2019年9月18日水曜日

ラメラ神話(愛の神話)

さて政治的には言いたいことはほぼ終えたので、在庫を二つほど消化しておく。さる国への出向かねばならぬ「やぼよう」が突然に入ったこともある。

………

ラカンのセミネール11にはこうある。




ーーここにある「二つの欠如 Deux manques」というのは、後期ラカンの用語なら「欠如と穴 Manque et Trou」である。

いままで何度もくり返してきた内容だが、ここで確認の意味で次のように示しておこう(この部分はすっとばして頂いてもよろしい)。


欠如と穴
trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。(⋯⋯)

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001
享楽=現実界は穴(トラウマ)
現実界は穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す。(Lacan, S21, 19 Février 1974
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel.(ラカン、S23, 10 Février 1976)
享楽自体、穴Ⱥ を為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。(ジャック・アラン=ミレール Passion du nouveau2003
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級にある。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011

モノの享楽=穴の享楽
フロイトのモノChose freudienne.それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976
(斜線を引かれた大他者の享楽)とは、「大他者の享楽はない」のことである。大他者の大他者はないのだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ].  (ラカン、S2316 Décembre 1975
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999
身体の穴の享楽=欲動の現実界
身体は穴である。corps…C'est un trouLacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice

大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, 9/2/2011)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

原抑圧 Urverdrängt との関係原起源にかかわる問い私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel RitterStrasbourg le 26 janvier 1975


………

さてここでは、セミネール11の記述のまま、「欠如」という用語を使って上の内容を摘要してまず示そう(下に出てくる「リアルな欠如」が後期ラカンの「穴」である)。

ラカンは《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》と言っている。

一方の欠如は、《主体の誕生 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢による欠如である。そして、《この欠如は別の欠如を覆うようになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》。

この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の誕生 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された《己れ自身の部分として喪失した欠如 Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant 》と言っている。

そして「アリストファネスの神話 le mythe d'ARISTOPHANE」、「愛の神秘 le mystère de l'amour」とあるように、エロスの神話が示されている。




後期ラカンの用語を使って言えば、シニフィアンの世界への入場による欠如(象徴的去勢)とは、生存在の誕生における穴(リアルな欠如=原去勢[後述])を覆うとあるように、原穴の穴埋めでもあるのである。




-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)

いま象徴的去勢、シニフィアンの世界への入場による去勢としたがそれは次の意味である。

我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「一連の諸シニフィアン la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。

S1 はそこに介入する。それは「特定な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet 」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。⋯⋯⋯

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。

我々は勿論、フロイトから引き出した「喪われた対象の機能 fonction de l'objet perdu」をこの点から示し損なっていない。…「話す存在 l'être parlant」における固有の反復の意味はここにある。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

ここに「喪失として定義される何か=対象a」とあるが、これが象徴的去勢である。そして言語によって「分割された主体$」とは、事実上、「言語によって去勢された主体」である。

去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique(ラカン, S17、18 Mars 1970 )

………

さて、上に示した「二つの欠如」が語られた前週の講義では、比較的よく知られているだろう「ラメラ神話」が語られている。ラメラ神話とはじつは「愛の神話」、「エロスの神話」である。

私はラメラ lamelle について話そう。…

新生児になろうとしている胎児を包む卵の膜が破れるごとに、何ものか quelque chose がそこから飛び去るのだと、すこし想像してみよう。この何ものかというのは、卵からも、また人間 homme からもできるもの、すなわち、オムレットhommelette、あるいはラメラlamelle である。

ラメラlamelle、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動する se déplacer 。ただし、アメーバよりはもう少し複雑である。しかし、それはどこへでも通って行く ça passe partout 。そして、それは、有性生物がその性 sexualité において喪ったものと関係を持つ何ものかであるために ... 、丁度アメーバが有性生物に比べてそうであるように、 不死 immortel なのである。 なぜなら、 それça はあらゆる分裂divisionをこえて生き残るからであり、あらゆる分裂増殖の介入をこえて存続するからだ。そして、それça は駆け巡る。

いやはや、それça は心穏やかなものではない(たまったもんじゃない)。あなた方が静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うことを考えてもごらんなさい。  

こんな性質を持ったものとどうしたら闘わないで済むものか私にはよく分からない。でもそんなことになったら、それは容易な闘いではないだろう。

このラメラlamelle、この器官organe、それは実在しない ne pas exister という特性を持ちながら、 それにもかかわらずひとつの器官なのだが ... 、 それはリビドー libidoである。  

これはリビドー、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドーである。 つまり、不死の生 vie immortelle、禁圧できない生 vie irrépressible、いかなる器官 organe も必要としない生、単純化されており破壊されえない生 vie simplifiée et indestructible、そういう生の本能である。それは、有性生殖のサイクル cycle de la reproduction sexuée に従うことによって生物l'être vivantから控除されたsoustraitものである。

対象 a[ l'objet(a)]について挙げることのできるすべての形態formes は、これの代理表象représentants、これと等価のもの équivalents である。諸対象 a [les objets a] はこれの代理表象、これの形象 figures に過ぎない。

乳房 Le seinは、両義的なもの équivoque として、哺乳類の有機組織に特徴的な要素として、例えば胎盤 le placentaという個体が誕生の際に喪うl'individu perd à la naissanceこの自らの一部分 cette part de lui-même を、即ち、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser ことのできるものを、 代理表象représenter しているのである 。 (ラカン、S11, 20 Mai 1964)

同時期のエクリ所収論文にはこうある。

リビドーとは、このラメラである La libido est cette lamelle。それは、有機体としての存在 l'être de l'organismeを真の限界に導く。その限界は、身体の限界を遥かに超えている。…

ラメラは器官organeであり、有機体の道具 instrument de l'organismeである。それはときに、ほとんど容易に感受される。ヒステリー者が、その柔軟性を徹底的に試みて上演するとき。quand l'hystérique joue à en éprouver à l'extrême l'élasticité.(ラカン、E848、1964年)

………

ラメラ神話あるいはリビドー神話が、「愛の神話」、「エロスの神話」であることは、たとえばセミネール9の次の発言も示している。

フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)

プラトンの『『饗宴』のなかにある神話、それがアリストファネスの神話である。

さらに言えば、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》というときの「自分の身体」とは、究極的には去勢によって喪われた母なる自己身体である。フロイトの記述なら「乳幼児は自分の身体と母の身体の区別をしていない」という意味での母なる自己身体である。

乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感覚 Empfindungen の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、 さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。

乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、自分の興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自分自身の身体器官に他ならないということが分かるのはもっとあとのことであ るーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「そと außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)

補足としてミレールの簡潔な文を引用しておこう。

去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

………

ラメラ神話において、《純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドー》、その《不死の生 vie immortelle》は、《有性生殖のサイクル cycle de la reproduction sexuée に従うことによって生物l'être vivantから控除されたsoustraitものである》とあった。

この「不死の生としてのリビドー」が、ラカンの原享楽である。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

ラメラ神話がエロス神話であるのは、フロイトによる次のリビドー定義文のなかに、プラトンの名があることによっていっそう瞭然とするだろう。

リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。

しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。

これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合 geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯)

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

最晩年の論文からも引用しておこう。

すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)

………

リビドーという不死の生の控除をめぐってラカンはセミネール20でも次のように言っている。

フロイトは、胚芽germen、卵子と精子cet ovule et ce spermatozoïdeの二つの単位を語っている。…それはざっと次のように言い得る。この要素の融合において生じるものは何か?ーー新しい存在である。c'est de leur fusion que s'engendre - quoi ? - un nouvel être. だがこれは細胞分裂(減数分裂 méiose)なし、控除なしでは起こらない。la chose ne va pas sans une méiose, sans une soustraction…或る要素の控除la soustraction de certains élémentsがあるのである。(ラカン, S20, 20 Février 1973)

フロイトから抜き出せば、上の発言は次の文をベースにしているはずである。

生命ある物質は、死ぬ部分と不死の部分とに分けられる。die Unterscheidung der lebenden Substanz in eine sterbliche und unsterbliche Hälfte her…だが胚細胞は潜在的に不死である。die Keimzellen aber sind potentia unsterblich (フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


「不死の生としてのリビドーの控除」に相当するものを、ラカンは「享楽の喪失」、あるいは「廃墟となった享楽」とも表現している。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ここでラカンが言っている「享楽の対象=喪われた対象=モノ」とは、母である。

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件 ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


そしてこの喪われた対象を取り戻す運動が(究極の意味における)享楽回帰運動(エロス回帰運動)であり、母胎回帰運動=死である。

エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(J.-A. MILLER, A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)

リビドー控除(享楽控除)をラカンは去勢とも表現した。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。(J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)

フロイトにとって原去勢とはーーこの用語自体はフロイトにもラカンにもないーー母からの分離である。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
出産行為 Geburtsakt はそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

原去勢という用語については、ポール・バーハウの次の文に依拠している。

フロイトの新たな洞察を要約する鍵となる三つの概念、「原抑圧 Urverdrängung」「原幻想 Urphantasien(原光景 Urszene)」「原父 Urvater」。

だがこの系列(セリー)は不完全であり、その遺漏は彼に袋小路をもたらした。この系列は、二つの用語を補うことにより完成する。「原去勢 Urkastration」と「原母 Urmutter」である。

フロイトは最後の諸論文にて、躊躇しつつこの歩みを進めた。「原母」は『モーセと一神教 』(1938)にて暗示的な形式化がなされている(「偉大な母なる神 große Muttergotthei」)。「原去勢」は、『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang』 (1938)にて、形式化の瀬戸際に至っている。「原女主人 Urherrin」としての死が、最後の仕上げを妨げた。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, Does the Woman exist?, 1999)

ポール・バーハウはフロイトには原去勢という用語は直接的にはないと言っているが、事実上、それに近似した表現はふんだんにある。

たとえば出産外傷による「母の去勢」以外にも、「喪われた子宮内生活」とフロイトは表現している。

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間の子宮内生活 Die Intrauterinexistenz des Menschen は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界realen Außenwelt の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

これらがラカンがセミネール17で言った《フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある》の内実である。

ほかにも原ナルシシズムという用語で表現した次の二文も、結局「原去勢」にかかわる。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)

ラカンのラメラ(≒羊膜)の喪失をはじめとする、喪われた胎盤やら臍の緒発言も、結局ここにある。





 そして母胎回帰運動という欲動の現実界の内実は、母なる大地への回帰運動、沈黙の死の女神に抱かれたいという運動である。

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)

誰がこの欲動運動があることを否定できよう。 人はすくなくともある種の極限状態に陥れば、この母なる大地帰還運動に襲われることがありうるだろうことは、たとえばあの「きけ わだつみの声」を読んだことのある者なら誰もがーーすくなくとも無意識的にはーー感じ取っているはずである。

エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。

… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、第2章、死後出版1940年)


わたくしが「エロス=享楽=死」で示した内容は、これらの発言群をベースにしている。ここではラカンを中心とした引用群を再掲しておこう。



大他者の享楽=エロス
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話に反して、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。[Cette jouissance de l'Autre, dont chacun sait à quel point c'est impossible, et contrairement même au mythe, enfin qu'évoque FREUD, qui est à savoir que l'Éros ça serait de faire Un]

…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。…

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (=穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)
享楽=リビドー =エロス
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
哲学者プラトンのエロスErosは、その由来や作用や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
享楽の漂流=死の漂流
私は欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
死への道=享楽
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)