2019年3月5日火曜日

ヒトラーにおけるトラウマ神経症

■ヒトラーと外傷神経症

ヒトラーはトラウマ神経症だったのではないかという想定がある。

ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。(中井久夫 「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

ーー戦争神経症とあるが、外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen(戦争による「トラウマ神経症 traumatischen Neurosen」)のことである。中井久夫は阪神大震災被災以降、PTSDでは概念的に狭すぎるとして、このフロイト用語を頻用している。

ヒトラーがPTSD (心的外傷後ストレス障害)だったのではないかとは、英語版のWIKIにもその記述がある(Psychopathography of Adolf Hitler)。

ヒトラーは1918年(29歳)、第一次世界対戦でのロシア前線に従軍しているときに毒ガス攻撃に遭遇し、ポメラニア(現ポーランド北西部からドイツ北東部にかけて広がる地域)のパーゼヴァルク Pasewalk 病院に入院している。

ヒトラーの『我が闘争 Mein Kampf』の記述はすべてが事実ではないとされるが、彼は1918年10月13日夕方以降の出来事についてこう記している。《ガス爆弾が夜中、雨のように降りかかり、夜半、我々の多くは失神した。多くの仲間はそのまま永遠に。私もまた、朝に向けて苦痛に囚われ、時を経る毎により酷い痛みに襲われた。そして朝の7時、私は灼けつくような目の痛みによろめき揺らいだ。数時間後には私の両目は、灼熱した炭になり、周りは暗闇に変じた。》

ヒトラーは不眠症で多量の睡眠薬・コカイン等を摂取したことでも知られている。特に第二次大戦中は、秘書たちと夜を徹して談話に耽り、朝6時頃に寝入り、午後1時から2時に起きるなどという事態になったらしい。そして部下とともの遅い昼食の前にも、強迫的なモノローグを延々と続けたなどという話もある。

もっともこういった探求は「理解することは許すこと」になりがちな相がある。さらにホロコーストの当事者やその親族に対して二次外傷を引起こしがちである。おそらく中井久夫はヒトラーについてかなり調べている筈だが、わずかな言葉しか残していないのはそのせいだろう。



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■外傷神経症と反復強迫

以下、前回記したことと重なる部分が多いがここに記す。

フロイトの死の欲動概念は、第一次世界大戦参戦兵士たちの「外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen」の続出に主要な淵源がある。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能(死の欲動)」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

この外傷神経症者における反復強迫=死の欲動は、幼児期における身体的出来事においても同様に起る。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。…時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

フロイトは、幼児期の身体的出来事を「病因性トラウマ」と呼び、その「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫」を人間の原症状(我々の存在の核 Kern unseres Wesen)とした。フロイトにおける「トラウマ」とは、心的装置に同化されず身体的なものとしてエスの核に「異物」のように居残り、強迫的な反復を引起こすことを言う。

トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(異物)(ラカン、S23、11 Mai 1976)

フロイトはこの反復強迫を別に(身体の)「自動反復 Automatismus」とも呼んだ。

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

この反復強迫は幼児期トラウマだけではなく、戦争やレイプ被害等の「事故的トラウマ」への固着においても同様に起こる。

外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。…それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1916年)

ラカンは、フロイトの「固着」を「身体の出来事」(身体の上への刻印)と呼び、サントーム(原症状)とも呼んだ。現代ラカン派が《症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme》と言うのは、なによりもまず「人はみなリビドー固着がある」という意味である。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。…これは身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(jacques-alain miller, L'être et l'un、2011)

冒頭の中井久夫の文にある「薬物中毒者だったヒトラー」とは、ジャック=アラン・ミレールの言い方を使えば「中毒の享楽を抱えたヒトラー」ということになる。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)

ーーここまで記してきたことから分かるように「享楽は、固着を通してやって来る」とは、享楽は「身体の出来事(身体の上への刻印)」を通してやって来るという意味である。

ここでフロイト・ラカンにおける語彙群をいくらか抽出して示しておこう。以下の用語群はほぼ同じ意味合いをもっている。

フロイト・ラカン「固着」語彙群




■自己破壊と他者破壊

戦争体験、レイプ被害等のような強烈なトラウマへの固着がある者は、他者破壊に向かわなければ、自己破壊に向かう傾向がある。

ーーフロイトにおいては、他者破壊ではなく自己破壊欲動が「死の欲動」の真の淵源である(参照)。




中井久夫の表現を援用すれば、他者破壊とは自己破壊の昇華であり、つまりサディズムはマゾヒズムの昇華とすることができるだろう。

外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

もっとも通常レベルの理解では他者破壊が先立っているというのではなく、《私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない》(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)でよい。肝腎なのは、人はみな自らのなかにある破壊性を認めること、「あなたのなかの小さなヒトラー」を認めることである。

強烈なトラウマへの固着者は、自己破壊に対する他者への投射的な昇華がなければ、自己破壊の渦巻く奈落の底に引き込まれてゆく可能性がある。

想いだしてみよう、奇妙な事実を。プリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちによって何度も引き起こされる事実をだ。生き残ったことへの彼らの内奥の反応が、いかに深刻な分裂によって刻印されているか。

意識的には彼らは十全に気づいている、自らの生存は意味のない偶然の結果であることを。彼らが生き残ったことについて何の罪もない。責めを負うべき加害者はたただナチの拷問者たちのみであると。

だが同時に、彼らは「非合理的な」罪の意識にとり憑かれている。まるで彼らは他者たちの犠牲によって生き残ったかのように、そしていくらかは他者たちの死に責任があるかのようにして。

よく知られているように、この耐えがたい罪の意識が生存者の多くを自殺に追いやるのだ。これが示しているのは、最も純粋な超自我の審級である。この猥雑な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ーー「最も純粋な超自我の審級」とジジェクが言っているのは、実質上、リビドー固着である(参照)。


■レイプ被害における反復強迫

フロイトは初期幼児期に性的誘惑にあった少女は、後の生でその状況を反復するとしている。

トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…たとえば、初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

だが、これは初期幼児期に限らないはずである。

性的虐待の過去の犠牲者が、今日の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe 、2010)


以下、中井久夫による比較的詳しいレイプ被害者の症状についての叙述である。

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。

特に、男性治療者に対する誘惑的な態度は、不幸にもレイプによって女性としての歴史を始めた場合に多い印象がある。それは必ずしも治療者ではなく異性一般に向かい、時に結ばれるところまで行くが、結婚の場合、男性側の「同情結婚」となっていることも多く、しかも結婚当初から波瀾が多く、不仲を継続している。その中には結婚に伴う行為が配偶者にはわからないままでセカンド・レイプになっている場合もあるにちがいない。配偶者がこれに気づくことは一般に期待できず、事態は螺旋状に悪循環となって、精神科医に相談されるならまだしも、そのまま離婚となっている場合も少なくないのではないか。「夫の理不尽性」が主訴であって、しかも具体的内容に乏しい時には、特にその可能性が高い。

それが思春期の事件であった場合だけでなく、幼児の性虐待の再演である場合もある。成人期における男女交際において、同情的な男性も親密になれば性的接近にうかうかと陥る。これが女性には過去の再演となる。これは、児童期の性虐待自体がまず同情を示して児童に接近する場合が少なくないからであろう。一見「堅い」人物が性的劣等感を持ち、あるいは社会的に禁欲を強いられ(寡夫や障碍者)ているうちに、たまたま攻撃者となり、攻撃が児童に向かって時に噴出することがありうる。男性教師が、不幸な家庭の、才能があって美しい女性徒に同情し可愛がることが、性的凌辱に終わることもあり、結婚に至ることもあるが、幸福な結婚となる場合もそうでない場合もある。婚外関係において、打ち明け手と選んだ「立派な」人が性的接近者となってしまう場合もある。彼女は「結局はこの人も男性にすぎないのだ」と結論し、隠微な方法でこれは世間に暴露する。男性一般への一つの復仇である。こういう場合に「境界型人格障害」という診断を下すのはまだしも、インテンシヴな治療を試みて難症化が起こることは大いにありうるのではないか。

犠牲者は聖者ではない。彼女が傷口に塩を塗るような「精神的リストカット」を行うことも、外傷の再演を強迫的に求めることも、どんな男性もしょせん男性であることを確認しようとすることも、これらがすべてないまぜになっていることもありうる。

スイスの研究者ヴィリーがその論文「ヒステリー性結婚」において挙げているいくつかの例は明らかに同情結婚である。彼は同情する男性でなく同情される一見清純な女性のほうに過去の男性関係があることを述べ、さらに彼のいうヒステリー性結婚においては性は妻の権力の道具となり、同情する夫が性的に迫れば「不潔」と退け、遠ざかっていると「冷たい」と罵ることによって、夫の立つ瀬をなくし、支配するさまを、最後の乾ききった「ヒステリー性欠損結婚」期まで四期にわけて追跡しているが、ヴィリーがいささか辛口の皮肉を交えて述べている女性たちがかつての性被害者である可能性を私は思わずにはいられない。性を権力の道具として女性を支配するのは性加害者の特徴であるからである。妻の現在の行動は加害者との同一視を経ての性の権力化であろうか、それとも転移を経ての、あるいは異性一般への端的な復讐であろうか。「男性は皆五十歩百歩である」ことを反復確認しているのであろうか。そしてそれは被害者の自責感を軽減するのであろうかまた、「同情的結婚者」も意識的・無意識的に「恩に着せる」支配者でありうる。夫からのDVへの通路も開かれている。

幻想的復讐を初め、これらの被害者側の行為は外傷の治癒に寄与せず、むしろ「化膿」をひどくするからこそ強迫的反復が起こるのであろう。治療者も、この行為の被害者(にして加害者)となることがあり、その確率は相手の外傷被害性に気づいていない場合に特に高い。特定の具体的被害を同定する前に、これらを含めて外傷被害者的特性に対する感覚を持っている必要がここにある。通常の逆転移分析では足りない。いずれにせよ、このような例では、治療者が困惑する事態が頻繁に起こり、対処に苦しむことが多い。

時には、被害者が、家族の誰かの治療者役を演じることによって、その誰かの「病気」を永続させる結果になっていることもある。その誰かが治癒した時に、被害者の重大な障害が明らかになったこともあった。

私たち治療者も、私たちが治療者になった動機の中に外傷性の因子があって、それが治療の盲点を創り、あるいは逆転移性行動化に導いていないかどうか、吟味してみる必要があるだろう。男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。直感的に「苦手な患者」が自己の外傷と関係している場合もある(たとえば私の戦時下幼少時の飢餓体験とそれをめぐる人間的相克体験は神経性食欲不振者の治療を困難にしてきた)。逆に「特別の治療に値する患者」と思い込む危険な場合もある。いずれも、治療者を引き受けないことが望ましく、外的事情でやむをえず引き受ける際には、スーパーヴァイザーあるいはバディ(秘密を守ってくれる相互打ち明け手)を用意するべきである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

ーーきわめてすぐれた文であると私は思う。トラウマへの固着の反復強迫を「構造的に」考える上で、これ以上の文は滅多にない、と言いうるぐらいに。

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※付記

■外傷患者の治り方
私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)


この中井久夫の治癒困難な外傷神経症とは、初期フロイトにおける外傷神経症の原モデル「不安神経症」の記述のなかにある「還元不能」という表現に相当する。

不安神経症 Angstneuroseにおける情動 Affekt は…抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析 psychologischer Analyse においてはそれ以上には還元不能 nicht weiter reduzierbarであり、精神療法 Psychotherapie では対抗不能 nicht anfechtbarである。 (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)

《還元不能 nicht weiter reduzierbar》とは、ラカンの原症状(サントーム)をめぐる発言にも同様に出現する。

四番目の用語(サントーム=原症状)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung (=リビドー固着)があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴TROU(=トラウマ)、それを原抑圧(=リビドー固着)自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975ーー「サントームと固着」)