2020年7月23日木曜日

わたしのアソコに呼び名がない

以下、メモである。まず「架橋するフェミニズム : 歴史・性・暴力」(2018年、PDF)という大阪大学のフェミニズム研究者たちの論文集の元橋利恵さんによるものから。


本稿のはじめに紹介したイベント「わたしのアソコに呼び名がない」の一幕を紹介する。本イベントでは「私の〇〇は〇〇〇〇と言っている!」という紙に参加者に好きな性器の呼び名と言葉を書いてもらうというワークショップが行われた。ファシリテーターを務めた性教育アドバイザーのあかたちかこ氏のアドバイスにより、あくまで特定の呼び方を薦めることはせずに各々の好きな呼び名で表現してもらった(図 4(p. 34)、図 5(p. 34))。


ここでイベント参加者による、 「わたしの〇〇は〇〇〇〇と言っている!」の一覧(図 5(p. 34))をみてみよう。女性器の呼び方に「まんこ」 「おまんこ」を使った人は 4 分の 1 ほどみられた。一般的に女性にとってはワイセツで忌避感のあるものを、あえて自分自身の選択として「おまんこ」を呼ぶことが女性器を自分のものとして「取り戻す」ことにつながっていくというのがワークショップの主旨でもあった。ワークショップでは、他にも、「むすめちゃん」「ムチュメタン」「ジュニア」と娘のように呼ぶ人もみられた。男性器が「息子」とまるで人格をもつ存在かのように称されることに対して、女性器は陰の存在として隠され続けてきたが、ここでは、男性器と対等な存在として女性器を位置づけている、また自らにとって大切なからだの一部であるという意思が伺える。

語りかける内容については、様々ではあるが基本的には性行為を念頭においたものが殆どである。そこでは、 「さみしい」「最近ひまなんだけど!」というものもあれば、例えば「自分しかいらない」「平和にくらしたい」「自分がほしい快楽しかいらない」「『入れられる』んじゃない!あたしが『飲み込む』んだよ」「ムリに使う必要はない」というものもある。女性器は性行為において繋がりや快楽を得る場所である一方で、傷つけ/傷つけられる可能性をもつ場所でもあることが踏まえられていることがわかる。しかし、それらを引き受けた上でなお自分の性の主体であろうという意思が表現されている。そして、「さぼりたい」「語りたい」「わたしのことが好き」「怒れ!」「自分探しの旅にでろ!」というように、女性器にとって「愛する」対象は性行為の相手だけではなく、自分自身であるというものもみられる。(第 3 章「新自由主義的セクシュアリティと若手フェミニストたちの抵抗」元橋利恵ーー架橋するフェミニズム : 歴史・性・暴力、2018年)


いやあとっても興味深い。でも蝦蟇口ってのはないんだな。


彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ Hast du auch ein Portemonnaie? Der Waller hat ein Würstchen, ich hab' ein Portemonnaie」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ Ja, ich hab' auch ein Portemonnaie」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢解釈』第6章「夢の仕事Traumarbeit」ーー蝦蟇口とソーセージ問題ふたたび



でも「『入れられる』んじゃない!あたしが『飲み込む』んだよ」ってのがあるからいいさ。これが決定的だよ。

男が女と寝るときには確かだな、…絞首台か何かの道のりを右往左往するのは。[monsieur  couche avec une femme en étant très sûr d'être… par le gibet ou autre chose …zigouillé à la sortie.]  ……もちろん女がパッションの過剰 excès passionnelsに囚われたときだがね。(Lacan, S7, 20  Janvier  1960)           


せっかくアソコのことを研究するなら、いまどきフロイトラカンなんてムリなことを言わないから、せめてカミール・パーリアぐらいは読んどけばいいのにな、大阪大学のフェミ研究者たちのあいだでもその痕跡がないのをみると、よほど日本の女たちには合わないんだろうか。

どの女も深淵を開く。男はその深淵のなかに落ちることを恐れ/欲望する。カミール・パーリアは、この関係性を『性のペルソナ』で最も簡潔に形式化した。米国ポリティカルコレクトネスのフェミニスト文化内部の爆弾のようにして。パーリア曰く、性は男が常に負ける闘争である。しかし男は絶えまなくこの競技に入場する、内的衝迫に促されて。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness、1998年)

宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナデンタータという北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。……

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。愛は男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女が潜在的に吸血鬼であることは、社会的逸脱ではなく、女の母なる機能の発展である。自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。

男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリアcamille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)

不安セミネール10において、ラカンは言う…「女は何も欠けていない La femme ne manque de rien」、ラカンは強調する、「それは明らかだ 」と。…
最初の転倒がある。享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられる embarrassé のは男である。男は選別されて去勢に遭遇する rencontre électivement – φ。勃起萎縮 détumescenceである。…
ラカンはティレシアスの神話 mythe de Tirésiasに援助を求めている。それは享楽のレベルでの女性に優越性 la supériorité féminine を示している。…
不安セミネール10にて、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。…性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出す il apporte l'organe et se retrouve avec – φ から。男は賭けをする。そして負けるのは男である。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のまま であることを示している。( J.A. Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE,  2004年)

女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。…

私は考える。想像力ーー赤い洪水でありうる流れやまないものーーを騒がせるのは、経血自体ではないと。そうではなく血のなかの胚乳、子宮の切れ端し、女の海という胎盤の水母である。

これが、人がそこから生まれて来た冥界的母胎である。われわれは、生物学的起源の場処としてのあの粘液に対して進化論的嫌悪感がある。女の宿命とは、毎月、時と存在の深淵に遭遇することである。深淵、それは女自身である。

女に対する歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。……

西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)


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◼️付記

母として quoad matrem、すなわち《女というもの》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère »(ラカン、S20、09 Janvier 1973)
男は女になんか興味ない、もし母がなかったら。un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère. (ラカン、Conférences aux U.S.A, 1975)
男は女と寝てみることだ、そうしたら分かる。それで充分だ。逆も一緒だ。il suffirait qu'un homme couche avec une femme pour qu'il la connaisse voire inversement. ラカン, S24, 16 novembre 1976)

男は、間違ってひとりの女に出会い、その女とともにあらゆることが起こる。つまり通常、「性交の成功が構成する失敗 」が起きる。L'homme, à se tromper, rencontre une femme, avec laquelle tout arrive : soit d'ordinaire ce ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel. (ラカン, テレヴィジョン, 1973)



去勢不安はもちろん唯一の抑圧の動因ではない。女性には去勢不安は見出されない。女性は去勢不安があるにもかかわらず、去勢される不安を持ちえない。女性の性において去勢不安は、愛の喪失の不安Angst vor dem Liebesverlustで代替される。愛の喪失は明瞭に、母の不在を見出したときの幼児の不安、その不安の後年の生で発展形である。

Die Kastrationsangst ist natürlich nicht das einzige Motiv der Verdrängung, sie hat ja bereits bei den Frauen keine Stätte, die zwar einen Kastrationskomplex haben, aber keine Kastrationsangst haben können. An ihre Stelle tritt beim anderen Geschlecht die Angst vor dem Liebesverlust, ersichtlich eine Fortbildung der Angst des Säuglings, wenn er die Mutter vermißt.    

あなた方は悟るだろう、この不安によって示される危険状況がいかにリアルなものかを。母が不在あるいは母が幼児から愛を退かせたとき、幼児のおそらく最も欲求の満足はもはや確かでない。そして最も苦痛な緊張感に曝される。次の考えを拒絶してはならない。つまり不安の決定因はその底に出生時の原不安の状況die Situation der ursprünglichen Geburtsangst を反復していることを。それは確かに母からの分離Trennung von der Mutterを示している。

Sie verstehen, welche reale Gefahrsituation durch diese Angst angezeigt wird. Wenn die Mutter abwesend ist oder dem Kind ihre Liebe entzogen hat, ist es ja der Befriedigung seiner Bedürfnisse nicht mehr sicher, möglicherweise den peinlichsten Spannungsgefühlen ausgesetzt. Weisen Sie die Idee nicht ab, daß diese Angstbedingungen im Grunde die Situation der ursprünglichen Geburtsangst wiederholen, die ja auch eine Trennung von der Mutter bedeutete. 

事実、あなた方がフェレンツィによて示唆された思考の流れを追って行くなら、去勢不安をこの系列に付け加えうる。というのは男性性器の喪失は、性行為において、もう一度母との融合、あるいは母の代理女との融合の不可能性をもたらすから。

Ja wenn Sie einem Gedankengang von Ferenczi folgen, können Sie auch die Kastrationsangst dieser Reihe anschließen, denn der Verlust des männlichen Gliedes hat ja die Unmöglichkeit einer Wiedervereinigung mit der Mutter oder dem Ersatz für sie im Sexualakt zur Folge. 

ついでながら言っておこう、母胎回帰という極めてよく起こる幻想は、性交願望の代理であると。die so häufige Phantasie der Rückkehr in den Mutterleib ist der Ersatz dieses Koituswunsches.(フロイト『新精神分析入門』第32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


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フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(カミール ・パーリア Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)
女性研究は、チャレンジなきグループ思考という居ごこちよい仲良し同士の沼沢地である。それは、稀な例外を除き、まったく学問的でない。アカデミックなフェミニストは、男たちだけでなく異をとなえる女たちを黙らせてきた。(Camille Paglia (2018). “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”)



男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯)両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。ここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、(徴としての)ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)

精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はありません。というのも、そこに入ったら幾何学者でもそれを探し求めるるのです。(ジャック=アラン・ミレール 「もう一人のラカン(D'un autre Lacan)」1980年)
実際、男性のシニフィアンはあります。そして、それしかないのです。フロイトも認めています。つまり、リビドーにはただ一つのシンボルがある、それは男性的シンボルで、女性的シニフィアンは喪われたシニフィアンであるということです。ですから、ラカンが「女というものは存在しない la Femme n'existe pas」というとき、彼はまさにフロイディアンなのです。おそらく、フロイト自身の方が完全にはフロイディアンではないのでしょう。(J.-A. Miller,「もう一人のラカン(D'un autre Lacan)」1980年)

女性のシニフィアンの排除がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas”この意味は、我々が持っているシニフィアンは、ファルスだけだということである。Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour,  27 avril 1983)
ファルスのゲシュタルトは、その徴がなされているか、徴がなされていないかとしての両性を差異化する機能を果たすシニフィアンを人間社会に提供する。(Safouan , Lacaniana、2001)

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
「女というものは存在しない」は、女というものの場処が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のままだということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会うことを妨げはしない。[La femme n’existe pas ne signifie pas que le lieu de la femme n’existe pas mais que ce lieu demeure essentiellement vide. Que ce lieu reste vide n’empêche pas que l’on puisse y rencontrer quelque chose](J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)
女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J-A. MILLER, エル・ピロポ El Piropo , 1979年)