2019年11月3日日曜日

女なんかなくても生きていける

音楽なんか聴かなくても生きていける。メッセージがあるとすれば、そういうことだ。クラッシク音楽が、聴き手にとってはとっくに死んだものであることに気づかずに、または気づかぬふりをして、まじめな音楽家たちは今日もしのぎをけずり、おたがいをけおとしあい、権力欲にうごかされて、はしりつづけている。(高橋悠治「家具になった音楽」讀賣新聞 夕刊 1982年10月21日のグールド追悼)






ところで何がなくちゃ生きていけないんだろう、衣食住以外で。

女のことになるとまず極まって悪く言っていたし、自分のいる席で女の話が出ようものなら、こんなふうに評し去るのが常だった。――「低級な人種ですよ!」(……)

さんざん苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女を何と呼ぼうといっこう差支えない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。男同士の仲間だと、退屈で気づまりで、ろくろく口もきかずに冷淡に構えているが、いったん女の仲間にはいるが早いかのびのびと解放された感じで、話題の選択から仕草物腰に至るまで、実に心得たものであった。(チェーホフ『犬を連れた奥さん』1899年)
一方の男が、女性の欠点と厄介な性質について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ』。(フロイト 『素人分析の問題Die Frage der Laienanalyse』1927年) 



トリュフォー『恋愛日記』(原題『女たちを愛した男 L'Homme qui aimait les femmes』)


一体に男はどういうことを求めて女の足に惚れるのだろうか。顔を見たら美形でないのをよく知っている女でも形のよい足を組み変えるのを見ただけで胸騒ぎがしてしまうのは狐に化かされたような気もするが、それでもその小股芸に陶酔すれば適当に血の廻りがよくなって頭も煩さくない程度に働き出し、女の足なしでは記憶に戻って来なかったことや思い当らなかったことと付き合って時間が過ごせる。しかしそれよりも何となし女の海に浮かんでいるような感じがするのが夕暮れに焚火に見入っているのと同じでいつまでもそうしていたい気持を起こさせる。この頃になって漸く解ったことはそれが出歯亀でも暇潰しでもなくてそれこそ自分が確かにいて生きていることの証拠でもあり、それを自分に知らせる方法でもあるということで、女の足とか火とかいうものがあってそれと向かい合っている形でいる時程そうやっている自分が生きものであることがはっきりすることはない。そうなれば人間は何の為にこの世にいるのかなどというのは全くの愚問になって、それは黄昏に焚火に見入り、女の匂いにほろ酔い機嫌になる為であり、それが出来なかったりその邪魔をするものがあったりするから働きもし、奔走もし、出世もし、若い頃は苦労しましたなどと言いもするのではないか。我々は幾ら金と名誉を一身に集めても女の股の薫りが高くなるわけでも火の色をして我々の眼の前で燃えることもない。又股の奥を拝むのに金や名誉がそんなに沢山なくてはならないということもない。