2019年3月18日月曜日

愛の起源の壺


(Four-Breasted Ceramic Jar, 500 to 1000 CE, Calapan, Mindoro, Arturo de Santos collection.)


ーーいやあいいなあ、これこそ愛の起源だろうな

ほかにも似たようなのはたくさんあるけど、このフィリピン、ミンドラ島の壺が一番いい。





子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


ま、言ってしまえば、「愛という症状」の起源はお腹が減った、だよ、 ほとんどこれしかないね。

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

もっともラカンは原初に喪われた対象は乳房じゃないと言っているけど。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


こっちのほうは事実上、出産外傷による母からの分離、その空洞のまわりの循環運動だな。

例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


先史時代の芸術は、動物や渦巻模様やら女陰模様やら以外は、母なる女神像ばっかりだからな。




ホーレ・フェルスのヴィーナス Venus of Hohle Fels
ガルケンベルクのヴィーナス Venus of Galgenberg
ドルニ・ベストーニスのヴィーナス Venus of Dolni Vestonice

レスピューグのヴィーナス Venus of Lespugue
ヴィレンドルフのヴィーナスVenus of Willendorf
モラヴァニイのヴィーナス Venus of Moravany

ブラッサンプイのヴィーナス Venus of Brassempouy
VENUS OF YULIYEVICHは不明、
たぶん誤記で、Venus of Eliseevichi (読み方不明)
Venus of Monruzも読み方不明


こういった母なる女神ばっかりというのは、個人の先史時代、つまり幼年時時代だって同じさ。


二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」(中井久夫「発達的記憶論」初出2001年『徴候・記憶・外傷』所収)
幼児型記憶と成人型記憶との間には、幼児型言語と成人型言語との差と並行した深い溝がある。それは、幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)との差に比することができる。エディプス期はサナギの時期に比することができる。

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

最もすぐれた個人的先史時代を探る方法は、歴史における先史時代の芸術鑑賞以外にないね。

実際のところ、個人の先史時代ってのは、個人に影響を与えている度合においては、歴史の先史時代の長さと同じくらいの重さがある筈だよ。



三歳以後の歴史時代三千年は、先史時代の三百万年に過ぎないというのは極端かもしれないけど。でも新石器時代一万年に対する三千年程度としたら、三歳以後の個人史は比重が多すぎるな。

そもそも出生後すぐには、人は「農業」なんてやってないからな。







たとえばこんなのがあるけどさ。


Reproductive calandric, ca 12,500 BC



これはパックリ母を表現したものにチガイナイ・・・

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)


やっぱりむかしむかしのアートを眺めて、わずかでも思い出さないとな。あの母なる女の支配を。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1939)


   (Diosa de Laussel , Francia aprox. 23.000 a.c)


太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)


(Vénus de Lespugue —BC26000-24000)



「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)