2020年12月25日金曜日

同心円をめぐるやうにぢりぢり死の前へ歩み寄る

 


僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。(芥川龍之介「或旧友へ送る手記」昭和二年七月、遺稿)


作家としての彼が、文学史的にいかなる位置を占めるかは、公平なる第三者の判断に委すとして、僕などでも次のことは言えると思う。彼のごとき高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は、今後絶無であろう。古き和漢の伝統および趣味と欧州の学問趣味とを一身に備えた意味において、過渡期の日本における代表的な作家だろう。我々の次の時代においては、和漢の正統な伝統と趣味とが文芸に現われることなどは絶無であろうから。


彼は、文学上の読書においては、当代その比がないと思う。あの手記の中にあるマインレンデルについて、火葬場からの帰途、恒藤君が僕に訊いた。

「君、マインレンデルというのを知っているか。」

「知らない。君は。」

「僕も知らないんだ、あれは人の名かしらん。」

 山本有三、井汲清治、豊島與志雄の諸氏がいたが、誰も知らなかった。あの手記を読んで、マインレンデルを知っていたもの果たして幾人いただろう。二、三日して恒藤君が来訪しての話では、独逸の哲学者で、ショペンハウエルの影響を受け、厭世思想をいだき、結局自殺が最良の道であることを鼓吹した学者だろうとの事だった。

芥川はいろいろの方面で、多くのマインレンデルを読んでいる男に違いなかった。(菊池寛「芥川の事ども」1927(昭和2)年)


マインレンデルは頗る正確に死の魅力を記述してゐる。実際我々は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるやうにぢりぢり死の前へ歩み寄るのである。(芥川龍之介「侏儒の言葉」1927(昭和2)年)

この頃自分は Philipp Mainlaender が事を聞いて、その男の書いた救抜の哲学を読んで見た。 

此男は Hartmann の迷の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の廻りに大きい圏を画いて、震慄しながら歩いてゐる。その圏が漸く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。


さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。 

自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬」も無い。 

死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。(森鴎外「妄想」明治四十四年三月―四月)


…けれども先生の短歌や発句は何か微妙なものを失つてゐる。詩歌はその又微妙なものさへ掴めば、或程度の巧拙などは余り気がかりになるものではない。が、先生の短歌や発句は巧は即ち巧であるものの、不思議にも僕等に迫つて来ない。これは先生には短歌や発句は余戯に外ならなかつた為であらうか? しかしこの微妙なものは先生の戯曲や小説にもやはり鋒芒を露はしてゐない。(かう云ふのは先生の戯曲や小説を必しも無価値であると云ふのではない。)のみならず夏目先生の余戯だつた漢詩は、――殊に晩年の絶句などはおのづからこの微妙なものを捉へることに成功してゐる。(若し「わが仏尊し」の譏りを受けることを顧みないとすれば。) 


僕はかう云ふことを考へた揚句、畢竟森先生は僕等のやうに神経質に生まれついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢に詩人よりも何か他のものだつたと云ふ結論に達した。「澀江抽斎」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。いや、或は書かなかつたとしても、先生の精力は聡明の資と共に僕を動かさずには措かなかつたであらう。(芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」昭和二年二月―七月)



……………



その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。「室生君と僕との關係より、萩原君と僕との友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。」 


この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向つて次のやうな皮肉を言つた。

「君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。」


その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。(萩原朔太郎「芥川龍之介の死」1927(昭和2)年9月)


我等の故郷に歸らんとする、我等の往時の状態に還らんとする、希望と欲望とを見よ。如何にそれが、光に於ける蛾に似てゐるか。絶えざる憧憬を以て、常に、新なる春と新なる夏と、新なる月と新なる年とを、悦び望み、その憧憬する物の餘りに遲く來るのを歎ずる者は、實は彼自身己の滅亡を憧憬しつつあると云ふ事も、認めずにしまふ。しかし、この憧憬こそは、五元の精髓であり精神である。それは肉體の生活の中に幽閉せられながら、しかも猶、その源に歸る事を望んでやまない。自分は、諸君にかう云ふ事を知つて貰ひたいと思ふ。この同じ憧憬が、自然の中に生來存してゐる精髓だと云ふ事を。さうして、人間は世界の一タイプだと云ふ事を。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳(抄譯)大正3年頃)

かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。 


されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徴詩派の信條たる音樂である。(萩原朔太郎「青猫」序、1923(大正12)年)

クリストは一代の予言者になつた。同時に又彼自身の中の予言者は、――或は彼を生んだ聖霊はおのづから彼を飜弄し出した。我々は蝋燭の火に焼かれる蛾の中にも彼を感じるであらう。蛾は唯蛾の一匹に生まれた為に蝋燭の火に焼かれるのである。クリストも亦蛾と変ることはない。(芥川龍之介「西方の人」昭和二年七月十日、遺稿)



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三人は車の中で余り話さなかつたがただ自分は今まで同じ席上にゐた正宗氏のことを思ひ出してその人が自分には分り難いと云ふと、芥川は「あの人は非常に弱い人で人生が恐しいからいつも人生に対して白い牙を出してゐるのだ。僕には実によく分る」 と云つた。果してそれが正宗氏をよく解釈してゐるかどうか知らないが少くともその言葉は芥川自身を可なりよく語つてゐるやうに思ふ。(佐藤春夫「芥川龍之介を憶ふ」1928(昭和3)年)


反道徳とか、反キリストとか、超人とか、ニヒリスムとか、孤独とかいう言葉は、ニイチェの著作から取り上げられ、誤解され、濫用されているが、これらの言葉は、近代における最も禁欲的な思想家の過剰な精神力から生れた言葉だと思えば、誤解の余地はないだろう。彼は妹への手紙で言っている、「自分は生来おとなしい人間だから、自己を喚び覚ますために激しい言葉が必要なのだ」と。ニイチェがまだ八つの時、学校から帰ろうとすると、ひどい雨になった。生徒たちが蜘蛛の仔を散らすように逃げ還る中で、彼は濡れないように帽子を石盤上に置き、ハンケチですっかり包み、土砂降りの中をゆっくり歩いて還って来た。母親がずぶ濡れの態を咎めると、歩調を正して、静かに還るのが学校の規則だ、と答えた。発狂直前のある日、乱暴な馬車屋が、馬を虐待するのに往来で出会い、彼は泣きながら走って、馬の首を抱いた。ちなみに彼はこういうことを言っている、「私は、いつも賑やかさのみに苦しんだ。七歳の時、すでに私は、人間らしい言葉が、決して私に到達しないことを知った」。およそ人生で宗教と道徳くらい賑やかな音を立てるものはない。ニイチェは、キリストという人が賑やかだ、と考えたことは一度もない。(小林秀雄「ニイチェ雑感」1950年)



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私は自殺をする人間がきらひである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考へた経験があり、自殺を敢行しなかつたのは単に私の怯懦からだと思つてゐるが、自殺する文学者といふものを、どうも尊敬できない。武士には武士の徳目があつて、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあつては、作戦や突撃や一騎打と同一線上にある行為の一種にすぎない。だから私は、武士の自殺といふものはみとめる。しかし文学者の自殺はみとめない。〔・・・〕


あるひは私の心は、子羊のごとく、小鳩のごとく、傷つきやすく、涙もろく、抒情的で、感傷的なのかもしれない。それで心の弱い人を見ると、自分もさうなるかもしれないといふ恐怖を感じ、自戒の心が嫌悪に変はるのかもしれない。しかし厄介なことは、私のかうした自戒が、いつしか私自身の一種の道徳的傾向にまでなつてしまつたことである。〔・・・〕


自殺する作家は、洋の東西を問わず、ふしぎと藝術家意識を濃厚に持つた作家に多いやうである。〔・・・〕芥川は自殺が好きだつたから、自殺したのだ。私がさういふ生き方をきらひであつても、何も人の生き方に咎め立てする権利はない。(三島由紀夫「芥川龍之介について」1954(昭和29)年)

「大体僕は自殺する人間の衰えや弱さがきらいだ。でも一つだけ許せる種類の自殺がある。それは自己正当化の自殺だよ」(三島由紀夫『天人五衰』1970年)



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人としてまた藝術家としての芥川龍之介にとつて、最も致命的――嗟、この言葉こそ今は最も文字通りに讀まなければならなくなつたが――なものは、彼が多くの場合、否、殆どいつも容易に胸襟を開くことの出來ない人であつたといふ一點である。彼は端的に自己を語り出すことには堪えられない人であつた。


僕は嘗つて、作家としての彼を評して久米正雄の所謂「流露感」に乏しい事を指摘し、また彼は窮窟なチョッキを着てゐるとも云つた覺えがある。この僕の評に對して彼は「さう言へば、佐藤はまたあまり浴衣がけだから」と或る人に答へたといふことを、僕は間接に聞いた。


僕はまた彼が常に金玉の文字を心掛けるがために、彼の作品から却つて脈動が失はれるのではないかを不斷から恐れてゐた。忌憚なく言ふけれども、僕の目には彼の文字は肌の色も白く目鼻立も整然とはしてゐるけれども、しかしどうしても人形を思はせるのであつた。(佐藤春夫「芥川龍之介を哭す」1927(昭和2)年9月)

芥川の文章は彼の話振りの感興豊かなのに較べると、まるで光彩がない、喘えぎ〳〵で書かれてゐるやうな気がするが、その同じことが口で言はれる時には、殆ど言葉は跳梁してゐた。(佐藤春夫「芥川龍之介を憶ふ」1928(昭和3)年7月)


佐藤氏は芥川氏を窮屈なチョッキがぬげぬ人と評したが、芥川氏は佐藤氏を、あんまり浴衣がけだと評したそうだ。僕としては佐藤氏の浴衣がけにしばしば涼風が訪れたとは信じないのである。(小林秀雄「佐藤春夫論」昭和2年『作家の顔』所収)



➡︎「あらゆる形の自殺に、演技の意識が伴ふーーとは言えない