2022年2月15日火曜日

左翼は右翼である

 


左翼であることは、先ず世界を、そして自分の国を、家族を、最後に自分自身を考えることだ。右翼であることは、その反対である[Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse](ドゥルーズ『アベセデール』1995年)


このドゥルーズの定義なら左翼とはタテマエ、右翼とはホンネの連中だ。人はみな最終的には自分自身が大事であるに決まっている。ホンネでは人はみな右翼である。一方、タテマエ左翼の別名は偽善である。


柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。


むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。


浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕


日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)


このコロナの二年強の間で、真の危機に陥ればどの国もタテマエの衣を脱ぎ捨てるのがはっきりした。

私にとって最も印象的だったのは、2020年の3月、ドイツやフランスが、コロナウイルスの感染拡大を受けて、「ヨーロッパの連帯の精神に反して」マスクなどの輸出制限を一時的にせよ決めたことだ。イタリアやスペインなどが困惑した。当時困惑した国側から見れば、これは容易に忘れ難い事態だろう。その後遺症はコロナ終結後も消滅するようには思えない。人権は偽善、連帯は偽善であり、真の危機に陥ればたちまち崩れ去る。

飢えだけではないのだ。ウィルスにて、人間のどうしようもないみにくさ、いやらしさが現れる。

一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていく

私は疲れきっていた。虚脱状態だった。火焔から逃げるのにふらふらになっていたといっていい。何を考える気力もなかった。それに、私は、あまりにも多くのものを見すぎていた。それこそ、何もかも。たとえば、私は爆弾が落ちるのを見た。…渦まく火焔を見た。…黒焦げの死体を見た。その死体を無造作に片づける自分の手を見た。死体のそばで平気でものを食べる自分たちを見た。高貴な精神が、一瞬にして醜悪なものにかわるのを見た。一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていくのを見た。人間のもつどうしようもないみにくさ、いやらしさも見た。そして、その人間の一人にすぎない自分を、私は見た。(『小田実全仕事』第八巻六四貢)


人はみなエゴイストである。それぞれの国もみなエゴイスト国家である。たんに歯痛でそうなる。

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心[libidinöse Interesse] を自分の愛の対象[Liebesobjekten] から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。


このような事実が月並みだからといって、これをリビドー理論[ Libidotheorie] の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー 備給[Libidobesetzungen]を彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと。

W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している[Einzig in der engen Höhle]」と述べている。リビドーと自我の関心[Libido und Ichinteresse]とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心[intensiver Liebesbereitschaft]が、肉体上の障害のために追いはらわれ、突然、完全な無関心[völlige Gleichgültigkeit]にとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


これが人間の実相だ。真の危機に襲われれば、各国のエゴイズムが赤裸々に露出することが周知された今、人間とは、国家とはそういうものだと諦めてこのまま偽善で繕いながらやっていくのか、別の方策を探るのかという二つの道がある。例えば後者の道は、国民アイデンティティへの強迫観念の終焉を模索することだ。



アラン・バディウ)私はコミュニスト仮説[hypothèse communiste] への強い意志を持ち続けている。


ローラン・ジョフラン) そんなものはもはや誰も欲していない。


ジョフラン)あなたが考えているコミュニスト社会の原理とは何なのか?


バディウ)これまでに分かっている仕事は、コミュニスト社会の四つの根源的原理だ。


①生産手段における私有財産の廃止。

②労働における分割の終焉。分割すなわち、命令と遂行とのあいだの分割。知的労働と肉体労働とのあいだの分割。

③国民アイデンティティへの強迫観念の終焉。

④これらすべてを集団的討議の賛同のもと国家弱体化によって成就すること。


(Alain Badiou debates Laurent Joffrin, a reformist (and editor of Libérationnewspaper), who defends existing social democracy. ,2017)


これ以外の左翼はもはや左翼ではなく、たんに道化師だ。厚顔無恥なネトウヨ的愛国者と変わらない。これが現在のラディカル左翼の立場である。


左翼はひどく悲劇的状況にある。…彼らは言う、「資本主義は限界だ。われわれは新しい何かを見出さねばならない」と。だがあれら左翼連中はほんとうに代案のヴィジョンをもっているのか? 左翼が主として語っていることは、人間の顔をした世界資本主義[global capitalism with a human face]に過ぎない。…私は左翼を信用していない[I don't trust leftists ](Slavoj Žižek interview: “Trump created a crack in the liberal centrist hegemony” 9 JANUARY 2019)




現在の左翼は結局ポピュリストに過ぎない。


ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。(…)


ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)


資本主義システムの根を問うこと、それがマルクスがやったことだ。


(資本システムにおいて)支配しているのは、自由,平等,所有,およびベンサムだけである。Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham. 〔・・・〕

ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は,彼らの自己利益,彼らの特別利得,彼らの私益という力だけである。

Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen.(マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章



バディウやジジェク、柄谷もそうだが、ここに現在数少ない根源的左翼、真の左翼がいる。


アラン・バディウは、我々の「民主主義的」神経過敏[our “democratic” sensitivity]に対して「新しいタイプのコミュニストの主人(リーダー)[the new type of Communist master (Leader) ]」の必要不可欠な役割を強調することを怖れない。「私は確信している。われわれは再建しなくてはならない、どの段階においてもコミュニスト過程におけるリーダーの主要な役割を[I am convinced that one has to reestablish the capital function of leaders in the Communist process, whichever its stage.]」(バディウとの個人的対話、2013年4月)


私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。


半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ [we should stop with this multitudes]、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" ― Part II、19.01.2018)


ネグリもようやく目覚めたのである、マルチチュード概念の愚かしさについて。重要なのはコモンティスモ[commontismo]であり、マルチチュードではそれは決して達成できない。


マルチチュードは、主権の形成化[forming the sovereign power] へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。〔・・・〕multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。〔・・・〕スピノザの教えにおいて、単独性からコモン[singularity to the common]への移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度[newly invented institutions]へと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ[commontismo]を要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)


なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)



例えば日本のリベラル政治学者はほとんどすべて「人間の顔をした世界資本主義者」、ベンサム主義者に過ぎない。連中は資本システムの根を問うことなど我関せずの道化師である。