2022年1月16日日曜日

きのうのボクと今日のボクは違う

 これは基本じゃないかね


われわれはみな、もろもろの断片から成っており、その構成ははなはだ雑然として食い違っているから、各断片は各瞬間ごとに思い思いのことをする。だからある時のわれわれと、また別のある時のわれわれとの間には、われわれと他人との間におけるほどの距離がある。 (モンテーニュ『エセー』第3卷1章)


きのうのボクと今日のボクは違うんだ、他人だよ。


音楽なる最悪の芸術の趣味は殊更そうだ。



感覚的刺戟と感動とを問題にするならば、言語芸術のうちで最も詩に近く、またこれと自然的に結びつく芸術即ち音楽を詩の次位に置きたい。音楽は確かに概念にかかわりなく、純然たる感覚を通して語る芸術である、従ってまた詩と異なり、省察すべきものをあとに残すことをしない、それにも拘らず音楽は、詩よりもいっそう多様な仕方で我々の心を動かし、また一時的にもせよいっそう深い感動を我々に与えるのである〔・・・〕


これに反しておよそ芸術の価値を、それぞれの芸術による心的開発に従って評価し、また判断力において認識のために合同する心的能力〔構想力と悟性〕の拡張に基準を求めるならば、べての芸術のうちで音楽は最低の(しかし芸術を快適という見地から評価すれば最高の)地位を占めることになる[so hat Musik unter den schönen Künsten sofern den untersten (so wie unter denen, die zugleich nach ihrer Annehmlichkeit geschätzt werden, vielleicht den obersten) Platz](カント『判断力批判』第53節、篠田英雄訳)



音楽は詩以上に穴の効果があるからな。


ポエジーは意味の効果だけでなく、穴の効果である[la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou].  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)


穴の効果とは欲動の身体[le corps de la pulsion]の効果だ。


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


だからあっちにフラフラ、こっちにフラフラさ、ボクの音楽の趣味は。昨日と今日どころか、朝と夕でもぜんぜん違うね、女の趣味だってそうかも。




あなたは自分が何を欲しているのか知っているのだろうか? 


――自分は何が真理であるかを認識するには全く役に立たないかもしれない、この不安があなたを苦しめたことはないのだろうか? 自分の感覚や繊細さはあまりにも鈍く、それがあなたの視界を支配しているのではないかという不安が? 


あなたはまさに疲れているためにーーしばしば効果の強いものを、しばしば鎮静させるものを探すことに、気づくとすれば! 真理とは、あなたが、ほかならぬあなたがそれを受け入れるような性質のものでなければならないという、全き秘密の前提条件がいつもあるのだ! 

あるいはあなたは、冬の明るい朝のように凍って乾き、心に掛かる何ものも持っていない今日は、一層よい目を持っていると考えるのだろうか? 情熱と熱中が、思考の創造に正しさを調えてやるのに必要ではないのだろうか? ――そしてこれこそ見るということである! 


あたかもあなたは、人間を扱うのとは異なった関係を以って思考を扱いうるかのようである! この関係の中には、同じような道徳や、同じような誠実や、同じような下心や、同じような弛緩や、同じような臆病やーーあなたの愛すべき自我と憎むべき自我との総体がある! 


あなたの肉体的疲労は、諸事物にくすんだ色を与える。あなたの病熱は、それらを怪物にする! あなたの朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないだろうか?[Leuchtet euer Morgen nicht anders auf die Dinge, als euer Abend? ]


あなたはあらゆる認識の洞窟の中で、あなた自身の亡霊をーーあなたの視野から真理はその中に覆い隠されてしまった蜘蛛の巣としての亡霊をーー発見することを恐れていないのだろうか。あなたがそのようにひどく不注意に振る舞いたいと欲するのは、恐ろしい喜劇ではないのだろうか? ――(ニーチェ『曙光』539番、1881年)



自我は、この曲・この演奏家がナンバーワンだと言いたがる。だがそんなのは欲動の身体にとっては嘘っぱちだ、ーー《欲動…、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[Triebe …"der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"]》(ニーチェ「力への意志」遺稿1882 - Frühjahr 1887 )。渇いてないときだけだよ、欲動、つまりエスが自我の言うこときくのは。


エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)



とはいえ三度の飯ってのはある。



三度の飯は常食にして、佳肴山をなすとも、八時(おやつ)になればお茶菓子もよし。屋台店の立喰、用足の帰り道なぞ忘れがたき味あり。女房は三度の飯なり。立喰の鮓に舌鼓打てばとて、三度の飯がいらぬといふ訳あるべからず。家にきまつた三度の飯あればこそ、間食のぜいたくも言へるなり。 (荷風『四畳半襖の下張』)



で、あくまでボクの場合だが、この三度の飯がバッハ、とくにそのなかでもシブい曲ってことさ。



これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。…


シューマン、モーツァルト、シューベルト・・・ベートーヴェンですら、私にとって、一日を始めるには、物足りない。バッハでなくては。


どうして、と聞かれても困るが。完全で平静なるものが、必要なのだ。そして、完全と美の絶対の理想を、感じさせるくれるのは、私には、バッハしかない。(パブロ・カザルス『鳥の歌』)