私は折に触れて、ニーチェの《言語はレトリックである》を掲げてきたがね。
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言語はレトリックである。言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである。レトリックは時折言葉に寄り添うものではなく、言葉そのものの本質である。特定のケースにおいてのみ伝達されるという「本来の意味」など、そもそもあり得ない。 die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme übertragen. die tropen treten nicht dann und wann an die Wörter heran, sondern sind deren eigenste natur. von einer “eigentlichen Bedeutung”, die nur in speziellen Fällen übertragen würde, kann gar nicht die Rede sein. (ニーチェ講義録 Friedrich Nietzsche: <Darstellung der antiken Rhetorik> [SS 1874]) |
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次の文のほうがより具体的でわかりやすいかもしれない(この文は初期柄谷がーーたしか『マルクスその可能性の中心』か日本近代文学の起源かのどちらかでーー引用しており感心したことがある)。
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なおわれわれは、概念の形成[Bildung der Begriffe]について特別に考えてみることにしよう。すべて語[Wort]というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなる。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 [Urerlebnis]に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生する [Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen]。 |
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Denken wir besonders noch an die Bildung der Begriffe. Jedes Wort wird sofort dadurch Begriff, daß es eben nicht für das einmalige ganz und gar individualisierte Urerlebnis, dem es sein Entstehen verdankt, etwa als Erinnerung dienen soll, sondern zugleich für zahllose, mehr oder weniger ähnliche, daß heißt streng genommen niemals gleiche, also auf lauter ungleiche Fälle passen muß. Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen. |
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一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性[Verschiedenheiten ]を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念[Vorstellung] を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形[Urform ]というものが存在するかのような観念[Abbild ]を与えるのである。 |
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So gewiß nie ein Blatt einem andern ganz gleich ist, so gewiß ist der Begriff Blatt durch beliebiges Fallenlassen dieser individuellen Verschiedenheiten, durch ein Vergessen des Unterscheidenden gebildet und erweckt nun die Vorstellung, als ob es in der Natur außer den Blättern etwas gäbe, das "Blatt" wäre, etwa eine Urform, nach der alle Blätter gewebt, gezeichnet, abgezirkelt, gefärbt, gekräuselt, bemalt wären, aber von ungeschickten Händen, so daß kein Exemplar korrekt und zuverlässig als treues Abbild der Urform ausgefallen wäre. |
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(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽について」Friedrich Nietzsche, Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne, 1873年) |
《すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生する [Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen]》なんて、今か思えば当然とはいえ、若い頃この文に出会ったときは衝撃的だったね。
後に、次のプルースト文に出会って、「ああニーチェと同様なことを言っている!」と膝を打ったものだが。
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「知った人に会う」とわれわれが呼んでいる非常に単純な行為にしても、ある点まで知的行為なのだ。会っている人の肉体的な外観に、われわれは自分のその人についてもっているすべての概念を注ぎこむ。したがってわれわれが思いえがく全体の相貌のなかには、それらの概念がたしかに最大の部分を占めることになる。そうした概念が、結局相手の人の頬にそれとそっくりなふくらみをつくり、その鼻にぴったりとくっつけた鼻筋を通してしまい、その声に、それがいわば振動する二つの透明な膜にすぎないかのように、さまざまなひびきのニュアンスを出させることになるのであって、その結果、われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。 |
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Même l'acte si simple que nous appelons « voir une personne que nous connaissons » est en partie un acte intellectuel. Nous remplissons l'apparence physique de l'être que nous voyons de toutes les notions que nous avons sur lui, et dans l'aspect total que nous nous représentons, ces notions ont certainement la plus grande part. Elles finissent par gonfler si parfaitement les joues, par suivre en une adhérence si exacte la ligne du nez, elles se mêlent si bien de nuancer la sonorité de la voix comme si celle-ci n'était qu'une transparente enveloppe, que chaque fois que nous voyons ce visage et que nous entendons cette voix, ce sont ces notions que nous retrouvons, que nous écoutons. |
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(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳) |
冒頭に戻って《言語はレトリック[die Sprache ist Rhetorik]》とは、けっきょく、言語はレッテルだろうよ。しばしば「レッテル貼らないでくれ」と怒る人がいるがね。そう言っておきながら、大概は自分が気に入ったレッテルなら喜んでいる人がほとんどだからな。