中井久夫の『治療文化論』内の別の文を読み返す中で、半ば忘れかけていた次の文に出会ったのだが、いやあ、これは面白いな、この今の政治分析のために実に有用だよ。
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すでにサリヴァンは、一九三九年にナチスのごとき「病理集団」の発病抑止力について語っている。非病者の中には、病気にならなくてよい人もあるが、病気になる能力に欠ける人もあり、病気になれないために苦渋な生活を送り、ついに解決としての、集団のルール違反あるいは犯罪を選ぶ人がある。「割りの合わない犯罪」「立派な社会人のバカげた小犯罪」は、人知れぬ苦渋な生活の行き着く果てでありうる。逮捕された人間は時に晴れ晴れとした表情をしているではないか。いいかえれば、「病気にならなくても困らないひと」「すなおに病気になってすなおに困るひと」「すなおに病気になるがふしぎな困り方をして、それが新しい困りごとの発生源になるひと」「すなおに病気になれず、かわりに周囲のひとを困らして一見本人は晴れ晴れしているが、心の底では "何がうまくいっていない" と感じつつ生きているひと」がいる。いちばん最後のひとが時に社会的に指導的地位に就くことがあって、そういう時には「ナンバー・トゥー」が過労死を遂げやすいからおそろしい。(中井久夫『治療文化論』pp87-99、岩波同時代ライブラリー、1990年) |
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病理集団に入れば、個人の発病は抑止されるとはしばしば言われてきたが、後半の《すなおに病気になれず、かわりに周囲のひとを困らして一見本人は晴れ晴れしているが、心の底では "何がうまくいっていない" と感じつつ生きているひと」がいる。いちばん最後のひとが時に社会的に指導的地位に就くことがあって、そういう時には「ナンバー・トゥー」が過労死を遂げやすいからおそろしい》だな、特に面白いのは。こういう人が国民の指導的地位に就けば、「ナンバー・トゥー」が過労死を遂げやすいどころか、国民集団が奈落の底に落ちやすいから《おそろしい》よ。
何度か次の中井久夫と丸山眞男をセットで掲げてきたがね。
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国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」初出2005年『樹をみつめて』所収) |
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ある旧高官から非常に面白い比喩をきかされたことがあります。それは今度の戦争というのは‥お祭りの御輿の事故みたいなものだということです。始めはあるグループの人が御輿をワッショイワッショイといって担いで行ったが、ある所まで行くと疲れて御輿をおろしてしまった。ところが途中で放り出してもおけないので、また新たに御輿を担ぐものが出て来た。ところがこれ又、次のところまで来て疲れて下ろした。こういう風に次から次と担ぎ手が変り、とうとう最後に谷底に落ちてしまった、というのです。…結局始めから終りまで一貫して俺がやったという者がどこにも出て来ないことになる。つまり日本のファシズムにはナチのようにそれを担う明確な政治的主体-ファシズム政党-というものがなかった。しかもやったことは国内的にも国際的にもまさにファッショであった。主体が曖昧で行動だけが残っているという奇妙な事態、これが支配層の責任意識の欠如として現われている。(丸山眞男「戦争責任について」1956.11) |
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そういえば、柄谷はこう言っていたがね、 |
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思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統御するような権力が成立したことがなかった。それは、明治以後のドイツ化においても実は成立しなかった。戦争期のファシズムにおいてさえ、実際は、ドイツのヒットラーはいうまでもなく、今日のフランスでもミッテラン大統領がもつほどの集権的な権力が成立しなかったし、実はその必要もなかったのである。それは、ここでは、国家と社会の区別が厳密に存在しないということである。逆にいえば、社会に対するものとしての国家も、国家に対するものとしての社会も存在しない。ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 年『ヒューモアとしての唯物論』所収) |
ーームッソリーニ曰く、《ファシズムはコーポラティズムと呼ぶのがより適切である。なぜならファシズムは国家と協調組織権力(≒寄り添った絆権力)の融合だから。El fascismo debería ser más apropiadamente llamado corporativismo, ya que es una fusión del Estado y del poder corporativo》 (ムッソリーニ Benito Mussolini)
この柄谷の言ってるヒトラーが羨んだ日本のコーポラティズムは、加藤周一用語なら「なしくずし」ファシズムだろうよ、▶︎「なしくずし」から「手おくれ」への道
というわけで、高市鬱という個人の発病はまぬがれたらしき「大政翼賛会」勢に言っとくよ、オメデト!と。
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◼️ブライアン・ヴィクトリア「21世紀の日本とナチス」 Japan and the Nazis in the 21st Century by Brian Victoria 17/02/2026 |
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〔・・・〕日本は軍事同盟国である米国がイスラエルのガザ爆撃に与えた多大な支援を非難する公式声明を一度も発表していない。一方、日本の2025年版外交青書(公式外交政策概観)には、2023年10月7日のハマスによるイスラエル攻撃について、日本政府は繰り返し非難してきたと記されている。しかし、イスラエルに関しては、日本は同国の行動が国際人道法を遵守するよう強く求めるにとどまっている。 米国が世界中でどれほど多くの戦争を戦おうとも、現在、高市早苗の指導下にある日本政府が米国の軍事行動を批判することはおろか、非難することすらないという証拠は圧倒的である。日本がナチス・ドイツと軍事協定を結んだ場合と同様に、その結果どれほど多くの罪なき人々が死のうとも、米国には過ちなどないのだ。 こうした状況を踏まえ、高市が「日米関係、特に軍事関係を新たな高みへ」と主張するならば、「新たな深みへ」と言う方が正直ではないだろうか。 |
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Japan has never issued a formal statement condemning the massive support its military ally the US has given Israel in its bombing campaign on Gaza. On the other hand, Japan’s 2025 Diplomatic Bluebook (official foreign policy overview) states that Tokyo has repeatedly condemned Hamas for attacking Israel on October 7, 2023. However, with regard to Israel, Japan has done no more than urge the country to ensure its actions comply with international humanitarian law. The evidence is overwhelming that no matter how many wars the US fights throughout the world, the Japanese government, now under Takaichi’s leadership, will never criticize, let alone condemn, US military actions. Just as in the case of Japan’s military pact with Nazi Germany, the US can do no wrong, no matter how many innocents die as a result. Given this, when Takaichi claims she wishes to take Japan’s relationship with the US, especially its military ties, to new heights, would it not be more honest to say, “to new depths”? |
………………
※附記
実は『治療文化論」の次の文の前後を読もうとしていたのだが、冒頭文は偶々行き当たったのである。
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深さの問題としてとらえれば「マスクされた精神病」masked psychosis のある一方、神経症が精神病(あるいは身体病)をマスクすることも多い(“masking neurosis”)。ヤップは、文化的変異を基礎的な病いの被覆(うわおおい overlay)と考えていた。 私は精神病に、非常に古い時代に有用であったものの空転と失調の行きつく涯をみた(『分裂病と人類』1982年)。分裂病と、うつ病の病前性格の一つである執着性気質の二つについてであったが、要するに、人類に骨がらみの、歴史の古い病いということだ。これは「文化依存症候群」のほうが古型であるという通念に逆らい、いずれにせよ証明はできないが、より整合的な臆説でありうると思う。むろん文化依存症候群の総体が新しいのではなく、表現型の可変性が高いという意味である。〔・・・〕 逆に、軽症な人のほうへと目を移してゆけば、文化的ステロタイプの中から次第に個人性が卓越してくるのではないか。すなわち文化依存症候群から、普遍症候群の反対側に個人症候群にむかい、次第にその色を濃くするスペクトラム帯があるということである。力動精神医学が長く神経症に自己限定し、フロイトが精神病治療に対してほとんど忌避に近い態度をとったものおそらくそのためだろう。(中井久夫『治療文化論』1990年) |
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これはジャック=アラン・ミレールのふつうの精神病[la psychose ordinaire]概念をめぐる次の発言とともに読むことができる。ーー《もしあなたが患者に神経症の明確な構造を認知しないなら、あなたは賭けることができる、あるいは賭けを試みなければならない、それは隠された精神病、ヴェールされた精神病だと[ Si vous ne reconnaissez pas la structure très précise de la névrose du patient, vous pouvez parier ou vous devez essayer de parier que c’est une psychose dissimulée, une psychose voilée.]》 |
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精神病は果てしない大陸である。彼自身と他者のために世界を作る申し分のないパラノイア、卓越した逞しいパラノイア症者と、自分の部屋から外に出られない分裂病者のあいだの相違を見なさい。われわれはこのすべてを精神病と呼ぶ。あなた方がパラノイア症者を持っているなら、父の名の見せかけはあなたのものよりもより申し分がない、あなた方よりも強い。La psychose est un vaste continent, un continent immense. Regardez la différence entre un bon paranoïaque, fin et musclé, qui se construit vraiment un monde à lui et pour d'autres, et le schizophrène qui ne peut pas sortir de sa chambre. Nous nommons tout cela psychose. Lorsqu'il s'agit d'une paranoïa, le semblant du Nom-du-Père est meilleur que le vôtre, il est plus solide.〔・・・〕 |
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しかしある種の、繊細なパラノイアがある。最初ははっきりしていない。3年間の分析の後はじめて、通常から逸脱した何ものかを感知する。この主体は日々パラノイアを構成していると。そしてまたあなた方は、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば力強いパラノイアによって管理されている。彼らは社会的超同一化をしている。かくの如く、精神病は果てしない大陸である。Il y a aussi les schizophrènes socialement déconnectés, alors que les paranoïaques sont socialement, totalement connectés. Certaines grandes organisations sont fréquemment dirigées par de puissants psychotiques dont l'identification est super sociale. Le champ des psychoses est donc immense. (ジャック=アラン・ミレールJ.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009) |
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なお精神病とはフロイト観点でも誰にでもなり得る病いである。 |
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正常人といってもいずれもみな一定の範囲以内で正常であるにすぎず、彼の自我は、どこかある一部分においては、多少の程度の差はあっても精神病者の自我に接近している[Jeder Normale ist eben nur durchschnittlich normal, sein Ich nähert sich dem des Psychotikers in dem oder jenem Stück](フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第5章、1937年) |
