2020年8月6日木曜日

ラカンの「利用」

質問をもらってるが、ボクはラカンのボロメオの環を厳密に示しているのではなく、ある意味「利用」しているだけだよ。

ラカンが「自我」をセミネール23で次のポジションに置いているのは知らないわけではない。



他にも三つの環の重なり目が重要だとはいえ、基本的には次の如くであるのは間違いない。

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン, S7, 03  Février  1960)
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)


だからザックリ次のように置ける。





こう置けば、フロイトの「自我-エス」図とともに、ボロメオの環を読むことができる。




ーーフロイト図の抑圧は原抑圧であり、原抑圧は何よりもまず固着(リビドーの固着・享楽の固着)。そして現在、主流臨床ラカン派の核心はこの原抑圧にある。


後期ラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される(…)。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないリアルな症状である。…症状を読むことは、症状を原形式に還元することである。この原形式は、身体とシニフィアンとのあいだの物質的遭遇にある(…)。これはまさに主体の起源であり、書かれることを止めない。--《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire)(ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)ーー。我々は「フロイトの原抑圧の時代[the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung])にいるのである。ジャック=アラン・ミレール はこの「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心的装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。ここにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012)

いろいろ言い出せばキリがないが、結局、現代主流ラカン派はフロイトの原抑圧に戻って思考してるのだから、ラカンのボロメオの環だってフロイト図に近づけて利用して何が悪いんだい、ってことだよ。