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2026年10月21日水曜日

恥を知れ➤厚顔無恥➤ 恥ずかしさの余り総毛立つ言葉

 

いまだ話題になっている蓮實重彦の「恥を知れ」で思い起こしたが、これは厚顔無恥とも関わるんだろうよ。


「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。


決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」、2006年)


…いずれにせよ、そうしたことが、わたくしに、四半世紀にもおよぶ短くはない沈黙を選ばせたのかもしれない。「はしたなさ」ばかりが跳梁跋扈する世紀末から二一世紀にかけての「文学理論」や「批評」がもたらす苛立ちも、沈黙を破らせることにはならなかった。


いま、その無言状態からふとぬけだそうとすることに、深い理由があるわけではない。あたりにはりつめていた禁止の力学が、ようやくときほぐれ始めたというのでもない。バルトをめぐってたち騒ぐあたりの饒舌を、雄弁な沈黙によっておきかえようと思いたったのでもない。そもそも、雑駁きわまりない呼び方で「現代思想」――または、店晒しにされた「厚顔無恥」――などと分類されたりもするフランスの他の作家たちにくらべてみれば、バルトに対して、人は、あまりにも少なく饒舌だったというべきだろう。(蓮實重彦「バルトとフィクション」『表象の奈落』所収、2006年)


で、厚顔無恥というのは、「恥ずかしさの余り総毛立つ言葉」でもあるだろうよ。



憎んでいると思ったこともない代わりに

言葉を好きだと思ったこともない

恥ずかしさの余り総毛立つ言葉があるし

透き通って言葉であることを忘れさせる言葉がある

そしてまた考え抜かれた言葉がジェノサイドに終ることもある


ーー谷川俊太郎「鷹繋山」



前回、ラカンが、学園紛争を契機としての父の権威の失墜のもと、《もはやどんな恥もない[ Il n'y a plus de honte] 》 (Lacan, S17, 17 Juin 1970)と言ったのを掲げたが、ラカンはそれ以前にもこう言っていたのを思い出したね、ーー《人の羞恥心のなさは他人の羞恥心をレイプする[l'impudeur de l'un à elle seule faisant le viol de la pudeur de l'autre.]》(Lacan, E772, 1963)


SNS、私はツイッターしか知らないが、ときにレイプ装置のところがあるんじゃないかね。


…………


と記したところで、批評家の大杉重男氏がこう書いているのに巡り逢った。


蓮實が小川公代に「恥を知れ」と発言して物議を醸しているが、近代文学関係の論文を読んでいると、私もついそんな気持ちになることはある。〔・・・〕 私もかつて蓮實から「恥を知れ」的批判をされたこともあり、人のことは言うべきではないのだろうが、テクストを読むとはどういうことかが過去に比べて現在でもまったく自明ではなく、簡単ではない…(大杉重男「『あらくれ』という躓き」2026/10/19)


蓮實は恥を知れ的な言説を言い続けてきた批評家なんだよ。

蓮實)知識も基礎学力もない人たちが、こうまで簡単に批評家になれるとはどういうことですかね。最近の文芸雑誌をパラパラと見ていると、何だか多摩川の二軍選手たちが一軍の試合で主役を張っているような恥ずかしさがあるでしょう。ごく単純に十年早いぞって人が平気で後楽園のマウンドに立っている。要するに芸がなくてもやっていけるわけで、こういう人たちが変な自信をまでもっちゃった。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)