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2026年4月4日土曜日

チェチェン部隊の参戦準備万端とロシア潜水艦のホルムズ海峡への噂話

 



いやあ、カディロフのチェチェン部隊は怖そうだな。スコット・リッターが彼らの戦闘能力を絶賛していたがね。


ところでロシアが潜水艦を6隻、ホルムズ海峡に送ったという話もある。




もっとも潜水艦の方はあくまで噂話のようだ。とはいえサモアリナンの噂だね。





カディロフの方はやる気満々だがね、



血が騒いでるんだろうよ



◼️残酷あるいは拷問の祭

残酷ということがどの程度まで古代人類の大きな祝祭の歓びとなっているか、否、むしろ薬味として殆んどすべての彼らの歓びに混入させられているか[bis zu welchem Grade die Grausamkeit die große Festfreude der älteren Menschheit ausmacht, ja als Ingredienz fast jeder ihrer Freuden zugemischt ist]、他方また、彼らの残酷に対する欲求がいかに天真爛漫に現れているか、「無関心な悪意」»uninteressierte Bosheit«(あるいは、スピノザの言葉で言えば、《悪意ある同情》die sympathia malevolens)すらもがいかに根本的に人間の正常な性質に属するものと見られーー、従って良心が心から然りと言う! ものと見られているか、そういったような事柄を一所懸命になって想像してみることは、飼い馴らされた家畜(換言すれば近代人、つまりわれわれ)のデリカシーに、というよりはむしろその偽善心に悖っているように私には思われる。より深く洞察すれば、恐らく今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られるであろう。〔・・・〕

死刑や拷問や、時によると《邪教徒焚刑》などを抜きにしては、最も大規模な王侯の婚儀や民族の祝祭は考えられず、また意地悪を仕かけたり酷い愚弄を浴びせかけたりすることがお構いなしにできる相手を抜きにしては、貴族の家事が考えられなかったのは、まだそう古い昔のことではない。Jedenfalls ist es noch nicht zu lange her, daß man sich fürstliche Hochzeiten und Volksfeste größten Stils ohne Hinrichtungen, Folterungen oder etwa ein Auto-dafé nicht zu denken wußte, insgleichen keinen vornehmen Haushalt ohne Wesen, an denen man unbedenklich seine Bosheit und grausame Neckerei auslas-sen konnte (ニーチェ『道徳の系譜』第二篇第三節、1887年)


◼️残酷は人類の最も古い祭りの一つ

最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦争状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? [Welcher Genuss ist für Menschen im Kriegszustande jener kleinen, stets gefährdeten Gemeinde, wo die strengste Sittlichkeit waltet, der höchste?] 戦争状態ゆえに、力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeitである。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古い祭りの一つであるDie Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit.〔・・・〕

「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、痛みは徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否定は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変化は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――諸君はお考えになるか、これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いないと? おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい!Oh, ihr Menschenkenner, lernt euch besser kennen! ](ニーチェ『曙光』18番、1881年)



ボクもなんだかウズウズしてきたな


自我に課せられるあらゆる断念や制限にあてはまることであるが、その禁制は周期的に打破されるのが常である。つまりそれは祭の制度に示されているとおりである。祭は、もともと法律で定められた放逸にほかならず、祭の快活な性格はこの解放に負っている。

Bei allen Verzichten und Einschränkungen, die dem Ich auferlegt werden, ist der periodische Durchbruch der Verbote Regel, wie ja die Institution der Feste zeigt, die ursprünglich nichts anderes sind als vom Gesetz gebotene Exzesse und dieser Befreiung auch ihren heiteren Charakter verdanken.

ローマ人のサトゥルヌス神の祭や現代のカーニバルは、その本質的な特徴という点では、原始人の祭と一致していて、平生は神聖視されている禁令を犯して、ありとあらゆる放縦に終わるのが常である。

Die Saturnalien der Römer und unser heutiger Karneval treffen in diesem wesentlichen Zug mit den Festen der Primitiven zusammen, die in Ausschweifungen jeder Art mit Übertretung der sonst heiligsten Gebote auszugehen pflegen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921)


人は通常、道徳的要求が最初にあり、欲動断念がその結果として生まれる考えがちである。しかしそれでは、道徳性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動断念が初めて道徳性を生み出し、これが良心という形で表現され、欲動断念をさらに求めるのである。

Man stellt es gewöhnlich so dar, als sei die sittliche Anforderung das Primäre und der Triebverzicht ihre Folge. Dabei bleibt die Herkunft der Sittlichkeit unerklärt. In Wirklichkeit scheint es umgekehrt zuzugehen; der erste Triebverzicht ist ein durch äußere Mächte erzwungener, und er schafft erst die Sittlichkeit, die sich im Gewissen ausdrückt und weiteren Triebverzicht fordert. 

(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


悪魔とは七日目ごとの神の息ぬきにすぎない……Der Teufel ist bloß der Müßiggang Gottes an jedem siebenten Tage..(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなによい本を書くのかーー善悪の彼岸の節」1888年)

悪魔とは抑圧された無意識の欲動的生の擬人化にほかならない[der Teufel ist doch gewiß nichts anderes als die Personifikation des verdrängten unbewußten Trieblebens ](フロイト『性格と肛門性愛』1908年)

人間の原始的、かつ野蛮で邪悪な衝動(欲動)は、どの個人においても消え去ったわけではなく、私たちの専門用語で言うなら、抑圧されているとはいえ依然として無意識の中に存在し、再び活性化する機会を待っています。

die primitiven, wilden und bösen Impulse der Menschheit bei keinem einzelnen verschwunden sind, sondern noch fortbestehen, wenngleich verdrängt, im Unbewußten, wie wir in unserer Kunstsprache sagen, und auf die Anlässe warten, um sich wieder zu betätigen.(フロイト書簡、Brief an Frederik van Eeden1915年)



欲動、つまり「力への渇き=力への意志」を飼い馴らすにはやっぱり魔女がいるかもな、


欲動、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[Triebe … "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿, 1882 - Frühjahr 1887

私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。

In den Griechen…IIch sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.

(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888

荒々しい、自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である[Das Glücksgefühl bei Befriedigung einer wilden, vom Ich ungebändigten Triebregung ist unvergleichlich intensiver als das bei Sättigung eines gezähmten Triebes. (フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)


欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs]とは、欲動の飼い馴らし[die »Bändigung«des Triebes]とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。


しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran]」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジー[Die Hexe Metapsychologie」である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)



魔女の厄介にならなかったら、豚の群れに入り込んじまうからな、そこのツイッター上のキミらみたいにさ

自然的本性を熊手で無理やり追いだしても、それはかならずや戻ってやってくるだろう。Naturam expellas furca, tamen usque recurret (ホラティウス Horatius, Epistles) 

世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚のむれのなかへ走りこんだという人間が少なくない。nicht Wenige, die ihren Teufel austreiben wollten, fuhren dabei selber in die Säue.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「純潔」)