2025年12月17日水曜日

中上健次と「天皇制という罠」

 

松下新土くんが渡邊英理さんの『中上健次論』に触れていたので気になっていたのだが、渡邊英理さんが応答しているようだ。






渡邊英理さんの応答の文脈とはやや外れるかもしれないが、次のように書評している人もいる。


◼️松田樹書評「渡邊英理 著『中上健次論』

本書では戦後社会の開発路線の下で疎外されてきた存在に焦点が当てられているが、中上は『熊野集』直後の『異族』にて近代日本の国民国家体制の下で周縁的に位置付けられてきた人々が天皇によって統合されるという物語を描いていたはずである。『異族』が連載当初は「熊野集 第二部」と題されていたことを鑑みれば、筆者の所謂「国家に抗い資本に抗う、脱国家的かつ脱資本的な」「路地のビジョン」の可能性とまたその限界は、『異族』を始めとする後期作品の検討を通じてこそ浮き彫りになったのではないか。『熊野集』に主軸を置く本書が、中上がその後に行き着いた天皇制という罠をどこまで潜り抜けているのか疑問である。あるいは、国家や資本を超えるマイノリティの連帯可能性が天皇制へと回収されてしまう日本という悪い場所の特性を論じるのでなければ、あくまでも対象を中上作品に限定する必然性は果たしてあったのだろうか。そのことへの踏み込みがやや弱いように思われた。



中上健次の天皇論は『紀州』以来、安易には把握し難いところがあるのだが、逆にそのためにいっそう魅惑されるところが私にはある。



◼️『紀州』より

ここで、天皇を出すのは唐突であろうが、日本的自然において古代の天皇とは、日と影、光と闇を同時に視る神人だったように思う。賤民であり同時に天皇であるとは、謡曲「蝉丸」を待たずとも、 光と闇を同時に視る人間の眼でない眼を持つ神人のドラマツルギーであるが、「これはあきまへん、とこちらからサジを投げてかかる」という治者は、光と闇を同時に視る不可能な視力を強要されていることに苦悩がある。治者が、差別者であり同時に被差別者である神人でない故に、治者のやる事はことごとく玩物喪志であり、改良主義であり、せいぜい善意でしかない。ということは、被差別は差別するということである。 被差別こそが差別しなければならぬ宿命と言い直そうか。この日本では文化、芸能、信仰等において、被差別は差別するというのが一種テーゼとしてあったはずである。


 「天皇」を廃絶する方法は、この日本において一つもない。ただ、かつての南北朝がそうであったように、「天皇」を今一つ産み出す方法はあると思う。たとえば差別者は被差別者であるテーゼに集約された文化において、被差別者は差別するという事を免れているのは、被差別者と闇と光を同時に見る不可能な視力を持った神人(「天皇」)のみであろうが、それなら「天皇」を無化する事は被差別者に可能である。 闇の中から呼ぶ声に導かれて、目を覚まし氷粒の涙を浮かべているのは誰か、と思った。私は、そんな『死者の書』をその神社の森を見て、読んでいた。


国家とは〈木〉と〈根〉の混淆する場所でもある。この紀伊半島を旅して書き記したルポルタージュをテキストとして、根という鍵言葉を元に読解してみるなら、根とは決してレベル以下のものを指していない事に改めて気づく。 被差別部落を根の国と読み換え、天皇を差別被差別の統括と考え両方を併せ持つ神人の一人と考えることは、レベルの転倒の事でもある。〔・・・〕

「逆差別」という言葉を耳にした事があるが、逆差別という言葉がほんとうにあるならば、都市化近代化の波によって被差別部落が打ち壊されることの意味として使われるべきである気がする。 古い建物が壊され、新しい建物がつくられる。道路がきれいに舗装される。 単に都市化、近代化の要請に従ってそう改善されるのに、「被差別部落だけが」と言われているのである。それは被差別部落あるいは被差別者への暴虐を、そこだけがよくなったと「逆差別」なる言葉で誰かが言いくるめていることだ、と思う。