こういう話は鼻の奥がツンとするな
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ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、ながい時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えたことなどがどっと心に戻ってくることがある。(須賀敦子『遠い朝の本たち』1998年) |
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実に須賀敦子の言うように、遠い日に会った人たちや、そのころ考えたことなどがどっと心に戻ってきたよ。
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武蔵野といえば、過去には国木田独歩の『武蔵野』や佐藤春夫の『田園の憂鬱』などの名品がある。 |
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昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもに楢の類いで冬はことごとく落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野いっせいに行なわれて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑蔭に紅葉 に、さまざまの光景を呈するその妙はちょっと西国地方また東北の者には解しかねるのである。元来日本人はこれまで楢の類いの落葉林の美をあまり知らなかったようである。林といえばおもに松林のみが日本の文学美術の上に認められていて、歌にも楢林の奥で時雨を聞くというようなことは見あたらない。自分も西国に人となって少年の時学生として初めて東京に上ってから十年になるが、かかる落葉林の美を解するに至ったのは近来のことで……(国木田独歩『武蔵野』1901年) |
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広い武蔵野が既にその南端になつて尽きるところ、それが漸くに山国の地勢に入らうとする変化――言はば山国からの微かな余情を湛へたエピロオグであり、やがて大きな野原への波打つプロロオグででもあるこれ等の小さな丘は、目のとどくかぎり、此処にも起伏して、それが形造るつまらぬ風景の間を縫うて、一筋の平坦な街道が東から西へ、また別の街道が北から南へ通じて居るあたりに、その道に沿うて一つの草深い農村があり、幾つかの卑下つた草屋根があつた。それはTとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、譬へば三つの劇しい旋風の境目に出来た真空のやうに、世紀からは置きつ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押流されて、しよんぼりと置かれて居るのであつた。(佐藤春夫『田園の憂鬱』1919年) |
とはいえ、私にとっては何よりもまず大岡昇平の『武蔵野夫人』だ。上の作品はこの作品を読んで遡及的に読んだのであり、最初に痺れたのは大岡昇平の「はけ」だった。
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土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない。 「はけ」の荻野長作といえば、この辺の農家に多い荻野姓の中でも、一段と古い家とされているが、人々は単にその長作の家のある高みが「はけ」なのだと思っている。 中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下りとなる。〔・・・〕 三十年前湧水を含む窪地一帯の約千坪の地所は、ほとんどただのような値段で東京の官吏宮地信三郎の手に移った。 〔・・・〕 というのは土地を手離して五年経つと、ここから徒歩一五分のところに小金井駅ができ、地価が三倍になったからである。〔・・・〕 宮地老人の物置や樹の買い主は赤の他人ではなかった。すなわち一年前から「はけ」の長作の家の向こう栗林を隔てた地続きに移って来ていた、甥の大野英治に売ったのである。(大岡昇平『武蔵野夫人』1950年) |
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駅の附近に群れるパンパンとその客の間を素速く通り抜け、人気のない横丁を曲ると、古い武蔵野の道が現われた。低い陸稲の揃った間を黒い土が続いていた。 〔・・・〕茶木垣に沿い、栗林を抜けて、彼がようやくその畑中の道に倦きたころ、 「はけ」の斜面を蔽う喬木の群が目に入るところまで来た。〔・・・〕 道は 「はけ」 の長作の家の前で少し高まり、大野の家の地壇の石垣の下まで、直線でゆるやかにさがって行くが、そこから斜面を蔽う雑木林に沿って蜿り始める。 右手は耕作地で陸稲や疏菜を植えた黒土が拡がった先は一段低まり、野川の両側に狭い水田が発達する。〔・・・〕 「はけ」の前面で野川は約一間の幅でほとんど橋もない田中の小川であったが、水はやはり幅不相応に豊富であった。地図によると川は国分寺駅附近の線路の土手の下から発し、 「はけ」に続いた斜面からの湧水を集めて来るらしいが、二粁足らずの間にこれだけの水量に達するのは、不自然に思われた。 (大岡昇平『武蔵野夫人』) |
高校時代の女ともだちが小平にある女子大に入って何度か逢いにいって「はけ」を散策した、ボクの「武蔵野乙女」である。どっと来たよ、当時の出来事が(ところで「はけ」とはモリマンではなかろうか)。
「はけ」からは湧水もじゅくじゅくと洩れ、エロいのである。
実は「はけ」だけでなく、《東京はヴェネチアのような水の都市》にもググッと来た。
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ヴェネツィアを想起するにあたって、私の心はなによりもまず、はじめてこの町に近づく無垢な旅人に向けられる。それは、一種の迂回路であるとはいえ、自分自身をふたたび見出す方法、他者に高い価値を与えるという好都合な口実のもとに、自分自身に特権を与える方法なのではないだろうか? 青春の戸口にあった自分自身の姿をふたたび目にすると同時に、常軌を逸した形で膨張し、広がってはならないはずのところまで広がりながら、そこでもやはり繁栄し、私たちの喜びのために今なお生き続けているこの町にはじめて面と向かったときの自分に再会する……。「内心を打ち明ける女友達(とも)として、私はヴェネチアを選んだ。」ポール・モーランは最近そう書いた。「〔・・・〕私は他のどこよりもヴェネチアでこそ、よりよく自分の人生を考える。「レヴィの家」のヴェネローゼのように、画面の片隅にちらっと鼻先を見せるようなことになっても、それは仕方がない。」ヴェネツィアを語ろうとする時、人はたちまち自分の鼻先を見せてしまう。押し寄せる思い出の群を抑えるすべはない。そんなことのできる人がいるだろうか? 本当の話をしよう!(フェルナン・ブローデル『都市ヴェネツィア』岩崎力訳) |
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つまりは《青春の戸口にあった自分自身の姿をふたたび目にする》ことになったのである。 |
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アランはこう言っていたーー「人がよく考えられるのは、他人の思考についてだけだ。」私たちひとりひとりが、他の人たちを眺め、他の人たちに耳を傾ける時に、よりよくヴェネツィアを理解できるのではないだろうか? 私たち、妻と私は一九三五年十二月、ヴェネツィアに着いた。のちに地中海に関する著作となるものを準備中で、いわば研究旅行だった。あの悲しい日々のヴェネツィアとイタリアは外国人にたいして愛想が悪く、しかも今日と同じく生きる幸せに浸りきっていた。私たちは孤独のワインを飲んだ。しかし、試してみれば、それはこのうえなくおいしい、心身に良いワインだった。ヴェネツィアの群衆のただなかの孤独は、なんと素晴らしいことだろう! 心ゆくまで楽しみを味わわせてくれる。そういう初体験のせいだろうか? 私は、私たちは、ヴェネツィアでは、その後も孤独を愛し続けた。無名であることの楽しみ。とはいえ、ふりかえってみると、読者の皆さんもそう思われるにちがいないが、私の証言など、脇に置いておくほうがいい。結局なにが残るだろう? 三つか四つの覚え書、ひとつかみのイメージぐらいなものだ。(フェルナン・ブローデル『都市ヴェネツィア』岩崎力訳) |
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事実、私はあの乙女と歩む武蔵野をこよなく愛した。 |
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私は地中海をこよなく愛した。たぶん他の多くの人と同じように、また多くの先達に続いて北の出身であるためだろう。長い歳月にわたってーー私にとっては青春時代を過ぎてまでもーー地中海に研究を捧げることは喜びであった。私の青春の代償として、この研究の喜びの一部と地中海の多くの光りが本書のそれぞれのページを照らし出してくれるものと期待している。……(フェルナン・ブローデル『地中海』序文、浜名優美訳) |
花咲く乙女の「木の葉の匂」までしてくる。
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その道は、フランスでよく出会うこの種の多くの道とおなじように、かなり急な坂をのぼると、こんどはだらだらと長いくだり坂になっていた。 当時は、べつにその道に大した魅力を見出さず、ただ帰る満足感にひたっていた。ところがそののちこの道は、私にとって数々の歓喜の原因となり、私の記憶に一つの導火線として残ったのであり[Mais elle devint pour moi dans la suite une cause de joies en restant dans ma mémoire comme une amorce ]、この導火線のおかげで、後年、散歩や旅行の途中で通る類似の道は、どれもみんな切れないですぐにつながり、どの道も私の心と直接に通じあうことができるようになるだろう。なぜなら、ヴィルパリジ夫人といっしょに駆けまわった道のつづきであるというように見える後年のそうした道の一つに、馬車または自動車がさしかかるとき、すぐに私の現在の意識は、もっとも近い過去にささえられるかのように(その中間の年月はすべて抹殺されて)、直接バルベック近郷の散歩の印象に[ce à quoi ma conscience actuelle se trouverait immédiatement appuyée comme à mon passé le plus récent, ce serait (toutes les années intermédiaires se trouvant abolies) les impressions ]、ーーあの午後のおわりの、バルベック近郷の散歩で、木の葉がよく匂い、タもやが立ちはじめて、近くの村のかなたに、あたかもその夕方までには到着できそうもない何か地つづきの違い森の国とでもいうように、木の間越しに夕日の沈むのが見られたとき、私が抱いたあの印象にささえられるようになるからである。 |
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そうした印象は、他の地方の、類似の路上で、後年私が感じる印象につながって、その二つの印象に共通の感覚である、自由な呼吸、好奇心、ものぐさ、食欲、陽気、などといった付随的なあらゆる感覚にとりまかれながら、他のものをすべて排除して、ぐんぐん強くなり、一種特別の型をもった、ほとんど一つの生活圏をそなえた、堅牢な快楽となるのであって、そんな圏内にとびこむ機会はきわめてまれでしかないとはいえ、そこにあっては、つぎつぎと目ざめる思出は、肉体的感覚によって実質的に知覚される実在の領分へ、ふだんただ喚起され夢想されるだけでとらえられない実在のかなりの部分をくりいれ、そのようにして、私がふと通りかかったこれらの土地のなかで、審美的感情などよりるはるかに多く、今後永久にここで暮らしたいという一時的なしかし熱烈な欲望を、私にそそるのであった。 |
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そののち、ただ木の葉の匂を感じただけで、馬車の腰掛にすわってヴィルパリジ夫人と向かいあっていたことや、リュクサンブール大公夫人とすれちがって、大公夫人がその馬車からヴィルパリジ夫人に挨拶を送ったことや、グランド= ホテルに夕食に帰ったことなどが、現在も未来もわれわれにもたらしてはくれない、生涯に一度しか味わえない、言葉を絶したあの幸福の一つとして、何度私に立ちあらわれるようになった ことだろう! |
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Que de fois, pour avoir simplement senti une odeur de feuillée, être assis sur un strapontin en face de Mme de Villeparisis, croiser la princesse de Luxembourg qui lui envoyait des bonjours de sa voiture, rentrer dîner au Grand-Hôtel, ne m'est-il pas apparu comme un de ces bonheurs ineffables que ni le présent ni l'avenir ne peuvent nous rendre et qu'on ne goûte qu'une fois dans la vie. (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」) |
もっとも当時は「はけ」の扉は開かれず、花咲く乙女にするりと身をかわされたのをひどく不幸に思ったものだが、今は逆にそれゆえにこそ、あの武蔵野の記憶はいっそう価値があると感じている。
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隣のテーブルにいる女の匂[l'odeur de la femme qui était à la table voisine]…それらの顔は、私にとって、節操のかたいこちこちの女だとわかっているような女の顔よりもばるかに好ましいのであって、後者に見るような、平板で深みのない、うすっぺらな一枚張のようなしろものとは比較にならないように思われた。〔・・・〕それらの顔は、ひらかれない扉であった[ces visages restaient fermés]。しかし、それらの顔が、ある価値をもったものに見えてくるためには、それらの扉がやがてひらかれるであろうことを知るだけで十分なのである・・・ (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」) |
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若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。Combien y en a-t-il dans nos souvenirs, combien plus dans notre oubli, de ces visages de jeunes filles et de jeunes femmes, tous différents, et auxquels nous n'avons ajouté du charme et un furieux désir de les revoir que parce qu'ils s'étaient au dernier moment dérobés ? (プルースト「ゲルマントのほう」) |
つまりはヤッタ女よりぎりぎりのところでヤラなかった女のほうが尊いのである、《ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ]》(プルースト「逃げ去る女」)



