2020年3月28日土曜日

嫁さん尻拭いの性格の弱い貴公子


ーーははあ、こういう観点もあるんだな、感心しちゃったよ。






優しく嫁さんの尻拭いしようとしてあの手この手を駆使し、野党のとってもこわそうなオバチャンたちにいじめられ続ける性格の弱い貴公子ってわけか


「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」

「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」ーー神戸新聞「清陰星雨」2006.9.30『日時計の影』所収)



若い人たちは女には気をつけないとな、道を誤るよ、ほんとに。







「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』1949年)
現在の天下の形勢は、男性中心、女性蔑視どころか、まさにその反対で女性が男女同権を唱えるどころか、せめて男女同権にしていただきたいと男性が哀訴嘆願し失地回復に汲々としている有り様だ。…まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっている生理のぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」1962年)
大いなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。…私が言っているのは、男たちは母による支配から妻による支配に向かうということだ。これが男たちの生の恐怖である。そしてフェミニズムはこの事実に目を塞いでいる。(カミール・パーリア Camille Paglia Vamps and Tramps、1994年)







いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。(ニーチェ『この人を見よ』)


いや、シツレイしました・・・

と写真を眺めていたらプルーストまで思い出しちゃったよ





ああ! 目もさめるばかりあざやかさに咲きでた花のなかにも、無常を知る人の心には、目に見えない微細なものの移ろいを見わけることができ、いま花ざかりのみずみずしい肉も、やがて乾燥するか、果実をむすんで、すでに予定されている不変の種子の形をととのえてゆくことが、見通されるのだ。朝の海面が快くふくらませるさざなみ、潮の動きも目につかないきわめて静かな海に、じっと動かず、そこに描きとめたように見えるさざなみ、そんなさざなみにも似た鼻の隆起を、人はうっとり目で追う。人間の顔面は、それを見つめているあいだは変わらないように見える、なぜなら、顔面の変革過程はきわめて緩慢なので、容易に目にはつかないからだ。しかしそうした少女たちのそばに、その母や叔母をならべて見ると、それらの顔立がたどった距離をはかるには十分であって、一般にみにくい型がもつ強い内的牽引力の作用で、顔立というものは、おやそ三十年足らずのあいだに、視力はついに傾き、顔面はすっかり地平線のかなたに沈んでもはや日の光を受けないところにまで達するだけの、そんな距離をあゆんでしまっているだろう。私は知るのであった、自分たちの種族、自分たちの民族性から脱却しきったつもりでいる人たちにあっても、その内部にひそんでいる、ユダヤ人的愛国主義や、キリスト教徒的遺伝が、根深く、避けられないものとして残っているように、アルベルチーヌやロズモンドやアンドレたちの咲き匂うばら色の花のかげには、彼女ら自身にも知られずに、いざ必要というときのために、大きな鼻や、突きでた口や、肥満体がたくわえられていることを。そうしたものは、おもてにあらわれると人をおどろかせるだろうが、じつは楽屋うらにいて、いつでも舞台に出られるように待機しているのであり、いわば、時と場合に呼応して、個人そのものに選考したある本性から突然に発生する、不慮不測、不可避の、ドレフェス主義とか、クレリカリスムとか、民族的、封建的軍国主義とかにそっくりなのであって、個人は、それらの個々の動機を本性ととりちがえ、本性と区別することができないままに、そうした本性によって考え、生き、進展し、強力となり、また死滅するのだ。精神的な面でも、われわれは自然界の法則に意外に強く依存していて、われわれの精神は、ある隠花植物のように、またはある禾本科植物のように、すでにはじめから種々の特性をそなえているのに、われわれはあとからそうした諸特性を選びとるものであるかのように思いこんでいる。われわれは二次的な観念しかとらえていないのが普通で、そういう観念を必然的に生みだす第一原因、いざという場合におもてにあらわれる第一原因(ユダヤ民族、フランス人の家系などといったもの)に気づかない。われわれには前者の二次的なものが、熟慮の結果のように見え、後者の根本的なものが、不摂生の結果のようにしか見えないかもしれないが、荳科植物がその形をそれの種子から受けついでいるように、おそらくわれわれは、家系から、生の観念も、死にいたる病気も、おなじように受けついでいるであろう。

一つの植物で、咲いたその花々がさまざまな時期にむすんでいるのをながめているように、私は、このバルベックの浜辺で、いろんな老婦人のなかに、私の女友達のみんながいつかそうなるであろうあのかたい種子、あるまるくふくれた球根を見たのであった。しかしそれがどうだったというのか? いまこのとき、それはまだ花ざかりの季節なのであった。 …… (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)