2019年8月13日火曜日

被害者の側に立つという共感の共同体精神

被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

《被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。》ーーこの日本におけるほとんど雄一の国民的一致点は、別名、共感の共同体精神と呼ばれる。

ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)


別の言い方なら、閉鎖的集団主義、大勢順応主義、生ぬるい批判精神である。

「春秋二義戦ナシ」とは孟子の言葉である。日本国の十五年戦争、南京虐殺から従軍慰安婦、捕虜虐待から人体実験まで―を冒したことは、いうまでもない。そういうことのすべてが、いまからおよそ半世紀まえにおこった。 いくさや犯罪を生みだしたところの制度・社会構造・価値観―もしそれを文化とよぶとすれば、そういう面を認識し、分析し、批判し、それに反対するかしないかは、遠い過去の問題ではなく、当人がいつ生まれたかには係りのない、今日の問題である。直接の責任は、若い日本人にはない。しかし間接の責任は、どんな若い日本人も免れることはできない。かつていくさと犯罪を生み出した日本文化の一面と対決しない限り、またそうすることによって 再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうと努力しない限り。たとえば閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別...。(加藤周一『夕陽妄語2』1992−2000)

《被害者の側に立つこと、被害者との同一視》のみに専念しーーたとえば従軍慰安婦に対する同情のみに汲々とし(「男性による女性の支配」というフェミニズムのクリシェもそれに含まれる)、その背後にある植民地支配、戦争自体、そして謝罪賠償からの逃避ーーという根にある問題をほとんど問わないままの精神が、《かつていくさと犯罪を生み出した日本文化の一面》、その重要な一面である。

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)


とはいえ、現在これはなにも日本だけの話ではない。

フランスにおいて…わが国こそ世界で最も自由、平等、友愛の理念を実現した国だという自負そのものが、ナショナリズムや愛国心を生み、他国、他民族を蔑視し差別するメカニズムが働いてしまっている。…フランス人は、ドイツ人やイギリス人よりもはるかに悪い。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年、摘要訳)

フランスは「最悪のレイシズム国家」に成り下がっている。

アルジェリアは、 フランスが1830年の軍事占領した後、フランスの国内県に編入されて130年以上にもわたり仏の統治下にあった。アルジェリアを2012年12月に訪問したオランド仏大統領は、アルジェリア議会での演説で、132年間にわたる植民地主義は「極めて不正義で野蛮」な制度だと位置づけ、暴力、不正義、虐殺、拷問についての真実を認識する義務があり、全ての記憶を尊重すると述べた。一方、その前日の公式記者会見では、ある記者より「過去の問題について悔恨の意を表したり、謝罪をするのか」と質問されたのに対し、 同大統領は、 「過去や植民地主義、 戦争や悲劇についての真実を語る」と述べつつ、謝罪や悔恨の意図はないことを暗に示した)。現在の価値基準に照らせば、植民地主義が不適切な政策であったと認めつつも、旧宗主国側が一貫して謝罪に消極的なのは、当時は合法かつ正当な施策として行ってきたとの考え方に加え、謝罪は容易に責任問題としての賠償に結びつきやすいとの側面も考えられる。(『和解 ―そのかたちとプロセス―』河原節子 (一橋大学法学研究科 教授(外務省より出向) )

たとえば今年、かつてアルジェリアで解放戦線に対する拷問のプロだったルペン、その娘が引き入る極右ルペン政党が、第一党になった。

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もっとも「男性による女性の支配」、とくにその性的支配を問いたければ問えばよろしい。ただし、より世界的にだ。

日本のことのみしか視野にない精神は、ムラ社会精神と呼ばれる。

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』)

ここでは「ベトナムピエタ像」を貼り付けておこう。「平和の少女像」を作ったキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻の製作による韓国のベトナム戦争責任を問う作品である。