2019年11月19日火曜日

愛の対象はダシである

前期ラカンはーーといっても61歳のラカンだがーー、「愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということ」と言っている。

フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)

ここで言われているのはあきらかに自体性愛のことであり、後年の享楽自体=女性の享楽である。


自体性愛=享楽自体=女性の享楽=性関係はない
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
ラカンは女性の享楽 jouissance féminine の特性を男性の享楽 jouissance masculine との関係で確認した。それは、セミネール18 、19、20とエトゥルディにおいてなされた。だが第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される[ la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
享楽は関係性を構築しない (「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」)。これは現実界的条件である。la jouissance ne se prête pas à faire rapport. C'est la condition réelle(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)



享楽が本来的に愛の力であることは、以下の文が示している。


享楽=リビドー=愛の力
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
哲学者プラトンのエロスErosは、その由来や作用や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)




この自体性愛=享楽自体=女性の享楽は、「サントームの享楽 la jouissance du sinthome」 とも呼ばれる。

そしてサントーム=享楽の固着=身体の上への刻印=骨象a (欲望の原因としての対象a)である(参照:サントームは固着である Le sinthome est la fixation)。

この「欲望の原因としての対象a」を覆うのがイマジネールな愛の対象(囮の対象)である。

幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)
愛自体は見せかけに宛てられる [L'amour lui-même s'adresse du semblant]。…存在の見せかけ[semblant d'être]、……《私マジネール [i-maginaire]》…それは、欲望の原因としての対象aを包み隠す自己イマージュの覆い [l'habillement de l'image de soi qui vient envelopper l'objet cause du désir]の基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 09/03/2011)






このi(a) が「恋に恋する」機制における対象である。

わたしが欲しているのはわたしの欲望であり、恋愛対象というのはそのだしになってきたにすぎない c'est mon désir que je désire, et l'être aimé n'est plus que son suppôt。…わたしはイマージュを「想像界」の生賛にする。したがって、いつの日かあの人をあきらめるときが来ても、そのときわたしを把える激しい喪は、「想像界」そのものの喪あるだろう。それこそがわたしの愛したものであったからだ。愛の喪失を涙するのであり、特定の彼/彼女を思って涙するわけではない。je pleure la perte de l'amour, non de tel ou telle。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「恋に恋する Aimer l'amour」1977年)
愛とは、つまりあのイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる l'autre vous revêt、そしてあなたを装う(あなたをドレスするhabille)自己イマージュ image de soi であり、またそれがはぎ取られる(脱ドレスされる êtes dérobée)ときあなたを見捨てるlaisse 自己イマージュである。(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)


もっともこれだけではない、と言っておこう。たとえば最初のセミネールのラカン(53歳のラカン)は次のように言っている。30年ほどまえラカンをはじめて読んだときからのお気に入りの文である。とくに「鳥もち」が。

イマジネールなパッション passion imaginaire としての愛を、愛が象徴的平面で構成する能動的贈与 don actif とを区別することを学んでください。愛、愛されることを欲望 désir d'être aimé する人の愛は本質的に、対象としての自分自身の中に他者を捕獲する capture 試みなのです。

愛されたい欲望 désir d'être aimé、それは、愛してくれる対象 objet aimant がそれとして捉えられて、対象としての自分自身の絶対的個別性のうちに鳥もちづけられ englué,、隷属させられる asservi 欲望です。愛されることを熱望する人は、自分の美点 bien のため愛されることにはほとんど満足しません。その主体が求めていることは、主体が個別性への完全な転覆 subversion に行くほど愛されること、つまりその個別性が持っているかもしれない、最も不透明で最も考えることもできないものにまで主体が完全に逆転されるほど愛されることです。人は自己のすべてのために愛されることを望むのです。デカルトが言うように、単にその自我のためだけでなく、髪の色とか、癖とか、弱さとか、全てのことのために愛されたいと望むのです。

しかし逆に、私としては相関的にと言いますが、まさしくこのために、愛することはそう見えるものの彼岸で au-delà de ce qu'il apparaît être 存在を愛することです。愛の能動的贈与 Le don actif de l'amour は他者を、その特殊性ではなく、その存在において他者を狙います。

愛、 パッション としての愛ではなく、 能動的贈与としての愛はつねに、 想像的捕縛の彼岸 au-delà de cette captivation imaginaire、愛される主体 sujet aimé の存在、彼の個別性に狙いを定めます。だからこそ愛は、かなりのところまで、愛される主体の弱点、迂回 détours を受け入れることができます。愛は(相手の)誤謬を認めることもできます。しかし、愛が停止するポイントがあります。存在との関係でしか位置づけられないポイントです―愛される存在が、自身の裏切りへと至るとき、自己欺瞞に固執するとき、愛はもはや続きません。quand l'être aimé va trop loin dans la trahison de lui-même et persévère dans la tromperie de soi, l'amour ne suit plus.(ラカン, S1, 07 Juillet 1954)

そして70年代のラカンはドゥイノのリルケ的な「見返りのない愛」と捉えうるようなことも言うようになる。

神への愛の頂点は、神に次のように言うことである、「もしこれがあなたの意志なら、私を咎めてください」… que le comble de l'amour de Dieu, ça devait être de lui dire… «si c'est ta volonté, damne-moi»(Lacan, Milano. LA PSICOANALISI NELLA SUA REFERENZA AL RAPPORTO SESSUALE , 1973)


そしてこの後にしばしば引用している「神とは実際は女というものだ」という話がくる。

問題となっている女というものは神の別の名である。その理由で、女というものは存在しないのである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas (ラカン、S23、18 Novembre 1975)
精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。Dieu, […] dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)

この時期にラカンは次のように言っている。

フロイトは、幼児が自己身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…私は、これに不賛成 n'être pas d'accordである。…自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro.

…ヘテロhétéro、すなわち「異物 (異者étrangère)」である。
(LACAN, CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)

ここでのラカンはフロイトに不賛成だといっているが、異物とはフロイト概念である。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)

結局、ラカンにとっての究極の愛=享楽の形態は、自体性愛ではなく、「異者としての身体の享楽」だとわたくしは考えている(参照:暗闇に蔓延る異者としての女)。

この「異者としての身体」とはほぼ、ラカンの外密=フロイトのモノのことでもある。

ラカンは外密 extimitéという語を…フロイトとハイデガー が使ったモノdas Ding (la Chose)から導き出した。…外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体 corps étrangerのモデルである。…外密はフロイトの「不気味なものUnheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合うnégations s'annulent 語である。(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)

ここでアウグスティヌスの言葉を思い起こしておいてもよい。

神は「わたしのもっとも内なるところよりもっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました。(interior intimo meo et superior summo meo)」(聖アウグスティヌス『告白』)

まさに前期ラカンの外密の定義と相同的である、ーー 《私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン,S7, 03 Février 1960)。

もっとも中期には、外密=モノ=享楽の空胞 [extimité=La Chose=vacuole de la jouissance] (1969)と言うようになる。

ミレールは「外密 extimité≒不気味なものUnheimlich」と言っているが、ラカンは不気味なものを「欠如の欠如 manque du manque=穴ウマ(troumatisme =穴-トラウマ)」といった。

フロイトにとって究極の不気味なものは、女陰である(参照:なんでも穴である)。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

ここで敢えてこういっておこう、アウグスティヌスの"interior intimo meo et superior summo meo"とは、フロイト的には女陰、ラカン的には穴であると(ラカンの穴とはすべての呑み込むブラックホールであり、フロイトの引力=エロスの力でもある)。

享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」[Ⱥ]と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」[S(Ⱥ) ]に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、原穴の名 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ようするに父は母の穴の穴埋めであり、一神教的神への愛はダシ、囮にすぎない。


漢字でみるとよくわかるように穴が化けたイカサマの愛である。

ラカン理論の核心は親友ダリがすでに早い段階で表現していることでもある。



これはじつは最晩年のフロイトもほぼ似たようなことを言っているのである。

偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替されるMuttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)