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「ラカンの最も重要な穴のシニフィアンS(Ⱥ)とミレール注釈」で示した「大他者は存在しない」とは「言語は存在しない」ということだよ。
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大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く[l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).](Lacan, S24, 08 Mars 1977)
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私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。
il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)
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ま、極端な言い方だが、最後のラカン的精神分析にとってはこうなんだな。で、上に「ララング」とあるが、これは母の言葉のことであり、この母の言葉が現実界の症状である「サントームの臨床」の基盤。
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ララングが、母の言葉と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから[lalangue… est justifié de la dire maternelle car elle est toujours liée au corps à corps des premiers soins](コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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最終的に、精神分析は主体のララングを基盤にしている[Enfin, une psychanalyse repose sur lalangue du sujet]。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen,PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ 、2010年)
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サントームは言語ではなくララングによって条件づけられる[le sinthome est conditionné non par le langage mais par lalangue] (ジャック=アラン・ミレールJ.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 décembre 2008)
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ーーサントームがモノの名、つまり母の名であることは先のリンク先で示してある通り。で、《サントームという享楽自体[ la jouissance propre du sinthome] 》(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)でもある。
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この意味で晩年のラカンにとって「欲望は存在しない」んだよ。欲望は存在しない大他者に由来するのだから。
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欲望は大他者に由来する、そして享楽はモノの側にある[le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](Lacan, DU « Trieb» DE FREUD, E853, 1964年)
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もちろんモノなる享楽は欲動のこと。
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現実界は、象徴界と想像界を見せかけの地位に押し戻す。そしてこの現実界はドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した[le réel repousse le symbolique et l'imaginaire dans le statut de semblant, ce réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011)
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ーー見せかけとあるのは、次のラカンから、《見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ]》(ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
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つまり先の「欲望は存在しない」というのを穏やかに言えば、「欲望は欲動に対する見せかけ」ということだ。
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で、欲動は身体的要求だ。
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エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)
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ーーこのフロイトはミレールが次のように簡潔に言ってるのと等価、《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)。ついでに大他者のほうも確認しておけば、《大他者は父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.]》(J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)、そして《欲望は言語に結びついている[le désir: il tient au langage.]》(J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)
ラカン自身に於いての欲望=言語=大他者の関係を把握するには次の簡潔な文がよいだろう、《言語に翻弄される動物の特性として、人間の欲望は大他者の欲望であると仮定しなければならない[ il faut poser que, fait d'un animal en proie au langage, le désir de l'homme est le désir de l'Autre. ]》(Lacan, E628, 1960年)
したがって先の「欲望は欲動に対する見せかけ」を言い換えれば、「言語は身体に対する見せかけ」となる。
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当面以上でいいかね。
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❖附記
ララングというのは詩に関係するんだよ、最近日本でも翻訳されたコレット・ソレールの『情動と精神分析』だが、以下は私のテキトー訳。
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最初期、各個人にとって、ララングは、話しかけられている乳児が浸っている音声媒体である言説から生じる。身体の最初の世話に伴うこの母のララング[lalangue maternelle]は、その音が意味を獲得する前から、乳児に影響を与える――あらゆるものがそれを示している。基本的な区別要素は単語ではなく、固有の意味を持たない音素である。ラカンがラレーションと呼ぶ喃語は、これを反響させ、言語の構文や意味を獲得する以前の音と満足の結合を証言している。ラカンが十分に強調したように、前言語的要素はないが、前言説的である。ララングは言語ではない。それは学習されるものではない。ララングは、音、リズム、沈黙の蝕などで乳児を包み込み、常に初期の世話の身体的な親密さと結びついているため、母の言葉[la dire maternelle]と呼ぶのが正しい。それは、フロイトが愛の生の発達においてその重要性を強調したまさにその親密さである。それは、非物質化された正しい綴りの学習の中で忘れ去られるだろうが、それでもその痕跡は、意味を超えた無意識の最も現実界的な核心を構成している。したがって、一人ひとりにとって、言葉の重みは、言語という浴槽に足を踏み入れるその瞬間の、身体と音の相互的なエロティシズムの中に深く刻み込まれることになる。そして、その言葉が持つ意味だけでなく、満足感においても、人によってその重みは異なるものとなるだろう。これは、言葉によって養われ、「詩句に貪り食われる」詩人によって証明されているが、言語があらゆる種類の啓示的なつまずきの中で現れ、それ自体が不協和音であり、時には症状のまさに核心に触れることを可能にする分析によっても証明されている。
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chacun, lalangue vient du médium sonore du discours dans lequel le tout-petit à qui on parle baigne. Cette lalangue maternelle qui accompagne les premiers soins du corps l'affecte, tout l'indique, avant que ses sons ne prennent sens. L'élément différentiel de base n'en est pas le mot mais le phonème sans aucune espèce de sens. Le babil - lalation, dit Lacan - qui y fait écho témoigne d'une conjonction du son et de la satisfaction, antérieure à l'acquisition de toute syntaxe ou sémantique langagières. Pas de préverbal, Lacan aura-t-il suffisamment insisté sur le thème, mais du prédiscursif, oui, lalangue n'étant pas le langage. Elle ne s'apprend pas, elle enveloppe le petit de ses sons, de ses rythmes, de ses éclipses de silence, etc., et il est justifié de la dire maternelle car elle est toujours liée au corps à corps des premiers soins, ceux-là mêmes dont Freud a marqué l'importance pour les suites de la vie amoureuse. Elle s'oubliera dans les apprentissages dématernalisants du langage orthographique correct mais il n'en demeure pas moins que ses traces constituent le noyau le plus réel - hors sens - de l'inconscient. Pour chacun, le poids des mots restera donc ancré dans l'érotisation conjointe du corps et des sons de ce moment d'entrée dans le bain de langage, et ils n'auront pour chacun pas la même portée, non seulement de sens mais de satisfaction. La preuve par le poète nourri de mots et « mangé des vers », mais aussi par l'analyse où lalangue émerge en toutes sortes de trébuchements épiphaniques, eux aussi discordants, et qui permettent parfois de toucher au plus réel du symptôme.
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(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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ラカンが次のように言ってるのは、この文脈にある。
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ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. (Lacan, S24. 17 Mai 1977)
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詩は身体の共鳴が表現される。 la poésie, la résonance du corps s'exprime(Lacan, S24, 19 Avril 1977)
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ふたたびコレット・ソレールーー、
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詩の言葉は、分析主体の言葉と同様、「言語という意味の効果」と「ララングという意味外の享楽の効果」を結び繋ぐ。それはラカンがサントームと呼んだものと相同的である。Le dire du poème, donc, tout aussi bien que le dire de l'analysant, noue, fait tenir ensemble les effets de sens du langage et des effets de jouissance hors sens de lalangue. Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome. (Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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これは中井久夫が「詩の基底にあるもの」あるいは「詩を訳すまで」で次のように言っているのとほとんど同じこと。
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言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)
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《成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである》とあるが、これがラカン曰くの「言語は存在しない」あるいは「シニフィアンつまり言語表象は見せかけsemblant」の別の言い方ーー私に言わせれば「より正しい」言い方ーーだろうよ。
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少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。一歳までにだいたい母語の音素は赤ちゃんのものになる。大人と交わす幼児語は赤ちゃんの言語生活のごく一部なのである。赤ちゃんは大人の会話を聴いて物の名を溜めてゆく。「名を与える」ということのほうが大事である。単に物の名を覚えるだけではない。赤ちゃんはわれわれが思うよりもずっと大人の話を理解している。なるほど大人同士の理解とは違うかもしれない。もっと危機感や喜悦感の振幅が大きく、外延的な事情は省略されるか誤解されているだろう。その過程で、母語としておかしな感じを示すかすかな兆候を察知するアンテナが敏感になってゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
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