2021年1月14日木曜日

粕汁と魚醤

 


久しぶりに酒粕が手に入ったので粕汁を作ってこの数日そればかり飲んでいる。当地では基本的な日本食材は手に入るが酒粕は滅多に置いていない。ほとんどの人は粕汁など飲む習慣はないのだろう、私も京都に住むまではそのおいしさを知らなかった。そしてもちろん京都でも美味な店とそうでない店がある。


烏丸通りと四条通りの交差点から一本北の綾小路通りを東に入ると京都大丸の駐車場がある。その出入口の斜め前あたりに北に向かって、二人並んで歩くのは窮屈なほどの幅しかないひどく狭い袋小路があり、突き当たりだけがいくらか大きく開け左奥にカウンターだけの薄暗い一膳飯屋があった。いまウエブ上で検索する限りではもうなくなっているようだ。もう三十年前の話で、どこか敏腕な外科医のように痩身長躯の身にキリッとした白衣を纏った初老の主人ももう亡くなっているだろうから当然だが。


この店の主人はどこかの高級料亭の板前らしく昼だけしか開いていない。メニューは魚の焼き物か刺身、漬物、味噌汁か粕汁とご飯で、どれもが格別の味だった。ただの白いご飯がなぜこんなにおいしいんのだろうと今でも米の飯の旨さの記憶のなかにはこの店の味がある。大きな釜で炊いていたがどんな秘訣があったのか(とはいえ米は電気ではなくガスで炊くと別物になる、というぐらいは知っている。私の父は晩年一人暮らしをしつつ全きガス釜党だった)。


もっともこの飯屋はどの客が訪れても毎日ひとつの選択肢しかない。つまり刺身が食べたくても今日は焼き物です、という具合だ。店の名は失念したが、とりわけ粕汁は実に絶品だった。白味噌の味噌汁もとても美味だったがそれは他でも飲める。昼に自由な時間をもてた一時期、週に二度ほどは訪れたが、粕汁の日に当たるのが実に楽しみだった。


知り合いの京都人にもほとんど知られていないこの店を知ったのは、映画評論家かつ料理研究家の荻昌広のエッセイ集からだ。これも何という本だったか忘れたが、荻昌広ときくとあの袋小路の飯屋の主人の顔を思い出すぐらいその紹介文に感謝していた。


あの味を出すにはどうしたらいいんだろ。肝腎なのはやっぱり鰹節なんだろうか。でも荒削りなんてない。パックの鰹節を大量に使ったら勿体ないな、と思い魚醤を使ってみた。普段使うのとは異なったピュアアンチョビーの、しかもヴァージンオリーブオイルならず水に近い味のヴァージンヌックマムである。これがイケる。とってもイケる。珍しく自分の作ったものに唸った。酒粕もあの店と同じように新潟産の特別ヴァージョンーー主人はそう言っていたーーだったらもっとイケるかも。


母方の祖父は味噌汁の味にとてもうるさかった。母がよく話した。祖母の作った味噌汁の味が気に入らないと卓袱台をひっくり返したと。お父さんはどう作っても何も言わないから頼りないわとまで言ってそれが印象に残っている。