2019年11月6日水曜日

「ファルス享楽と女性の享楽」の二重構造

何度もくり返していることだが、もう一度強調しておこう。

ラカンには症状の二重構造がある。ファルス享楽と女性の享楽(=身体の享楽)、あるいは症状とサントームである。

ミレール派(フロイト大義派)のまだ若い精神分析家が、ごく最近次のように言っているが、この考え方が現代臨床ラカン派の基本である。

ラカンはファルス享楽(エディプス的な、大他者と禁止に結びついた享楽)と女性の享楽(現実界的な身体の享楽、意味外の享楽)を区別した。Lacan avait distingué la jouissance phallique (ou œdipienne, reliée à l'Autre et à l'interdit) et la jouissance féminine (jouissance du corps, réelle, hors-sens).…

ジャック=アラン・ミレールはすべての言存在に女性の享楽を一般化した。J.-A. Miller généralise la jouissance féminine à tout parlêtre.  (JEAN GODEBSKI、Lacan … La jouissance、2018


女性の享楽とは解剖学的女性による享楽ではない。そうではなく、男にも女にもある「身体の享楽」である。もちろん解剖学的女性特有の症状もあるだろうが、現代ラカン派で使われている「女性の享楽」は、生物学的な女による享楽ではないことをまず十全に認知すべきである。

ラカンは女性の享楽 jouissance féminine の特性を男性の享楽 jouissance masculine との関係で確認した。それは、セミネール18 、19、20とエトゥルディにおいてなされた。だが第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される[ la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)

こういった女性の享楽の定義が主流ラカン派の首領ミレールによって明瞭になされたのは、わずか10年弱前のことであり、一部の臨床家をのぞいては、まだほとんど認知されていないが(たとえば哲学的ラカン派の大半は現在にいたるまでまったく受け入れていないようにみえる、例えばバディウ、例えばジジェク・ジュパンチッチ、例えば若手哲学的ラカン派のリーダーとされるロレンゾ・チーサ)、アンコール以後の後期ラカンを読めば、こう定義するしかないとわたくしは思う。

そしてこの享楽自体としての女性の享楽を「サントームの享楽」と呼ぶのである。

サントームの享楽 la jouissance du sinthome (Jean-Claude Maleval , Discontinuité - Continuité 2018)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

もし人がラカン用語を使いたいなら、これらの定義を受け入れたのち、はじめて女性の固有の症状を探ればよい(たとえば下記のC)。



わたくしは、Cを考えるべきではないとは毛ほども言っていない。なぜなら解剖学的女性に特化した症状ーーパニック障害 panic disorder、身体化障害 somatization 等の身体的症状ーーがかならずあるのだから(わたくしの記事のなかには、ときに解剖学的女性の享楽のことを示そうとするものがあるので誤解をもたらす場合があるのだろうが、今後はここできしている内容が前提だというのを常にしめすべきかもしれない)。


たとえばアンコール以後、女性の享楽の意味合いの転回があったにしろ、アンコールにおける女性の享楽の思考がまったく否定されたわけではない。

女は「全てではない」であり、女は(ファルス関数のなかに)十全にいる。Elle y est pas « pas du tout », elle y est à plein (ラカン、S20、20 Février 1973)
女は男よりもより「言語のなか」にいる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

女性の論理はファルス享楽(パロール享楽)に例外なく耽溺するからこそーー《ファルス享楽以外のどんな享楽はない il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique》(S20)からこそーー、「非全体 pastout」としての女性の享楽があらわれるというのが、アンコールのラカンである(反対に男性の論理は例外があるから、ファルス秩序の普遍化(全体化pourtout)が起こる。

アンコールのラカンと言っても、1973年4月までのアンコールのラカンであり、5月に転回の兆しがある、当時受講者だったコレット・ソレールはラカンの次の発言に驚いたそうだ。

私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)

1973年4月までのアンコールのラカンとはたとえば次の図である。




この思考がアンコール以後二次的なものとなったとはいえ、表層的観察においては、一般の解剖学的女性は男性よりもパロール享楽にいっそう耽溺する傾向があるという事実は消えない。

女は大部分、耳で考え、言葉で誘惑される。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、2004)

だがミレールはこの性別化の式のデフレ(価値下落)を言うのである。

性別化の式 formules de la sexuationにおいて、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 science du réel 」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。

(⋯⋯結局、性別化の式は)、「身体とララング(≒サントーム)とのあいだの最初期の衝撃」の後に介入された「二次的結果 conséquence secondaire」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なき現実界 réel sans logique」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。(J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)

この「現実界の科学 science du réel」の思考は、セミネール18(1971年)に最も端的に現れる。

分節化の効果ーー代数的仮象semblantの効果ーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。これが現実界と呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。現実界はこの仮象のなかに穴を開けることである。[ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.]

科学的言説という分節化されたこの仮象のなかに 、科学的言説はそれが仮象の言説か否かさえ悩まずに進んでゆく[le discours scientifique progresse sans plus même se préoccuper s'il est ou non semblant. ]

しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすることである。

この論理的推論déductionによって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能が現実界である[cet impossible c'est le réel]。我々は物理学において、言説装置の助けをもって、現実界であるところの何ものかをを目指す。その厳密さのなかで、一貫性の限界に遭遇するのである[dans sa rigueur, qui rencontre les limites de sa consistance](ラカン, S18, 20 Janvier 1971)

ーーこの話はここでの話題ではないので、このぐらいにしておこう。

とはいえここでファルス享楽/女性の享楽の対比におけるファルス享楽について簡単な注釈を示しておこう。

ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)

ファルスの享楽とは、言語内の享楽である。フロイト用語なら快原理内部の快あるいは欲望に相当し、事実上、ファルス欲望である。これももちろん男も女も反復享楽している。

ラカンは、大胆かつ論理的に、パロールの享楽をファルス享楽と同じものとしている。ファルス享楽が身体と不一致するという理由で。jouissance de la parole que Lacan identifie, avec audace et avec logique, à la jouissance phallique en tant qu'elle est dysharmonique au corps. (L'inconscient et le corps parlantpar JACQUES-ALAIN MILLER,2016年ラカン派会議のためのプレゼンテーション、2014)

このパロールについて、サントームのセミネールではラカンはこうまで言うようになる。

パロールは寄生虫。パロールはうわべ飾り。パロールは人間を悩ます癌の形式である。La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé》.(Lacan, S23, 17 Février 1976)

さてミレール2005年のセミネール冒頭にあらわれる図に、これらの用語群を付け加えて図示すれば次のようになる。




ーーここに現れる用語群の注釈は「現実界のオートマトン」を参照のこと。


ところでこの症状の二重構造は、フロイトに既にある。

フロイトはその理論の最初から、症状には二重構造があることを識別していた。一方には「欲動(身体的なもの)」、他方には「心的なもの」である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。……享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way by Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、2002)

この二重構造の指摘はたとえば症例ドラ(1905)に明瞭に現れている。

ここで、咳 Husten や嗄れ声 Heiserkeit の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。地階 Zuunterst in der Schichtung には「器官的な誘引としてのリアルな咳の条件 realer, organisch bedingter Hustenreiz」 があることが推定され、それは「真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」のようなものである。

この刺激は固着しうる Reiz ist fixierbar が、それはその刺激がある身体領域 Körperregionと関係するからであり、ドラの場合、その身体領域が性感帯 erogenen Zone としての意味をもっているからなのである。したがってこの領域は興奮したリビドー erregten Libidoを表現するのに適しており、他方、咳や嗄れ声ののカタル Katarrhsはおそらく、最初の心的外被 psychische Umkleidung である。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片 Bruchstück einer Hysterie-Analyse(症例ドラ)』1905年)

ーー「心的外被 psychische Umkleidung」とあるが、これがファルスの覆いであり、地階にあるリアルな身体的リビドーを覆うのである。

ラカンはこの「リアルな身体的リビドー」を欲動の現実界と呼んだ。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。…

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、 Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ーー「夢の臍」とあるが、『夢解釈』(1900年)に出現するこの語自体、ラカンのサントームにかかわる語である。

四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴 trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)



いま上に掲げた二文には、両方とも原抑圧という語が出現するが、原抑圧とは別の言い方なら「リビドー固着」(欲動の固着)であり、「享楽の固着=対象a」である(参照:「サントームは固着である Le sinthome est la fixation」)。


ここでベルギーの臨床家ポール・バーハウのじつに見事な注釈を掲げよう。

フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒」という名高い隠喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、ーー《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66、1966)ーーすなわち原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。

フロイトはヒステリーの事例にて、「身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体側からの反応」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)

ーー「異物 Fremdkörper」とあるが、これは最初期のオイゲン・ブロイラーとの共同著作にすでに現れる(もともとブロイラーの造語であるようにみえる)。

トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイラー『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

この異物をラカンは晩年、《われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(S23、1976)と表現した。

この異物はこうも表現されている。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この「たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状」こそ、晩年のラカンの現実界の症状(原症状=サントーム)の定義である。

現実界は書かれることを止めない。le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps (Lacan,  AE.569, 16 juin 1975)
症状は、現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (Lacan,  La Troisième, 1974)


ラカンは別にこうも言った。

ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

ーーこのひとりの女としての他の身体の症状(サントーム)こそ、異物としての症状である。

この異物と相同的な表現としてフロイトは「暗闇に蔓延る異者」と表現した。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

ーーわたくしはこれらから、原症状を「暗闇に蔓延る異者としての女」と呼ぶことを好む(参照)。


フロイトは「真珠/砂粒」の比喩を何度も使っているが、1916年には「精神神経症/現勢神経症」という語を使ってこうある。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核Kernであり、先駆け Vorstufe である。…

現勢神経症 Aktualneurosen の諸症状、すなわち頭が重い感じ、痛み、ある器官の刺激状態、ある機能の減退や抑制には、なんの「意味 Sinn」、すなわち心的意味作用 psychische Bedeutung もない。これらの症状は…それ自体が全く身体的過程 körperliche Vorgängeなのであり、この身体過程の成立にあたっては、われわれの学び知っている複雑な心的機制 seelischen Mechanismenはいっさい抜け落ちている。…

ヒステリー 的頭痛あるいは腰痛を例にとろう。分析が示すのは、これは、圧縮Verdichtungと置換Verschiebung を通しての、一連の全リビドー 的幻想 libidinösen Phantasien あるいは記憶 Erinnerungen にとっての代理満足 Befriedigungsersatz だということである。

しかしこの苦痛はかつてはリアルなものだった Schmerz war auch einmal real。当時、この苦痛は直接の性的中毒症状 sexualtoxisches Symptom だった。すべてのヒステリー症状は、このような核 Kern をもっていると主張するどんな手段もわれわれは持たないが、これはきわめてしばしば起こっており、リビドー 興奮 libidinöse Erregung による身体の上への影響 Beeinflussungen des Körpers の全標準的あるいは病因的なものは、ヒステリー症状形成 Symptombildung der Hysterie の殆どの支柱である。

したがってリビドー興奮は、「母なる真珠の実体 Perlmuttersubstanz の層もった真珠貝を包む砂粒Sandkorns, welches das Muscheltier mit den Schichten von Perlmuttersubstanz 」の役割を果たす。同様に、性行為 Geschlechtsakt をともなう性的興奮 sexuellen Erregung の一時的徴 vorübergehenden Zeichenは、精神神経症によって、症状形成にとっての最も便利で適当な素材としてつかわれる。(フロイト『精神分析入門』第24章、1916年)

ーーここに「心的意味作用 psychische Bedeutung」とあるのが「ファルスの意味作用Bedeutung des Phallus」である。 そしてこれがリアルなリビドー興奮を飼い馴らす機能をもつ。

ラカン的語彙を使っていえば次の通り。

ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)

そしてミレールがアンコール以後のラカンの教えの核があるとする『制止、症状、不安』にはこうある。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力anziehenden Einfluß をあたえる。……

原抑圧 Verdrängungen は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。…

現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。…外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

ーー「精神神経症/現勢神経症」が、「後期抑圧/原抑圧」とある。

この「精神神経症/現勢神経症」が、ラカン用語でいえば、「象徴界的症状/現実界的サントーム」であり、「ファルス享楽/女性の享楽(身体の享楽)」である。

現在、日本においてもようやく若い研究者を中心に現勢神経症概念が(わずかながらにしろ)注目されつつあるが、この概念への注目は中井久夫にもある。

以下に現実神経症とあるのが、現勢神経症である。


現実神経症と外傷神経症の近似性
戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
今日の講演を「外傷性神経症」という題にしたわけは、私はPTSDという言葉ですべてを括ろうとは思っていないからです。外傷性の障害はもっと広い。外傷性神経症はフロイトの言葉です。

医療人類学者のヤングによれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。

もっともフロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。私はとりあえずこの言葉(外傷性神経症)を使う。時には外傷症候群とか外傷性障害とか、こういう形でとらえていきたいと思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。

目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
分裂病の底にありうる外傷神経症
統合失調症と外傷との関係は今も悩ましい問題である。そもそもPTSD概念はヴェトナム復員兵症候群の発見から始まり、カーディナーの研究をもとにして作られ、そして統合失調症と診断されていた多くの復員兵が20年以上たってからPTSDと再診断された。後追い的にレイプ後症候群との同一性がとりあげられたにすぎない。われわれは長期間虐待一般の受傷者に対する治療についてはなお手さぐりの状態である。複雑性PTSDの概念が保留になっているのは現状を端的に示す。いちおう2012年に予定されているDSM-Ⅴのためのアジェンダでも、PTSDについての論述は短く、主に文化的相違に触れているにすぎない。

しかし統合失調症の幼少期には外傷的体験が報告されていることが少なくない。それはPTSDの外傷の定義に合わないかもしれないが、小さなひびも、ある時ガラスを大きく割る原因とならないとも限らない。幼児心理において何が重大かはまたまだ探求しなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
外傷神経症の治癒方法
私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)



ーー女性の享楽が外傷神経症ときわめて近似しているのは、「女性の享楽はタナトスである」に示してある。この外傷とは事故による外傷ではなく、欲動に起因する構造的外傷である。すなわち「女性の享楽=身体の享楽」は、現勢神経症≒構造的外傷神経症である。

幼児期におこる病因的トラウマ ätiologische Traumenは…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である。

…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)

ここにあるトラウマへの固着としての「自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper」が、ラカンの「サントーム=身体の出来事」であり、サントームの享楽(女性の享楽)である。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)

最後に中井久夫を引用しよう。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

ーー《語りとしての自己史に統合されない「異物」》、これこそパロール享楽(ファルス享楽)の外部にある女性の享楽(身体の享楽)、あるいはその動因に相当するものであり、「暗闇に蔓延る異者としての身体」である。

中井久夫は同じ論で記憶にある幼児型記憶を10ほど挙げており、2番目に「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」とある。

………

ところで、である。じつはここからがスタートなのである。女性の享楽=身体の享楽はやはり解剖学的女性にかかわるノデアル・・・究極的ニハ。いや女性の享楽ではなく、女性への享楽である、男女ともに。いや女性への享楽でもない、こう書かねばならない、jouissance à LȺ Femme。イヤイヤまだ厳密ではない・・・蚊居肢散人はこういうことを書いてしまうから混乱をまねいてしまうのはヨクシッテイル・・・jouissance à LȺ Mère なんていっちゃあオシマイである・・・人はケッシテそんなことを言ってはナリマセン。

せいぜいこう二つの文を並べておくのが関の山である。先に言っておくが、モノ=異物であるのはミレールがとっくのむかし(1985年)に言っている。

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名(モノの名)、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。…ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[Ⱥ]と等価である。

Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre.[…] La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

ここで前期ラカンなんて引用したら絶対ダメである!

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

「モノ La Chose=享楽の空胞 vacuole de la jouissance」 ぐらいだったら曖昧化してラカン派商売はもうしばらくは繁盛することでせう。



次の文はだいぶアブナイ


享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…

大他者の享楽?確かに![« jouissance de l'Autre » ? Certes ! ]

…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


ここでフロイトが喪われた対象について何を言っているのか付け加えればゼンゼンあぶない。ラカン派商売おわりである・・・……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

以下、Patrick Valas版(テープ聞きおこし版)のサントームセミネールの核心箇所を貼り付けるが、ミレール版はまったくこうなっていない。世のマジメなラカニアンの不幸はここにある・・・日本のラカン派社交界のみなさんは? 30年ぐらいはまだ繁盛することでせう。






モノの名、すなわち穴Ⱥの名=S(Ⱥ)である。すべてはこのマテームにある。

ーーS(Ⱥ) = Sinthome Σ =S1[S1 sans S2]= Osbjet a (骨象a)= Fixierung (fixation de jouissance)[参照]。さらにこのS(Ⱥ) は原抑圧=超自我=死の欲動のマテームでもある[参照]。

大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…

「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。

il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)