2020年1月20日月曜日

女性の享楽と女性の仮装


問いがあるので、何度も繰り返したことだが再度確認しておこう。女性の享楽 jouissance féminine は、生物学的女性の享楽ではなく、生物学的男性にもある両性の享楽である、と。

ラカンはファルス享楽(エディプス的な、大他者と禁止に結びついた享楽)と女性の享楽(リアルな身体の享楽、意味外の享楽)を区別した。Lacan avait distingué la jouissance phallique (ou œdipienne, reliée à l'Autre et à l'interdit) et la jouissance féminine (jouissance du corps, réelle, hors-sens).…

ジャック=アラン・ミレールはすべての言存在に女性の享楽を一般化した。J.-A. Miller généralise la jouissance féminine à tout parlêtre.  (JEAN GODEBSKI、Lacan … La jouissance、2018)

ほとんどの人は女性の享楽概念における「女性」というシニフィアンに囚われてしまい、いまだ誤解があるが、ここでJEAN GODEBSKIの言っていることは、ミレールの2011年のセミネールに基づいており、現在の主流臨床ラカン派のコモンセンスである。

最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


ミレール は同じセミネールでこうも言っている。

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


要するに欲動=享楽=自体性愛であり、自体性愛とは自己身体の享楽のことである。だが自己身体の享楽とは何か?

自己身体の享楽(=自体性愛)はあなたの身体を異者にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。…これはむしろ精神病の要素現象(本源現象)の審級にある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre… là c'est plutôt de l'ordre du phénomène élémentaire de la psychose ](Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)

「自己身体の享楽(=自体性愛)はあなたの身体を異者にする」とあるが、この異者corps étranger はフロイト概念「異物Fremdkörper」のことであり、フロイトは「たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen」(『制止、症状、不安』)としている。

より詳しくは、「異物の享楽 jouissance du corps étranger」に示してあるが、ここでは簡潔に言おう。享楽自体=女性の享楽=自己身体の享楽とは、「異者としての身体の享楽」のことである。これは主流ラカン派でもいまだコモンセンスになっていないので蚊居肢子はここで強調しておくことにする。そしてこれを別名、サントームの享楽とも呼ぶのである。

サントームの享楽 la jouissance du sinthome    (Jean-Claude Maleval,  Discontinuité - Continuité, 2018)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)


このサントームとは、また言存在のサントームということでもある。

・ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

・言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。

・言存在のサントーム le sinthome d'un parlêtreは、身体の出来事 ・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは「他の身体の症状」、「ひとりの女」でありうる。

le sinthome d'un parlêtre, c'est un événement de corps, une émergence de jouissance. Le corps en question d'ailleurs, rien ne dit que c'est le vôtre. Vous pouvez être le symptôme d'un autre corps pour peu que vous soyez une femme.


・サントームは、言存在の症状として、言存在の身体に属している。
Le sinthome, […]comme symptôme du parlêtre, lui, tient au corps du parlêtre.(J.-A. MILLER,L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT, 2014)


上で、「他の身体の症状」、「ひとりの女」とミレール が言っているのは次のラカン発言からである。

ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)


この他の身体の症状が、上に示した異者としての身体の症状である。

われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)


誰もが、自らにとって異者としての身体を持っている。フロイトはこれを「自我にとって治外法権」の身体、「内界にある自我の異郷」としての異物と表現している。

自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…

われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



要するにエスの身体である。その身体による「無意識のエスの反復強迫」である。

《リビドー 固着による「自動反復 Automatismus」=「無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es 」》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)

これが女性の享楽なのである。

わたくしが好むニーチェの表現ならこうである。

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)


このエスの反復強迫としてのサントームの享楽=女性の享楽は、また自閉的享楽とも呼ばれる。

サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉的享楽に帰着する。Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)


このピエール=ジル・ゲガーンが言っている自閉的享楽という表現は、ラカンはすでにセミネール10(1962年)段階で、フロイトの自体性愛と等置しつつ提示している。

ここで何度も繰り返し貼り付けているミレール 2005のセミネールの冒頭図を確認の意味で再掲しておこう。



左項に「真理」とあるが、これだけは誤解のないように注釈文を示しておこう。

真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である。
la vérité est intrinsèquement de la même essence que le mensonge. Le proton pseudos est aussi le faux ultime. Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant.  (JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)


上の図表の思考自体、実はフロイトに既にある。フロイトは初期から症状の二重構造を語っていた。左側の語彙群は上階の症状、右側の語彙群が地階の症状である。


フロイトはその理論の最初から、症状には二重構造があることを識別していた。一方には「欲動(身体的なもの)」、他方には「心的なもの」である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。……享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way by Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、2002)
ここで、咳 Husten や嗄れ声 Heiserkeit の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。地階 Zuunterst in der Schichtung には「器官的な誘引としてのリアルな咳の条件 realer, organisch bedingter Hustenreiz」 があることが推定され、それは「真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」のようなものである。

この刺激は固着しうる Reiz ist fixierbar が、それはその刺激がある身体領域 Körperregionと関係するからであり、ドラの場合、その身体領域が性感帯 erogenen Zone としての意味をもっているからなのである。したがってこの領域は興奮したリビドー erregten Libidoを表現するのに適しており、他方、咳や嗄れ声ののカタル Katarrhsはおそらく、最初の心的外被 psychische Umkleidung である。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片 Bruchstück einer Hysterie-Analyse(症例ドラ)』1905年)

つまりはこうである。




現実界を冥界と但し書きしてみたが、よく知られているように『夢解釈』の冒頭にはこうある。

天上の神々を説き伏せられぬのなら、冥界を動かさん Flectere si nequeo superos, Acheronta movebo.(ヴェルギリウス『アエネーイス』)




たとえば、前期ラカンが語った「女性の仮装 la mascarade féminine」とは上部構造の症状である。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装 la mascarade féminineと呼ぶことのできるものの彼方に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性 féminité のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)


後期ラカンの観点からは、女性の仮装は、ファルス享楽である。女性の享楽が事実上享楽自体であるという観点からは、ファルス享楽は、実際は「ファルス快楽」、「ファルス欲望」であり、女性の仮装に終始する女たちは、後期ラカン的には「男」である。


女性たちのなかにも、ファルス的な意味においてのみ享楽する女たちがいる。このファルス享楽は、シニフィアンに、象徴界に結びつけられた享楽である。…この場所におけるヒステリーの女性は、男に囚われたまま、男に同一化したままの(男へと疎外されたままの)女である。そしてこの場から、彼女は女性性とは何かという謎に接近する。

ヒステリーから逃れた別の女たちは、(ファルス享楽の彼岸にある)他の享楽 Autre jouissance(身体自体の享楽)、女性の享楽 jouissance féminineへのアクセスが可能になる。

ファルスとしての女は、他者の欲望 désir de l'Autre へと女性の仮装 mascarade を提供する。女は欲望の対象の見せかけを装い fait semblant、そしてその場からファルスとして自らを差し出す。女は、自らが輝くために、このファルスという欲望の対象を体現化することを受け入れる。

しかし彼女は、完全にはその場にいるわけでない。冷静な女なら、それをしっかりと確信している。すなわち、彼女は対象でないのを知っている elle sait qu'elle n'est pas l'objet。もっとも、彼女は自分が持っていないもの(ファルス)を与えることに戯れるかもしれない elle puisse jouer à donner ce qu'elle n'a pas。もし愛が介入するなら、いっそうそうである。というのは、彼女はそこで、罠にはまることを恐れずに、他者の欲望を惹き起こす存在であることを享楽しうる jouissant d'être la cause du désir de l'autre から。彼女の享楽が使い果たされないという条件のもとでだが。

彼女は、パートナーの幻想が彼女に要求する対象であることを見せかける。見せかけることとは、欲望の対象であることに戯れることである。彼女はこの場に魅惑され、女性のポジション内部で、享楽する jouisse。しかし彼女は、この状況から抜け出さねばならない。というのは、彼女はいつまでも、見せかけの対象aの化身ではありえないから。…

女性の享楽は、「大他者の大他者はない」すなわち「性関係はない」という経験へのアクセスを獲得しうる場である。(Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)



最後に以前、対象aをいくらか細かく分類した図を掲げておこう。ここに女性の仮装mascarade féminineと女性の享楽jouissance féminineが示してあるから。