2019年11月19日火曜日

無知のパッション

いやあ、なにを書いても傷つけるんだから、もういつもの調子に戻るよ。


Freud , 1916
自我は自分の家の主人ではない。
das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus
Lacan = Miller, 2008
私は私が誰だか知らない。
Je ne sais pas qui je suis
私は私が何を考えているか知らない。
je ne sais pas ce que je pense
私は私が何を言っているか知らない。
je ne sais pas ce que je dis
私は私が何を欲しているか知らない。
je ne sais pas ce que je veux
私は私がなぜ欲するのか知らない。
je ne sais pas pourquoi je désire
私は私がなぜこのようなのか知らない。
je ne sais pas pourquoi je suis comme ça
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う。
Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)



だいたい無意識の話をしてるのに、アタシは例外でそうではないって言われても、まったく話がかみあわないのでね。

あるいは「人はみなトラウマ化されている」って話をくりかえししてんのに、ボクの傷云々とか言われてもさ。

ひとはみな病気だって話をしたんだがな。

私は病気である。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから。j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
言語は父の名である。そしてさらに、言語は超自我である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(MILLER Jacques-Alain, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthiques, séminaire 96/97)
私は相対的にはマヌケ débile mental にほかならない…言わせてもらえば、全世界の連中と同様に相対的マヌケ débile mentalにすぎない。というのは、たぶん私は、(言語によって)いささか啓蒙されている une petite lumière からな。(ラカン、S24, 17 Mai 1977)

パッションってのも、最初期のラカンがいうようにすくなくともみっつあるんだよ。

人には三つの根源的パッション trois passions fondamentales がある。
愛 amour、 憎悪 haine、無知 ignoranceである。(ラカン、S1、30 Juin 1954,摘要)

セミネール20でも「何も知りたいないという無知へのパッションpassion de l'ignorance qui ne veut rien en savoir」とかあるけどな。

たとえば精神分析を知らない人がこう言うとする、《「あなたが言っていることはすべて正しいかも知れないが、それでも、私がいま経験している激しい情熱を何物も私から取り上げることはできない」。しかしラカンは言う、精神分析家はまさにそれを主体から取り上げることができる、と》(ジジェク「ラカンはこう読め」)。

ま、この無知のパッションってのはほとんどの人にあるのだから、文句をいうつもりはないけど、ボクが記しているのは、その無知のパッションでひょとして不幸になってないかい? ってことだよ。

ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics, 2004)

不幸になってないなら、精神分析なんていらないよ。

愛のパッション、憎悪のパッション、無知のパッションってのは、こう記しているボクももちろん例外ではなくもっているのでね。

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている(Human being cannot endure very much reality ---中井久夫超訳エリオット「四つの四重奏」)

精神分析とは何よりもまずそれらのパッションをパララックスにみるためのひとつの道具だよ。

以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性 Verstand の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性 äußeren Vernunft の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点 Gesichtspunkte anderer から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差 starke Parallaxen (パララックス)を生じはするが、それは光学的欺瞞 optischen Betrug を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢Träume eines Geistersehers』1766年)

なにも精神分析が全面的に正しいとは毛ほども言っていないのでね。

精神分析はたぶん詐欺だ La psychanalyse est peut-être une escroquerie , (Lacan, S24, 15 Mars 1977)

でも文学だって詐欺だよ、そう疑う力がもういくらは必要だと思うがね。