2019年4月21日日曜日

その声は沈黙にそっくりだった

いやあ、実にすばらしいな、このベケット。「マルグリット・デュラスの声、そして時間」 (たけだ はるか)pdfから拾ったのだけれど(ほかにもすばらしい引用がふんだんにある)。

武満徹の『音、沈黙と測りあえるほどに』をあわせて引用しようと思ったけどやめた。このベケットの文といくらか同じ感覚を与えてくれる沈黙と測り合えるほどの歌曲をいったん貼り付けたんだけどそれも消した。この文にはまったくかなわないから。歌じゃなくてグールドを貼り付けるってのもちょっとへんだし。


ぼくはときどき、アンヌが部屋で歌をうたっているのを耳にしたが、かのじょの歌は、かのじょの部屋の扉を通りぬけて、それからキッチンを通って、それからぼくの部屋の扉を通りぬけてやってきて、弱くきこえるとはいっても、そこに疑いの余地はない。かのじょが廊下を通ったのではない限りは。ときどき歌をうたっているのが聞こえるからといって、そうしたことは、ぼくにとって、大した邪魔にはならないのだ。
ぼくは、その歌のことを知らなかったし、聞いたことも一度だってなかったし、これから聞くことも、けっしてないだろう。ぼくは、ただ、歌のなかに、レモンの木やオレンジの木が話題になっていたということは覚えていて、なぜなら、ぼくが聞いたことがあるほかの歌というのがあって、ぼくはほかの歌を聞いたことがあるんだけれど、なぜなら、ぼくのように生きていたって、聾唖者でないならば、歌を聞かずにいきるなんてことは不可能のようだから、だけどぼくは何も覚えられなくて、一つの歌詞も、一つの音符も、ほんの僅かの言葉も、ほんの僅かの音符も、それが、それが何、何でもないものであっても、ぼくには覚えられなくて、というこの文はずいぶん長くなってしまったな。それで、ぼくは遠ざかったんだ、遠ざかりながら、それでもだれかがべつの歌をうたっているのが聞こえてきて、あるいは それは、おなじ歌のつづきだったのかも知れないけれど、それは小さな声で、ぼくが遠ざかれば遠ざかるほど弱くなっていって、それは、かのじょが歌をうたうのをやめたからにせよ、ぼくが声が聞こえないくらいひどく遠ざかってしまったからにせよ、とうとう声は黙ってしまった。…だからぼくは少しまえへすすんだけれど、立ち止まった。はじめは何も聞こえなかったのが、つづいて声が聞こえてきた けれど、ほんのかすかで、それくらい、声はぼくの所に弱々しく届いた。ぼくには聞こえなかったのに、ぼくには聞こえるようになっていたから、そうなれば、ぼくは歌を聞きはじめた、といっても、そうではなくて、はじまりという のはなくて、それくらい、声というのはゆっくりと沈黙から外にでてきたのであって、それほどに、その声は沈黙にそっくりだった。(ベケット『初恋』)

でもひとつだけ引用しておこう、《音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる》(ミシェル・シュネデール、グールド論)と。