2020年1月24日金曜日

人はみな夢想する

いやボクはおおむかしいくつか読んだぐらいでね、デュラスは。最近は英訳や原文でぱらぱらぐらいだな、断片をひろうとかね

でも2年間、きみのイマジネールな愛のことばかり指摘してきたんだよ、いまさらなんにもわからないって言われてもな、ひどくあきれかえる発言だな。きみが教えてほしいというから、そのことばかり書いてきたつもりだけどな。

そもそもナーニモわからずに、ついさいきんでも対象aうんぬんで、ボクがきみから完全に離れた理由を「オクソク鳥語」していたじゃないか、あれいったいなんだろうね、わかったふりかい? こいつは徹底的にダメだと思ってしまったな。

もうやめてくれないかな、浅はかな知をみとめるなら、それでおバカなことを書いてボクにしめそうとするのは。フロイトやラカンなどわかる必要はないよ、ボクはいきがかり上、いくらか学んだだけさ。

とはいえそもそもきみは文学だってイマジネールにしか読んでいないんじゃないかとさえさいきんは疑いだしたね、ま、ようするに夢をみているだけさ。

ま、それはそれでいいんじゃないか。

悪の根は夢想である。夢想はたんなる慰安であり、たんなる数多の不幸である。la racine du mal, c'est la rêverie. Elle est l'unique consolation, l'unique richesse des malheureux(シモーヌ・ヴェイユ「 空虚への注意attention à vide」)

ヴェイユみたいにいうつもりはないよ、ほかにもブスケ宛の書簡でおなじこと言っているがね、ひどい外傷をもつブスケにはいくらかシツレイだな、あれは。

夢想の定義にもよるが、ボクだって夢想しているさ。

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)

ようするに人はみな夢想する。

フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1979)
ーーラカンのいうことを文字通りうけとめれば、ある意味、きみのような人だってジュウブンに正当化されるよ。


私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique, 1993)
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴(=トラウマ)があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](Miller、Vie de Lacan, 17/03/2010 )
「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」…それは、ラカンの発言「人はみな狂っている Tout le monde est fou」を正当化する。この正当化されたレベルにおいて…、各人は性関係の構築をする[chacun a sa construction]。すなわち各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008) 
我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが穴=トラウマを為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)



そもそも享楽とは性関係はないってことだよ

享楽は現実界にあるla jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)

愛の結びつき liens d'amour を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。……「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」という事実、これは(症状としての愛の根にある)現実界的条件である。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)




ま、こういうことをいくら引用してもわかろうとしない人だってのがわかったが、きのう示したi(a)というマテームは何種類かある穴埋め(妄想・防衛)の最上部に位置づけられる性的妄想なんだ。

くりかえせばこういったことを記してもまったくムダだというのはよーくわかったよ。それは標準的な生をおくる人だったらみなそうだから、ムリして関心をもとうとしないことだな、言葉のイマージュだけに囚われて「言葉の首飾り」鳥語をするのは最悪だってことだ、それよりは関知しないほうがずーっとマシ。

とはいえボクにとって文学や芸術とは穴(トラウマ)に触れることだよ、穴のそばにいくことだ。それはリルケがいい、ジュネがいい、ジャコメッティがしめし、ベケットがいっていることだ。これはきみだってそうだと思っていたけど過大評価してたのかね。

なんでデュラスからイマジネールなパッションのみ読んでしまうのかと不思議でならないよ。彼女の小説ってのはこのパッションの裏に隠蔽されている穴をしめそうとするエクリチュールじゃないのかね。冒頭にいったようにたいして読んでいないから憶測でいっているだけだけど、すぐれた文学ってのはその相がかならずあるはずだよ。

穴ってのは、もじってアナーキー(穴アキ)と言ってもいいさ。

・文学者は、社会がアナーキーに突入する前に、あらかじめアナーキーの境に住んでいる番人みたいなものだと思っています。

・作家という職業を外側から考えてみると、何で喰わしてもらっているのか、考え込んでしまいます。よせばいいのに、その理由をあれこれ探ります。やはり、生死の境のアナーキーな場所に居留守する役割に対して、銭をもらっているんじゃないですか?(古井由吉『人生の色気』)

穴(トラウマ)とは、通常で言われるトラウマの意味もあるけど、現代ラカン派風にロジカルに言えば「参照の空虚」のことで、ま、ほんとうにアナーキーのことだよ。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée.を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。…

もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ(穴)の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)


で、きみの至高の穴埋めに戻れば、つまりイマジネールドツボぶりは2年まえからそうだな、あの一ヶ月のDMでもね。読み返してみてそう思ったね。最も典型的には鏡のなかの自己イマージュにうっとりするってヤツだな。具体的な例を「引用」してもいいが、傷つけないでほしいとか、優しくしてほしいとかDMでいってくるからな、手も足もでないよ。だいたいちょっと示唆しただけで「精神分析に殺される!」とか叫びだすんだから。で、そんなひとがいまさらなぜ対象aにふれようとするんだろ?

ま、ようするにきみは「男に疎外された女」をずっとやってきたんじゃないかね。ボクはそれをやめとけよ、と暗に示してきたんだ。ずっとずっと。

前回から最も初歩的なセミネール1のラカンをひけばこうだ。

パッションとしての愛は、本質的にイマジネールな平面にあり、…対象としての自分自身の中に他者を捕獲する試みである。l'amour en tant que passion ce quelque chose qui est essentiellement du plan imaginaire[…]est essentiellement tentative de capture de l'autre dans soi-même, objet pris en tant qu'objet. (Lacan, S1, 07 Juillet 1954)

以上、つまりはひどく不愉快だな、それ以外ないね。

今後、例をあげてもいいと言ったときのみ返事をするよ、責任上ね。それ以外はもうきみにはかかわりたくないね。ようする何を書いてももはや話がまったくかみあわないんだ。