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2026年7月3日金曜日

日本ラカン協会とその仲間たちによる「イジメ」

 

ラカン協会のハラスメントの話が桑原旅人氏から提起されているのに今頃気づいた。それなりに大きな話題になっているようで、いくらかジャブ程度に探ってみることにする。


桑原氏は直接的には、東大の原和之とその仲間達から、彼曰くの「被害」にあっているようだ(今はラカン協会の理事長を降りたらしい京大の立木康介は原和之と以前から親密な関係にある)。









ははあ、千葉雅也くんの名も出てくるんだな。



千葉雅也くんは2020年の鹿野祐嗣批判がとてもアツくて今でも「強い印象」が残っているのだが、やはり言及してんだな。



たぶん東浩紀が桑原旅人に同情的、千葉雅也がイジメ側という構造でーーこういうのを面白がってはいけないのだがーーやっぱり面白いよ、要注目だな。


ーー東浩紀や桑原旅人自身が特に問題視しているのは、査読コメントの次の記述である、《この論文におけるアルキビアデス像には桑原氏の自己イメージが二重写しになっている。 つまり、彼の自己分析はまだ途上にあり、 本当の意味での他者 (L'Autre) との出会いが果たされていないのではないかと私は思った。 それは彼の実際の生き方に大きな影響を与えてきただろうし、これからも与え続けるだろう。》


で、日本ラカン研究の若手では明らかにナンバーワンだろう松本卓也くんはどっち側なんだろ?冒頭の桑原くんの記述からすると反立木に見えないでもないが。


日本ラカン協のサイトを見ると、こうあるね。


◇ 現在の役員一覧
2025/2026年度~2026/2027年度(2025年10月1日~2027年9月30日)
理事長:小林芳樹
理事:上尾真道・遠藤不比人・河野一紀(25号論集編集委員長)・佐藤朋子・ニコラ タジャン・原和之・福田大輔・牧瀬英幹・
松本卓也
会計監査:川崎惣一
事務局:牧瀬英幹(事務局長・会計担当)


◇ 過去の役員一覧
2023/2024年度~2024/2025年度(2023年10月1日~2025年9月30日)
理事長:小林芳樹
理事:上尾真道(24号論集編集委員長)・遠藤不比人・河野一紀・佐藤朋子・
立木康介(23号論集編集委員長、2024年10月27日退任)・原和之・福田大輔・牧瀬英幹・松本卓也(2024年5月8日退任)
会計監査:川崎惣一
事務局:牧瀬英幹(事務局長・会計担当)


2021/2022年度~2022/2023年度(2021年10月1日~2023年9月30日)
理事長:立木康介
理事:上尾真道・遠藤不比人(22号論集編集委員長)・河野一紀・小林芳樹・佐藤朋子・原和之・福田大輔(21号論集編集委員長)・牧瀬英幹・松本卓也
会計監査:川崎惣一
事務局:牧瀬英幹(事務局長・会計担当)



いやあ、これ自体オモシロイな、松本卓也(2024年5月8日退任)、立木康介(2024年10月27日退任)とあって、立木が降りて理事長が小林芳樹になった 2025/2026年度~2026/2027年度には、松本卓也くんは復活してるからな。彼はむかしは立木康介をベタ褒めしてたんだがな。


ま、いずれにせよこういうドロドロしたことは医学会だけでなく学問界全般にあるんだろうがね。


むかし中井久夫がこう言っていて「ああそういうもんか」と感心したことがあるが。


一般に、医学系出版社は、ボスだけを握っていれば、そちらからの原稿依頼で、皆かしこまって書くと思っているふしがある。ある編集会議に出た時のことを思い出す。編集委員が集まったところで、編集者が挨拶をして、では夕食を用意させてありますから召し上がって後はよろしきと言って退席し、編集者抜きで会議が始まった。私は失礼なと思ったが、これは編集者は口を挟みませんという、医学界ではしかあるべき態度と受け取られていた。こういうふうであるから、医学書は悪文に満ち、金ぴかの俗悪な装丁の本が多いのであろう。


ほんとうかどうか、医学界のボスには、誤字訂正をしても激怒するのがあるそうで、こういう手合いを相手にしていると、編集者もたまらないであろう。私も面白くないので、医学系出版界とは積極的に関係を持たない方針である。幸い精神医学だけの出版社が別個にある。これには、精神医学の本は専門家以外にも販路があるという事情もあるだろうが、著者 -編集者関係の違いも大いに手伝ってのことだろう。(中井久夫「執筆過程の生理学」『家族の深淵』 1995年)



もっと一般的に言えば、閉鎖的学問界はイジメの巣窟のアスペクトがあるだろうしね。


……第三の側面がほの見える。つまり、日本文化に内在するいじめのパターンがあるのではないか。戦時中のいじめ新兵いじめをさらに遡れば、御殿女中いじめがある。現在でも新人いじめがあり、小役人の市民いじめがあり、孤立した個人にたいする庶民大衆のいじめがある。医師の社会にもあり、教師の社会にもあるだろう。ねちねちと意地悪く、しつこく、些細なことをとらえ、それを拡大して本質的に悪い(ダメな)者ときめつけ、徒党をくんでいっそうの孤立を図る。 完全に無力化すれば、限度のないなぶり、いたぶりに至る。連合赤軍の物語で私を最もうんざりさせたのは、戦時中の新兵いじめ、疎開学童いじめと全く同じパターンだったことである。そういえば、シベリアの捕虜の間でも「暁に祈る」という、死に至らしめるいじめがあった。忠臣蔵という芝居が江戸時代を通じて上演記録の一、二を(佐倉宗五郎とともに)争い、今日もくり返しテレビに登場して高い視聴率を挙げているのは、いじめに対して反撃して挫折した者の感情がこめられているのではないか。幕府は冷酷だった。しかし(実際の被害者は通常もてないところの)家来たちがかたきをとってくれる。幻想の中の解放感である。


この第三の側面は、私には日本人のいちばんいやな面である。戦時中の日本兵の残虐行為も、このパターンであったろう。

こういうものは何によって生まれるのか。私には急に答えられないが、思い合わせるのは、実験神経症である。些細な差にたいする反応のいかんによって賞か罰かが決まるような状況におけば、無差別的な攻撃行為や自分を傷つける行為が起こる。新兵いじめでは些細な規律違反が問題になった。御殿女中では些細な行動が礼儀作法にかなっているかどうかが問題になった。連合赤軍では些細な服装や言葉づかいが、かくれた「ブルジョア性」のあらわれではないかと問題になった。いずれも、閉鎖社会であり、その掲げる目的を誰もほんとうには信じていない状況であった。


戦時中の教師はよく殴ったが、それで日本精神を注入して戦争に勝てるとはほんとうに思っていなかったにちがいない。人間は、自分が信じていないということを自覚しないで、信じているぞと自他に示そうとするとかなり危険な動物になる。


もちろん、信じていないことをしなければならないことはしばしば起こる。誰もが英雄ではないし、英雄には英雄の問題がある。最低、必要なのは、自分の影をみつめることのできるユーモア精神だと私は思う。


誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。

(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」初出1986年『記憶の肖像』所収)

※前後の文脈は▶︎参照


これ以外にも現在の学者は「内なるプロレタリアート」だろうからな、いろいろ鬱憤が溜まってるんだろうよ。

今あまり人気のない歴史家トインビーであるが、彼が指摘するとおり、文化の「リエゾン・オフィサー」(連絡将校)としてのインテリゲンチアへの社会的評価と報酬とは近代化の進行とともに次第に低下し、その欲求不満がついにはその文化への所属感を持たない「内なるプロレタリアート」にならしめると私は思う。  (中井久夫「学園紛争は何であったのか」1995年『家族の深淵』所収



………

なお私は桑原旅人氏の博士論文は読んでいないが、その前段の一部だろう、「「不安」と「対象 a」の関係性について: ジャック・ラカンの『不安』に関する注釈的研究 」(2023年)の冒頭には次のようにある。



この実に「正しい」批判には原和之氏はしっかり応えないといけないんじゃないかね、原和之は私の印象ではファルスや欲望を語ることは多いが、欲望の原因としてのリアルな対象a、つまり享楽の対象にはひどく弱いように見える。

対象a、欲望の原因としての対象aがある[l' objet(a), …comme la cause du désir.(Lacan, S10, 16 janvier  1963

「享楽の対象」は、「防衛の原因」かつ「欲望の原因」としてある。というのは、欲望自体は、享楽に対する防衛の様相があるから[l'objet jouissance comme cause de la défense et comme cause du désir, en tant que le désir lui-même est une modalité de la défense contre la jouissance.(J.-A. Miller, L'OBJET JOUISSANCE, 2016/3)



理論的な参照としては、▶︎S(Ⱥ):「大他者のなかの欠如のシニフィアン」から「大他者のなかの穴のシニフィアン」へ


なお「欲望と欲動(享楽)」の相違とは基本的に「言語と身体」の相違である[参照]。