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2026年2月17日火曜日

伝統に囚われない自由主義の究極はネオリベで究極の反リベラル

 


「伝統に囚われない自由主義の究極はネオリベで究極の反リベラル」か。このAKIRA HIRAISHI(平石明)氏の言い方は面白いね、「新自由主義は帝国主義的であり、自由主義とはまったく別物だ」とは柄谷行人が繰り返していることだが、先入観に囚われた一般人の目を覚ますにはこういう刺激のある言い方はとてもよろしい。


第二次大戦後の世界は全体として、アメリカのヘゲモニーの下で自由主義的であったといえる。それは一九世紀半ば、世界経済がイギリスのヘゲモニー下で自由主義的であった時期に似ている。しかし、このような世界体制は、一九七〇年代になって揺らぎ始めた。一つには、敗戦国であったドイツや日本の経済的発展とともに、アメリカの圧倒的ヘゲモニーが失われたからである。


しかし、一般に注目されたのは、一九九一年にソ連邦が崩壊し、それとともに、「第二世界」としての社会主義圏が消滅するにいたったことのほうである。このことは、「歴史の終焉」(フランシス・フクヤマ)として騒がれた。愚かしい議論である。このような出来事はむしろ、「歴史の反復」を示すものであったからだ。


そのことを端的に示すのは、一九八〇年代に、それまで「第一世界」を統率し保護する超大国とし自由主義を維持してきた米国が、それを放棄し新自由主義を唱え始めたことである。つまり、ソ連の「終焉」より前に、資本主義経済のヘゲモンとしての米国の「終焉」が生じたのだ。それは、一九世紀後半にイギリスが産業資本の独占的地位を失い、それまでの自由主義を放棄したこと、 すなわち、帝国主義に転化したことと類似する。 (柄谷行人『力と交換様式』2022年)


先のAKIRA HIRAISHI氏の言っていることは具体的には次の箇所だが、この論文は全体的に熟読する価値があるよ。


◼️保守とは?リベラルとは? 認知力の違いは? Dr.TAIRA 2025-11-06

保守派は自国ファースト、 排外主義になりやすく、リベラル派は人類全体や世界を考える普遍主義をとる傾向にあります。経済的には、前者が小さな政府で自己責任の政策(新自由主義)への選好を示すのに対し、後者はより大きな 政府で社会主義的な政策の導入を好むでしょう。


いま検索してみたら似たようなことを言っている人がいる。


◼️日本人が以外と知らない「保守」と「リベラル」の意味。「リベラル」は考え方が進歩的?支持する経済体制で分けるのが本来の区分 チェ・ソンホ 2025/06/27

「保守支持だ」「リベラル支持だ」というときの中身は、どういうことか説明できるだろうか。「保守=安定志向、リベラル=変革志向」という説明の仕方はまちがいではないが本質ではない。もっともシンプルな本来の区分は「経済体制による分け方」だ。

つまり、「市場の自由」と「政府の介入」のどちらを重視するか、ということ。市場の自由を重視する新自由主義を認めるのが保守、新自由主義を認めず、政府の介入を主張するのがリベラル

この見方に立つと、これまでとは異なる政治の世界が見えてくる。



先の AKIRA HIRAISHIの論にはこうもある、《東浩紀氏が言う、連帯の範囲を仲間同士に求めるか、普遍的なものとして広げるかが、それぞれ保守とリベラルを分ける意義だというのも理解できます。しかし、そこから、かつての左右イデオロギー対立はもはや機能しておらず、いまの日本では、むしろ保守勢力こそが社会制度の改革を進めていて、 リベラルはしばしば「保守的」な主張をしている、 と言う指摘は飛躍しすぎでしょう。》


この東浩紀の保守とリベラルは、私がざっと見た範囲では、宇野重規の次の記述にベースがあるようだ。


あえていえば、仲間との関係を優先する立場が保守と、普遍的な連帯を主張する立場がリベラルと親和性をもつといえる。このことは、政治において、共同体の内部における『コモン・センス(共通感覚)』を重視するか、あるいは、自由で平等な個人の間の相互性を重視するかという違いとも連動し、今後の社会を論じていく上での有力な対立軸となるであろう。(宇野重規『保守主義とは何か』2016年、 一部省略)


宇野重規と東浩紀の観点も面白いが、いかんせん2人は経済的アスペクトが弱い、私の偏った頭では、と但し書きをつけておくが。


以下、全文掲げよう。



「リベラル知識人」はなぜ嫌われるのか?ノーベル賞作家が暴いた欺瞞とは

浩紀:  202434

日本の「リベラル」と呼ばれる勢力は、近年勢いを失い続けています。現代の若者も保守化傾向にあり、ネットでもリベラルへの反発が激化するばかりです。なぜリベラルだけが苦境に陥るのか、日本の保守とリベラルの対立の実態から、リベラル勢力の問題を探ります。※本稿は、東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン叢書)の一部を抜粋・編集したものです。


なぜリベラルは苦境に立たされる?


 日本ではこの10年、左派あるいはリベラルと呼ばれる勢力が退潮し続けている。

 とりわけ、2016年に学生主導の新しい運動だったSEALDsが解散し、2017年に民進党が実質的に解体して以降は、坂を転がり落ちるように支持を失っている。


 けっして与党が支持されているわけではない。2022年に安倍晋三元首相が銃撃されたあと、半年ほどはむしろかつてなく自民党批判が高まった。しかし左派系野党はその批判を支持に変えることができない。ネットでもリベラルへの反発は年々激化している。大学人や知識人の声は大衆に届かなくなった。左派は社会の分断が進んでいるのが原因だというが、それならば保守も同じ条件だ。明らかにリベラルだけが苦境に陥っている。


 なぜそんな非対称性が生じているのか。


保守とリベラル、本来は対立するものではない


 そもそもリベラルとはなんだろうか。とりわけ、保守と対立するものとしてのリベラルとはなんだろうか。


 保守とリベラルの対立は「右」と「左」の対立に重ねて理解されることが多い。とりわけネットではそのように理解されている。思想史的にはその用法は正しくない。


 保守は「革新」と対立し、社会変革への消極的な態度を示す言葉である。他方でリベラルは「自由」という意味の言葉で、個人と社会の関係を示している。それゆえ保守とリベラルは本来は対立しない。たとえば、個人の自由を重んじるがゆえに、逆に社会の急進的な変革に慎重だという立場は十分にありうる。その場合はリベラルな保守主義者ということになる。


アメリカの保守とリベラルとの違い


 にもかかわらず、なぜいまの日本では保守とリベラルが対立して理解されているのだろうか。そこにはねじれた経緯がある。政治学者の宇野重規は『日本の保守とリベラル』と題された著作で、次のような説明を与えている。


 保守とリベラルの対立はそもそもアメリカのものである。アメリカの二大政党制では、共和党は「保守」で、民主党は「リベラル」だとされている。ではアメリカでなぜその対立が有効に機能したかといえば、それは、同国では、いわゆる「左」、すなわち共産主義や社会主義が政治的な力をもつことがなかったからである。


 アメリカでは、皆がリベラリズムを支持しているという前提のうえで、古典的なリベラリズムを守る側が「保守」、現代的なリベラリズムを推進する側が「リベラル」だという独特の差異化が成立した。他方で冷戦期のヨーロッパでは、政治はまずはリベラリズムと共産主義の対立によって、つまり右と左の対立によって語られていた。日本はこの点では、アメリカよりヨーロッパにはるかに近かった。


日本の保守とリベラルは便利なレッテル


 ところが厄介なことに、冷戦構造が崩壊し、「左」の存在感がなくなった1990年代以降、日本でも、皆がリベラリズムを支持しているという前提が曖昧なまま、その保守とリベラルの対立が新たな政治の軸として輸入されることになってしまった。


 結果として、宇野も指摘するように、アメリカ式に保守とリベラルを対立させてはいるものの、実態は「かつての看板だけを替えたものであり、今もなお本質的には『右(保守)』と『左(革新)』の対抗図式が持続していると捉えることも可能」な状況が生まれてしまった(※宇野重規『日本の保守とリベラル』、中公選書、2023年、17頁)。いま日本の若い世代がリベラルと左派をほぼ同義で用いるのはこのためだ。


 以上の経緯からわかるように、いまの日本における保守とリベラルの対立は、じつは保守主義やリベラリズムの実質とはあまり関係がない。かといって冷戦時代の左右対立がそのまま引き継がれているわけでもない。

 ではそれはなにを意味しているのかといえば、両者はじつは、いま人々が漠然と感覚している、政治や社会へのふたつの異なった態度への便利なレッテルでしかなくなっているのではないか。


 宇野は別の著作で次のように指摘している。


「あえていえば、仲間との関係を優先する立場が保守と、普遍的な連帯を主張する立場がリベラルと親和性をもつといえる。このことは、政治において、共同体の内部における『コモン・センス(共通感覚)』を重視するか、あるいは、自由で平等な個人の間の相互性を重視するかという違いとも連動し、今後の社会を論じていく上での有力な対立軸となるであろう」(※宇野重規『保守主義とは何か』、中公新書、2016年、204―205 一部省略)


 この規定は簡潔だが的を射ている。冷戦が終わってすでに30年以上が経っている。共産主義は実質的に終わっている。確かに書店の人文書の棚には、資本主義は終わる、共産主義には未来があるとうたった本がいまだに並んでいる。けれどもだれもそれが具体的な政策につながる言葉だとは信じていない。かつての左右対立は機能していない。そもそも保守と社会変革も対立していない。


 いまの日本では、むしろ保守勢力こそが社会制度の改革を進めている。逆にリベラルは、護憲に代表されるように、しばしば「保守的」な主張をしている。


 ではどこに保守とリベラルの対立の淵源を求めるべきかといえば、もはやそれは連帯の範囲の差異ぐらいにしか現れていないのではないか。ぼくの考えでは、それが宇野が指摘していることである。


主義主張ではなく、連帯の感覚の対立


 保守もリベラルも抽象的な目標では一致する。


 たとえば弱者を支援しろといわれて反対する政治家はいない。けれどもリベラルはそこで、できるだけ広く「弱者」を捉え、国籍や階級、ジェンダーなどを超えた普遍的な制度を構築しようとする。それに対して保守はまず「わたしたち」のなかの「弱者」を救おうとする。むろん、その「わたしたち」の内実は事例により異なる。「わたしたち日本人」のこともあれば「わたしたち男性」「わたしたち富裕層」のこともある。


 いずれにせよ、そのような共同体を優先させる発想、それそのものがリベラルにとっては反倫理的で許しがたいということになる。他方で保守にとっては、身近な弱者を救わなくてなにが政治だということになろう。いまの日本の保守とリベラルの対立は、抽象的な主義主張の対立としてというより、そのような連帯の感覚の対立として捉えたほうが理解しやすい。


 これは、いまの日本で使われている保守とリベラルの対立が、(本書でいう)閉鎖性と開放性の対立にほぼ重なっていることを意味している。保守は共同体が閉じていることを前提としている。そのうえで仲間を守る。それに対してリベラルは、共同体は開かれるべきだと信じる。だから保守を批判する。


 それゆえ、ここまで検討してきた開放性をめぐる逆説は、保守とリベラルの非対称性を考えるうえでも重要な示唆を与えてくれる。法や制度は万人に開かれねばならない。それは正しい。だれも反対しない。けれども肝心の閉鎖性と開放性の対立がそれほど自明なものではない。


 現在は左派に階級闘争のような実質的な理念がない。それゆえ、いまの左派、つまりリベラルは、自分たちの倫理的な優位を保証するため、形式的な開放性の理念に頼るほかなくなっている。


 けれども、ここまで繰り返し指摘してきたように、開かれている場を志向すること、それそのものが別の視点からは閉鎖的にみえることがある。これはけっして抽象的な話ではない。現実にいま日本のリベラルは、彼らの自意識とは裏腹に、閉じた「リベラル村」をつくり、アカデミズムでの特権や文化事業への補助金など、既得権益の保持に汲々としている人々だとみなされ始めている。


リベラルが抱える問題


 そんな意見は一部の「ネトウヨ」が言っているだけだ、と鼻で笑う読者もいるかもしれない。その認識は誤っている。左派への厳しい視線はもはやネットだけのものではないし、日本だけのものでもない。


 たとえば2021年には、作家のカズオ・イシグロのあるインタビューが話題になった。彼は次のように述べている。


「俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです」(※カズオ・イシグロ、倉沢美左「カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ」、「東洋経済オンライン」、202134日)。


イシグロは2017年のノーベル文学賞受賞者で、リベラルを代表する世界的な作家である。そんな彼が漏らしたこの述懐は、現在の「リベラル知識人」たちが、世界の市民と連帯しているかのようにふるまいながら、じつのところは同じ信条や生活習慣をもつ同じ階層の人々とつるみ、同じような話題について同じような言葉でしゃべっているだけの実態を鋭く抉り出している。


 保守は閉ざされたムラから出発する。リベラルはそれを批判する。けれども、そんなリベラルも結局は別のムラをつくることしかできないのだとすれば、最初から開き直りムラを肯定する保守のほうが強い。いまリベラルが保守よりも弱いのは、原理にまで遡ればそのような問題なのではないか。




《保守は閉ざされたムラから出発する。リベラルはそれを批判する。けれども、そんなリベラルも結局は別のムラをつくることしかできないのだとすれば、最初から開き直りムラを肯定する保守のほうが強い》とは以前から言っていたことの変奏だな、



ツイッター上の発言だから揺れ動いているがね、




Jリベ」か、これもバカにするときは巧い言い方かもよ。


で、この文脈の中に直近の、例えば次の発言があるんだろうよ、





私はかねてから東浩紀に批判的なところが大いにあるんだが、とはいえ巷の「頭でっかちに理論や正義を振りかざす」リベラル左翼とはわけが違う「とても地頭のよい」人物だということは認めないとね。


ま、とはいえ現在の東浩紀の立ち位置は、彼のかつての先生だった浅田彰曰くの「シニカルな居直り」のアスペクトがあるんじゃないかね、


◼️柄谷行人浅田彰対話「「ホンネ」の共同体を超えて」19936月『SAPIO』(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収)

浅田彰:もちろん、旧左翼の現実離れした理想主義のタテマエ論は批判すべきものだけれども、それがあまりにもくだらないがゆえに、右翼が現実主義的と称するホンネを唱えると、そちらのほうが多少とも魅力的に見えてしまう。新左翼だったはずが右翼になっていた旧全共闘世代が、だいたいそういうパターンでやっているわけでしょう。しかし、今はむしろ新しい理念が求められているのであって、崩壊した旧左翼を批判しても死馬に鞭打つようなものだし、自己満足にひたる大衆のホンネを肯定することにしかならない。実に不毛な状況ではありますね。


しかも、そういうホンネ主義みたいなものあらゆる理念がついえ去ったのであってみれば、もうホンネに居直るしかないという気分は、日本のみならず世界中で今いちばん支配的なイデオロギーになっていると思う。ほんとうは共産主義がスターリン主義的に形骸化した時期からそうだったのだけれど、けれども、それが旧ソ連崩壊で露骨に目に見えるようになってしまった。旧共産圏は完全にそうなってしまっているし、旧西側も同じような状況になっている。こういうシニカルな居直りこそが現代の支配的なイデオロギーであって、これを批判できるのは、ある種の理念しかないでしょう。


いやあ、こう浅田彰を引用したら、私の好みの一連の文が向こうからやってきたよ。


哲学は常に反時代的である。いつの時代においても反時代的である。la philosophie, toujours intempestive, intempestive à chaque époque. (ドゥルーズ『ニーチェと哲学』 1962)

反時代的様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代にきかけること、それこそがたるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。in ihr unzeitgemäß – das heißt gegen die Zeit und dadurch auf die Zeit und hoffentlich zugunsten einer kommenden Zeit – zu wirken.〔・・・〕


世論と共に考えるような人は、自分で目しをし、自分で耳に栓をしているのである。Denn alles, was mit der öffentlichen Meinung meint, hat sich die Augen verbunden und die Ohren verstopft (ニーチェ『反時代的考察 Unzeitgemässe Betrachtungen1876年)

流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」『ガンジュ侯爵夫人』)



というわけだが、「災いがないようくれぐれもご注意されたし」ってのは誰に向けて言うべきだろ? 当面、「自己満足にひたる大衆のホンネを肯定する」理念なき人物だろうよ。