2022年3月10日木曜日

あまりにもナイーヴな国際政治学者

 


決断には敬意を払う、もちろん。だがゼレンスキーにただ敬意を表するだけ? 国際政治学者がこんなにナイーヴでいいのだろうか。池内恵の真意はいざ知らず、この篠田英朗なる人物は私にはあまりにも単純に見える。これでは巷間の日本的ーー共感の共同体的ーー評論家と変わるところがない。


彼は、上のツイートの後、おそらく橋下徹への当てつけだろう、《日本の評論家がテレビで意味不明な批評をしていると考えるだけで、気分が悪くなり、陰鬱になる。》と言っているが、私もこの甘っちょろい篠田英朗のツイートにひどく気分が悪くなってしまった。


例えば、「to be, or not to be」だけではなく、次のシェイクスピアとともに読んでみたらどうか。


この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ[All the world's a stage, And all the men and women merely players.](シェイクスピア「お気に召すまま」1603年)


人はみな役者である。人はみな何ものかの操り人形(puppet)である。ナイーヴさから抜け出す道はこのシェイクスピアにある。


場合によっては人はここからニーチェに進んでゆく。


かれらのうちには自分で知らずに役者である者と、自分の意に反して役者である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない役者は。Es giebt Schauspieler wider Wissen unter ihnen und Schauspieler wider Willen -, die Ächten sind immer selten, sonderlich die ächten Schauspieler. (ニーチェ「卑小化する徳」『ツァラトゥストラ』第3部、1894年)



さらにフロイトラカンへと。


フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、折檻を受ける主体である [Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage](Lacan, S3, 16 mai 1956)


ジジェクで補おう。


ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012年)



ここでラカンと親しい関係にあったロラン・バルトの次の文を引用することもできる。


あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。[La langue, comme performance de tout langage, n’est ni réactionnaire ni progressiste; elle est tout simplement fasciste; car le fascisme, ce n’est pas d’empêcher de dire, c’est d’obliger à dire.](ロラン・バルト「コレージュ・ド・フランス開講講義」1977年『文学の記号学』所収)


最後にニーチェに戻ろう。


ゼレンスキーの演説は最低限、ドゥルーズが愛した次のニーチェの文とともに読むべきだと私は思う。


一方で、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、という条件の下にある。われわれは服従する者としては、強迫、強制、圧迫、抵抗 などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになる。しかし他方でまた、われわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、意志するということに関してまつわりついてきたのである。

insofern wir im gegebenen Falle zugleich die Befehlenden und Gehorchenden sind, und als Gehorchende die Gefuehle des Zwingens, Draengens, Drueckens, Widerstehens, Bewegens kennen, welche sofort nach dem Akte des Willens zu beginnen pflegen;insofern wir andererseits die Gewohnheit haben, uns ueber diese Zweiheit vermoege des synthetischen Begriffs "ich" hinwegzusetzen, hinwegzutaeuschen, hat sich an das Wollen noch eine ganze Kette von irrthuemlichen Schluessen und folglich von falschen Werthschaetzungen des Willens selbst angehaengt, - dergestalt, dass der Wollende mit gutem Glauben glaubt, Wollen genuege zur Aktion.(ニーチェ『善悪の彼岸』第19番より、1886年)


……………


※付記


例えばゲッペルスの演説とゼレンスキーの演説はどこがどう異なるのか(ここでの問いは構造的あるいは形式的類似性であり、内容的類似性ではないことを誤解のないように断っておこう)。英国会議員の拍手喝采はたんに一時的な「情動興奮と思考の制止」によるものである可能性はないのか。


集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動は異常にたかまり、彼の知的活動[intellektuelle Leistung] はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原集団における情動興奮と思考の制止 [der Affektsteigerung und der Denkhemmung]という二つの法則は否定されはしない。 (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年ーー「シュミットとフロイト」)




こういったことを、国際秩序の維持やらロシア侵略に対するウクライナの徹底抗戦という民主主義的イデオロギーに囚われず分析するのが、本来の国際政治学者というものではないか。


……もっと一般的に言えば、すべての政治は、あるレベルの享楽の経済に頼っているし、さらにそれを巧みに操ることにある。私にとって、享楽の最もはっきりした例は、1943年のゲッペルスの演説である。――すなわちいわゆる総力戦[Totalkrieg]演説だ。スターリングラードでの敗北後、ゲッペルスは総力戦を求める演説をベルリンでやった。すなわち、通常の生活の残り物をすべて捨て去ろう!、総動員を導入しよう!、というものだ。そして、あなたはこの有名なシーンを知っているだろう、ゲッペルスは二万人のドイツ人群衆にレトリックな問いかけをするあのシーンだ。彼は聴衆に問う、あなたがたはさらにもっと働きたいか、もし必要なら一日16時間から18時間?そして人びとは叫ぶ、「Ja!」。彼はあなたがたはすべての劇場と高級レストランを閉じたいか、と問う。人々は再び叫ぶ、「Ja!」


そして同様の問いーーそれらはすべて、快楽を放棄し、よりいっそうの困苦に耐えることをめぐっているーーが連続してなされたあと、彼は最後に殆どカント的な問いかけをする、カント的、すなわち表象不可能の崇高さを喚起するという意味だ。ゲッペルスは問う、「あなたがたは総力戦を欲するか? その戦争はあまりにも全体的なので、あなたがたは今、どのような戦争になるかと想像さえできないだろう、そんな戦争を?」 そして狂信的なエクスタシーの叫びが群衆から湧き起こる、「Ja!、 Ja!、 Ja!」ここには、政治的カテゴリーとしての純粋な享楽があると私は思う。完全にはっきりしている。まぎれもなく、人びとの顔に浮かんだ劇的な表情、それは、人びとにすべての通常の快楽を放棄することを要求するこの命令は、それ自体が享楽を提供しているのだ。これが享楽というものである。(『ジジェク自身によるジジェク』Slavoj Zizek and Glyn Daly, 2004)


ーーここでジジェクが使っている「享楽」という用語は次の意味である。


痛みと悦は力への意志と関係する[Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  ](ニーチェ遺稿、1882 – Frühjahr 1887)



ニーチェの力への意志とは欲動であり、事実上、悦への意志[Wille zur Lust](享楽への意志)である(私の知る限り、ニーチェ自身に直接的にはこの表現はないが、破壊への意志 [Wille zur Zerstörung]、破壊の悦[Lust am Vernichten]とは言っている)。


欲動…、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[Triebe …"der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt... (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)



痛みのなかの悦はマゾヒズムの根である[Masochismus, die Schmerzlust, liegt …zugrunde](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)

フロイトは書いている、「享楽はその根にマゾヒズムがある」と。[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](ラカン, S16, 15 Janvier 1969)

疑いもなく、痛みが現れはじめる水準に享楽はある[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d’apparaître la douleur](Lacan, LA PLACE DE LA PSYCHANALYSE DANS LA MÉDECINE, 1966)


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである。 la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (Lacan, S23, 10 Février 1976)



"lust"という語は両義性がある。快原理内で使われる場合は快、快原理の彼岸にある場合は、悦=享楽=マゾヒズムである。


例えばニーチェは『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレで悦というマゾヒズムを歌っている。


悦が欲しないものがあろうか。悦は、すべての痛みよりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦のなかに環をなしてめぐっている。――

― was will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will sich, sie beisst in sich, des Ringes Wille ringt in ihr, ―(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)


この悦なるマゾヒズムがフロイトにおける「自己破棄欲動=死の欲動」である(参照)。


ゲッペルスの演説における「あなたがたは総力戦を欲するか? その戦争はあまりにも全体的なので、あなたがたは今、どのような戦争になるかと想像さえできないだろう、そんな戦争を?」とそれを受けた群衆の狂信的なエクスタシーの叫び「Ja!、 Ja!、 Ja!」ーー、ここには(フロイトラカン観点からは)死の欲動がまがいようもなくある。