次の倉重篤郎の記事の内容は、少なくとも私にとっては新しい。昭和天皇が「岸信介は東條英機以上に戦争責任者だ」と言った話だ。
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◼️昭和天皇にまつわる取材/書けなかった「腸のご病気」/書きに書いた石橋親書の謎(倉重篤郎)2026年2月 |
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「東條以上の戦争責任者」 1956年12月末、石橋湛山政権発足直後のことである。石橋首相が初の内奏に皇居に赴き、昭和天皇に初組閣の閣僚名簿を示した時のことである。昭和天皇が名簿に岸信介外相とあるのを見て、極めて深刻な表情をして石橋にこう尋ねたという。 「自分はこの名簿に対して一つ尋ねたいことがある。それはどうして岸を外相にしたかということである。彼は先般の戦争において責任がある。その重大さは東條(英機)以上であると自分は思う」 石橋はこれを聞き、その厳しさに驚き、かつ恐縮し、なぜ岸を外相(副総理格)にしたか百万辞を尽くして了解を求めたという。直前の自民党総裁選の第一回投票で岸がトップをつけたのに対し、決選投票で2、3位連合が成立、石橋が小差で岸を抑え込んだ、との経過があり、政局安定を期すためには岸を重職で登用する必要があった、云々であろう。 それに対して天皇はそれ以上に追及することはなく、「そういうわけなら宜しいが、とにかく彼は東條以上の戦争責任者である」と繰り返し述べたという。 皇居の奥の院での一対一のやりとりがなぜ漏れたか。それは石橋本人が明かしたからだ。もちろん、世の中に向け大衆的にオープンにしたわけではない。ある特定の人物に向けた私信の中で詳らかにしたものだ。 |
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出自や思想 相いれぬ二人 石橋は大変な国民人気を受けて首相になるが、病を得て71日間で退陣、後任首相には副総理格であった岸が就任する。岸は石橋とは全く違う路線を歩む。そもそもが、ジャーナリストとして「小日本主義」を唱え、軍部の領土拡大主義を批判したリベラリストの石橋と、革新官僚として満州国の産業開発を主導、戦後はA級戦犯とされながら政界復帰を果たした岸とは出自も思想も背景も相いれないものがある。親中派の石橋、親米派の岸、護憲派の石橋、改憲派の岸と外交路線、憲法観も大きな隔たりがあった。 その岸が政治生命を賭け日米安保改定に乗り出した。国民の間から米国の戦争に巻き込まれる、と猛反発があった。国会が二重三重に包囲され、戦後日本の最大の反政府市民闘争となったのはご承知の通りだ。 退陣して3年余の石橋も、この市民の側に身を置いた。他議員との連名で岸に進言書を提出、首相退陣などを求めているが、それとは別に岸宛てに送られたのが、この昭和天皇内奏時のエピソードが盛り込まれた私信だった。1960年4月20日付で、国会情勢が緊迫化、安保改定阻止国民会議の第15次統一行動(4月15日~26日)のさなかであった。私信の趣旨としては、昭和天皇の厳しい見立てを知らせることによって、岸本人の自重と安保改定の延期を求める、という形になっている。 私信は石橋の秘書が岸政権の椎名悦三郎官房長官に手渡したところまでははっきりしている。その後の扱いは不明だ。岸が読んだかどうかもわからない。ただ、石橋側には石橋の手書き草稿1通とそれを清書したもの(私信未完成版)が2通残された。それらは、どこかに紛れ込んでいたが、2015年8月、石橋湛山研究者の増田弘氏が、石橋が社長を務めていた東洋経済新報社の倉庫から発掘した。それが人を介して私の元に送られてきたのである。 これは昭和天皇に関する一級資料ではないか。内奏という形で明らかに政治的発言をしている。岸を東條以上の戦争責任者だと名指しする。天皇の戦争観が伝わってくる。 |
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昭和は遠くなりにけり ただ、これを字にするには、これが昭和天皇の言辞に間違いない、という確証が必要だ。その手書き草稿が、石橋が脳梗塞のため不自由な左手で書いた独特な草書体であること、それと清書版2通は、ほぼ一対一対応になっていることを確認できた。問題は、石橋が私信の中で昭和天皇と名指しせず、「ある一人の人」「かの一人の人」と書いていることであった。石橋ともあろう人が、内奏内容を結果的に政治利用したことに違和感が残ったのも事実である。 ただ、ここはもう文脈で読み取るしかない。保阪正康、原彬久氏ら昭和史研究者に読んでもらい、やはりこれは昭和天皇しか考えられない、という言質をいただいた。 ここはもう書くしかない。サンデー毎日で、歴史文書スクープとして3週にわたって特報した。昭和天皇のがん手術を書けなかった未達成感が、反転攻勢となった面もあるかもしれない。今回は書きに書いた。もちろん、新聞本紙での勝負も考えた。ただ、「ある一人の人」「かの一人の人」の壁は破れなかった。 それにしても岸は石橋の私信をどう読んだのであろうか。平成、令和と昭和は遠くなりにけり、である。だが、我々の世代はまだ昭和史の間隙を埋めることに関心がある。 |
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もっともこの記事を読んでから検索すると、上の記事で名が挙がっている保阪正康氏が、2023年に次の記事を書いている。 |
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①「どうして岸信介を外務大臣にしたのか」安倍晋三の祖父を「天皇が嫌っていた」理由…「戦争責任の重大さは東條以上」 2023.07.18 |
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②《戦後政治の闇》アメリカには逆らえない…安倍晋三の祖父が「天皇に嫌悪感を抱かれていた」ワケ 2023.07.18 |
つまり岸信介、あるいはその系譜に関心がある人には以前から周知されていた内容なのだろう。
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ここでもうひとつ、昭和天皇とマッカーサーとの関係について、1961年に上梓された藤田尚徳『侍従長の回想』の紹介文を掲げておこう。 |
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◼️昭和天皇がマッカーサーにしていた「お願い」…明かされていない二人の「初会見」の内容 学術文庫&選書メチエ編集部 2025.04.15 |
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日本という国の現在のあり方を知るためには、その歴史を学ぶことが重要です。 とりわけ、近代化を遂げた日本が、なぜ太平洋戦争という無謀な戦いに突入したのか、その戦争のさなかにはどのようなことが起きていたのか、そして、いかにして戦争が終結したかを知ることには、大きな意義があることでしょう。 戦時中、国家の意思決定に大きな影響を与えた一人として昭和天皇があげられますが、その昭和天皇が戦中どのようなことをしていたかを知るのに便利なのが、『侍従長の回想』(講談社学術文庫)という本です。 著者の藤田尚徳は、海軍兵学校、海軍大学校を出たあと、海軍省人事局長、海軍省次官などを経て、1944(昭和19)年の8月に天皇の最側近である「侍従長」となった人物です。本書は、藤田が1961年に侍従長時代のことを振り返ったもの。 本書では、藤田の目から見た昭和天皇の戦中、戦後の日々がつづられており、そこからは天皇の知られざる姿とともに、当時の政府中枢の動向が見えてきます。 たとえば1945年9月27日、昭和天皇がアメリカ大使館にマッカーサー(マ元帥)を訪問しました。その際、天皇はどのようなことをマッカーサーに伝えたのでしょうか。 同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。 |
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〈陛下とマ元帥が二人で何を語られたか、これは明らかにされていないが、後日になって外務省でまとめた御会見の模様が私のもとに届けられ、それを陛下の御覧に供した。 通常の文書は、御覧になれば、私のもとへお下げになるのだが、この時の文書だけは陛下は自ら御手元に留められたようで、私のもとへは返ってこなかった。宮内省の用箋に5枚ほどあったと思うが、陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えられている。 「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。 私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」 一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ。 「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」 GHQ当局としては、占領当初は陛下の力を政略的に使おうとしていた。進駐を無血のうちに終らせるためには、それ以外に手段がないとの戦略に立っていたからだ。しかし、マ元帥は陛下のこの真情あふれるお言葉を聞いたころから、彼自身の心に積極的に「天皇に戦争責任なし」とする議論に傾いていったようだ。米国新聞もまたこの間の事情を伝えていた。 「マッカーサー司令部としては、天皇の協力を獲得したことによって、日本本土進駐に、24ヵ師団の援兵を受けたより有効であった」〉 |
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さらに「広島に原爆が投下されたとき、昭和天皇が東郷外相に示した「何よりも優先すべき問題」」の記事では、原子爆弾が投下された際、昭和天皇が抱いていた思いを紹介しています。 |
上に下線強調した部分、《GHQ当局としては、占領当初は陛下の力を政略的に使おうとしていた。進駐を無血のうちに終らせるためには、それ以外に手段がないとの戦略に立っていたからだ。しかし、マ元帥は陛下のこの真情あふれるお言葉を聞いたころから、彼自身の心に積極的に「天皇に戦争責任なし」とする議論に傾いていったようだ》ーー、この前半は定説だろうが、後半は種々の判断保留があるようだ。
とはいえ、昭和天皇が自らの戦争責任を強く自覚していたのだろう、ここでは『侍従長の回想録』に記載されている昭和天皇の発言を文字通りとってそう判断するが。つまり《敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい》。
そしてマッカーサーが《積極的に「天皇に戦争責任なし」とする議論に傾いていった》という観点を仮に受け入れるなら、巷間に流通する「天皇無責任論」、あるいはそのイデオロギーは、昭和天皇の問題ではなく米国の政策起源とすることができるのではないか。
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もっとも昭和天皇には、米国訪問を終えた1975年(昭和五十年十月三十一日)、初めての公式記者会見での悪評高い発言がある。 |
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ーー天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。 天皇「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」 |
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当時高校生だった私には、藤枝静男の文芸時評(「中日新聞」「東京新聞」)の言葉がいまでも強烈に記憶に刻印されている。 |
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これは文芸時評ではないが無関係ではないーー天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。哀れ、ミジメという平生の感情より先にきた。いかに『作られたから』と言って、あれでは人間であるとは言えぬ。天皇制の『被害者』とだけ言ってすまされてはたまらないと思った。動物園のボロボロの駝鳥を見て『もはやこれは駝鳥ではない』と絶叫した高村光太郎が生きていてみたら何と思ったろうと想像して痛ましく感じた。三十代の人は何とも思わなかったかも知れぬ。私は正月がくると六十八歳になる。誰か、あの状態を悲劇にもせず喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はいないか。冥土の土産に読んで行きたい。(藤枝静男『文芸時評』昭和五十年十一月二十八日夕刊) |
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◼️柄谷行人インタビュー「改憲を許さない日本人の無意識」2016年7月号 文学界 |
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ーー『憲法の無意識』のI章とⅡ章で驚いたのは、九条と一条との密接な関係を示されたことです。「九条を守ることが、一条を守ることになる」と書かれています。 |
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柄谷 近年、天皇·皇后の発言等々に感銘を受けていて、これはどういうことだろうかと考えたんです。憲法の制定過程を見ると、マッカーサーは何よりも天皇制の維持を重視していて、九条はそのためのいわば付録に過ぎなかったことがわかる。実際、朝鮮戦争の勃発に際しマッカーサーは日本政府に再軍備を要請し、九条の改定を迫っています。九条は彼にとってその程度のものだったということです。 マッカーサーは次期大統領に立候補する気でいたので、何をおいても日本統治に成功しなければいけない。そのために天皇制を象徴天皇として存続きせることが必要だった。彼がとったのは、歴代の日本の統治者がとってきたやり方です。ただ当時、ソ連、連合軍諸国だけでなく、アメリカの世論でも天皇の戦争責任を問う意見が強かった。その中で、あえて天皇制を存続させようとすれば、戦争放棄の条項が国際世論を説得させる切り札として必要だった。だから、最初は重要なのは一条で、九条は副次的なものにすぎなかった。今はその地位が逆転しています。九条のほうが重要である。しかも九条の有力な後援者が、一条で規定されている天皇·皇后である。その意味で、地位が逆転しているのですが、一条と九条のつながりは消えていません。 |
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ーー九条が日本人の無意識に深く根を下ろしている構造を本書は論じていますが、九条が一条と強く結びついているとすれば、つまり天皇が国民の無意識を代弁しているということでしょうか? |
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柄谷 そういう感じですね。その場合、天皇といっても、昭和天皇では駄目なんです。湾岸戦争勃発の前、八九年に昭和天皇が逝去したのは、ソ連圏の崩壊と同時期です。米ソ冷戦の終わりと昭和の終わりとが同時にあった。それぞれは予測できることだったとはいえ、両方の終焉を同時に迎えたというのは日本人にとってやはり大きなことですよ。僕がその頃『終焉をめぐって』(1990)を書いたのはそのためです。「歴史の終焉」という言葉が流行していた時期ですが、日本人にとっては、昭和の終焉が大きな意味をもったと思います。 昭和天皇が逝去し、明仁天皇は即位式で、「常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い………」と述べた。 この発言は宮内庁の用意した原文に自らが加筆したものだと言われています。「憲法を遵守し」というのは、ちょっと変ではないですか? 自らを規定する一条のことをわざわざ遵守すると言うだろうか。象徴天皇の範囲にとどまるという意志表明であるといえなくはないけど、僕はやはり、これは九条のことだと思いましたね。そして、その後まもなく、湾岸戦争があり、九条が争点となった。一条と九条に密接な関係があるという考えがより強まりました。 |