2019年12月7日土曜日

シナナイタメニ

ある文章を見出そうとEvernoteの「引き出し」を探っていたら、探っていた文とは別の文に行き当たって立ち止まった。以前にも引用したことがあるけれど、とてもいい話だ。

「シャガールはね」と彼は語った。「朝早く、アトリエに来て、鉄のパレットを取り出す。九十四歳の彼が鉄のパレットだぜ。そこへ色を盛り上げ、カンバスにどしどし色を塗る。たいへんな仕事量だ。そして、夕焼けがアトリエの窓を染めると、部屋じゅうくまなく掃除して、雑巾をかえ、パレットをきれいに洗って、さあ帰ろうという。ある時、見かねてオレがやると言ったら、じいさん何と言ったと思う? 俺を殺す気か、これをやってるから俺は今まで生きてるんだとね、で、またごしごしさ」。いい話であった。私の大好きなライナー・チムニクの童話『クレーン男』のように、日々の力を信じて愚直に生きること―――。私は頭の中で、病なお残る若い身空の荒川になり、床に近いソファに横になって、立ち働く老ユダヤ人画家を見上げてみた。毎日ここにいたら、自分の中の何かが快癒してゆくだろうなと思った。日本の精神科医が治せなかった一青年を癒して画家にしたシャガールの偉大さが身にしみた。(中井久夫「荒川修作との一夜」1990年『記憶の肖像』所収)





以下、前後をふくめて引用。


シナナイタメニ
私はあわてていた。

前日、京都大学の木村敏教授から電話があった。「アラカワ・シュウサクという画家がボクたち二人にあいたいんだと。哲学者の市川浩さんからの依頼だ。キミといっしょにあったことのある、あの市川さんだ。(……)ひとつ、たのむよ。蹴上の都ホテルだ、三月十七日の夜七時、いいね」。茫然とした、「荒川修作って……」といいかけたとたろで、電話は切れた。……
ホテルのロビーに入ると、木村敏教授と市川教授が談笑しておられる。私の顔を見て市川さんが消えた。やがて、闘志満々、黒ズボンに白いシャツをまくりあげたのが、小柄な白人の女性をともなってやってくる。あれが音に聞く荒川なのか。

五人がおたがいに紹介しあった。荒川は、漆黒の頭髪が波打ち、きゅっとしまった容貌の真中に黒ダイヤの眼が光る。私には見えないものをふくめて、実に多くのものをみつめてきた眼だ。日本人にしては白い肌がニスの光沢を帯びて深いところから赤みがさしているのを、ほとんど美しいと、私は思った。動作はむしろぎこちなかった。時折、顔面をくしゃくしゃさせた。稲妻のように素早く―――。

女性はマドリン・ギンズ。夫人で「同士です」とのこと。……
実に意外にも話題は名古屋の町になった。彼は瑞穂区滝子の開業医の息子である。われわれには名古屋市立大学医学部精神科に奉職し「木村教授・中井助教授」という時期があった。…

「滝子!」と二人は叫んだ。「名市大病院 から三百メートル。旧制八高のあったところじゃないですか」「そうですよ」。母君がご健在だという。戦災を免れて今も銅で壁を鎧った「しもたや」の並ぶ町並が眼に浮かんだ。土地の人間でないのに名古屋が大好きな二人に、荒川は、フランス人が「愉快な意外[ボンヌ・シュルプリーズ]」というものを感じたのであろうか。思わぬことを語りはじめた。以下、英語、日本語、手まね身ぷりをまじえて進行した会話の、しかもメモなどとらない、まったくの記憶であるから、きっと聞き間違いが多いであろう。そういうものとして読んで下さるように。荒川には、はるかに非礼を謝したい。荒川が日本語を思い出し思い出しつつ語ったからにはなおさらである。

「母は私がニューヨークでやっていることを知らないはずです」と―――私の聞き間違いでなければ―――荒川は言った。「ぼくがまだ東京でノイローゼの治療していると思っているかも」。彼は東京である診療所にかかっていた。「ぼくの医者はひどいやつでね。ぜんぜん話にならん。最後に、おまえ、医者やめろと言ってやった」―――彼の顔が険しくなった。私たちは医者の名前を聞いて顔を見合わせた。「その人なら医者をやめて医師免許証も返還したという話ですよ。今では別の仕事で有名です。あなたのいうことをきいたのですね」。

今度は、彼が茫然とする番であった。「ほんとう? ほんとう」と彼は不安げに繰り返した。私は心配になった。「あなたはよい助言をされたわけです。彼は自分でも医者がいやだったとどこかで書いていますよ」。荒川はいくぶんほっとしたようであった。
「自分のは芸術ではない。そんな悠長なゆとりのあるものではない。あのね、英語でこういうけど(その言葉をど忘れしたのは私である:エッセイ集にまとめられた時点での注で、exhausted decisionであると、ある時ふっと思い出した、とある)、日本語でどういう?」「火事場の力? 窮地に出る思わぬ底力?」「かな、とにかく、ここでこうなら日本にいちゃだめだと思った。それでニューヨークに出たわけです。もう死ぬと思った。死なないために描いてきたのだ。死なないために、死なないために」。

何度「シナナイタメニ」が繰り返されたことであろう。(……)

彼は言った。「実は精神科医としてのあなた方に会いに来たのだ。あなた方はニューヨークでは有名です」。(……)

とにかく、荒川は、自分を死の瀬戸際に放置した日本の精神医学がその後どうなったか、すこしはましになったのかどうかを知ろうとやってきたのだ。驚くべきことである。……
私たちが合格と判定されたとは思わないが、準備した話を終えてほっとしたのか、荒川は、シャガールに可愛がられた話を始めた。南フランス、いわゆる紺碧海岸のシャガールのアトリエに荒川が起居した一時期があったのだった。

「シャガールはね」と彼は語った。「朝早く、アトリエに来て、鉄のパレットを取り出す。九十四歳の彼が鉄のパレットだぜ。そこへ色を盛り上げ、カンバスにどしどし色を塗る。たいへんな仕事量だ。そして、夕焼けがアトリエの窓を染めると、部屋じゅうくまなく掃除して、雑巾をかえ、パレットをきれいに洗って、さあ帰ろうという。ある時、見かねてオレがやると言ったら、じいさん何と言ったと思う? 俺を殺す気か、これをやってるから俺は今まで生きてるんだとね、で、またごしごしさ」。いい話であった。私の大好きなライナー・チムニクの童話『クレーン男』のように、日々の力を信じて愚直に生きること―――。私は頭の中で、病なお残る若い身空の荒川になり、床に近いソファに横になって、立ち働く老ユダヤ人画家を見上げてみた。毎日ここにいたら、自分の中の何かが快癒してゆくだろうなと思った。日本の精神科医が治せなかった一青年を癒して画家にしたシャガールの偉大さが身にしみた。
「死なないためにだ。俺は、死なないためにやっているのだ。芸術? そんなのんきなものじゃない」。私は、私の患者たちが描く、時として哀切な美しい画を思った。治癒するとみな平凡な画になる。しかし、才能が涸渇するのではない、必要がなくなるのだ。私の患者たちも「死なないために」やっているのだ。名古屋弁でいえば「必死こいて」――。(中井久夫「荒川修作との一夜」1990年『記憶の肖像』所収)


ひとつだけ付け加えておこう、中井久夫が上のように書いた2年後の語りである。

フロム=ライヒマンが、分裂病者の最善の改善像は芸術家だといっていますが、私はそうは思いません。そんなに社会には芸術家は要らないわけですし、さらに治ると平凡な作品になってしまうので、周囲がそれ以上治らないように配慮するわけです。リルケは、才能を無くするということでフロイトの治療を断わられたようです。もっとも、フロイトの治療を受けたほうがよかったかどうか分かりません。フロイトは、治療を探求より優先させる人かどうかわかりません。あいだに立ったハンス・カロッサがやめておけとリルケに言ったという説もあります。(中井久夫「分裂病についての自問自答」1992年)