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2026年5月23日土曜日

ホルムズ海峡の書面には載らない「通行料」ーー環境保護費か、警備コスト

 


以下、この直近のグレン・ディーセン(Glenn Diesen)によるモハンマド・マランディ(Mohammad Marandi)インタビューのAlzhacker氏による要約。以前、ホルムズ海峡の通行料ではなく環境保護費という話を誰かが言っていたが、マランディもそう言っているようだ。


Alzhacker | 並行図書館@Alzhacker 2026/05/23

イランが週末の領空を封鎖した。米国は攻撃準備を進めている。交渉は決裂し、戦争の時計が再び動き出したかのように見える。しかし本当に問うべきは「次の攻撃はいつか」ではなく、なぜイランがこれほどまでに強気なのか、という根本的な逆説だ。


イランの元核交渉顧問マランディ教授は、現状をこう分析する。「イランは戦争に勝っている」。軍事力の話ではない。交渉のテーブルに座る両者の「時間」と「切迫感」が決定的に異なるのだ。米国は世界経済の崩壊を前に秒単位で急ぐが、イランにはその焦りが一切ない。


制裁による経済的打撃は確かにある。しかし、米国が想定した「即時降伏」はどこへやら、イランの軍事能力は開戦時よりも明らかに強化されている。地下に守られたミサイル群は健在であり、戦争中に消費した戦力は国内の産業力によって急速に補充されている。米国の情報機関でさえ、その再生速度を過小評価していたと認める有様だ。


問題は、米国が最初から決定的な誤算を重ねてきたという点にある。最大の誤算は、イランという国の本質をまったく理解していなかったことだ。指導部の「斬首作戦」や「政権崩壊」といった発想は、現地では冗談にすらならない。


そして戦術的な誤算としては、海上封鎖を初日から実行しなかったことが挙げられる。米国は原油市場の混乱を避け、短期決戦を夢見た。その結果、イランは貴重な時間を稼ぎ、ホルムズ海峡という比類なきカードを握り続けることに成功した。


重要なのはここからだ。イランはホルムズ海峡を「閉鎖」したわけではない。あくまで「敵対国に対して閉じた」にすぎない。友好国の船は今も通っている。つまり、この海峡の支配を交渉の駒に出すことで、イランは自国の安全保障と経済的利益を天秤にかけられる立場にある。


仮に通行を全面的に再開するとしても、それは無償ではない。書面には載らない「通行料」が現実として発生するだろう。環境保護費か、警備コストか——どんな名目であれ、イランは最終的に利益を得る仕組みを手放すつもりはない。


見落とされているのは、この膠着状態がもはや単なる「米イランの対立」ではないという点だ。湾岸諸国は当初、米国の短期決戦を支持した。だが今や彼らは恐怖している。自国のエネルギー施設が次の標的になりうる現実を目の当たりにし、誰一人として本当の意味で米国を支えきれない。


イスラエル内部でも、ヘブライ語メディアが伝える政治的な亀裂は決して小さくない。トルコのエルドアン大統領でさえ、NATOという枠組みを超えて実質的な行動を取るとは思えない。結局、このゲームのプレイヤーはイランと米国、そしてイスラエルの3者だけなのである。


では、これから何が起きるのか。マランディ教授の見立ては実にシンプルだ。「次の攻撃は今夜か明日か、あるいは週末のうちに」——彼はそう繰り返す。米国は週末に戦争を始める傾向があり、市場への衝撃を最小化しようとする。


そしてトランプ大統領には「勝利」を持ち帰る選択肢がほとんど残されていない。戦争にも負けられない。和平にもサインできない。停戦を維持する時間すら、実は米国にはない。


こうして見えてくるのは、イランの強気は単なる誇張ではなく、現実的な優位の裏返しだということだ。米国がいくら「交渉は前進している」と発表しても、その言葉を額面通りに受け取る者はもはや誰もいない。「楽観的な声明」はむしろ攻撃の前触れである——それが現地の共通認識である。


すでにイランは高い警戒レベルを3週間以上も続けている。土曜日から始まったこの長い週末が、次の爆発の引き金になるのか、それとも予期せぬ外交の隙間になるのか。どちらにせよ一つだけ確かなのは、米国が描いた「平和へのロードマップ」はとっくに灰烬に帰し、現実の盤面ではイランが完全に主導権を握っているという事実である。


Seyed Mohammad Marandi(テヘラン大学教授、元イラン核交渉チーム顧問)

対談 『サイエド・M・マランディ:交渉決裂でイランが領空封鎖、米国は攻撃準備へ』


《すでにイランは高い警戒レベルを3週間以上も続けている》とあるが、ポカが出ないことを祈るよ。


◼️中井久夫「危機と事故の管理」1993

事故が続けて起こるのはどういうことかについては、飛行機の場合はずいぶん研究されてるようで、私はその全部を知ってるわけではありませんが、まずこういうことがあるそうです。


一つの事故が起こると、その組織全体が異常な緊張状態に置かれます。異常な緊張状態に置かれるとその成員が絶対にミスをしまいと、覚醒度を上げていくわけです。覚醒度が通常以上に上がると、よく注意している状態を通り過ぎてしまって、あることには非常に注意を向けているけれど、隣にはポカッと大きな穴が開くというふうになりがちです。


注意には大きく分けて二つの種類があって、集中型(concentrated)の注意と、全方向型(scanning)の注意があるわけですけれども、注意を高めろと周りから圧力がかかりますと、あるいは本人の内部でもそうしようと思いますと、集中型の注意でもって360度すべてを走査しようとしますが、そういうことは不可能でありますし、集中型の注意というのは、焦点が当たっているところ以外には手抜きのあるものですから、注意のむらが起こるということです。

注意の性質からこういうことがいえます。最初の事故の後、一般的な不安というものを背景にして覚醒度が上がります。また不安はものの考え方を硬直的にします。ですから各人が自分の守備範囲だけは守ろうとして、柔軟な、お互いに重なりあうような注意をしなくなります。各人が孤立してゆくわけです。


また、最初の事故の原因とされるものが、事故の直後にできあがります。一種の「世論」としてです。人間というのは原因がはっきりしないものについては非常に不安になります。だから明確な原因がいわば神話のように作られる。例えば今ここで、大きな爆発音がしますと、みんなたぶん総立ちになってどこだということと、何が起こったんだということを必死に言い合うと思います。そして誰か外から落ち着いた声で、「いや、今、ひとつドラム缶が爆発したんだけれど、誰も死にませんでした」というと、この場の緊張はすっとほぐれて私はまた話を続けていくと思います。たとえその原因なるものが見当違いであっても暫くは通用するんですね。そして、原因だとされたものだけに注意が集中して、他のものへは注意が行かなくなります。


以上のように、それぞれ絡み合って全体として次の事故を起こりにくくするような働きが全然なくなる結果、次の事故に対して無防備になるのでしょう。

〔・・・〕

demoralization――士気の萎縮――というのは経験した人間でないとわからないような急変です。これを何に例えたらいいでしょうか? そうですね、こどもが石合戦をしているとします。負けてるほうも及ばずながらしきりに石を放っているんですが、ある程度以上負けますと急に頭を抱えて座り込んで相手のなすがままに身を委ねてしまう。これが士気の崩壊だろうとおもいます。つまり気持ちが萎縮して次に何が起こるかわからないという不吉な予感のもとで、身動きできなくなってくるということですね。(中井久夫「危機と事故の管理」1993年『精神科医がものを書くとき』所収)