2020年1月22日水曜日

こういうのを上品に言うの、どう言ったらいいのかしら

「だけどわたしは事実上───こういうのを上品に言うの、どう言ったらいいのかしら(笑)───とても数多くの、としときましょう・・・性的体験を経てきているの。しかも・・・とてもはげしいのを。何人もの男性とね」(マグリッド・デュラス)

5年ほど前ツイッターで拾ったのだがなくなっているな、
どこで言っているんだろうな。
ま、でもこれだよ、デュラスファンのみなさん。
これを何度もやっとかないとな。
それからだよ、女の身体を語れるのは。


安吾は40歳のときーー三千代さんとの結婚一年前だ、ーーこう言ってるけどさ。

そのとき中戸川が急に声を細めて、女房といふものはたゞ淫慾の動物だよ、毎晩幾度も要求されるのでとてもさうは身体がつゞかないよ、すると牧野信一が我が意を得たりとカラ〳〵と笑ひ、同感だ、うちの女房もさうなんだ、――とみゑさん、ごめんなさい、私はあんたを辱めてゐるのではないのです。どうして私があなたを辱め得ませうか。あなたは病みつかれ、然し、肉慾のかたまりで、遊びがいのちの火であつた。その悲しいいのちを正しい言葉で表した。遊びたはむれる肉体は、あなたのみではありません。あらゆる人間が、あらゆる人間の肉体が、又、魂が、さうなのです。あらゆる人間が遊んでゐます。そしてナマ半可な悟り方だの憎み方だのしてゐます。あなたはいのちを賭けたゞけだ。それにしても、あなたは世界にいくつもないなんと美しい言葉を生みだしたのだらう。(坂口安吾「蟹の泡」1946年)

どんなに頑張ったって、このくらいの齢までさ、あの冥界機械にタエラレルのは。



女の身体は冥界機械 chthonian machine である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)

フェミニズムは、宿命の女を神話的誹謗、陳腐なクリシェとして片づけようとしてきた。だが宿命の女は、太古からの永遠なる性的領野のコントロールを表現している。宿命の女の亡霊は、男たちの女とのすべての関係に忍びよっている。(Camille Paglia  "Sex, Art and American Culture: New Essays", 1992)
女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼と怪物の三姉妹(ゴルゴン)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの権力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia  “Vamps & Tramps: New Essays”、2011)




なによりも大切なのは、オマンコにも三界があることを十全に知ることではなかろうか?







愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る。あなたは言う、「そこだった、黒い夜、それはそこだ」(マルグリット・デュラス『死の病』)
Vous demandez comment le sentiment d'aimer pourrait survenir. Elle vous répond : Peut-être d'une faille soudaine dans la logique de l'univers. Elle dit : Par exemple d'une erreur. Elle dit : jamais d'un vouloir. Vous demandez : Le sentiment d'aimer pourrait-il survenir d'autres choses encore ? Vous la suppliez de dire. Elle dit : de tout, d'un vol d'oiseaux de nuit, d'un sommeil, d'un rêve de sommeil, de l'approche de la mort, d'un mot, d'un crime, de soi, de soi-même, soudain sans savoir comment. Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire. Vous dites : C'était là, la nuit noire, c'est là. (Marguerite Duras,  La maladie de la mort, 1981)



1980年、38歳年下の青年、同性愛者ヤン・アンドレアYann Andréaと知り合う。

男性のセクシャリティや女性のセクシャリティはない。一つのセクシャリティしかない。すべての関係はこの一つの性のなかで泳いでいる、同性愛的単独性が防水加工されてるわけはない。Il n’y a pas de sexualité masculine ou féminine. Il y a une seule sexualité dans laquelle baignent tous les rapports. La singularité homosexuelle n’est pas étanche.(マルグリット・デュラス Marguerite Duras, “The Thing”、1980)


ボクは言う、享楽は黒い夜の色。股の裂け目で宙吊りになっている。

リビドーは、空虚の色。裂け目の光のなかで宙吊りになっている libido[…] est couleur-de-vide : suspendue dans la lumière d'une béance(ラカン『フロイトの欲動』E851, 1964年)


ボクは言う、享楽の生垣での勃起萎縮。

トカゲの自傷、苦境のなかの尻尾切り。享楽の生垣での欲望の災難 l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance(ラカン,E 853)


ボクは言う、ブラックホールはとっても怖いよ

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)


ボクは言う、まだ死にたくないや

死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


ボクは言う、あれらキチガイ女!

一人の女は精神病においてしか男というものに出会わない une femme ne rencontre L'homme que dans la psychose. (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)


よく言うよ、欲望と愛の等価性やら(欲望はシンボリック、愛はイマジネールだよ)、パッションが実存(論理的にはリアルだ)に意味を与えるなんて。

愛とはパッションである、でないとしたら、それはなにものでもない。欲望と愛の等価性は、全存在を要求するパッションのなかで開花し、実存に意味を贈与する。もし欲望に従うという絶対的な義務を遂行しなかったら、つまり、パッションを通過しなかったら、生涯になにひとつできはしない。

男たちにはパッションの可能性を究極まで生きる力がない。ー デュラス


デュラスの言ってる語彙を敢えて構造的におけばこうでしかないのでね。



そもそもデュラスは、オチンチンとオマンコの差を無視して物を言ってるだけさ、まったく繊細さが欠けるババアだな。で、こういうのをマガオで受け止めて何やら言ってる女ってのはまったく許しがたいね

宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナデンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。……

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。……

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリアcamille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
不安セミネール10において、ラカンは言う…「女は何も欠けていない La femme ne manque de rien」、ラカンは強調する、「それは明らかだ 」と。…

最初の転倒がある。享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられる embarrassé のは男である。男は選別されて去勢に遭遇する rencontre électivement – φ。勃起萎縮 détumescenceである。…

ラカンはティレシアスの神話 mythe de Tirésiasに援助を求めている。それは享楽のレベルでの女性に優越性 la supériorité féminine を示している。…

不安セミネール10にて、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。…性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出す il apporte l'organe et se retrouve avec – φ から。男は賭けをする。そして負けるのは男である Il apporte la mise, et c'est lui qui la perd。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のまま restant intacte, intouchéeであることを示している。(Jacques-Alain Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 2004年)





それともアレいけるかい? 一番最初にアレいっただろ。アレだったらモツよ、男だって。どうもそのケがまったくなさそうだからな。

パッションとはそもそもマルクスがちゃんと定義してるさ。

感性的であるということは、受苦的であるということである。Sinnlich sein ist leidend sein.それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的〔leidend〕な存在であり、自分の苦悩〔leiden〕を感受する存在であるから、一つのパッション的〔leidenschaftlich〕な存在である。(マルクス「経済学・哲学草稿」第三草稿)


デュラスはどうだったんだろ? ヤン・アンドレアと。たぶんやってるよ。母としてオイドをお世話したのさ、《男性の同性愛において見られる数多くの痕跡 traits がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。》(ラカン、S529 Janvier 1958

復員して暇を持てあましている若者らがギー兄さんの屋敷へ押しかけたというのは、いかにも自然なことだ。しかし夜を徹しての談判の後、それこそ奇態な懲罰の行為が行われたのだ。復員者たちは、屋敷に他の人間が近づくことができぬよう見張りをたて、また駐在所に連絡に走る者がおらぬよう気を配りもした。それから「千里眼」の時とおなじ装いと化粧とを、ギー兄さん及び介添えのセイさんにさせたのである。はじめの意図は、「千里眼」の実際を復員者たちの前で再現させる、という域を出なかっただろう。それからギー兄さんの女装の美しさが導火線をなしたにちがいないが、復員者たちは蔵屋敷から徴発した酒に酔って、女の恰好のギー兄さんに、セイさんと性交させようとした。しかしギー兄さんの性器が役に立たなかったので、 ――これは心のなかまで女になっとるが! と復員者は口ぐちにいって、今度は逆に、紐でキウリを腰に縛りつけたセイさんに、ギー兄さんの尻の穴でやらせたというのだ。ギー兄さんは屈強なもと兵隊どもに押さえつけられ、うつぶせにじゃなくてあおむけにされた、と話し手は両膝をかかげた寝姿まで真似て、さすがにその陋劣な恰好は聞き手たちの軽蔑をさそったものだ。ギー兄さんはただ痛そうな表情をしているだけだったが、いつまでも続けているうちに、本気になったセイさんが、 ――もうタマランですが! と声を放って泣いた …… この最後のくだりのみは、村のひそかな噂話から独立して酒席の笑い話しになることがあった。花見の折など、当の話題に敏感だった僕は、丸く座を組んだ酒盛の脇を、憤怒と口惜しさに躰を凍らせる具合にしてすりぬけたものだった。しかもそういう時、僕の頭の内には大人たちが愚かしく上機嫌で繰りかえす、もうタマランですが! という台詞が小さな渦巻を作って、それは嫌悪のみならず、ある官能的なコダマを呼び起こすようでもあったのである。(大江健三郎『懐かしき年への手紙』 )

よく希っていれば、望みはかなうねえ! それもまだ僕たちが若さを失ってしまわないうちに! (大江健三郎「大いなる日に」第一章『燃え上がる緑の木』第三部)
僕ハ、ズット、コノヨウナ性交ヲ夢見テイタヨ。コレマデズット、ズット…… 生レル前カラ、ズット、ダッカカモ知レナイホド。(大江健三郎「大いなる日に」第二章)
娘ノ扮装ヲサセテ若衆ニ鶏姦サレルコト……、アルイハ娘ニ張形ヲツケサセテ鶏姦サレルコト (大江健三郎「大いなる日に」第五章)