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2025年12月15日月曜日

普遍宗教であった孔子や老子の教えの世界宗教への堕落

 

普遍宗教もまた、交換様式の観点から見ることができる。一言で言えば、それは、交換様式Aが交換様式Β・Cによって解体された後に、それを高次元で回復しようとするものである。言い換えれば、互酬原理によって成り立つ社会が国家の支配や貨幣経済の浸透によって解体された時、そこにあった互酬的=相互扶助的な関係を高次元で回復するものである。私はそれを交換様式Dと呼ぶ。(柄谷行人『哲学の起源』2012年)




柄谷にとって孔子や老子の教えは本来的には普遍宗教であり、交換様式Dである。


中国における普遍宗教は孔子や老子である。先述したように、彼らは春秋戦国時代、つまり、ポリスが濫立し、諸子百家が輩出した時代にあらわれた。彼らは、それまでの共同体の宗教が機能しなくなった時期に、それを根本的に問い直したのである。それらは宗教として説かれたのではない。むしろ、それらはつねに政治的思想として語られ、そのように機能した。しかし、孔子も老子も、それぞれ、新たな「神」を導入したといってよい。それを、孔子は超越的な「天」に、老子は根底的な「自然」に見出した。〔・・・〕
先ず、孔子が説いたのは、一言でいえば、人間と人間の関係を「仁」にもとづいて建て直すことである。仁とは、交換様式でいえば、無償の贈与である。孔子の教え(儒教)のエッセンスは、氏族的共同体を回復することだといってよい。もちろん、それは氏族共同体を高次元において回復することであって、たんなる伝統の回復ではない。特に、孔子の思想におけるその社会変革的な面は、孟子によって強調された。しかし、現実には、儒教は、法や実力によってではなく、共同体的な祭祀や血縁関係によって秩序を維持する統治思想として機能した。


孔子の仁を徹底的に否定したのが、「無為自然」を説いた老子である。「無為」とは、何もしないことではない。儒教や法家が考える「有為」(社会制度の構築)の無化、すなわち、その積極的な脱構築を目指すものである。老子は集権的国家のみならず、氏族社会そのものを「人為的な制度」として否定したのだ。孔子が氏族的共同体の回復を目指したとしたら、これはいわば、遊動的狩猟採集民の生活の回復を目指すものだといって良い。だが、現実には、老子の教えも統治思想の一種として機能した。それは、統治者は「法の支配」に任せて何もしない方がよい、という法家の思想に馴染みやすいものであったからだ。(柄谷行人『世界史の構造』第6章、2010年)


とはいえ、孔子に関して《儒教は、法や実力によってではなく、共同体的な祭祀や血縁関係によって秩序を維持する統治思想として機能した》、《老子の教えも統治思想の一種として機能した》とあるように、普遍宗教であるはずの孔子や老子の教えは世界宗教に堕落したということだ。


D=普遍宗教は、自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指します。ですから、Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗します。つまり、AとBを批判し、否定します。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらすCを批判し、否定します。これこそが、D=普遍宗教は「A・B・Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味です。


キリスト教、イスラム教、仏教などは当初、このような「普遍宗教」として出現したと考えられます。

これらの普遍宗教は、当初は弾圧されましたが、いずれも世界帝国の宗教、すなわち「世界宗教」となりました。キリスト教はローマ帝国で、イスラム教はイスラム帝国で、仏教は唐王朝で、「国教」となりました。

しかし、普遍宗教は「国教」になると、これまで批判してきたはずの王=祭司を頂点とする国家体制の支配の道具に成り果てました。普遍宗教は世界宗教となることで、「堕落」したのです。(柄谷行人「普遍宗教は甦る」2016年)



私は主に福沢諭吉と丸山眞男に依拠しつつ、儒教批判を何度か記してきたが、福沢諭吉と丸山眞男の儒教批判とはこの世界宗教へと堕落して秩序を維持する統治思想なってしまった儒教への批判である。《儒教本来の主義は純粋無垢にして毫も非難す可きの点を見ずと雖も、其腐敗の余毒、国を害するに至りては断じて恕す可らず。 我輩の極力排斥してす毫も仮借せざる所以なり。》(福沢諭吉「儒教主義の外部へその腐敗に在り」)



逆に本来的な孔子や老子の教えである普遍宗教(交換様式D)とは、柄谷にとって共産主義の教えなのである。


マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれば、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』英語版序文 2020年)

社会の崩壊は、唯一の最終目標が富であるような歴史的な来歴の終結として、私たちの前に迫っている。なぜなら、そのような来歴にはそれ自体が破壊される要素が含まれているからだ。政治における民主主義、社会における友愛、権利の平等、普遍的な教育は、経験、理性、科学が着実に取り組んでいる、社会の次のより高い段階を発足させるだろう。それは氏族社会の自由・平等・友愛のーーより高次元でのーー回復となるだろう。

Die Auflösung der Gesellschaft steht drohend vor uns als Abschluss einer geschichtlichen Laufbahn, deren einziges Endziel der Reichtum ist; denn eine solche Laufbahn enthält die Elemente ihrer eignen Vernichtung. Demokratie in der Verwaltung, Brüderlichkeit in der Gesellschaft, Gleichheit der Rechte, allgemeine Erziehung werden die nächste höhere Stufe der Gesellschaft einweihen, zu der Erfahrung, Vernunft und Wissenschaft stetig hinarbeiten. Sie wird eine Wiederbelebung sein – aber in höherer Form – der Freiheit, Gleichheit und Brüderlichkeit der alten Gentes.

ーーマルクス『民族学ノート』Marx, Ethnologische Notizbücher.  (1880/81)


柄谷はこうも言っている。

Dの出現は、一度だけでなく、幾度もくりかえされる。それは多くの場合、普遍宗教の始祖に帰れというかたちをとる。たとえば、千年王国やさまざまな異端の運動がそうである。しかし、産業資本主義が発達した社会段階では、Dがもたらす運動は外見上宗教性を失った。社会主義の運動も、プルードンやマルクス以後「科学的社会主義」とみなされるようになった。が、それも根本的に交換様式Dをめざすものであり、その意味で普遍宗教の性格を保持しているのである。とはいえDは、それとして意識的に取り出せるものではない。「神の国」がそうであるように、「ここにある、あそこにある」といえるようなものではない。また、それは人間の意識的な企画によって実現されるものでもない。それは、いわば、”向こうから来る” ものなのだ。 (柄谷行人『力と交換様式』2022年)


この「向こうから来る」はフロイト文脈での表現であり、《外部から回帰する》である。

内部で止揚されたものは、外部から回帰する[daß das innerlich Aufgehobene von außen wiederkehrt. ](フロイト『症例シュレーバー 』第3章、1911年)


今、「止揚」と訳した“Aufgehobene”は、ヘーゲル用語で名高いアウフヘーベン(aufheben)の過去分詞であり、アウフヘーベンは「揚棄」とも訳されてきた。この語は次の意味内容をもっている。


止揚は真に二重の意味を示す。それは「否定する」と同時に「保存する」の意味である[Das Aufheben stellt seine wahrhafte gedoppelte Bedeutung dar, (…)  es ist ein Negieren und ein Aufbewahren zugleich; (ヘーゲル『精神現象学 Phänomenologie des Geistes』1807年)

否定は抑圧されているものを認知する一つの方法であり、本来は抑圧の解除=止揚Aufhebungを意味しているが、それは勿論、抑圧されているものの承認ではない。[Die Verneinung ist eine Art, das Verdrängte zur Kenntnis zu nehmen, eigentlich schon eine Aufhebung der Verdrängung, aber freilich keine Annahme des Verdrängten.](フロイト『否定Verneinung』1925年)


つまり「向こうから来る」=「外部から回帰する」=「抑圧されたものの回帰」である。

普遍宗教はそれぞれ各地の世界帝国の下で、「抑圧されたものの回帰」として出現したのである。

交換様式という観点からいえば、普遍宗教は交換様式BとCが支配的である世界帝国の下で、それによって抑圧された交換様式Aが高次の次元で回帰したもの、すなわち、交換様式Dである。(柄谷行人「第三回長池講義 要綱」2009/3/28


『力と交換様式』の最後の文はこうである。

そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、〝Aの高次元での回復“としてのDが必ず到来する、と。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)



しかし仮に柄谷の論理展開を受け入れても、世界戦争がないと交換様式Dは向こうからやって来ないとしたら、その前に核戦争で世界はなくなってしまうよ、というのがありうる批判だね。



◼️国家と資本への対抗運動NAM その可能性の中心は:私の謎 柄谷行人回想録㉕ 2025.04.15

現在の世界は、資本主義(C)、国家(B)、ネーション=国民(A)が相互に補完するような、僕が資本=ネーション=国家と呼ぶ体制に支配されている。これは、必然的に戦争や恐慌を生みます。


◾️世界戦争の時代に思う──『帝国の構造』文庫化にあたって

柄谷行人、『図書』2023年12月号

 われわれは今、世界戦争の危機のさなかにある。それはいわば、国家と資本の「魔力」が前景化してきた状態である。このような「力」は、ホッブズが「リヴァイアサン」と呼び、マルクスが「物神」と呼んだような、人間と人間の交換から生じた観念的な力である。いずれも、人間が考案したようなものではない。だから、思い通りにコントロールすることも、廃棄することもできない。


 かつてマルクス主義者は、国家の力によって資本物神を抑え込めば、まもなく国家も消滅するだろう、と考えた。ところがそうはいかなかった。結局、国家が強化されたばかりか、資本も存続する結果に終わったのである。以来、マルクス主義も否認され、国家・資本は人間が好んで採用したものであり、今後も適切な舵取りさえすれば人間を利する、と信じられてきた。


 現実に、資本も国家も暴威を振るっているのに、人びとは、自分たちの力で何とかできるものだと信じ続けている。そして、AIの発展によって、また宇宙開発のような新奇なビジネスによって、世界を変えることができる、というような「生産様式論」に終始している。しかし、生産様式が変わっても、国家も資本も消えない。現に、今世界戦争が起こっている。私がこのことを予感したのは、ソ連邦崩壊後であった。その時期、「歴史の終焉」が語られたが、私は異議を唱え、二〇世紀の末に「交換様式論」を提起した。『帝国の構造』は、そこから国家の力を解明したものである。


前回記した「帝国の原理」自体、事実上、交換様式Dなのであって、当面あそこにしか世界の終わりを避ける方法はないんじゃないか。