月12日(還暦の日)に死去している)。


ここで、モノクロ時代のおまんこの画像をもいくらか貼り付けておこう。


小津安二郎『東京の女』1933年



晩春(1949年)、麦秋(1951年)


さて、おまんこ、おまんこと連発してきたが、上品にいえばヤカンは小津にとって「浮遊するシニフィアン」なのである。

われわれは、マナ型に属する諸概念は、たしかにそれらが存在しうる数ほどに多様であるけれども、それらをそのもっとも一般的な機能において考察するならば(すでに見たように、この機能は、われわれの精神状態のなかでもわれわれの社会形態のなかでも消滅してはいない)、まさしく一切の完結した思惟によって利用されるところの(しかしまた、すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的創造の保証であるところの)かの「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」を表象していると考えている。 (レヴィ=ストロース『マルセル・モース著作集への序文』) 

レヴィ=ストロースのいう「浮遊するシニフィアン signifiant flottant」とは、ラカン派的にいえば欲動のクッションの綴じ目でありうる。

このクッションの綴じ目は、別名、原穴の名と呼ばれる。ようするに穴 Ⱥ(=トラウマ)に対する原防衛シニフィアンS (Ⱥ)である。この原初の防衛は十分には防衛されず常に残滓がある。



原穴の名

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)

大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (Miller, UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE, 2007)

(原大他者としての)母、その基底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(Colette Soler, Humanisation ? , 2014)

穴、それは非関係によって構成されている、性の構成的非関係によって。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexuel, Lacan, S22, 17 Décembre 1974)



我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするcombler le trou dans le Réelために何かを発明する。現実界には 「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。(Lacan, S21, 19 Février 1974