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近代科学は、道徳的・美的な判断を括弧に入れるところに存在する。そのとき、はじめて「対象」があらわれるのだ。しかし、それは自然科学だけではない。マキャベリが近代政治学の祖となったのは、道徳を括弧に入れることによって政治を考察したからである。(柄谷行人『トランスクリティーク ーーカントとマルクスーー』第一部・第3章「Transcritique」、2001年) |
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より詳しくは▶︎柄谷行人=カントの「括弧入れ=無関心」 |
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マキャベリってのはやたらに面白いんだよ、もっともその面白さは道徳的関心を「括弧入れ」していることを見抜けないと、巷間の浅薄な連中が流通させている「冷酷なマキャベリズム」ということになってしまうがね。 例えばーー、 |
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これにつけても、覚えておきたいのは、民衆というものは、頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである。というのは、人はささいな侮辱に対しては復讐しようとするが、大きな侮辱に対しては復讐しえないからである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないように行なわなければならない。 Perchè si ha a notare, che gli uomini si debbono o vezzeggiare o spegnere, perchè si vendicano delle leggieri offese; delle gravi non possono: sicchè l’offesa che si fa all’uomo, deve essere in modo, che ella non tema la vendetta. (マキャベリ『君主論』) |
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さて、ここでは『君主論』抜き書き在庫があるのでーーもう10年以上前のものだが「引き出し」の奥から引っ張り出してーー、いくらか掲げておこう。 |
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領土欲というものは、きわめて自然で、あたりまえの欲望である。したがって、能力ある者が領土を求めようとすれば、ほめられることはあっても、とがめだてられることはない。しかし、能力もない者が、どんな犠牲をはらっても手に入れようとするのは、まちがいであり、非難に値する。 |
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……この点からも心すべきことは、ある国を奪いとるばあい、征服者は残酷な加害行為を日々蒸しかえしたりせぬように一気呵成に実行するように配慮し、蒸しかえさないということで人心を安らかにし、恩を施して民心をつかまなければいけないということである。臆病風に吹かれたり、誤った意見をとりあげて逆のことをやる者は、必然的にたえず剣を手から放せなくなる。臣下も、間断なく行なわれるあたらな危害がもとで君主に安心感がもてなくなり、君主もそうした臣下に根っから信をおくことができなくなる。要するに、加害行為は、一気にやってしまわなくてはならない。そうすることによって、人に長く味わわさないようにすれば、それだけ人を怒らせることも少なくてすむのである。これにひきかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない。 |
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事実、人間というものは、危害を加えられると信じていた人から恩恵を受けると、ふつう授けてくれるばあい以上に恩義を感ずるものだから、民衆は、もともと自分たちの支持によって君位につく者よりも、いっそう深い好意を寄せるのである。 |
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だいたい人間というものは、その性質上、恩恵を受けても、また恩恵を施しても、やはり義理を感ずるものである。 |
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だれでも人は、とくに君主は、その身分が高いために世評にのぼるものであるが、このばあい、当事者の気質のなかのある面がとくにとりあげられて、非難や賛辞を受ける。たとえば、ある人が鷹揚だとか、ある人がしみったれだとか評されたりするのが、それである。ここでトスカナ方言を使ったのは、われわれのことばで貪欲なというと、所有欲が強くて窃盗さえしかねない人間をさすのに対し、このしみったれというのは、自分のものは、せいぜい出さずにすまそうとする人をさすためである。
さらにまた、こんなふうな評判をする。あの人は気前がよいとか、あの人は強欲だとか、あの人は残虐だとか、あの人は憐れみぶかいとか、あの人は口先がうまいがこの人は義理固いとか、あの人は人間味があるがこの人は傲慢だとか、あれは好色家だがこちらは固いとか、それは裏表がないがこちらは狡猾だとか、あれは気むずかしくこちらは気楽だとか、あいつは堂々としているがこいつは薄っぺらだとか、あいつは信心深いがこいつは神を信じないやつだ、などと。 |
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一つの悪徳を行使しなくては、自国の存亡にかかわるという容易ならぬばあいには、悪徳の評判などかまわずに受けるがよい。 |
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次に気質のもう一つの点に話を移すと、あらゆる君主にとって、残酷よりは憐れみぶかいと評されることが望ましいことにちがいない。だが、こうした恩情も、やはりへたに用いることのないように心がけねばならない。たとえば、チューザレ・ボルジアは、残酷な人物とみられていた。しかし、この彼の残酷さがロマーニャの秩序を回復し、この地方を統一し、平和と忠誠を守らせる結果となったのである。とすると、よく考えれば、フィレンツェ市民が、冷酷非道の悪名を避けようとして、ついにピストイアの崩壊に腕をこまねいていたのにくらべれば、ボルジアのほうがずっと憐れみぶかかったことが知れる。したがって、君主たる者は、自分の臣民を結束させ、忠誠を守らすためには、残酷だという悪評をすこしも気にかけてはならない。というのは、あまりに憐れみぶかくて、混乱状態をまねき、やがて殺戮や略奪を横行させる君主にくらべれば、残酷な君主は、ごくたまの恩情がある行ないだけで、ずっと憐れみぶかいとみられるからである。また、後者においては、君主がくだす裁決が、ただ一個人を傷つけるだけですむのに対して、前者のばあいは、国民全体を傷つけることになるからである。 |
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君主にとって、信義を守り、奸策を弄せず、公明正大に生きることがいかに称賛に値することかは、だれでも知っている。だが、現代の経験の教えるところによると、信義などまるで意に介さず、奸策を用いて人々の頭脳を混乱させた君主が、かえって大事業(戦争)をなしとげている。しかも、結局、彼らのほうが信義に基づく君主たちを圧倒してきたことがわかる。 |
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君主は野獣の性質を適当に学ぶ必要があるのであるが、そのばあい、野獣のなかでは狐とライオンに習うようにすべきである。というのは、ライオンは、策略のわなから身を守れず、狐は狼から身を守れないからである。わなを見抜くという点では、狐でなくてはならず、狼どものどぎもを抜くという点ではライオンでなければならない。もっとも、ただたんにライオンのうえに腰を落ちつけているような連中は、このことがよくわかっていないのである。 |
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人間は邪悪なものであって、あなたに対する信義を忠実に守ってくれるものではないから、あなたのほうも人々に信義を重んずる必要はない。そのうえ、信義の不履行を合法的に言いつくろうための口実は、君主にはいつでも見いだせるものである。 |
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……狐をたくみに使いこなせた君主が、好結果を得たことも明らかにできよう。それにしても、この気質は、じょうずに粉飾してしまうことが必要であり、みごとに猫かぶりになり、厚かましくならなくてはならない。まして、人間はきわめて単純であり、目先の必要性に、はなはだ動かされやすいので、だまそうと思う者にとって、だまされる人間はざらに見つかるものである。
ところで、つい最近の実例のなかで、ただ一つ見過したくないものがある。それはアレクサンデル六世のことである。この教皇はただ人をだますことしか考えず、それだけでやってきた人であったが、それでもなお、だます相手に不自由はしなかった。この教皇ぐらい、効果的な確約をし、また、ある盟約について大げさな誓約をしておきながら、その約束をまるで問題にしなかった人はいなかった。それでいて、彼のごまかしは思いどおりに進んだのであるから、彼はよほど人間のこうした面を心得ていたのであろう。
要するに、君主は前述のいろいろなよい気質をなにもかもそなえている必要はない。しかし、そなえているように思わせることは必要であろう。いや大胆にこう言っておこう。そうしたりっぱな気質をそなえていて、つねに尊重しているというのは有害であり、そなえているように思わせること、それが有益である、と。つまり、慈悲ぶかいとか、信義に厚いとか、人情があるとか、裏表がないとか、敬虔だとか思わせることが必要である。それでいて、もしそのような態度を捨てされなければならないときには、まったく逆の気質に転換できるような、また転換の策を心得ているような気がまえが、つねにできていなくてはならない。 |
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まえに多少ふれてきたことだが、軽蔑されたり、恨みを買ったりすることを、君主は避けるようにしなければならない。しかも、これさえ避けられれば、君主の任務はかならずなしとげられるであろうし、ほかに破廉恥な行ないがあっても、なんら危険な目にあうことはなかろう。
では、君主がいちばん大きな恨みを買うのはなにかといえば、それはさきに述べたとおり、臣下の財産や婦女子に目をつけたり、強奪したりすることである。この一事は自戒しなくてはいかない。それに世の中の人間というものは、財産や名誉さえ奪われなければ、けっこう満足して暮らしていくものである。 |
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ここで考慮すべきことは、人の恨みは、ひとり悪行のみならず、善行からもまた生れるということである。 |
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私は、用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている。なぜなら、運命の神が女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突きとばしたりすることが必要である。運命は、冷静な行き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである。
要するに、運命は女性に似て、若者の友である。つまり、若者は、思慮は深くなく、あらあらしく、きわめて大胆に女を支配するからである。 |
実に優れた心理学者である、ニーチェがマキャベリに惚れ込んだのも無理はない。
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善とは何か? ――力の感情を、力への意志を、力自身において高めるすべてのもの。 悪とは何か? ――弱さから由来するすべてのもの。 幸福とは何か? ――力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。 満足ではなくて、より以上の力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性(ルネッサンス式の徳、ヴィルトゥVirtù、道徳に拘束されない徳)。 |
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Was ist gut? — Alles, was das Gefühl der Macht, den Willen zur Macht, die Macht selbst im Menschen erhöht. Was ist schlecht? — Alles, was aus der Schwäche stammt. Was ist Glück? — Das Gefühl davon, daß die Macht wächst -- daß ein Widerstand überwunden wird. Nicht Zufriedenheit, sondern mehr Macht; nicht Friede überhaupt, sondern Krieg; nicht Tugend, sondern Tüchtigkeit (Tugend im Renaissance-Stile, virtu, moralinfreie Tugend). |
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(ニーチェ『反キリスト者』1888年) |
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もちろんここでの「ルネッサンス式の徳」とはマキャベリの徳(Virtù)ある。 |
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これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学と力への意志[Willens zur Macht]の展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。〔・・・〕 心理学者は少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王」として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。 Die gesammte Psychologie ist bisher an moralischen Vorurtheilen und Befuerchtungen haengen geblieben: sie hat sich nicht in die Tiefe gewagt. Dieselbe als Morphologie und Entwicklungslehre des Willens zur Macht zufassen, wie ich sie fasse - daran hat noch Niemand in seinen Gedanken selbst gestreift: sofern es naemlich erlaubt ist, in dem, was bisher geschrieben wurde,(…) wird zum Mindesten dafuer verlangen duerfen, dass die Psychologie wieder als Herrin der Wissenschaften anerkannt werde, zu deren Dienste und Vorbereitung die uebrigen Wissenschaften da sind. Denn Psychologie ist nunmehr wieder der Weg zu den Grundproblemen. (ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年) |