2020年2月1日土曜日

あるときの、ある女の、ある表情


人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。(加藤周一『絵のなかの女たち』)






とってもいいな、この『マルグリット・ドートリッシュの肖像』(ベルナールト・ファン・オルレイ)の首から下をカットした画像。絵をみて久しぶりにからだが震えたよ。いままでこの絵をみたことがあったのかどうかでさえ判然としない絵画音痴の身なんだけど。

そう、「あなたが何を考えているかわかってるわ Je sais à quoi tu penses」どころか、「私」とさえ言ってないようで。

わたしは手に、一冊の書物を持っていた。ジョルジュ・バタイユの『マネ』だ。

マネの描く女性はみな、あなたが何を考えているかわかってるわ Je sais à quoi tu penses、と言っているようだ。おそらくそれは、この画家に至るまでは、--このことを私はマルローから学んだのだがーー内的な現実(réalité intérieure)が宇宙[コスモス]よりもまだ捉え難かったからだ。

ダ・ヴィンチやフェルメールの有名な物憂い微笑みは、まず、私、と言う。私、それから、世界。ピンクのショールを纏ったコローの女性さえ、オランピアの考えることを考えていない。ベルト・モリゾの考えることも、フォリー・ベルジュールの女給の考えることも。なぜなら、ついに世界が、内的世界が、宇宙[コスモス]とともに、近代絵画が始まったからだ。つまり、シネマトグラフが。つまり、言葉へと通じてゆく形式が。より正確を期すれば、思考する形式(une forme qui pense)が。映画は最初は思考するために作られたということは、すぐさま忘れられるだろう。だがそれは別の話だ。炎はアウシュヴィッツで決定的に消えてしまうだろう。この考えには、いささかの価値がある。(ゴダール『(複数の)映画史』「3A」)


最近の女はゴダールのいうような女ばっかりだからな、
さらにいえば媚びが生きがいみたいな女たち。
だからよけいホロリとなるね、ドートリッシュのような表情されると。
みんなあの表情をまだどこかにもっているはずなんだけどな。

あたしはけっして媚びてなんかいませんだって?

ーー「自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚である」(ラ・ロシュフーコー)

ラ・ロシュフーコーだったらあのマルグリットのあの表情にさえ媚びをみただろうし、たしかにあの内に内にむかうまなざしにもたぶん何かへの媚びはあるのかも、ーーたとえば神の眼差し(ここでは彼女の歴史上の「事実」は無視させていただき「妄想」に徹することにする)。

あるいは倒錯女かも。

テクストの舞台には、客席との間の柵がない。テクストのうしろに、能動的な者(作者)もいない。テクストの前に、受動的な者(読者)もいない。主体も、対象もない。テクストは文法的な態度を失わせる。それは、ある驚くべき著述家(アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius)の語っている区別できない眼だ。《私が神を見ている眼は、神が私を見ている眼と同じである[L'œil par où je vois Dieu est le même œil par où il me voit](ロラン・バルト『テキストの快楽』( Le plaisir du texte 、Date de parution 01/02/1973)
例えば、アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius 。彼は自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同している confondre son œil contemplatif avec l'œil dont Dieu le regarde。そこには、倒錯的享楽 la jouissance perverse があるといわざるをえない。(ラカン S.20, 20 Février 1973)







閑話休題


われら糞と尿のさなかより生まれ出づ 
inter faeces et urinam nascimur
然るに汝はわが最も内なる部分よりもなお内にいまし、わが最も高き部分よりもなお高くいましたまえり
ーー聖アウグスティヌス「告白」
tu autem eras interior intimo meo et superior summo meo   ―Aurelius Augustinus, Confessiones


アウグスティヌスのinterior intimo meo et superior summo meo とは、ラカンのextimité (extériorité intime)だ。

私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)
ラカンは外密 extimitéという語を…フロイトとハイデガーが使ったモノdas Ding (la Chose)から導き出した。…外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体corps étrangerのモデルである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合うnégations s'annulent 語である。(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)


上のミレール の注釈が示唆しているように、モノdas Ding=外密 extimitéはフロイトの不気味なものが起源。

女陰weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女陰 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


で、これでめでたしめでたしだよ、つまり「糞と尿のさなか inter faeces et urinam nascimur」も解決した。

問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)



Marguerite d Autriche par Bernard van Orley vers 1518



Le Dieu est LȺ Mère
享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.
神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」[Ⱥ]と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」[S(Ⱥ) ]に至る。

こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)
〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou (コレット・ソレールColette Soler « Humanisation ? »2014)



ミレールは、フロイトは父の名で立ち止まったと言っているが、最晩年のフロイトには母の名の示唆がある。
偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)

ようするに父の名 Nom-du-Père は母の名 Nom de la Mèreに対する防衛にすぎない。あるいは母なる穴Trou de la Mèreに対する防衛。






NP
父の名


LȺ Mère
母なる穴





「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(J.A. Miller, Clinique ironique, 1993)

以上、いつも言っていることだが、蚊居肢子はほとんど常にテキトウに書いているからな(誰かを罵倒するときだけマジだよ)、マガオでシンヨウしないように。あのマルグリット・ドートリッシュの表情に震えてーー聖なるパックリ女みたいでーー、瞬間的に血迷っただけかも。