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以前にも比較的詳しく記したことがあるが、ヒトラーは外傷性戦争神経症の被害者というのが定説になっている。 |
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ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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この加害者と被害者の関係というのは突き詰めていくととても厄介なのであって、究極的には「理解することは許すこと」になってしまう。これは何も外傷性戦争神経症に限らず、卑近な例であれば、いじめ加害者である。いじめ加害者を《「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的である》としても、まず最初は法的レベルでの処罰システムが必要だろう。 とはいえ「いじめ加害者が被害者であった可能性」は、これまた、「いじめと権力欲」で中井久夫とフロイトを引用して示唆したことがあるが、これも事実上「常識」なのだろう。ググるとAI回答で次のように出てくるから。 |
これはいじめに触れるときに最も基本的な観点だということだな、
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これからきみにぼくの人生で最も悲しかった発見を話そう。それは、迫害された者が迫害する者よりましだとはかぎらない、ということだ。ぼくには彼らの役割が反対になることだって、充分考えられる。(クンデラ『別れのワルツ』) |
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過去の虐待の犠牲者は、未来の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe, 2010) |
過去のいじめ被害者たちが、ネット上のいじめ加害者動画に一致団結して非難しているのをしばしば見るがね。繰り返せば、過去にどんな事情があろうとも法的に処罰するシステムの必要性を否定するものでは私はないが、あれは、原因を探っていけば「絶対悪」とは言い難いんだよ。
別の言い方をすれば、いじめ被害者が一生消えない傷を負っている人が多いとしたら、いじめ加害者も過去の一生消えない「いじめられ出来事」を持っていてその反転、あるいは投影としていじめっ子になった場合が大いにあるということだ。
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ここでフロイトと中井久夫をいくらか掲げておくがね、 |
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トラウマを受動的に体験した自我は、その状況の成行きを自主的に左右するという希望をもって、能動的にこの反応の再生を、よわめられた形ではあるが繰り返す。 子供はすべての苦痛な印象にたいして、それを遊びで再生しながら、同様にふるまうことをわれわれは知っている。このさい子供は、受動性から能動性へ移行することによって、彼の生の出来事を心的に克服しようとするのである。 |
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Das Ich, welches das Trauma passiv erlebt hat, wiederholt nun aktiv eine abgeschwächte Reproduktion desselben, in der Hoffnung, deren Ablauf selbsttätig leiten zu können. Wir wissen, das Kind benimmt sich ebenso gegen alle ihm peinlichen Eindrücke, indem es sie im Spiel reproduziert; durch diese Art, von der Passivität zur Aktivität überzugehen, sucht es seine Lebenseindrücke psychisch zu bewältigen. |
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(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年) |
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《受動性から能動性へ移行することによって、彼の生の出来事を心的に克服しようとする》とあるが、フロイトには、主に幼児期の出来事に関してだが、この受動性から能動性への移行の記述がふんだんにある。 |
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注目すべきなのは、能動性と受動性の関係である[Das Verhältnis der Aktivität zur Passivität verdient hier unser besonderes Interesse]。容易に観察されるのは、セクシャリティの領域ばかりではなく、心的経験の領域においてはすべて、受動的に受け取られた印象が小児に能動的な反応を起こす傾向を生みだすということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。 それは、小児に課された外界に対処する仕事の一部であって、苦痛な内容を持っているために小児がそれを避けるきっかけをもつことができた印象の反復の試みというところまでも導いてゆくかもしれない。 |
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小児の遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように、自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置を反復する。受動性への反抗と能動的役割の選択は疑いない。 |
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Auch das Kinderspiel wird in den Dienst dieser Absicht gestellt, ein passives Erlebnis durch eine aktive Handlung zu ergänzen und es gleichsam auf diese Art aufzuheben. Wenn der Doktor dem sich sträubenden Kind den Mund geöffnet hat, um ihm in den Hals zu schauen, so wird nach seinem Fortgehen das Kind den Doktor spielen und die gewalttätige Prozedur an einem kleinen Geschwisterchen wiederholen, das ebenso hilflos gegen es ist, wie es selbst gegen den Doktor war. Eine Auflehnung gegen die Passivität und eine Bevorzugung der aktiven Rolle ist dabei unverkennbar. |
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(フロイト『女性の性愛』第3章、1931年) |
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ま、過去のいじめ被害者がいじめ加害者動画にヒステリー的反応を起こすのはよくわかるよ、たぶん自らの体験を思い起こしてる人がかなりの割合でいるのだろうから。
特に酷いいじめられ体験を持っている人なら次のような現象がある。 |
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外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。 しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
というわけだが、最後により一般論として漱石を掲げておこう。
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「・・・しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」 (夏目漱石『こころ』二十八) |
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