2024年11月6日水曜日

リベラルファシズムとゼロ年代の不幸

ははあ・・


私はトランプのファンではまったくないが、反トランプがリベラルファシズムというのはよくわかるね、


エマニュエル・トッドは、『西洋の敗北(Emmanuel Todd, La Défaite de l'Occident)』(2024)をめぐるインタビューで簡潔に、《西洋はリベラル少数独裁制で構成されており、ロシアは権威主義的民主制だ[L'Occident est composé d'oligarchies libérales, la Russie est une démocratie autoritaire]》と言ってるが、このリベラルオリガーキー[oligarchies libérales]こそリベラルファシズムなんだが、いまどきそれを視野に入れずに語っているとしか思えない内田樹は、二周ぐらい遅れてるんじゃないかね。


◾️What is China’s future? Economic decline, or the next industrial revolution? 2024-03-13

マイケル・ハドソン: デモクラシーについてひとつ。デモクラシーの定義は伝統的にオリガーキー(少数独裁)の発展を防ぐことだ。人々がどんどん裕福になるにつれてオリガーキーが発展するのを防ぐ方法はひとつしかない、それは強い国家を持つことである。


強い国家の役割はオリガーキーの発展を防ぐことだ。だからこそアメリカやヨーロッパのオリガーキーはリベラルであり、つまり政府を廃止する。なぜなら政府は、我々が経済を食い物にしたり、我々がそれを乗っ取ったりするのを防ぐのに十分な力を持っているから。


つまり、デモクラシーを実現するには強力な中央政府が必要なのである。アメリカではこれを社会主義と呼び、デモクラシーとは正反対のものとする。ちなみに、アメリカにおけるデモクラシーは、アメリカの政策に従い、銀行が経済を金融化することである。

MICHAEL HUDSON: One thing about democracy. The definition of a democracy traditionally is to prevent an oligarchy from developing. There’s only one way to prevent an oligarchy from developing as people get richer and richer, and that’s to have a strong state.

The role of a strong state is to prevent an oligarchy from developing. That’s why the oligarchy in America and Europe are libertarian, meaning get rid of government, because a government is strong enough to prevent us from gouging the economy, to prevent us from taking it over.

So, you need a strong central state in order to have a democracy. Americans call that socialism, and they say that’s the antithesis of democracy, which means a state that is loyal to the United States and follows U.S. policy and lets the U.S. banks financialize the economy.


内田樹センセはもはや何も勉強してないんじゃないかね、過去の固定観念に囚われたままで。



内田樹はベルナール=アンリ・レヴィの翻訳者だったんだな・・・




というわけだが、知的退行のゼロ年代に教養を身につけた世代は、今でも内田樹ファンがそれなりにいるようだが、実に彼らのとてつもない不幸だよ。

以前拾ったことのあるラカン派藤田博史の内田樹批判を掲げておこう。

◾️藤田博史による内田樹批判、2013年

「内田樹式批判の技法」のカラクリ〔・・・〕。


つまり、最初に相手の主張を自分の都合の良いように改変する。読者に共感してもらうために、大概は「×××原理主義」であるかのように捏造する。そして捏造された「×××原理主義」の極端さや権威主義的な側面を批判する。このトリックに引っかかった読者はその語りに乗ってくる。彼の語り口は意図的に「上から目線」ではなく「下から目線」であるかのようになされ、日常のなかで「上から目線」で圧迫を受けている人たちの共感を引き出す。そして、わたしは読者の味方ですよ、原理主義、上から目線、いやですね~、と読者を引き寄せる。あらかじめ自分で批判用に捏造しているのだから、批判できるのは当たり前である。

つまり内田樹が誰かを批判する場合、その手口は一定のパターンがある。それはこんな風だ。原理主義的仮想敵の捏造→原理主義に対する批判→自分は極端に走らないバランスの取れた人間だという自己宣伝、で結ぶ。あらかじめ読者を味方につけるために、意図的に相手の主張を都合よく捏造する。ここに見られるのは「自作自演」という常習的に嘘をつくという病的な傾向をもった人たちがよく使う手法とまったく同じである。


次に指摘されるのは、文章のなかに頻繁に登場する「私」である。うんざりする。とにかくこの「私」の登場回数は半端ではない。特に持論を展開する時など頻繁にしゃしゃり出てくる。特に多いのが「私は」で始まるフレーズだ。勘弁して欲しい。もう少し「私」を削った文章が書けないものだろうか。〔・・・〕

知的な人間を装った虚しいおしゃべりのなかで、空想と捏造を交えていろんなことを論じているが、注意深く読んでゆくと、引用の一つ一つの客観性が見えてこない。括弧で括ったりして引用の体裁を取ってはいるが、肝腎の出典が殆ど示されていないのだ。むしろ、一見引用に見えるものが実は引用ではなく、自分に都合の良いように書き換えられ、捏造された「偽引用」であることがわかる。つまり、引用に見せかけて、自分が反論しやすい形にすでに相手の主張を改竄し、作話している。冒頭で見たように、わたしが書いたこともないような言葉が、丁寧に括弧で括られて、藤田の主張となっているのがその良い例だ。わたしの著作を読んだことのない人がこの捏造された言葉を信じてしまったとしたら、これは、読者に対する一種の洗脳であり、学問に対する冒涜である。


以上をまとめると以下のようになる。


内田樹の文章は、客観性に乏しく、一人芝居的。殆どの話題や対象は、自分流に改変され、あたかも幼児が玩具を自分の周りに散らかして、そのなかで空想物語を作り続けているようだ。自分の空想のなかで、対象どうしの関係を想像的に決めて語り続ける。語りは「私は~」という一人称で連続してゆく。つまり、論考自体が自閉的な性質を持っている。精神分析ではこういう語りを「想像的ディスクール」と呼んでいる。すべての価値は判断主体である「私」との双数的関係のなかで決まっており、何でも言えるし、何を言っても仕方のない領野である。


したがって、「私」の物語は外部に向かって開かれていないので、時々その信憑性を確かめたくなって、外の世界にちょっかいを出すのだろう。そしてすぐ自分の殻のなかへと避難する。子供がよくやる「ピンポンダッシュ」に見られるような、幼児的な自我の防衛機制である。実際に呼び鈴を押されてとばっちりを食らったのが上野千鶴子氏であり、わたしである。

最後に、内田樹の心性を精神病理学的に推察すれば、彼の自閉的な一連の行為の背後には、おそらく幼い頃に味わった強烈な劣等感が潜んでいるのではないかと強く推測される。さもなければ、彼の理不尽なまでの不必要な外部への攻撃とすぐさまの逃避は説明がつかないだろう。人生の黎明期に味わった劣等感を、歳を取ってから克服するために、迷惑なことにレヴィナスが利用され、合気道でカモフラージュされている。ちゃっかり利用しているので「ちゃっかりおじさん」と呼びたくなるくらいだ。この二つの社会性を持った名札を胸に付けて、自閉のドアを開いて外へ出ようとするが、もともとレヴィナスも自己流に改変されているから、まともな批判は受けたくない。したがって、常に空想のなかで語るしかなく、論考は常に想像的なものであり、結局、客観的な論の運びができないままだ。

そこで編み出されたのが「ゆるいキャラ、決定しないキャラ」である。「わからない」と言い訳しながら、語り続ける。わたしはこれを植木等主演映画の「無責任」キャラに喩えた。この手の知識人が一番厄介だ。


いずれにせよ、賢明な読者であれば、彼の専門書においてすら、読み終わった後、論理ではなく思い込みが、見せかけばかりが撒き散らされていて、結局、肝腎なことは何も言われていない、ということに気づくだろう。端的にいえば彼の著作は自閉的自我の空想によるサンブラン(見せかけ)で構成されている。


もしフロイトが生きていて、日本語が読めたならば、内田樹の本は、批判と自己擁護、つまり幼児的な他者廃棄と自閉的自我の確認作業の産物であることを見抜くだろう。そして、彼の話術に化かされ、幼児的空想という一個人の排泄物を、美味しい美味しいと食べさせられている人たちに、そろそろ誰かが警鐘を鳴らさなければならない時が来ているのかも知れない。



そういえば、引き出しの奥の在庫にもうひとつあるな、山形浩生による内田樹は知的犯罪者ってのが。これは、上の藤田博史の内田批判のヴァリエーションとして読むことができる。



◾️山形浩生「反知性主義3 Part 1: 内田編『日本の反知性主義』は編者のオレ様節が痛々しく浮いた、よじれた本。」2015年

…「反知性主義者の肖像」へと進むと、冒頭からホフスタッターが引用され、その主張に対する大賛成が表明されている。ふーん。ホフスタッターなんか絶対読んでないだろうと思ったら、ちゃんと読んでいるのか。すると、反知性主義の意味や、それをめぐるホフスタッターのアンビバレントな立場、そして現代における知識人の役割に関する悩みも、基本的には理解されているのかな?


ところが……読み進むとまったくそんな様子はない。反知性主義者とは、とにかく知性をひたすら否定する連中、というきわめて単細胞な理解に基づく文が展開される。そして挙げ句の果てに、こんなくだりに出くわす。


《他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。》(p.20)

あの~~。

それってまさに、ホフスタッターの指摘する反知性主義の立場ですから!〔・・・〕

反知性主義に関する基本的な文献を読んでいながら、そこに書かれていることがまったく理解できていない。あるいは理解できているのに、それを正反対に歪曲して平気。どうよ、これって? ぼくはこの段階で、この文にまったく誠意を認められない。この文の後のほうでは、自分が学生に対して参考文献をきちんとあげろ、それをしないのは犯罪的とすら言える、という指導を実にしっかり行っているのだ、という記述が(あまり脈絡ないと思うんだけど)延々と出てくる。でも、こうした歪曲は、それ以上に犯罪的なものだとぼくは思う。


ちなみに「そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる」(強調引用者)と書いているのであって、最終的にそれだけで判断すると言っているんじゃないぞ、だからこれは内田の文の意図を歪曲しているんだ、という主張はできるかもしれない。でも、その後の文章を読んでも、この「さしあたり」の身体反応がいつの時点でどうやって本当の理非の判断に置き換わるのかについての説明は一切ない。続く記述を見ても、この肉体感覚やプリミティブな感情が最優先のままだ。こんな具合。

《反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。(中略)彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。(中略)「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。》(p.21)


さて……通常の知性的なやりとりというのは、それぞれがデータやエビデンスや統計数値を出して自分の主張の裏付けを行い、その主張の正しさを相互に確認し合うことだ、とぼくは思っている。データの見方や解釈はいろいろある。その分析の限界もある。それを踏まえることで、何が妥当と言えるのかを考えるのが知性の働きだとぼくは思う。


だが、内田のこの文は、自分はデータやエビデンスでは納得しない、と明確に述べている。何やら自分たち(知性の側に立つ人々)の気持ちが晴れないとか、解放感を覚えることがない、というのがその根拠だ。ところがこれはむしろ、ホフスタッターが述べた反知性主義者の基本的なスタンスだ。むずかしいことを言われてもよくわからん、煙に巻かれたような気がする、いや自分がバカにされたような気がする、よってオレは納得せん、というわけ。

そしてそのデータやエビデンスに納得できないのであれば、それを持ち帰って検討する、ということもできる。そこで何が言われているのかを勉強することもできるはずだ。ぼくはそれが知性的な態度だと思う。ところが内田のこの文は、とんでもないことを言っている。聞き手がそうしたデータやエビデンスを見ない、理解しないというのは、聞き手の問題でもある。少なくとも、対等に知的な議論をするのであれば。ところが内田のこの文では、聞き手は一切何の努力もしない。オレが納得しなければ、なんとデータやエビデンスを挙げたほうが「もう一度勉強して出直してきます」と努力を強要される……ぼくは、そうやって一方的にふんぞりかえって相手にあれこれ要求するだけの態度を知性的とは思わない。




というわけだが、最初に戻ろう、なぜ彼はこんなことを言いうるのか。





内田樹は知的犯罪者ではなくてなんだと言うのか。






◾️ジェフリー・サックス「イスラエルに従属するアメリカ」Jeffrey Sachs: US Subservient to Israelinterview with Judge Napolitano , July 31, 2024.

イスラエルロビーは選挙資金や多くの議員の愚かさと無知さを通じて、イスラエルのジェノサイドのために何百億ドル、何千億ドルもの武器を購入してきた。これらのいわゆる議員の多くがいかに無知であるかを過小評価すべきではない。私たちはそれをはっきりと見たと思う。これは私たちの目の前で起こっているアメリカ政治の崩壊だ。

The Israel Lobby has bought tens, hundreds of billions of dollars of Weaponry for Israel's mass murder through its campaign contributions as well as through the stupidity and naivety of many of the Congress members.We shouldn't underestimate how ignorant many of these so-called representatives are, but I think we saw it as clear as can be. This is the collapse of American politics before our eyes.〔・・・〕

イスラエルロビーは議会を支配している。 AIPACが各議員にどのような影を落としているかについては、かなり鮮明に描写されている。 多くの議員は直接買収され、その他の議員は脅迫されている。 これはイスラエルのジェノサイド政権だ。 今では組織化された殺人だ。 彼らはどこでも暗殺を行っている。

The Israel lobby owns the Congress. We've heard descriptions now pretty vivid about how AIPAC puts a shadow on each member of Congress. Many are directly bought, the others are threatened. This is a genocidal regime in Israel. Now it's a murder, incorporated. They do assassinations wherever.



しかしどうして我慢できるんだろうな、グリーバルリーダーやら知性と道義性に基づく米政治やら、これに限らずこの手の歯の浮いたようなことを涼しい顔して言える男に。例えばそこのキミだよ、キミに訊いているんだがね。