2020年6月12日金曜日

一般化排除=女性のシニフィアンの排除

最近、わたくしが示していることは、今までの「真面目な」ラカン派注釈者が言ってきたことはほとんどすべて大きな欠陥があるということである。とくに原抑圧、排除、あるいは去勢の把握はとてつもなく大きな問題がある(これは象徴的去勢を強調しすぎたラカン自身の問題もかなりある)。

そして現在、主流臨床ラカン派では、このほとんどの注釈者が理解できていない原抑圧の時代と言われているのである。

後期ラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される(…)。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないリアルな症状である。…症状を読むことは、症状を原形式に還元することである。この原形式は、身体とシニフィアンとのあいだの物質的遭遇にある(…)。これはまさに主体の起源であり、書かれることを止めない。--《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire)(ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)ーー。我々は「フロイトの原抑圧の時代[the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung])にいるのである。ジャック=アラン・ミレール はこの「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心的装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。ここにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012)



ラカンは初期からこう言っている。

抑圧は何よりもまず固着である。le refoulement est d'abord une fixation (Lacan, S1, 07 Avril 1954)

実際、フロイトの「抑圧されたものの回帰」は固着点から始まる。フロイトはそれを症例シュレーバーで明言している。

したがって、わたくしの観点では、次のようなことをイメージで語ってしまうフロイト派も徹底的にダメである。

抑圧という概念の治療論的な意義について言えば、今、この概念を正面きって使う分析家は、自我心理学に属する分析家の一部を除いて、ほとんどいません。無意識的なものを上から押さえつけるという、抑圧という概念がもつイメージが臨床感覚にフィットしないということもあるでしょう。(十川幸司、座談会「来るべき精神分析」2009)



ここで数少ないまともな注釈者、3人の文をならべよう。

わたしたちは見ることができます。他の分析家たちは、欲望を生み出すために、去勢不安にかかわる父が必要不可欠だという前提から始めて、精神病は欲望を締め出す、不安さえ締め出すと結論しているのを。しかし精神病の最も典型的人物像を観察したら、彼らが欲望を欠如させているなどという結論をどうやって支持しうるというのでしょう? むしろ欲望概念の見直しが必要なのです。
Partant du postulat qu'il faut le père pour générer le désir avec l'angoisse de castration, on a vu des analystes conclure que la psychose excluait le désir, voire l'angoisse. Mais si nous regardons les figures les plus éminentes de la psychose, comment soutenir qu'elles sont en manque de désir ? Plutôt faut-il revoir le concept du désir (Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », 25/10/2013)
父の隠喩による象徴的去勢以前に、母なるシニフィアンに関わる別の原抑圧がある。…結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。(ロレンゾ・チーサLorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness, 2007、摘要訳)
フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、身体的なものが心的なものの領野外に置き残されるということである。…原抑圧はS(Ⱥ) に関わる [Primary repression concerns S(Ⱥ)]。…この固着としての原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real.  ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)



…………

以前、何度か示した話だが、排除に関してここに簡潔に掲げる。


精神病は去勢されていないとかつてはしばしばいわれたが、それは上階の二次原抑圧のレベルの話で、地階の一次原抑圧まで含めれば人はみな去勢されている。


一般化排除
父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)
ジャック=アラン=ミレールはこう言った、《私は排除概念の一般化をしたい。…ラカンの排除はたしかに精神病と父の名に関して設置された。だがこれは基本的に限定された排除の原則[doctrine de la forclusion restreinte]である。一般化排除の原則[doctrine de la forclusion généralisée]の余地がある。》(Ce qui fait insigne, 1987)

エリック・ロランはこれを受け、去勢に関して、限定された去勢と一般化去勢[la castration restreinte et de la castration généralisée.]があるとミレール に公式に喚起した。(Roger Cassin, Tout le monde délire, 2011)
すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 L femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(Anna Aromí & Xavier Esqué, PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018)

女性のシニフィアンの排除=一般化排除
女性のシニフィアンの排除の穴 trou de la forclusion de La femme, (Catherine Bonningue, Un « roque » final, 2012)
人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée.を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。…
もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ(大他者のなかの穴)の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)
「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性 のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与 している。…
私は、フロイトのテキストを拡大し、「性関係はないものとしての原抑圧の 名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、 この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女 というものの排除 la forclusion de la femme、これが「性関係はない 」 の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008)

父の名の排除➡︎S2の排除
「父の名の排除 」を「S2の排除 」と翻訳してどうしていけないわけがあろう?…Pourquoi ne pas traduire sous cette forme la forclusion du Nom-du-Père, la forclusion de ce S2 (Jacques-Alain Miller、L'INVENTION DU DÉLIRE、1995)
精神病においては、ふつうの精神病であろうと旧来の精神病であろうと、我々は一つきりのS1[le S1 tout seul]を見出す。それは留め金が外され décroché、 力動的無意識のなかに登録されていない désabonné。他方、神経症においては、S1は徴示化ペアS1-S2[la paire signifiante S1-S2]による無意識によって秩序付けられている。ジャック=アラン・ミレールは強調している、父の名の排除[la forclusion du Nom-du-Père]とは、実際はこのS2の排除[la forclusion de ce S2]のことだと。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne, Paloma Blanco Díaz, 2018)

精神病の主因は父の名の排除ではなく、父の名の過剰現前
精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(J.-A. Miller,  L’Autre sans Autre, 2013)


ここでアンコールの図を利用する。




神経症と精神病の相違はおそらく次のように示せる。


ーー精神病の場合、S2が排除されていれば、父の諸名の過剰現前があることをこの図で示したつもりである。

さてここからはいくらか肩の力を抜いて記す。つまりはマガオで受けとらなくてもいいよ、という意味である。

S2の非排除/排除は、父の隠喩の機能/非機能とすれば、精神病の場合、女はみな母である、とするミレール 派の女流分析家の見解がある。

父の隠喩は母を女に変える。La métaphore paternelle transforme la mère en femme…

(隠喩なき)父の機能は(隠喩とは反対に)女を母にするように見える。La fonction paternelle semble alors faire (contrairement à la métaphore) d’une femme une mère. (Sylvette PERAZZI , LES TROIS PERES ou la fonction paternelle, 2019)


もともと最初の父の諸名S1は母の名であり(参照)、S1-S2におけるS2が排除されていれば、論理的にそうなる。たぶん一神教ではない日本にはこのたぐいの男が多いから、女性の皆さん、お気をつけを!

ある時期以降、大他者を信じる神経症をバカにし続け、精神病を自認するラカンが次のように言うのは当然である。

quoad matrem(母として)、すなわち、《女というもの》は性関係において《母》としてのみ機能する。…que quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン, S20, 09 Janvier 1973
男は女になんか興味はない、もし母がなかったら。un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère. (ラカン、Conférences aux U.S.A, 1975)



そもそも厳密さを期したら、女はみな母であるのはアタリマエデアル

精神病は厳密さの試みである。この意味で、私は精神病者だと言いうる。私が精神病者なのは、唯一、常に厳密さを試みてきたからだ。La psychose est un essai de rigueur. En ce sens, je dirais que je suis psychotique. Je suis psychotique pour la seule raison que j’ai toujours essayée d’être rigoureux. (ラカン 、Universités nord-américaines.1975, « Yale University, Kanzer Seminar ».)


弘法大師だってそう言っている、

一切女人是我母(一切の女人これ我が母なり)(弘法大師空海『教王経開題』)

だいたい母の乳房が女の乳房に隠喩化するなんて神経症的嘘っぱちで、どの女の乳房だって母の乳房に決まっている。

小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である。Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung (フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)