2019年10月1日火曜日

研究者たちの自己検閲システム

このところ文化庁のアート検閲が問題になっているが、そもそも研究者たちの「科研費」取得の仕組みってのは、「自己検閲システム」じゃないのかね。コモノの学者ばかりが目立つようになったのはそのせいじゃないのかい? ボクはよく知らないが、どうもそんな気がしてならないね。

「科研費」ってのは、定められたルールの中で補助金をぶんどってくる仕組みだろ? あれこそ新自由主義の侍僕に飼い馴らすシステムだと疑ったことはないのかね、研究者諸君は。

たとえば生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション等々が必要なんだろ? これらはすべて経済のディスクールの用語だぜ。

せっかく文化庁の前でデモやるんだったら、反科研費補助金制度のデモもあわせてやったらどうだろう。ほかにも大学ボイコット運動とかさ、やることいくらでもあるだろ?

ま、そんなことやるわけないのをよく知ってるけどさ。

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳)

須賀敦子はこの文を引用して、次のように言っている、《自分が、いまも大聖堂を建てつづけているか、それとも中にちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしているのではないか》(『遠い朝の本たち』)

とっくのむかしからわかってるよ、学者の卵の諸君は、「席が空かないかきょろきょろ」の専門家ってのは。で、席にすわるためには「検閲」もやむえないんだろ?

ああ、あれら大供ちゃんたちのデモのなんとかわいらしいこと!

文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。( ……)彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。( ……)彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 川田順造訳) 

ま、研究者ってのはタガにはめられるのは、いまに限ったことじゃないんだろうが、科研費システムってのは、あれは究極のタガメ女じゃないだろうかね。 

研究者の自己規制は、公衆の理解をほとんど超えるものである。民間学者の研究が微笑(あるいは冷笑)とともに無視されるのはこのためである。研究者の最初の五年のトレーニングの中にこの作法を身につけ、このタガをみずからはめるためにカリキュラムがあり、相当の時間と精力をついやして遂行される。これが身についてはじめて研究者という自己規定が自他に承認されるからである。

この“研究文化”が自己認識に達しえないのは、そこのルールに従い、そこの「満足の基準」を満たすことを念頭に置いてはたらくのが研究者であることが、研究者自体のみならず、その家族、親族、友人、地域社会、公衆、ジャーナリズムによって支持されているからでもある。「学者は(社会の)まなざしによってつくられる」面もある。反骨の民間学者の著述もしばしば卑屈な(あるいは然るべき)この“研究文化”への追従(あるいは敬意)に満ちている。(中井久夫『治療文化論』1990年)