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2024年10月17日木曜日

大洪水以前からある狂気の母

 

資本主義自体はなくならないよ、マルクスによれば大洪水以前からある狂気の母は。


利子生み資本全般はすべての狂気の形式の母である[Das zinstragende Kapital überhaupt die Mutter aller verrückten Formen] (マルクス『資本論』第三巻第五篇第二十四節)


利子生み資本、または古風な形態のものは高利資本と呼んでもよいが、それは、その双生の兄弟である商業資本とともに、資本の大洪水以前的形態に属する。すなわち、資本主義的生産様式よりもずっと前からあって非常にさまざまな経済的社会構成体のなかに現われる資本形態に属する。

Das zinstragende Kapital, oder wie wir es in seiner altertümlichen Form bezeichnen können, das Wucherkapital, gehört mit seinem Zwillingsbruder, dem kaufmännischen Kapital, zu den antediluvianischen Formen des Kapitals, die der kapitalistischen Produktionsweise lange vorhergehn und sich in den verschiedensten ökonomischen Gesellschaftsformationen vorfinden

(マルクス『資本論』第三巻第五篇第三六章)


われわれは、商人資本と利子生み資本とが、資本のもっとも古い形態であることを見た。しかし、通俗の観念においては、利子生み資本が資本本来の形態として表示されるということは、事柄の性質上当然である。商人資本にあっては、一つの媒介的活動が、それが詐欺、労働、その他なんと説明されるにしても、行なわれる。これに反して、利子生み資本においては、資本の自己再生産的性格、自己増殖する価値、剰余価値の生産が、玄妙な性質として純粋に表示される。

Wir haben gesehn, daß das Kaufmannskapital und das zinstragende Kapital die ältesten Formen des Kapitals sind. Es liegt aber in der Natur der Sache, daß das zinstragende Kapital in der Volksvorstellung sich als die Form des Kapitals par excellence darstellt. Im Kaufmannskapital findet eine vermittelnde Tätigkeit statt, möge sie nun als Prellerei, Arbeit oder wie immer ausgelegt werden. Dagegen stellt sich im zinstragenden Kapital der selbstreproduzierende Charakter des Kapitals, der sich verwertende Wert, die Produktion des Mehrwerts, als okkulte Qualität rein dar. 

(マルクス『資本論』第三巻第五篇第三六章)



上にある剰余価値の別名が資本フェティッシュだ。



ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G - G´ で持つのは、資本の中身なき形態 、生産諸関係の至高の倒錯と物件化、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化である。


Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form. 

(マルクス『資本論』第三巻第五篇第二十四節)



人は大洪水以前から資本物神崇拝してたんだ、あるいは生産過程の媒介なしで金儲けをしようとする妄想に耽っていたんだ。


貨幣-貨幣‘ [G - G']・・・この定式自体、貨幣は貨幣として費やされるのではなく、単に前に進む、つまり資本の貨幣形態、貨幣資本に過ぎないという事実を表現している。この定式はさらに、運動を規定する自己目的が使用価値でなく、交換価値であることを表現している。 価値の貨幣姿態が価値の独立の手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終結点とする流通形態 G ... G' は、金儲けを、資本主義的生産の推進的動機を、最もはっきりと表現しているのである。生産過程は金儲けのための不可避の中間項として、必要悪としてあらわれるにすぎないのだ。 〔だから資本主義的生産様式のもとにあるすべての国民は、生産過程の媒介なしで金儲けをしようとする妄想に、周期的におそわれるのだ。〕

G - G' (…) Die Formel selbst drückt aus, daß das Geld hier nicht als Geld verausgabt, sondern nur vorgeschossen wird, also nur Geldform des Kapitals, Geldkapital ist. Sie drückt ferner aus, daß der Tauschwert, nicht der Gebrauchswert, der bestimmende Selbstzweck der Bewegung ist. Eben weil die Geldgestalt des Werts seine selbständige, handgreifliche Erscheinungsform ist, drückt die Zirkulationsform G ... G', deren Ausgangspunkt und Schlußpunkt wirkliches Geld, das Geldmachen, das treibende Motiv der kapitalistischen Produktion, am handgreiflichsten aus. Der Produktionsprozeß erscheint nur als unvermeidliches Mittelglied, als notwendiges Übel zum Behuf des Geldmachens. (Alle Nationen kapitalistischer Produktionsweise werden daher periodisch von einem Schwindel ergriffen, worin sie ohne Vermittlung des Produktionsprozesses das Geldmachen vollziehen wollen.

(マルクス『資本論』第二巻第一篇第一章第四節)



私はこうやってマルクスを引用した後、柄谷行人注釈を掲げることが多いが、今回は先に岩井克人注釈を挙げておこう。



資本主義の歴史は古い。それは「ノアの洪水以前」においてすら、商人資本主義というかたちで存在していた。

古代における商業民族は、マルクスの言葉を借りれば、「いろいろな世界のあいだの隙間にいたエピクロスの神々のように」生きていたのである。たとえばフェニキア人やギリシャ人は、地中海を舞台にして小さな船をあやつり、遠く離れた地域のあいだの商品交換を仲介していた。かれらは、村と村、都市と都市、国と国との隙間にはいりこみ、一方で安いものを他方で高く売り、 他方で安いものを一方で高く売る。二つの地域の価格の差異がそのままかれらの利潤となったのである。


価格の差異を仲介して利潤を生みだすーー古代の商業民族が発見したこの原理こそ、まさに資本主義を「現実」に動かしてきた普遍原理にほかならない。資本主義とは、その意味で、世界がひとつの価格体系によって支配される閉じたシステムでは「ない」ことをその生存の条件とすることになる。実際、古今東西、価格の差異があるところにはどこでも資本主義が介入し、そこから利潤を生みだし続けてきたのである。


そして十八世紀の後半、資本主義はイギリスの国民経済の内側に共存する二つの価格体系を発見する。ひとつは市場における労働力と商品との交換比率(実質賃金率)であり、もうひとつは生産過程における労働の商品への変換比率(労働生産性)である。生産手段から切り放されている労働者が二番目の比率からは排除されているのにたいし、生産手段を所有している資本家はこの二つの比率のあいだをあたかも遠隔地交易の商人のように行き来できることになる。もちろん、そのあいだの差異がそのまま資本家の利潤になるのである。そして、この差異は、農村からの過剰な労働力の流出によって実質賃金率が労働生産性より低く抑えられているかぎり、安定的に存在し続けるものである。


これが、産業資本主義の原理である。それは、商人資本主義といかに異質に見えようとも、差異が利潤を生み出すという資本主義の普遍原理のひとつの形態にすぎないのである。(岩井克人「資本主義「理念」の敗北」1990年『二十一世紀の資本主義論』所収)



わが人類は労働市場で人間の労働力が商品として売り買いされるよりもはるか以前に、剰余価値の創出という原罪をおかしていたのである。それは、貨幣の「ない」世界から貨幣の「ある」 世界へと歴史が跳躍しための「奇跡」のときのことである。その瞬間に、この世の最初の貨幣として商品交換を媒介しはじめたモノは、たんなるモノとしての価値を上回る価値をもつことになったのである。貨幣の「ない」世界と「ある」 世界との「あいだ」から、人間の労働を介在させることなく、まさに剰余価値が生まれていたのである。 そして、その後、本物の貨幣のたんなる代わりがそれ自体で本物の貨幣になってしまうというあの小さな「奇跡」がくりかえされ、モノとしての価値を上回る貨幣の貨幣としての価値はそのたびごとに大きさを拡大していくことになる。


金属のかけらや紙の切れはしや電磁気的なパルスといったものの数にもはいらないモノが、貨幣として流通することによって日々維持しつづける貨幣としての価値モノとしての価値をはるかに上回るこの価値こそ、歴史の始原における大きな「奇跡」とその後にくりかえされた小さな「奇跡」において生みだされた剰余価値の、今ここにおける痕跡にほかならない。それは、「天賦の人権のほんとうの楽園」であるべき「流通または商品交換の場」が、すでにその誕生において剰余価値という原罪を知っていたという事実を、今ここに生きているわれわれに日々教えつづけてくれているのである。

「貨幣論」の終わりとは、あらたな「資本論」の始まりである。(岩井克人『貨幣論』第5章「危機論」1993年)



もっとも資本主義はなくならないにしても国家は無くなりうる。



柄谷行人が『トランスクリティーク』以来、考え続けているのは、ブルジョア革命にて起こった資本=ネーション=国家の結婚をいかに揚棄するかだ。資本主義自体をなくそうとしているわけではまったくない。


マルクスは、「価値形態」を考察した後で、「交換過程」という節で、商品交換の発生を歴史的に考察しているように見える。そこで彼がいうのは、それが共同体と共同体の間で始まるということである。《商品交換は、共同体の終わるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まるのだ。しかし物は、ひとたび共同体の対外生活において商品となれば、たちまち反作用的に共同体の対内生活でも商品となる》(『資本論』第一巻第一篇第二章)。しかし、これは歴史的な遡行によってではなく、貨幣経済に固有の性格を超越論的に明らかにすることから見いだされる「起源」である。マルクスは、右のようにいうとき、別の交換形態が存在することを前提としている。商品経済としての交換は「交換」一般のなかで、むしろ特殊な形態なのである。


第一に、共同体の中にも「交換」がある。それは贈与―お返しという互酬制である。これは相互扶助的だが、お返しに応じなければ村八分にあるというふうに、共同体の拘束が強くあり、また、排他的なものである。


第二に、共同体と共同体の間には強奪がある。むしろ、それが基本的であって、商品交換は、互いに強奪することを断念するところにしか始まらない。にもかかわらず、強奪も交換の一種と見なしてよい。というのは、持続的に強奪するためには、被強奪者を別の強奪者から保護したり、産業を育成したりする必要があるからだ。それが国家の原型である。国家は、より多く収奪しつづけるために、再分配によって、その土地と労働力の再生産を保証し、灌漑などの公共事業によって農業的生産力を上げようとする。その結果、国家は収奪の機関とは見えないで、むしろ、農民は領主の保護に対するお返し(義務)として年貢を払うかのように考え、商人も交換の保護のお返しとして税を払う。そのために、国家は超階級的で、「理性的」であるかのように表象される。したがって、収奪と再分配も「交換」の一種だということができる。人間の社会的関係に暴力の可能性があるかぎり、このような形態は不可避的である。


さらに、第三のタイプが、マルクスのいう、共同体と共同体の間での商品交換である。この交易は相互の合意によるものであるが、すでに述べたように、この交換から剰余価値、すなわち資本が発生する。とはいえ、それは強奪―再分配という交換関係とは決定的に違っている。


ここで、つけ加えておきたいのは、第四の交換のタイプ、アソシエーションである。それは相互扶助的だが、共同体のような拘束はなく排他的でもない。アソシエーションは、資本主義的市場経済を一度通過した後にのみあらわれる、倫理的―経済的な交換関係の形態である。アソシエーションの原理を理論化したのはプルードンであるが、すでにカントの倫理学にそれがふくまれている。


ベネディクト・アンダーソンは、ネーション=ステートが、本来異質であるネーションとステートの「結婚」であったといっている。これは大事な指摘であるが、その前に、やはり根本的に異質な二つのものの「結婚」があったことを忘れてはならない。国家と資本の「結婚」、である。


国家、資本、ネーションは、封建時代においては、明瞭に区別されていた。すなわち、封建領主(領主、王、皇帝)、都市、そして、農業共同体である。それらは、異なった「交換」の原理にもとづいている。


すでに述べたように、国家は、収奪と再分配の原理にもとづく。第二に、そのような国家機構によって支配され、相互に孤立した農業共同体は、その内部においては自律的であり、相互扶助的、互酬的交換を原理にしている。第三に、そうした共同体と共同体の「間」に、市場、すなわち都市が成立する。それは相互的合意による貨幣的交換である。


封建的体制を崩壊させたのは、この資本主義的市場経済の全般的浸透である。だが、この経済過程は政治的に、絶対主義的王権国家という形態をとることによってのみ実現される。絶対主義的王権は、商人階級と結託し、多数の封建国家(貴族)を倒すことによって暴力を独占し、封建的支配(経済外的支配)を廃棄する。それこそ、国家と資本の「結婚」にほかならない。商人資本(ブルジョアジー)は、この絶対主義的王権国家のなかで成長し、また、統一的な市場形成のために国民の同一性を形成した、ということができる。しかし、それだけでは、ネーションは成立しない。ネーションの基盤には、市場経済の浸透とともに、また、都市的な啓蒙主義とともに解体されていった農業共同体がある。それまで、自律的で自給自足的であった各農業共同体は、貨幣経済の浸透によって解体されるとともに、その共同性(相互扶助や互酬制)を、ネーション(民族)の中に想像的に回復したのである。ネーションは、悟性的な(ホップス的)国家と違って、農業共同体に根ざす相互扶助的「感情」に基盤をおいている。そして、この感情は、贈与に対してもつ負い目のようなものであって、根本的な交換関係をはらんでいる。


しかし、それらが本当に「結婚」するのは、ブルジョア革命においてである。フランス革命で、自由、平等、友愛というトリニティ(三位一体)が唱えられたように、資本、国家、ネーションは切り離せないものとして統合される。だから、近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。


たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。


この三つの「交換」原理の中で、近代において商品交換が広がり、他を圧倒したということができる。しかし、それが全面化することはない。資本は、人間と自然の生産に関しては、家族や農業共同体に依拠するほかないし、根本的に非資本制生産を前提としている。ネーションの基盤はそこにある。一方、絶対主義的な王(主権者)はブルジョア革命によって消えても、国家そのものは残る。それは、国民主権による代表者=政府に解消されてしまうものではない。国家はつねに他の国家に対して主権国家として存在するのであって、したがって、その危機(戦争)においては、強力な指導者(決断する主体)が要請される。ポナパルティズムやファシズムにおいて見られるように。現在、資本主義のグローバリゼーションによって、国民国家が解体されるだろうという見通しが語られることがある。しかし、ステートやネーションがそれによって消滅することはない。たとえば、資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再配分)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かうことになる。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本=ネーション=ステートは三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しようとしても、結局、この環の中に回収されてしまうほかない。資本の運動を制御しようとする、コーポラティズム、福祉国家、社会民主主義といったものは、むしろそのような環の完成態であって、それらを揚棄するものではけっしてない。(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」2001年)





後年の柄谷のベースはこのトラクリのイントロだね、以下に『世界史の構造』と『力と交換様式』から一文ずつ掲げておくが。


ヘーゲルが『法の哲学』でとらえようとしたのは、資本=ネーション=国家という環である。このボロメオの環は、一面的なアプローチではとらえられない。ヘーゲルが右のような弁証法的記述をとったのは、そのためである。たとえば、ヘーゲルの考えから、国家主義者も、社会民主主義者も、ナショナリスト(民族主義者)も、それぞれ自らの論拠を引き出すことができる。しかも、ヘーゲルにもとづいて、それらのどれをも批判することもできる。それは、ヘーゲルが資本=ネーション=国家というボロメオの環を構造論的に把握した――彼の言い方でいえば、概念的に把握した(begreifen)――からである。ゆえに、ヘーゲルの哲学は、容易に否定することのできない力をもつのだ。


しかし、ヘーゲルにあっては、こうした環が根本的にネーションというかたちをとった想像力によって形成されていることが忘れられている。すなわち、ネーションが想像物でしかないということが忘れられている。だからまた、こうした環が揚棄される可能性があることがまったく見えなくなってしまうのである。(柄谷行人『世界史の構造』第9章、2010年)


ネーションを形成したのは、二つの動因である。一つは、中世以来の農村が解体されたために失われた共同体を想像的に回復しようとすることである。もう一つは、絶対王政の下で臣民とされていた人々が、その状態を脱して主体として自立したことである。しかし、実際は、それによって彼らは自発的に国家に従属したのである。1848年革命が歴史的に重要なのは、その時点で、資本=ネーション=国家が各地に出現したからだ。さらに、そのあと、資本=ネーション=国家と他の資本=ネーション=国家が衝突するケースが見られるようになる。その最初が、普仏戦争である。私の考えでは、これが世界史において最初の帝国主義戦争である。そのとき、資本・国家だけでなく、ネーションが重要な役割を果たすようになった。交換様式でいえば、ネーションは、Aの ”低次元での” 回復である。ゆえに、それは、国家(B)・資本(C)と共存すると同時に、それらの抗する何かをもっている。政治的にそれを活用したのが、イタリアのファシズムやドイツのナチズムであった。今日では、概してポピュリズムと呼ばれるものに、それが残っている。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)



資本=ネーション=国家が結婚したままだといつまでたっても世界戦争の反復がある、それが現在も起こっている。


◾️世界戦争の時代に思う──『帝国の構造』文庫化にあたって

柄谷行人、『図書』2023年12月号

 われわれは今、世界戦争の危機のさなかにある。それはいわば、国家と資本の「魔力」が前景化してきた状態である。このような「力」は、ホッブズが「リヴァイアサン」と呼び、マルクスが「物神」と呼んだような、人間と人間の交換から生じた観念的な力である。いずれも、人間が考案したようなものではない。だから、思い通りにコントロールすることも、廃棄することもできない。


 かつてマルクス主義者は、国家の力によって資本物神を抑え込めば、まもなく国家も消滅するだろう、と考えた。ところがそうはいかなかった。結局、国家が強化されたばかりか、資本も存続する結果に終わったのである。以来、マルクス主義も否認され、国家・資本は人間が好んで採用したものであり、今後も適切な舵取りさえすれば人間を利する、と信じられてきた。


 現実に、資本も国家も暴威を振るっているのに、人びとは、自分たちの力で何とかできるものだと信じ続けている。そして、AIの発展によって、また宇宙開発のような新奇なビジネスによって、世界を変えることができる、というような「生産様式論」に終始している。しかし、生産様式が変わっても、国家も資本も消えない。現に、今世界戦争が起こっている。私がこのことを予感したのは、ソ連邦崩壊後であった。その時期、「歴史の終焉」が語られたが、私は異議を唱え、二〇世紀の末に「交換様式論」を提起した。『帝国の構造』は、そこから国家の力を解明したものである。


◾️理論的な行き詰まりで神秘主義に接近 タイガーマスクで近所を歩き回った:

私の謎 柄谷行人回想録⑰ 2024.08.06

(『力と交換様式」を)書き終わった頃に、ロシアとウクライナの問題が起きて、去年からはパレスチナも大変なことになっている。中国や台湾の問題もある。もういっぺんに出てきたでしょう。世界中どこもまともじゃない。こんなに脆いものだったのか、っていうのは、やっぱりすごく思いますよね。


他方で、僕は交換様式を考えるなかで、こうなることは分かってもいた。このまま資本-ネーション-国家の体制でやっていたら、地球環境ひとつとっても、持つわけない。いろいろな人がひっきりなしに、さまざまなオルタナティブや新しいヴィジョンを提唱しているけれど、僕から見たら全然オルタナティブじゃない。資本-ネーション-国家の永遠性を当然のこととしたうえで、その範囲でできることをやろうとしているだけだよ。もしくは、その中にいることにすら気づかないで、勝手に都合のいい世界を空想しているだけ。本当のオルタナティブは、むしろ世界戦争によって出てくるかもしれないけど――要するにそうせざるをえないところに追い込まれて――そんなことは望ましいわけじゃない。望ましいわけがない。


――だからこそ、少しでも早く『力と交換様式』を書き上げなくてはならなかったということでしょうか。


柄谷 いやいや、まだ足りない。まだ書かねばいかん。Dについても、もっと踏み込んで書かないと。僕は今、新しい本に取り組んでいます。 “力”の問題についてです。ただ、今度の本は、体系的な書き方、理論的に緻密な書き方ではなく、もっと自由でストレートな書き方になると思います。




で、柄谷にとってD とはAの高次元での回復だ、➡︎柄谷行人における「低次元での回復」と「高次元での回復」」。



A は平等であるにしても自由ではないんだな、



マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれば、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』英語版序文 2020年)

社会の崩壊は、唯一の最終目標が富であるような歴史的な来歴の終結として、私たちの前に迫っている。なぜなら、そのような来歴にはそれ自体が破壊される要素が含まれているからだ。政治における民主主義、社会における友愛、権利の平等、普遍的な教育は、経験、理性、科学が着実に取り組んでいる、社会の次のより高い段階を発足させるだろう。それは氏族社会の自由・平等・友愛のーーより高次元でのーー回復となるだろう。

Die Auflösung der Gesellschaft steht drohend vor uns als Abschluss einer geschichtlichen Laufbahn, deren einziges Endziel der Reichtum ist; denn eine solche Laufbahn enthält die Elemente ihrer eignen Vernichtung. Demokratie in der Verwaltung, Brüderlichkeit in der Gesellschaft, Gleichheit der Rechte, allgemeine Erziehung werden die nächste höhere Stufe der Gesellschaft einweihen, zu der Erfahrung, Vernunft und Wissenschaft stetig hinarbeiten. Sie wird eine Wiederbelebung sein – aber in höherer Form – der Freiheit, Gleichheit und Brüderlichkeit der alten Gentes.

ーーマルクス『民族学ノート』Marx, Ethnologische Notizbücher.  (1880/81)



いろいろ難癖つける人がいるが、基本的にはマルクスに忠実だよ、柄谷は。