このブログを検索

2026年6月10日水曜日

享楽は幼児期の外傷神経症だよ


 ボクはこの4、5年、ほとんど同じこと言ってんだけどな、書き方に刺激が足りないのかね。例えば「ラカンの享楽は幼児期の外傷神経症だよ」、こう言ったらいくらか刺激的かね。

……………

まず現代仏主流ラカン派(フロイト大義派=ミレール派)の享楽の定義文を二文だけ掲げよう。


享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. …la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, …elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)


このジャック=アラン・ミレールは次のフロイトの言い換えだ。


われわれの研究が示すのは、神経症の現象 (症状)は、或る出来事と刻印の結果だという事である。したがってそれを病因的トラウマと見なす。〔・・・〕この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる

Es hat sich für unsere Forschung herausgestellt, daß das, was wir die Phänomene (Symptome) einer Neurose heißen, die Folgen von gewissen Erlebnissen und Eindrücken sind, die wir eben darum als ätiologische Traumen anerkennen.(…) ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an

〔・・・〕

トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚の出来事である。〔・・・〕このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる。これは、標準的自我と呼ばれるもののなかに取り込まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる。

Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen(…) Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen

(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie1939年)


《トラウマへの固着と反復強迫[Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang]》とあるが、固着とは《欲動の固着[Fixierungen der Triebe]》である。


固着は次のように説明できる。ある欲動または欲動的要素が、予想された正常な発達経路をたどることができず、その発達が制止された結果、より幼児期の段階に置き残される。問題のリビドーの流れは、その後の心的構造との関係で、無意識体系に属するもの、抑圧されたもののように振舞う。この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Die Tatsache der Fixierung kann dahin ausgesprochen werden, daß ein Trieb oder Triebanteil die als normal vorhergesehene Entwicklung nicht mitmacht und infolge dieser Entwicklungshemmung in einem infantileren Stadium verbleibt. Die betreffende libidinöse Strömung verhält sich zu den späteren psychischen Bildungen wie eine dem System des Unbewußten angehörige, wie eine verdrängte. Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege, , die Determinierung vor allem für den Ausgang…](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』「症例シュレーバーSCHREBER 」第3章、1911年)

幼児期に固着された欲動[der Kindheit fixierten Trieben]( フロイト『性理論三篇』1905年)


だから、より厳密に言えば、「幼児期のトラウマへの欲動の固着と反復強迫」だ。これが先のミレールの言っていることだ、ーー《フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance]》 (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)


つまり欲動、すなわち享楽は幼児期の外傷神経症だよ。ーー《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.]》(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


外傷神経症は、トラウマ的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。[Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt.](フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte1917年)

トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]〔・・・〕ここで外傷神経症は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを[Die traumatische Neurose zeigt uns da einen extremen Fall, aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen](フロイト『続精神分析入門』第29, 1933 年)





ラカン自身から簡潔に引用するなら次の三文だ。

享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel(Lacan, S23, 10 Février 1976

現実界は、同化不能な形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964

固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1  07 Juillet 1954


つまり現実界の享楽=トラウマ=同化不能=固着。


で、同化不能とはフロイトの異者としての身体の定義である。

同化不能な異者としての身体[unassimilierte Fremdkörper ](フロイト『精神分析運動の歴史』1914年)


この異者の身体が、トラウマ=固着=エスの欲動だ。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 Fremdkörper のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)

トラウマの記憶を伴った潜在意識と結びついた概念の固着[la fixation de cette conception dans une association subconsciente avec le souvenir du trauma

(Freud S. Etude comparative des paralysies motrices organiques et hystériques. 仏語論文、1893年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 Fremdkörperの症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


で、この欲動蠢動は固着による無意識のエスの反復強迫だ。


欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。そして抑圧において固着の契機は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである[Triebregung  … vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –… Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)



これですべてがピッタンコだろ? 日本のラカン研究者はトロくてまだ明瞭化してないのかもしれないが、少なくともあと5年もしたらいくらなんでももう明示するようになるよ。誰かの著作で確認したいなら、それまで首をナガークして待ってたらいいじゃないか。


……………


※追記


そうそう、これまた何度も繰り返し引用してるが、日本語文献での「享楽の固着」の記述なら、古井由吉の次の文がきわめて優れてるよ。


頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。


小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)



《幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く》、これこそ「幼少年期の傷への固着の反復」の話だからな。


疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966

享楽は絶対的なものであり、それは現実界であり、私が定義したように、「常に同じ場処に回帰するもの」である[La jouissance   est ici un absolu, c'est le réel, et tel que je l'ai défini comme « ce qui revient toujours à la même place »](Lacan, S16, 05  Mars  1969)

反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970


ーー《享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)


すなわち、人は常に幼少の砌の髑髏に回帰する。

幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ[die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)

出来事がトラウマ的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである[das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt](フロイト『モーセと一神教』3.1.3 1939


ーー《結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz]》(フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)



古井由吉の「トラウマ的不安状況」は表に現れているものではまずはこれだろうよ、

女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

大震災の後、絆という言葉がしきりに口にされた。それにつけても私が首をかしげさせられたのは、その言葉を口にする人に、絆の苦さを思う心があまり感じられないということだった。絆とは古来、生涯にわたって苦しいものだった。とりわけ親子の絆は。亡き親の姿は苦の中からこそ浮かび出る。

酒に酔って庭の隅の木に登り、そら撃墜だ、また一機堕ちた、と叫んでいる父親を思い出す。それを母親と、女学生の姉と、小学生の私とが、庭の瓦礫の中に坐りこんで、眉をひそめて眺めていた。(古井由吉「PHP」2016 年 4 月号)


年齢的には七、八歳だから、フロイト曰くの五歳までのトラウマへの固着と反復強迫とはやや擦れがあるがね。


そのさらに底にあるものはまだ見出せないな、と言っておくよ。


最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収


井戸の底の原トラウマは、通常はこれだろうがね、

老婆に膝枕をして寝ていた。膝のまるみに覚えがあった。姿は見えなかった。ここと交わって、ここから産まれたか、と軒のあたりから声が降りた。(古井由吉「白い軒」『辻』2006年)


つまりサミュエル・ベケットがイカれたオットー・ランクの「女性器への固着」だねーー、

出生の器官としての女性器の機能への不快な固着は、究極的には成人の性的生のすべての神経症的障害の底に横たわっている[Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales als Gebärorgan, liegt letzten Endes noch allen neurotischen Störungen des erwachsenen Sexuallebens zugrunde,](オットー・ランク『出産外傷』Otto Rank "Das Trauma der Geburt" 1924年)


ーー《出産外傷、つまり出生という行為は、一般に母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧を受けて存続する可能性をともなう「原トラウマ[Urtrauma]」と見なせる。

Das Trauma der Geburt .… daß der Geburtsakt,… indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung«an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung«fortbesteht. …dieses Urtraumas 》(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)



古井由吉にとって究極の「幼少の砌の髑髏」は子宮のことじゃないか、と最近探ってるんだが、当面はこれぐらいしか行き当たらないな、

わたしという存在は一身の過去の記憶の、よくも思い出せないものもふくめて、漠とした積み重ねの上に立つと取るのがまず穏当である。おのれの出生の時までは及ばないが、後に聞かされた出生の事情でも、我が身に照らしてつくづく思いあたる節があればこれも記憶、思い出せぬことながら、思い出せることよりも重い記憶になる。

しかし母胎の内にあった時、さらに受胎の時までさかのぼれば、はるか地の底の、忘却の湖に漂っているにひとしい。この忘却の内にすでに生涯の定めが萌しているとしたら、人の記憶ははかない、徒労のようなものになる。(古井由吉「たなごころ」『この道』2019年)



いまあくまでテキトーに書いてるからな、過去に考えて忘れかけていたものがふとした弾みで芋蔓式にズルズル出てくることがあるんだよ。


子供はもともと母、母の身体に生きていた[l'enfant originellement habite la mère …avec le corps de la mère 。〔・・・〕子供は、母の身体に関して、異物=異者としての身体、寄生体、子宮のなかの、羊膜によって覆われた身体である[il est,  par rapport au corps de la mère, corps étranger, parasite, corps incrusté par les racines villeuses   de son chorion dans …l'utérus(Lacan, S10, 23 Janvier 1963)





わたしの子宮と臍帯でつながってるものはあくまでも異物であって胎児でなはないという認識を持ち続けている。〔・・・〕 その異物がおナカのなかで動くようになった。〔・・・〕 その動きを感じる度にわたしはオナラをしたい。わたしはウンコをしたいのかもしれない。(伊藤比呂美「蠕動」)



つまり追記以降の記述はオナラを出してるだけだからな。