ジジェクを引用するとき、《最近は「ワケアリ」であまり掲げたくない》という但し書きをつけるのが習慣になっているのだが、ま、この際、ーー日本には末人政党だけでなく末人言論人しかいない現状ーー、かつては折に触れて掲げた、末人のみなさんにはいくらか刺激的だろう文を再掲しよう。
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「私たちの闘争は、実際に腐敗した個人に対するものではなく、権力者一般、彼らの権威、世界秩序、そしてそれを支えるイデオロギー的神秘化に対するものである」(エフェソの信徒への手紙6章12節)。この闘争に身を投じることは、バディウの定式《何も起こらないよりは厄災が起きた方がマシ mieux vaut un desastre qu’un desetre》を受け入れることを意味する。つまり、たとえそれが大破局に終わろうとも、あれら終わりなき功利-快楽主義的生き残りの無気力な生を生きるよりは、リスクをとって真理=出来事への忠誠に携わったほうがずっとマシだということだ。この功利-快楽主義的生き残りの仕方こそニーチェが「末人(最後の人間)」と呼んだものだ。したがって、バディウが拒絶するのは、政治を最悪の事態を回避するための計画へと矮小化し、あらゆる肯定的な計画を放棄し、最も悪くない選択肢を追求する、市民的リベラルイデオロギーである。 |
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Our struggle is not against actual corrupt individuals, but against those in power in general, against their authority, against the global order and the ideological mystification which sustains it” (Ephesians 6:12). To engage in this struggle means to endorse Badiou’s formula mieux vaut un desastre qu’un desetre: better to take the risk and engage in fidelity to a Truth-Event, even if it ends in catastrophe, than to vegetate in the eventless utilitarian-hedonist survival of what Nietzsche called the “last men.” What Badiou rejects is thus the liberal ideology of citimhood, with its reduction of politics to a program of avoiding the worst, to renouncing all positive projects and pursuing the least bad option. |
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(ジジェク『終焉の時代に生きる Living in the End Times』 2010年) |
どうだい、この際、最悪を選べよ。何かが根源的に変わることを期待して。共同体の構造の座標軸をずらすことを祈願して。ーー《行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。》(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収)
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◼️柄谷行人浅田彰対話「「ホンネ」の共同体を超えて」1993年6月『SAPIO』(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収) |
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柄谷 ニーチェは「最後の人間」とか「末人」とか言ったけれど、僕は人間の大半は最初から「末人」だと思う。したがって、人間が人間であるのは、その状態を乗り越えることにある。いつでも、差異なり矛盾なりがあれば、必ずそれを意識して異議を唱えるような行為があるだろうと思うんです。だから、昔はほんものの人間がいたとか、今後はみな「末人」になるだろうとか、そういうふうには思いませんね。結局のところ、人間は構造のなかで生きているかぎり「末人」なんでしょう。自分の意思で行動しているつもりでも、実は構造に動かされている。それが根本的に変わるわけではない。しかし、そのことを意識することはできるし、それをきっかけとして構造からずれて行くこともある。だから、来るべきものとして「未人」を語るのは間違っていると思います。 浅田 そして、幸か不幸か、差異や矛盾は絶対になくならない。とすると、それをきっかけに構造からずれていく人間が絶対にいるはずなんですね。 柄谷 数多くはないだろうけれど、そういうものをあてにすることでしかものを書くことはできないですね、年をとってくると(笑)。 浅田 いや、言葉を紡ぐというのは、原理的にそういうことなんだと思いますね。 |
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(『SAPIO」一九九三年六月一〇日号・六月二四日号) |
こうも引用しておこうか、ーー《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義だというバディウの主張は、正しい。それは「民主主義の幻想」であり、資本主義的諸関係の根源的な変革を妨げる究極的な枠組みとして民主的な機構を捉えることを意味している。 Badiou was right to say that the name of the ultimate enemy today is not capitalism, empire, exploitation or anything of the kind, but democracy: it is the 'democratic illusion', the acceptance of democratic mechanisms as the only legitimate means of change, which prevents a genuine transformation in capitalist relations.》(ジジェク「永遠の経済的非常事態」2010年)