2019年4月8日月曜日

人はみな神の言葉で喋るべきである

私が「メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage」と言ったとき、「言語は存在しないle langage, ça n'existe pas」と言うためである。《ララング lalangue》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。(ラカン、S25, 15 Novembre 1977)

メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage」=大他者の大他者はない・il n'y a pas d'Autre de l'Autreとは、ラカンは1960年だったかに最初に言ったのだが、ここではその簡潔版1971年を引用する。

メタランゲージはない。・il n'y a pas de métalangage
大他者の大他者はない・il n'y a pas d'Autre de l'Autre,
真理についての真理はない・il n'y a pas de vrai sur le vrai.

・見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)

実はこんなことは既にニーチェが言っている「常識」である。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

ーーニーチェはほかにも「科学は存在しない」「数学は存在しない」「論理学は存在しない」「物理学は存在しない」等と要約できることを連発している(参照)。

これは長年の常識でありながら、世界にはこういった事が分かっていないか忘れちまった人間ばかりだから、ラカンはニーチェを繰り返しているのである。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)

S(Ⱥ)とは、何よりもまず「言語は存在しない」、「現実はない」ということである(現実は言語で出来上がっているのだから、そんなものは偽物に決まってる)。

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
現実はない。現実は幻想によって構成されている。(ラカン、S25、20 Décembre 1977)
この世界は、思考を支える幻想 fantasme でしかない。それもひとつの「現実 réalité」には違いないかもしれないが、現実界の顰め面 grimace du réel として理解されるべき現実である。(ラカン、テレヴィジョン Télévision、AE512、Noël 1973)

他方、ララングは現実界の審級にある。それが冒頭の文の意味である。

ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé、2009)

現実は現実界の顰め面なんだから、言語はララングの顰め面である。

つまり言語は母の言葉の顰め面である。

ララングlangageが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化 dématernalisants をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアルなーー意味外のーー無意識の核 le noyau le plus réel - hors sens - de l'inconscient を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化 érotisation の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

ソレールは、母の言葉はエロス化の結び目に錨をおろしたままだと言っているが、ようするにララングはそのせいで永遠回帰するのである、ファルス的鎧をかたく纏ったニブイおっちゃん以外は。この鎧のことをフロイトは《刺激保護壁 Reizschutzes》と呼んでいる。

たとえば「父なる神は死んだ」のニーチェにとって、「母なる神のララング」は永遠回帰するに決まっている。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1883年)

で、ニーチェの音調偏愛ってのも、結局、ララングへの愛に相違ない。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレインpetite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)

ここでアルトーのグロソラリア(舌語)を想起しない輩をニブイと呼ぶ、ーー《la glossolalia in Artaud tocca lalangue in Lacan》Fabio Vergine、Antonin Artaud e la scrittura del reale. Glossolalie e disegni per un linguaggio analfabeticoArticle 、PDF、November 2018)

ララングは上に見たようにS(Ⱥ)である。したがって神の言葉である。

私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit(神は死んでいない)ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

西脇順三郎が「男の言葉を女の言葉に/近づけることを考えなければならない」(「第三の神話」)と言っているのは、「人はみな神の言葉で喋るべきだ」という意味である。

他方、最悪なのは論文形式である。《父性原理の権化である論文形式》(ロラン・バルト)。でもなぜラカン派でさえもおバカな論文書くやつが跳梁跋扈してんだろ? アタシ、シンジレンワ! 機銃掃射ガ必要ジャナイカシラ? あらいやだわ、あたしの母って悪口雑言派だったからどうしてもこうなっちゃうの。

お父さんのようにはならないで下さいお願いだから(谷川俊太郎「ザルツブルグ散歩」『モーツァルトを聴く人』)

あんたたちには、アルトーが神の言葉を話してるのを感じなさい、なんて毛ほども期待しないからさ。でもせめて上に記したことぐらいおわりになって実践したほうがいいんじゃないかしらん?

私の内部の夜の身体を拡張すること /私自身の内部の無から/あの夜から/あの虚無から(アントナン・アルトー、Supprimer l'idée)


Supprimer l'idée    Antonin Artaud

l'idée et son mythe,
et faire régner à la place
la manifestation tonnante
de cette explosive nécessité :
dilater le corps de ma nuit interne,
du néant interne de mon moi
qui est nuit
néant,
irréflexion,
mais qui est explosive affirmation
qu'il y a
quelque chose
à quoi faire place:
mon corps


ちょっとまえアルトーの絵画をいくつか眺めてたんだけど、「あの神」ばっかり描いているように思えて仕方がないわ。で、その目でみたら、日本のイカツイ系アルトーコミュニティのおじさんたちって、やっぱり「あの神」がとってもおすきな方々の集まりじゃないかしらん。ダカラステキナンダワ、トッテモ。





私、アントナン・アルトー、1896年9月4日、マルセイユ、植物園通り四番地にどうしようもない、またどうしようもなかった子宮から生まれ出たのです。なぜなら、9カ月の間粘膜で、ウパニシャードがいっているように歯もないのに貪り食う、輝く粘膜で交接され、マスターベーションされるなどというのは、生まれたなどといえるものではありません。だが私は私自身の力で生まれたのであり、母親から生まれたのではありません。だが母は私を捉えようと望んでいたのです。(アルトー『タマユラマ』)

いやあなんかテキトウにかいちゃったわ、これでいいのかしらん、おかあさん?