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ちなみに漱石はフロイトの同時代人だーー、
夏目漱石:1867年 - 1916年 フロイト:1856年 - 1939年
漱石は日露戦争に衝撃を受け、フロイトは第一次世界大戦に衝撃を受けた人物だね。
さて、先のリンク元ではいくらか省略した部分も含め、フロイトの「固着の残滓」の記述を掲げれば、下に赤く塗ったところが、漱石の言っている内容だ。
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常に残滓現象[Resterscheinungen]がある。つまり部分的な置き残し[partielles Zurückbleiben]がある。寛大な保護者が時に吝嗇な様子を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残滓現象」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものである。この現象は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期は次のサディステック肛門期にとってかわり、これはまたファルス的性器期にとってかわるとされていたが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行なわれるもので、したがっていつでも以前のリビドー組織体が新しいリビドー組織体と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではなく、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓[Reste der früheren Libidofixierungen]が保たれている。
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精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明国民の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残滓が存続をつづけていないものはない。一度生まれ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン[Drachen der Urzeit ]は本当に死滅してしまったのだろうかと疑うことさえできよう。
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Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. Wenn der freigebige Mäzen uns durch einen vereinzelten Zug von Knauserei überrascht, der sonst Übergute sich plötzlich in einer feindseligen Handlung gehenläßt, so sind diese »Resterscheinungen«unschätzbar für die genetische Forschung. Sie zeigen uns, daß jene lobenswerten und wertvollen Eigenschaften auf Kompensation und Überkompensation beruhen, die, wie zu erwarten stand, nicht durchaus, nicht nach dem vollen Betrag gelungen sind. Wenn unsere erste Beschreibung der Libidoentwicklung gelautet hat, eine ursprüngliche, orale Phase mache der sadistisch-analen und diese der phallisch-genitalen Platz, so hat spätere Forschung dem nicht etwa widersprochen, sondern zur Korrektur hinzugefügt, daß diese Ersetzungen nicht plötzlich, sondern allmählich erfolgen, so daß jederzeit Stücke der früheren Organisation neben der neueren fortbestehen, und daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können.
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Auf ganz anderen Gebieten sehen wir das nämliche. Keiner der angeblich überwundenen Irr- und Aberglauben der Menschheit, von dem nicht Reste heute unter uns fortleben, in den tieferen Schichten der Kulturvölker oder selbst in den obersten Schichten der Kulturgesellschaft. Was einmal zu Leben gekommen ist, weiß sich zäh zu behaupten. Manchmal könnte man zweifeln, ob die Drachen der Urzeit wirklich ausgestorben sind.
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(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
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人はみな原始時代のドラゴンを飼ってんだよ、エスのなかに「異者としての身体」をね。
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忘れられたものは消去されず、ただ「抑圧 」されるだけである。その記憶痕跡は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗備給[Gegenbesetzungen]により分離されているのである。それは他の知的過程とコミュニケーションできず、無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもありうる。だがそうであっても、異者としての身体[Fremdkörper]として分離されている。
Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«, seine Erinnerungsspuren sind in aller Frische vorhanden, aber durch »Gegenbesetzungen« isoliert. Sie können nicht in den Verkehr mit den anderen intellektuellen Vorgängen eintreten, sind unbewußt, dem Bewußtsein unzugänglich. Es kann auch sein, daß gewisse Anteile des Verdrängten sich dem Prozeß entzogen haben, der Erinnerung zugänglich bleiben, gelegentlich im Bewußtsein auftauchen, aber auch dann sind sie isoliert, wie Fremdkörper außer Zusammenhang mit dem anderen.〔・・・〕
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抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う。分化は幼児期に起こり、自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳[Übersetzung]に影響されず、本来の無意識としてエスに置き残される。Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, […] das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand geho-ben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)
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で、異者としての身体は、エスの欲動蠢動であり、固着による無意識のエスの反復強迫だ。
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自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert.] 〔・・・〕
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。そして抑圧において固着の契機は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである[Triebregung … vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –… Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)
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もちろんエスはニーチェ起源であり、耳を澄ませば、エスの声が聞こえてくるよ。
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静かに! 静かに! いまさまざまのことが聞えてくる、日中には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいまーー
Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, –
ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜の眠らぬ魂のなかに忍んでくる、ああ、ああ、なんという吐息をもたらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。
– nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!
ーーおまえには聞えぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかいるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? おお、人間よ、心して聞け!
– hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu dir redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht!
(ニーチェ 『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第3節、1885年)
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ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」と。Ich meine G. Groddeck, der immer wieder betont, daß das, was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck » gelebt« werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten. 〔・・・〕
私は、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、精神の他の部分ーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをグロデックの用語にしたがってエスと名づけるように提案する。
Ich schlage vor, ihr Rechnung zu tragen, indem wir das vom System W ausgehende Wesen, das zunächst vbw ist, das Ich heißen, das andere Psychische aber, in welches es sich fortsetzt und das sich wie ubw verhält, nach Groddecks Gebrauch das Es.
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グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。[Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist](フロイト『自我とエス』第2章、1923年)
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エスの声が聞こえないヤツは、美しい魂、つまり猫っかぶりだろうな。
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通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭…[Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen…]〔・・・〕完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫っかぶりども[Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen ](ニーチェ『この人を見よ』1888年)
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ツイッターには謹厳なる道徳家が多いようだがね、
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すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などといふものは例外なしに贋物と信じて差支へはない。本当の倫理は健全ではないものだ。そこには必ず倫理自体の自己破壊が行はれてをり、現実に対する反逆が精神の基調をなしてゐるからである。(坂口安吾「デカダン文学論」1946年)
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つまりエスの声がきこえないらしい聾の善人が多いよ。
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私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』1946年)
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善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾『続堕落論』1946年)
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もっともタテマエとしての善人を私は否定するつもりはないがね、ただし自らの底に悪人を飼っていることに自覚的であれば、だ。
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タテマエ、すなわち偽善だ。
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近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。〔・・・〕
昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。(夏目漱石『三四郎』1908年)
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もっとも漱石はこの少し後、こうも記している。
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「君、人から親切にされて愉快ですか」
「ええ、まあ愉快です」
「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」
「そんな場合があるでしょうか」
「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」
「そりゃ……」
「しないだろう。それと同じく腹をかかえて笑うだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人だってじっさい笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目に親切をしてくれるのがある。ぼくが学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たらさだめて不愉快だろう。これに反して与次郎のごときは露悪党の領袖だけに、たびたびぼくに迷惑をかけて、始末におえぬいたずら者だが、悪気がない。可愛らしいところがある。ちょうどアメリカ人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の、こむずかしい教育を受けたものはみんな気障だ」〔・・・〕
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「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」
「どんなのです」
「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行らなくなる」(夏目漱石『三四郎』1908年)
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この最も優美な露悪家ってのも多いだろうよ、さらに丸山眞男がより捻った言い方で、こう言ってるけど。
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一般的に申しますと、日本では偽悪というのは、逆説的に、しばしば偽善の効果を持つことがあります。日本の風土では批判的な思考が弱いですから、自分の姿勢をいちばん低くしておいて、どうせおいらはインチキですよ、と最初に言っておくと、寝そべった姿勢は重心がいちばん低いですから、いちばん安定しているわけです。そういう安定した位置から、理念とか理想とかを求めようとする、背のびした生き方を嘲笑するというのはよく見られる風景であります。江戸の「町人根性」以来の、これが一つの処世術です。…こういうところから、最初に自分のマイナスをさらけだすと、かえって、あいつはなかなかアケスケだとか、人間味がある、なんて褒められる。これが日本の「真心」文化の盾の反面であります。(丸山眞男「福沢諭吉の人と思想」1985.7)
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ーーこれはツイッター似非インテリのインフルエンサーに多い姿だろうな。
ま、いろんな言い方はあるが、いずれにせよ文明は偽善だよ。
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文明社会は、善い行為を要求するが、その行為の基礎となっている欲動については意に介さない。そのためこの社会は、多くのひとびとを文明に服従させはしたが、といって彼らが本性から服従したわけではない。
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Die Kulturgesellschaft, die die gute Handlung fordert und sich um die Triebbegründung derselben nicht kümmert, hat also eine große Zahl von Menschen zum Kulturgehorsam gewonnen, die dabei nicht ihrer Natur folgen.(…)
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文明の圧迫は、病的な結果をもたらすことこそないにしても、性格形成の不全を起こしたり、制止された諸欲動を一触即発の状態においたりする。このような状態の欲動は、しかるべき機会さえあれば、その充足へと爆発するものなのである。つねに規範通りに反応することを強いられている者は、その規範が彼の欲動諸傾向を表わしてない以上、心理学的に見れば分不相応の生き方をしているのであり、それゆえ客観的には偽善者とよばれてしかるべきである。ここで、その規範と欲動傾向との違いが、その人間にはっきり意識されていようといまいと、それは問題ではない。現在のわれわれの文明が、この種の偽善者をつくりあげることをひとかたならず助けていることは、否定しえない事実である。あえて主張するならば、現代文明はこのような偽善によって構築されており、ひとびとが心理学的真実に基づいて生きようと企てようものなら、その文明は広範囲における修正を余儀なくさせられるだろう。
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Der sonstige Druck der Kultur zeitigt zwar keine pathologische Folgen, äußert sich aber in Charakterverbildungen und in der steten Bereitschaft der gehemmten Triebe, bei passender Gelegenheit zur Befriedigung durchzubrechen. Wer so genötigt wird, dauernd im Sinne von Vorschriften zu reagieren, die nicht der Ausdruck seiner Triebneigungen sind, der lebt, psychologisch verstanden, über seine Mittel und darf objektiv als Heuchler bezeichnet werden, gleichgiltig ob ihm diese Differenz klar bewußt worden ist oder nicht. Es ist unleugbar, daß unsere gegenwärtige Kultur die Ausbildung dieser Art von Heuchelei in außerordentlichem Umfange begünstigt. Man könnte die Behauptung wagen, sie sei auf solcher Heuchelei aufgebaut und müßte sich tiefgreifende Abänderungen gefallen lassen, wenn es die Menschen unternehmen würden, der psychologischen Wahrheit nachzuleben.
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(フロイト『戦争と死に関する時評』1915年)
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ボクはこの意味で偽善家だろうよ、一応、文明主義者だからな。
とはいえ文明人はこの今ならこういう風にならざるを得ないよ、ーー《言いたくないが、私は西側の誰も信頼していない、…簡潔に言うと。》(プーチン)
というのは集団的西側のリーダーはみな原人間になっちまったからな、
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人間のもっとも深い本質はもろもろの欲動活動にあり、この欲動活動は原始的性格をそなえていて、すべてのひとびとにおいて同質であり、ある種の根源的な欲求の充足をめざすものである[daß das tiefste Wesen des Menschen in Triebregungen besteht, die elementarer Natur, bei allen Menschen gleichartig sind und auf die Befriedigung gewisser ursprünglicher Bedürfnisse zielen. ]〔・・・〕
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戦争は、より後期に形成された文化的層をはぎ取り、われわれのなかにある原人間を再び出現させる[Krieg …Er streift uns die späteren Kulturauflagerungen ab und läßt den Urmenschen in uns wieder zum Vorschein kommen. ](フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年)
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この1915年の《原人間[Urmenschen]》は冒頭に掲げた1939年のエスに置き残された《原始時代のドラゴン[Drachen der Urzeit ]》と等価だろうよ、ーー《エスはまったくアモラル(非道徳)であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein]》(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)
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