2022年3月16日水曜日

シュミット・フロイト・ファシズム

  以下、ナチの天才理論家カール・シュミットの独裁論ーー「民主主義≒ファシズム」ーーとフロイトの自我理想論との相同性を示す。何度も繰り返している話だが、ここではいくら角度を変えて記す。

まずシュミットからこの文脈におけるエキス文を抜き出す。


例外時あるいは根源的悪に直面した場合、独裁が生まれる。

平時は何も示さず、すべては例外時に明らかになる。Das Normale beweist nichts, die Ausnahme beweist alles (カール・シュミット『政治神学』1922年)

根源的悪に直面しては独裁以外ない。angesichts des radikal Bösen gibt es nur eine Diktatur (カール・シュミット『政治神学』1922年)


民主主義と独裁(ファシズム)は対立物ではない。

ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった。Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen, (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)

民主主義が独裁への決定的対立物ではまったくないのと同様、独裁は民主主義の決定的な対立物ではまったくない。Diktatur ist ebensowenig der entscheidende Gegensatz zu Demokratie wie Demokratie der zu Diktatur.“ (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1926年版)


民主主義には治者(支配者)と被治者(被支配者)との同一化がある。

民主主義とは、治者と被治者と同一化、支配することと支配されることの同一化、命令することと従うことの同一化がある。Demokratie (...) ist Identität von Herrscher und Beherrschten, Regierenden und Regierten, Befehlenden und Gehorchenden(カール・シュミット『憲法論』1928年)


民主主義には異質な者(同質性を脅かす者)の排除・殲滅の機制がある。

民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)




次にフロイト(およびラカン)である。




◼️原集団は同一の対象を自我理想として取り入れ、自我のあいだで同一化する。

原初的集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)

第一に、同一化は対象への最も原初的感情結合である 。第二に、同一化は退行の道を辿り、自我に対象に取り入れることにより、リビドー的対象結合の代理物になる。daß erstens die Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist, zweitens, daß sie auf regressivem Wege zum Ersatz für eine libidinöse Objektbindung wird, gleichsam durch Introjektion des Objekts ins Ich,(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)



ラカンはこの自我理想との同一化のフロイトの叙述について、《フロイトの『集団心理学と自我の分析』…それは、ヒトラー大躍進の序文[préfaçant la grande explosion hitlérienne]である。》(ラカン,S8,28 Juin 1961)と言った。


ここに、上に掲げたカール・シュミットの②と③の記述と近似性が見られる。


民主主義には治者(支配者)と被治者(被支配者)との同一化がある。

民主主義と独裁(ファシズム)は対立物ではない。




次に、ラカン語彙にての形式的な注釈を掲げる。






◼️自我理想は象徴的同一化の機能がある

ラカンの象徴的同一化のマテーム I(A)は、フロイトの『集団心理学』からの自我理想である[le mathème de l'identification symbolique de Lacan, I(A) …l'idéal du moi …à partir de la Massenpsychologie](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)


◼️理想自我は想像的同一化の機能がある

理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である。Le  moi-Idéal [ i'(a) ]   est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué  par la série des identifications (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

理想自我との同一化は想像的同一化である[l'identification du moi idéal, c'est-à-dire l'identification comme imaginaire]. (J.-A.  MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 17 DECEMBRE 1986)


◼️自我理想は取り入れ、理想自我は投射である

投射は想像界の機能であり、取り入れは象徴界に関係する機能である[La projection est fonction de l'imaginaire, tandis que l'introjection est en relation au symbolique.](J.-A. MILLER, Extimité II - 20 novembre 1985)


◼️自我理想は構成する同一化、理想自我は構成される同一化である

「自我理想との同一化」と「理想自我との同一化」の相違は、「構成する同一化」と「構成された同一化」の相違である。Cette distinction de l'Idéal du moi et du moi idéal, en tant qu'elle distingue l'identification constituante et l'identification constituée,(J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 7 JANVIER 1987)

想像的同一化と象徴的同一化とのあいだの関係ーー理想自我Idealichと自我理想Ich-Idealとのあいだの関係ーーは、ジャック=アラン・ミレール によって「構成された同一化」と「構成する同一化」の差異とされる。


簡単に言えば、想像的同一化とは、われわれが自身にとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。


象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、「愛するに値するように見える」ような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)




象徴的同一化としての自我理想との同一化についてもう少し詳しく見よう。



◼️たった一つの徴(唯一の徴)との同一化

(同一化する際)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物の「たった一つの徴 einzigen Zug 」(唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。[Es muß uns auch auffallen, …die Identifizierung eine partielle, höchst beschränkte ist, nur einen einzigen Zug von der Objektperson entlehnt. ](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)


この唯一の徴との同一化について、フロイトは話し方や咳の仕方との同一化もありうることを示している。


ラカンの注釈は次の通り。


唯一の徴は、自我理想を形成する同一化のなかに主体を疎外する。le trait unaire qui,[…] aliène ce sujet dans l'identification première qui forme l'idéal du moi (Lacan, E808, 1960)

唯一の徴は理想として機能することになる原同一化の徴である。le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966)


ーー実はラカンにおいてこの「唯一の徴 trait unaire(einziger Zug)」概念の取り扱い方は、時期において若干異なるのだが、それについてはここでは触れない。


ラカン派で使われる簡略図にて示せば次の通り。



自我理想に象徴的同一化(取り入れ)した自我は、互いを理想自我と見做して投射しつつ想像的同一化をするという図である。



さてフロイトはこの自我理想となる対象の例として、教会と軍隊、つまりキリストと司令官を挙げた。


教会ではーー便宜上、カトリック教会を見本にとってみようーー軍隊の場合とひとしくーー両者は、それ以外では大いに異なっているけれどもーー集団のすべての個人を一様に愛する首長がいる、というおなじ眩惑(イリュージョン)Vorspiegelung (Illusion)が通用している。その首長とは、カトリック教会ではキリストであり、軍隊では司令官である。万事は、このイリュージョンにかかっていて、これが消えるならば、外面的な強制がそれをゆるすかぎりは教会も軍隊も崩壊するであろう。

この平等の愛は、キリストによって明言されている。すなわち、「汝ら予のもっとも賤しき同胞の一人になせしこと、そは汝ら予になせるなり」と。キリストは信心ぶかい集団の個人個人にたいして、よき兄の関係に立っている。彼は彼らにとっては父のかわりVaterersatzである。個人にむけられるあらゆる要求は、キリストのこの愛から生まれる。民主的な様相が教会をつらぬいているのは、キリストの前では万人が平等であり、万人はひとしく愛をうけているからこそである。キリスト教団と家族との類似が強調されたり、信者たちがキリストにおける兄弟、つまり、キリストのめぐむ愛による兄弟とよび合うのには深い根拠がある。個人のキリストへの結びつきが、彼ら相互の結びつきの原因でもあることは疑うべくもない。Es ist nicht zu bezweifeln, daß die Bindung jedes Einzelnen an Christus auch die Ursache ihrer Bindung untereinander ist.

同様のことが軍隊にもいえる。司令官は彼の兵士をとくに愛する父親であり、それゆえに兵士はたがいに戦友である。軍隊が構造のうえで教会と区別されるのは、軍隊が集団の階層構成から成り立っている点である。中隊長は彼の中隊の、いわば司令官であるし、父親であり、各下士官は彼の分隊の司令官であり、父親である。もちろんおなじ階層制度は、教会でもつくり上げられてはいるものの、それは軍隊とおなじような実質的な役割を演じない。というのは人間である司令官よりもキリストの方が、個人の事情に通じ、それを配慮することを要求されるからである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)


この文に示されているように自我理想は父の代替物である。


したがって自我理想とは事実上、ラカンの父の名に相当する。


父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから。C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi. (ラカン, ローマ講演, E278, 27 SEPTEMBRE 1953 )

父の名は、シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである[Nom-du-Père  - c'est-à-dire du signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »](Lacan, É583, 1958年)


ラカンはこの父の名に代表されるシニフィアンを後年、見せかけというようになる。

見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](ラカン, S18, 13 Janvier 1971)


あるいは、「存在しない」ともーー、


大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く[l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).](Lacan, S24, 08 Mars 1977)

ラカンは父の名を終焉させた。それは、S(Ⱥ)というマテームの下でなされた。斜線引かれた大他者のシニフィアンである[le Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin. …sous les espèces du mathème qu'on lit grand S de A barré,  signifiant de l'Autre barré, ]〔・・・〕

これは大他者の不在、大他者は見せかけに過ぎないことを意味する[celle de l'inexistence de l'Autre. …que l'Autre n'est qu'un semblant. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas, 20/11/96)

ラカンが、フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」自体、見せかけに位置づけられる。Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien est lui-même situé comme semblant(ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)



この見せかけとは、先ほど掲げたフロイト文におけるキリストあるいは軍隊の司令官としての自我理想が、眩惑(イリュージョン)[Vorspiegelung (Illusion)].とされていたことに相当する。


フロイトラカンの思考においては、自我理想あるいは父の名との同一化と言ってもイリュージョン=見せかけの同一化に過ぎないのである。



フロイトは後の宗教論で宗教はイリュージョンと言っている。


宗教的教理はすべてイリュージョンであり、証明不可能で、何人もそれを真理だと思ったり信じたりするように強制されてはならない。 den religiösen Lehren, …Sie sind sämtlich Illusionen, unbeweisbar. Niemand darf ge-zwungen werden, sie für wahr zu halten, an sie zu glauben..(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』第6 章、1927年)



教会の父キリストももちろんフロイトにとってイリュージョンである。そしてこの信者の共同体の特徴として、他人に対する容赦ない敵意を指摘している。


教会、つまり信者の共同体…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe] と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で偏狭になりがちである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)


ここにはシュミットの④「民主主義には異質な者(同質性を脅かす者)の排除・殲滅の機制がある」との相同性を見ることができる。






そもそもフロイトにとって自我理想のポジションは人物ではなく「理念」でもよく、さらに「憎悪」感情にても人は象徴的同一化する。


指導者や指導的理念が、いわゆるネガティヴの場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こしうる。Der Führer oder die führende Idee könnten auch sozusagen negativ werden; der Haß gegen eine bestimmte Person oder Institution könnte ebenso einigend wirken und ähnliche Gefühlsbindungen hervorrufen wie die positive Anhänglichkeit. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章、1921年)



理念による結束が十分に機能していない共同体でも、憎悪の対象を見出せば結束が高まるとは、しばしば見られる現象だろう。例えばこの今のNATOはロシアによるウクライナ侵略によって結束が明らかに高まっている。





「結束が高まる」としたが結束は語源的にファシズムのことであり、上図はファシズム図である。


「ファシズム」(伊: fascismo)の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)で、更に「ファッショ」の語源はラテン語の「ファスケス」(fasces、束桿)である。ファスケスは斧の回りにロッド(短杖)を束ねたもので、古代ローマの執政官の権威の象徴とされた。(Wiki)



プーチンはオリバー・ストーンによるインタビュー(2015〜2017)でこんなことを言っている。



ーーあくまでご参考に。


さて話を戻せば、先ほどの結束図の形になるときの特徴フロイトは次のように示している。


集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。Die Masse ist außerordentlich beeinflußbar und leichtgläubig, sie ist kritiklos, (フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)

集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。Wer auf sie wirken will, bedarf keiner logischen Abmessung seiner Argumente, er muß in den kräftigsten Bildern malen, übertreiben und immer das gleiche wiederholen.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動[Affektivität」は異常にたかまり、彼の知的活動[intellektuelle Leistung] はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原集団における情動興奮と思考の制止 [der Affektsteigerung und der Denkhemmung]という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


さらにこの文脈のなかでシラーを引用している、《だれもがひとりひとりみるとかなり賢くものわかりがよい。だが一緒になるとたちまち馬鹿になってしまう。Jeder, sieht man ihn einzeln, ist leidlich klug und verständig; Sind sie in corpore, gleich wird euch ein Dummkopf daraus.》(シラー『クセーニエン』ーーゲーテとの共著[Goethe und Schiller Xenien]1796年)


同一化図、つまり結束図=ファシズム図とは、別の言い方なら党派図である。党派を組めば人はみな批判精神を失い馬鹿になりがちである。これはどんな党派でも同様である、例えばフェミニズム共同体でも学者共同体でも。


私が嘘と名づけるのは、見ているものを見ようとしないこと、見えるとおりにものを見ようとしないことである。はたして目撃者の面前で嘘するのか、目撃者がいないとき嘘するのかは、考慮しなくともよいことなのである。


最もよく見られる嘘は、自分自身を欺く嘘であり、他人を欺くのは比較的に例外の場合である[Die gewöhnlichste Lüge ist die, mit der man sich selbst belügt; das Belügen andrer ist relativ der Ausnahmefall. ]


――ところで、この見ているものを見ようとしないこと、この見えるとおりに見ようとしないことは、なんらかの意味で党派的であるすべての人にとっては、ほとんど第一条件である[― Nun ist dies Nicht-sehn-wollen, was man sieht, dies Nicht-so-sehn-wollen, wie man es sieht, beinahe die erste Bedingung für alle, die Partei sind, in irgendwelchem Sinne:]

すなわち、党派人は必然的に嘘つきとなる[der Parteimensch wird mit Notwendigkeit Lügner]。党派的な人は誰でも、本能的に、道徳的な大きな言葉を口にするものである。そうであってみれば、道徳が存続するのはあらゆる種類の党派人がそれをたえまなく必要とするからだ、という事実に、もはや驚くこともあるまい。(ニーチェ『反キリスト者 DER ANTICHRIST』第55章 、1888 年)



知的教養を十分積んだ筈の学者でも、ツイッターなどでーーときに自らの専門分野においてさえーー傍目から見てひどく愚かしい発言や振る舞いをしてしまっている理由は、学者仲間の共同体に憩って、仲間内の学者と湿った瞳を交わし合い頷き合って批判精神を失っている所為の場合が多いように思える。最近見られた卑近な例では、オープンレターファシズム集団である。


なお最後にシュミットの①「例外時あるいは根源的悪に直面した場合、独裁が生まれる」に触れておこう。これは現在のウクライナが典型的事例である。ロシアの軍事侵略という根源的悪に遭遇して国民のあいだに共同体感情が高まり、ゼレンスキーの独裁的勇姿が生まれた。




ただしこの英雄は(先ほども示したように)フロイトラカンの思考においてはイリュージョンである。フロイトはこのイリュージョンが消えるとき、共同体感情は崩壊することを示している。逆にこのイリュージョンが強化されたりすれば(例えば華麗な演説での鼓舞)、ウクライナ国民の結束化=ファシズム化が高まるどころか、場合によってはNATO自体の結束も高まってしまい、第三次世界大戦への道が大きく開けてしまう可能性もある。



ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。〔・・・〕マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。〔・・・〕

アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



情動興奮しやすい人が多い米国という場における、ゼレンスキーの本日予定されている米議会演説の効果が悪い方に転ばぬよう人は祈らねばならない。