2020年10月27日火曜日

蛇女への愛

 


この書物はごく少数の人たちのものである。おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないであろう。それは、私のツァラトゥストラを理解する人たちであるかもしれない。今日すでに聞く耳をもっている者どもと、どうした私がおのれを取りちがえるはずがあろうか? ――やっと明後日が私のものである。父亡きのちに産みおとされる者もいく人かはいる。


人が私を理解し、しかも必然性をもって理解する諸条件、――私はそれを知りすぎるほどしっている。人は、私の真剣さに、私の激情にだけでも耐えるために、精神的な事柄において冷酷なまでに正直でなければならない。人は、山頂で生活することに、――政治や民族的我欲の憐れむべき当今の饒舌を、おのれの足下にながめることに、熟達していなければならない。人は無関心となってしまっていなければならない、はたして真理は有用であるのか、はたして真理は誰かに宿業となるのかとけっして問うてはならない・・・


今日誰ひとりとしてそれへの気力をもちあわせていない問いに対する強さからの偏愛、禁ぜられたものへの気力、迷宮へと予定されている運命[die Vorherbestimmung zum Labyrinth]、七つの孤独からの或る体験。新しい音楽を聞きわける新しい耳、最遠方をも見うる新しい眼。これまで沈黙しつづけてきた真理に対する一つの新しい良心。そして大規模な経済への意志、すなわち、この意志の力を、この意志の感激を手もとに保有しておくということ・・・おのれに対する畏敬、おのれへの愛、おのれへの絶対的自由・・・


いざよし![Wohlan! ]このような者のみが私の読者、私の正しい読者、私の予定されている読者である。残余の者どもになんのかかわありがあろうか? ――残余の者どもはたんに人類であるにすぎない。――人は人類を、力によって、魂の高さ[Höhe der Seele]によって、凌駕していなければならない、――軽蔑 [Verachtung]によって・・・(ニーチェ「反キリスト」序言、1888年)




ところで「迷宮へと予定されている運命[die Vorherbestimmung zum Labyrinth]」ってのはなんなんだろう。ニーチェがこう書いて132年たつのだから、「魂の高さ」を備えた方々はもうご存知なのだろうか。いつまでも軽蔑されているわけにはいかないよ・・・


迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿、1883年)

ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない。Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ..(ニーチェ遺稿、1887年秋)


アリアドネとはやはり古来からのあの蛇なんだろうか?


「女はその本質からして蛇であり、イヴである」――これはどの僧侶も知っている、したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる」»Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva« ― das weiß jeder Priester; »vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt« ... (ニーチェ『アンチクリスト』第48節、1888年)


ようするに迷宮へと予定されている運命とは蛇女への愛なんだろうか?


生への信頼は消え失せた。生自身が「一つの問題となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる「女への愛」 にほかならない・・・


Das Vertrauen zum Leben ist dahin; das Leben selber wurde ein P r o b l e m . ― Möge man ja nicht glauben, dass Einer damit nothwendig zum Düsterling, zur Schleiereule geworden sei! Selbst die Liebe zum Leben ist noch möglich, ― nur liebt man a n d e r s … Es ist die Liebe zu einem Weibe, das uns Zweifel macht…(ニーチェ対ワーグナー「エピローグ」1888年)


このあたりはひょっとしてむしろ常識的なことなのかもしれないよ。プルーストの小説の話者だってこう言っている。


女の一種の原罪、われわれに女たちを愛させるという罪 une espèce de péché originel de la femme, un péché qui nous les fait aimer (プルースト「囚われの女」)


たんにニーチェは挑発しているだけかもしれない、お前さんたち目を覚ませ! と。


わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを[ was Ariadne ist!]……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』1888年)


たいした謎でもないのではなかろうか?


『エスの本 Das Buch vom Es』(1923)を記したゲオルク・グロデックは、「アリアドネが何であるか was Ariadne ist!」は、当初は 「Wer Ariadne ist(アリアドネは誰であるか)」であったが、最終的に「was Ariadne ist! (何であるか)」に変えられていることをニーチェの自筆原稿に当たって示している。


ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」[»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten]と。…


(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。


グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)


人はみな非人間的な蛇女に生かされているに違いない。そうではなかろうか。


ところでアリアドネと私の恐ろしい女主人とどう違うんだろ?


何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人が怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

Was geschah mir? Wer gebeut diess? - Ach, meine zornige Herrin will es so, sie sprach zu mir: nannte ich je euch schon ihren Namen?  


きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。

Gestern gen Abend sprach zu mir _meine_stillste_Stunde_: das ist der Name meiner furchtbaren Herrin.  


〔・・・〕そのとき、声なき声がわたしに語った。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない。」

Da sprach es wieder ohne Stimme zu mir: `Du _willst_ nicht, Zarathustra? Ist diess auch wahr? Verstecke dich nicht in deinen Trotz!` - 

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1883年)


どう読んだってこの女主人は、蛇女だなぁ


ところで古代ギリシアでは永遠回帰はウロボロスにて表象されたらしい。ボクは無知だからごく最近まで知らなかったけど。一年ぐらい前に知ってまた忘れてたね、今これ記してて思い出したよ、こうやってダラダラ書く効用ってのはあるね


「純粋な者たち」よ、神の仮面 が、お前たちの前にぶら下っている。神の仮面のなかにお前たちの恐ろしいとぐろを巻く蛇(恐ろしいウロボロスgreulicher Ringelwurm)がいる。Eines Gottes Larve hängtet ihr um vor euch selber, ihr "Reinen": in eines Gottes Larve verkroch sich euer greulicher Ringelwurm. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「無垢な認識」)







悦 Lustが欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)



悦 LustってのはもちろんエスEsのことさ、



人間よ、エスの声を心して聞け!

静かに! 静かに! いまさまざまのことが聞えてくる、日中には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいまーー

Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, –

ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜の眠らぬ魂のなかに忍んでくる、ああ、ああ、なんという吐息をもたらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

– nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

ーーおまえには聞えぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかいるのが? あの古い、深い、深い真夜中 Mitternacht が語りかけるのが? おお、人間よ、心して聞け!

– hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu dir redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! 

(ニーチェ 『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第3節、1885年)


人間よ、悦の声を心して聞け!

おお、人間よ、心して聞け!

深い真夜中は何を語る?


「わたしは眠った、わたしは眠ったーー、

深い夢からわたしは目ざめた。--

世界は深い、

昼が考えたより深い。

世界の痛みは深いーー、

悦 Lustーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。

痛みは言う、去れ、と。

しかし、すべての悦は永遠を欲する、

深い、深い永遠を欲する!」

Oh Mensch! Gieb Acht!

Was spricht die tiefe Mitternacht?


»Ich schlief, ich schlief –,

»Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –

»Die Welt ist tief,

»Und tiefer als der Tag gedacht.

»Tief ist ihr Weh –,

»Lust – tiefer noch als Herzeleid:

»Weh spricht: Vergeh!

»Doch alle Lust will Ewigkeit

»will tiefe, tiefe Ewigkeit!«

(ニーチェ 『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第12節、1885年)




いやあ収穫あったな、この記事は。精神の下層階級の蚊居肢子にとって。もったいないな、中流階級向けに投稿するのが。学者だけじゃなくいまではどいつもこいつも精神の中流階級ばかりだからな。


学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)




小学生6年生のとき友達の家で楳図かずおの「へび女」読んでとってもビビったよ、




あれを機縁にボクの漫画期は終わったね、でSMマガジン系に移行したな。中学1年ですでに学んだんだけどな、学びを実践すること少ない人生を送ってしまって、思い返せば忸怩たる思いだよ。



「女のもとへ行くなら、鞭をたずさえることを忘れるな Du gehst zu Frauen? Vergiss die Peitsche nicht!」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」1883年)