2022年2月19日土曜日

キミのミエミエ「メタ私」

 


他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年)


まァ、みんな自分のメタ私は見えないんだよ、他人のメタ私はよく見えても(仮に極めて優れた精神分析家がいたってそうだ)。ツイッターなんてのはメタ私がミエミエ装置だよ。でもこれを指摘したらオシマイのところがあるし、ふつうはやっちゃあダメだね。だからそこのキミのメタ私も決して名指しではいわないさ。他人にはキミとはわからないようにときに仄めかすぐらいさ。でもキミのようにすっかり見えちゃうツイートは珍しいよ。何かがひどく足りないんだろうな、例えばボードレールのヒューモアの定義、《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》が。ま、それはそれでしょうがないよ。人はみなそれぞれ固有の症状もってんだから、ーー《症状のない主体はない [il n'y a pas de sujet sans symptôme]》(Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)。この文自体、囮かもしれないからな、気をつけろよ、反応したらダメだ。



以下「メタ私」についてもう少し補足しよう。


「意識的私」の内容になりうるものであって現在はその内容になっていないものの総体を私は「メタ私」と呼んできた。これは「無意識」よりも悪くない概念であるとひそかに私は思っている。〔・・・〕「無意識」は「意識」でないものとして多種多様なものを含んでいて、それらを総称する言葉はないからである。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)


私には、私の現前する意識には収まりきれないものが非常に多くある。私の幼児体験を初めとして、私の中にあるのかないのか、何かの機会がなければためすことさえない記憶がある。私の意識する対象世界の辺縁には、さまざまの徴候が明滅していて、それは私の知らないそれぞれの世界を開くかのようである。これらは、私の現前世界とある関係にある。それらを「無意識」と呼ぶのはやさしいが、さまざまな無意識がある。フロイト的無意識があり、ユング的無意識もおそらくあるだろう。ふだんは意識されずに動いていて意識により大きな自由性をあたえている、ベルグソンの身体的無意識もある。あるいは、熟練したスポーツなどに没頭する時の特別な意識状態があるだろう。無意識というものを否定する人があるとしても、意識が開放系であり、また緻密ではなく、海綿のように有孔性であることは認めるだろう。そもそも記憶の想起という現象が謎めかしいものである。どういう形で、記憶が私の「無意識」の中に持続しているのかは、いうことができない。もし、私の中にあるものが同時に全部私の意識の中に出現し、私の現前に現れたならば、私は破滅するであろう。それは、四次元の箱を展開して三次元に無理に押し込むようなものだろう。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」1990年『徴候・記憶・外傷』所収)


中井久夫のメタ私はフロイト用語なら前無意識・力動的無意識(ラカンの象徴界の無意識)から原無意識・異物(現実界の無意識)までを含め、さらに別の無意識も含めている大きな概念ということになる。


とはいえ、最終的な核心はフロイトの異物のように見える。


一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年)


※異物(異者身体[Fremdkörper])については、「モノ異者固着超自我文献」を参照


フロイトラカンにとって異者身体というのは結局、超自我に関わりーー超自我概念はいまだもってひどく誤解されているが父の名やエディプス的父(自我理想)では決してない(中井久夫自身、残念ながらこの区別ができていない)ーー、超自我とは究極の「メタ私=超私」だ。



最終的にラカンにおいてグレーに塗った箇所はすべて見せかけ[semblant]になった(見せかけの別名は妄想)。真ん中の対象aはリアルな対象a(穴)に剰余享楽という見せかけの対象a(穴埋め)がかぶさっているので敢えてグレーにしなかった。







要するに自我理想は象徴界で終わる。言い換えれば、何も言わない。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 …それは超自我だ。

l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique, autrement dit de ne rien dire. Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi  j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi.  (ラカン、S24, 08 Février 1977)

父の名は象徴界にあり、現実界にはない[le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel]( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)


超自我/自我理想というのは、母の名/父の名。乳幼児のエスの奔馬を飼い馴らす最初の鞍を置くのは母(あるいは母親役の人物)に決まっている。この鞍を固着と呼ぶ(フロイトは「母への固着」を1905年の性理論を始めとして死ぬまで連発している)。現実界の享楽とはこの固着のことであり、《母は「原リアルの名」、「原穴の名 」[Mère, … c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou] 》(Colette Soler, Humanisation ? ,2014)であり、《母なる対象は「身体の大他者」、「原享楽の大他者」[L'objet maternel …c'est … l'Autre du corps…, l'Autre de la jouissance primaire.]》(Colette Soler , LE DÉSIR, PAS SANS LA JOUISSANCE Auteur :30 novembre 2017)だ。とくに誰かさんみたいにおっかないオッカサンに育てられ、防衛機能をまったくもってないオットサンしかいなかったら、それで一生決まりだよ。



というわけで、超自我はリアル。ポジションとしてはイマジネールとリアル(自我とエス)の境界表象(固着)だが。