2020年5月25日月曜日

欲望の迷宮によって偽装されたフェティッシュ


吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。(……)

脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)

この1929年、27歳の小林秀雄の言う《言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない》とは、前回記した「言語のフェティシズム」を言っていると見なしてよい。

それは、若き柄谷が小林秀雄を引用してマルクスの商品のフェティシズムを語っている次の文を読めば明らかとなる筈である。

マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふりまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。

《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(「様々な意匠」)

むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。言うまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)

《マルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである》、ーーこれを誰が免れるだろう。

とくにすべての信者、それがマルクス主義であれ、民主主義であれ、あるいは精神分析であれ、信仰してしまったら、たちまちそれらはみなフェティッシュになってしまう。

ここで『資本論』の「商品のフェティシズム」の節から引こう。

一見したところ、商品はきわめて明白で平凡な物に見える。だがそれを分析してみると、形而上学や神学の細かな問題が一杯詰まった、ひじょうに複雑な物であることがわかる。Eine Ware scheint auf den  ersten  Blick  ein  selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, daß sie ein sehr vertracktes Ding ist, voll metaphysischer Spitzfindigkeit und theologischer Mücken.(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

ーー「形而上学や神学の細かな問題が一般詰まった voll metaphysischer Spitzfindigkeit und theologischer Mücken.」とあるのに注意しよう。

そしてこれが商品に取り憑いているのである。

商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

柄谷は上に引用した文で、《それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ》と言っているが、この価値形態が商品のフェティシズムなのである。

前回示した図をひとつだけ再掲しよう。



ラカン的にも、若き柄谷が言うように、フェティッシュとは本来、欲望の対象ではなく欲望の原因である。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。… 倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

倒錯者の対象a(「欲望の原因 cause du désir)は主体の側にある。…
神経症における対象a(「欲望の対象objet  du désir)は、大他者の側にある。

神経症者は自らの幻想に忙しいのである。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appâtである。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 02/06/2004)

ここでジャック=アラン・ミレール が言っているのは、倒錯者は(フェティッシュとしての)自らの対象aが「欲望の対象」ではなく「欲望の原因」(≒享楽の対象)だと、少なくとも常にうすうす気づいているが、他方、大他者の信者の審級にある神経症者ーー《大他者の大他者への信念[belief in the Other of the Other]、これが神経症的主体の特徴である》(PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains, 2009)ーーは、本来的な「欲望の原因」としての対象aを「欲望の対象」としてのアガルマ等に幻想的に変換させーーいやむしろ何か他の対象で覆ってーー、この囮の対象を崇めてしまう傾向があるということである(そもそもラカン的には《欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme 》(AE207, 1966))。

そしてこれを「欲望の迷宮による偽装」とも表現する。
倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム概念が見出されるc'est ce que retrouve le concept de sinthome. 

(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。Ca ne se condense pas dans un lieu privilégié qu'on appelle le fantasme (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)