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2026年6月21日日曜日

自惚れることを止めないもの

 

ちょっと調子が出ないな、もう引き篭もるつもりだったのに、心理学の根本命題に。


「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である[»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.](ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)


つまり書かれることを止めないトラウマに。


現実界は書かれることを止めない[le Réel ne cesse pas de s'écrire ](Lacan, S25, 10 Janvier 1978

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


つまりつまり、書かれることを止めないエロスに。▶︎エロスはトラウマ


最近は蚊居肢の本質から外れるクダラヌコトばかり記しているよ、


「身体の傷は何カ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四十年前の傷がなお血を流す」と老いた詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)はその『カイエ』(生涯書き綴ったノート)に記している。心の傷の特性は何よりもまず、生涯癒えないことがあるということであろう。八カ月で瘢痕治療する身体の外傷とは画然とした相違がある。〔・・・〕


外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。


しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。〔・・・〕


外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。


二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩として結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。


しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。


他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)



ヴァレリーも時事雑感を記してはいたんだが、やっぱり女狂いに戻らないとな、もう残り少ない人生なんだから。


私はあなたを思って気が狂いそうになる。私は「気が狂う」と言った。このオブセッションは常軌を逸しているから。Je deviens fou de penser à toi. Je dis « fou » car cette obsession se fait anormale.(Lettre de Paul Valéry à Jean Voilier, 7 juin 1939)


バタイユの恐怖もエロスのせいだよ。

何ものかが私を書く行為に駆り立てている、思うに、狂ってしまうことの恐怖が。[Ce qui m'oblige d'écrire, j'imagine, est la crainte de devenir fou](バタイユ『ニーチェについて』1945年)



というわけでここでは当面、金子光晴でも引用しとくよ。


恋人よ。

たうとう僕は

あなたのうんこになりました。


そして狭い糞壺のなかで 

ほかのうんこといっしょに

蠅がうみつけた幼蟲どもに

くすぐられてゐる。 


あなたにのこりなく消化され、 

あなたの滓になって

あなたからおし出されたことに

つゆほどの怨みもありません。


うきながら、しずみながら

あなたをみあげてもよびかけても

恋人よ。あなたは、もはや

うんことなった僕に気づくよしなく

ぎい、ぱたんと出て行ってしまった。


ーー金子光晴「もう一篇の詩」



おっと、向こうからリルケもやってきたよ



おお、小さな生き物の至福さよ。

それはいつまでも胎内に在る、それを月満ちるまで懐妊していた母胎のなかに。

おお、蚊の幸福よ、それは婚礼の時でさえ

なお母胎のなかで踊っている。というのも一切が母胎なのだから。

O Seligkeit der kleinen Kreatur,

die immer bleibt im Schooße, der sie austrug;

o Glück der Mücke, die noch innen hüpft,

selbst wenn sie Hochzeit hat: denn Schooß ist Alles.

ーーリルケ『ドゥイノの悲歌』「第八の悲歌」より



やっぱり股のあいだにマンコを抱えている女が自惚れるのはやむ得ないことだよ



女というものは、たとえどんな醜女に生れついても、まったく自惚れを持たないことはない。あるいは自分の年頃から、あるいは自分の笑い方から、あるいは自分の挙動から、何かの自惚れをもたずにはいないのである。まったく、何もかも美しい女がいないように、何もかも醜い女もいない。il n'y a guère de femme, si disgraciée soit-elle, qui ne pense être digne d'être aimée, qui ne se fasse remarquer par son âge, ou par sa chevelure , ou par sa démarche, car des femmes absolument laides, il n'y en a pas plus que d'absolument belles. (モンテーニュ『エセー』第3部第316節)


ーー《老婆に膝枕をして寝ていた。膝のまるみに覚えがあった。姿は見えなかった。ここと交わって、ここから産まれたか、と軒のあたりから声が降りた。》(古井由吉「白い軒」『辻』2006年)


とはいえ厄介なのはこういう事態がいまだあることだな、

それをもっているために女であり、そのために男を誘惑し、それが原因でおとしめられ、女の中核でありながら、女自身から最も女が遠ざけられているもの (上野千鶴子『女遊び』1988年)




ところで金子光晴は、《おもふこと。――あゝ、けふまでのわしの一生が、そつくり騙されてゐたとしても この夕栄のうつくしさ》と、やたらに美しく唄ったが、何のことかわかるかい? 


むかし川上未映子さんのツイートで拾ったんだけどさ。



やっと巡り合ったよ、その前後に。中国湖南の方のサイトで、▶︎金子光晴《非情》全篇



――老いたるドン・ジュアンの唄へる  金子光晴

                  ――舊友前野君に――


出かけるとしよう。かくべつ、いたくといふほどのこともないが

そのむかしの伊達者の名残り、いまは一張羅の、


袖ぐちや、ひぢのあたりのすり切れた、杏びろうどの上着に、そつと刷毛をかけ

ちぎれた釦を絲でかがり、さて、わが姿を手鏡にうつし、


おほかたは白髪となつた顎ひげを剃つたあとで、

所持品はそのまゝ、誰の手にうつるともそれでよし、一束にした文殻を、爐火に投げこみ、


よぼよぼの跛馬、むかしの愛馬をひきだして鞍をおき、秣と水を存分にふるまひながら

おもふこと。――あゝ、けふまでのわしの一生が、そつくり欺されてゐたとしても


この夕映のうつくしさ。女からのよびだしを罠としりつつ乗込んで、

女敵どもの寢刃を胸にうけて死ぬ、この最後ほどわしにふさはしい、冥加な死期が、いつの日待たれようぞ。







この年になって、もっとしっかり女性器を見ておくんだった、と後悔している。目もだいぶみえなくなってきたが、女性器の細密画をできるだけ描いてから死にたい。

ーー金子光晴、79歳 死の前年(吉行淳之介対談集『やわらかい話』より)



…………

もっとも男と女はこういう違いがあるからな、ひどく厄介なんだよ。


男性にとっては肉体関係は恋の終点を意味しているが、女性にとってはそれが恋のはじまりとなることが多い…この相違は、男女の生理の相違に原因している点が多いようで、それだけ宿命的なものといえよう。(吉行淳之介「移り気な恋」)

男と女のちがいの一つは、性について知ることが多くなればなるほど、女は肉体的になってゆくが、男は観念的になってゆくことだ。女は眼をつむってセックスの波間に溺れ込むようになるが、男はますます眼を見開いて観察し、そのことから刺激を得て、かろうじて性感を維持してゆく。(吉行淳之介『不作法紳士―男と女のおもてうら―』)


ーー上野千鶴子は『男流文学論』で小倉千加子と富岡多恵子とつるんで、吉行淳之介をめった斬りにしてるんだが、甘いんだよ、吉行はこうやって男女関係の本質を指摘してきた男なんだから。もっとも彼女がこういうのはとってもよくわかるがね、《@ueno_wan: 男のお守りはもうたくさんだ。女に甘え、女に依存し、女につけこみ、女をなめきり、それができないと逆ギレする。いいかげんにしろ、と言いたい。》(上野千鶴子、2016 05.24)


さてここでいくらか精神分析的観点に戻ろうーー、


男性的な幻想として典型的なのは、セックス中に他の女性と幻想することです。私が発見した女性的な幻想は、より複雑で理解しにくいものですが、セックスをしているのは他の男性であるという幻想ではなく、問題の男性が自分ではない他の女性とヤッテいるという幻想です。問題の患者にとって、この幻想はオーガズムに達するために必要でした。そして彼女がそれについて話したとき(彼女は以前の分析では何年もそれを隠していました)、そして彼女がもうそのようにそれを使用しないと決めたとき、現在の分析結果は、彼女がオーガズムに達するのに困難を抱えているというものでした。幻想の場に位置する、明確に表現された症状があります。この例では、他の女性のポジション、それはヒステリー性幻想において最も隠されている部分であり、そしてあらゆる症例において特定の様相で現れるものを見ることができます。それは非常に深く隠された何ものかです。なぜなら、男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らないから。この男は毎晩他の女とヤッテいることを知らない…これがラカンが言及したヒステリー性パントマイムです。その幻想は、同時に最も隠されているものであり、主体のごくありふれた態度や行動に見られるますが、それを位置付けるのは容易ではありません。

A masculine fantasm that is seen as classic is the fantasizing with another woman while fucking. Well, this feminine fantasm that I found, which is more complex and harder to understand, is not the fantasy that it is some other man that is doing the fucking, but rather fantasizing that the man in question is fucking some other woman who isn't her. For the patient in question, this fantasm was necessary to reach orgasm. And when she told about it—she kept it hidden for years in her previous analysis—and when she decided not to use it any more in that way, the current result of the analysis is that she's having difficulties reaching orgasm. There is a well-articulated symptom  taking the place of the fantasm. We can see, in this example, the position of the other woman, which is what is most concealed about the hysterical fantasm, and which is presented in a specific modality in every case. It is something that is very deeply hidden, because the man, her man, her husband, knows nothing about it. He doesn't know that he's fucking another woman every night… Such is the hysterical pantomime that Lacan refers to. Its fantasm, which at the same time is what is most concealed about it, as can be seen in the subject's most commonplace attitudes and behaviors, is not easy to locate.

(ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, The Axiom of the Fantasm)



さらにーー、

フロイトの目くらめく形式化がある、《男たちは愛する場では欲望しない。そして欲望する場では愛しえない》。われわれは言うことができる、これが愛の裂け目の真の定式だと[cette formulation fulgurante de Freud : « Là où ils aiment, ils ne désirent pas, et là où ils désirent, ils ne peuvent aimer. » On peut dire que c'est là vraiment qu'est donné la formule du clivage de l'amour   (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 22 MARS 1989 )

▶︎男と女の愛の裂け目



特にマザコンの男はどうしようもないよ、


心的インポテンツ[psychischer Impotenz]に関する精神分析的研究は、すでに何人かの作家によって行われ、発表されている。〔・・・〕

その最も普遍的な内容は決して克服されることなく、この病因的素材の中で重要な役割を果たすが、それは母や姉妹に対する近親相姦的な固着[inzestuöse Fixierung an Mutter und Schwester]である。〔・・・〕


この種の男は、愛する場では欲望しない。欲望する場では愛しえない「Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben]。

彼らは、愛する対象から官能を遠ざけるために、愛する必要のない対象を求める。そして近親相姦を避けるために選ばれた対象が、避けるべき対象を思わせるしばしば目立たない特徴を持つとき、「感受性コンプレクス」と「抑圧されたものの回帰」の法則に従って、心的的インポテンツの特異な失敗が起こるのである。

Sie suchen nach Objekten, die sie nicht zu lieben brauchen, um ihre Sinnlichkeit von ihren geliebten Objekten fernzuhalten, und das sonderbare Versagen der psychischen Impotenz tritt nach den Gesetzen der »Komplexempfindlichkeit« und der »Rückkehr des Verdrängten« dann auf; wenn an dem zur Vermeidung des Inzests gewählten Objekt ein oft unscheinbarer Zug an das zu vermeidende Objekt erinnert. (フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』第1章、1912年)


敬愛したらできなくなるからな、


男はほとんど常に、女性への敬愛を通しての性行動に制限を受けていると感じる。そして貶められた性的対象に対してのみ十全なポテンツを発揮する[fast immer fühlt sich der Mann in seiner sexuellen Betätigung durch den Respekt vor dem Weibe beengt und entwickelt seine volle Potenz erst, wenn er ein erniedrigtes Sexualobjekt vor sich hat, ](フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』第2章、1912年)



仮に出来てもたいして感じないんだよーー《心的インポテンツ[psychische Impotenz]は考えられている以上にはるかに広く存在し、この作用が実際に文明化された人間の愛の生をある程度特徴づけている。/心的インポテンツの概念を拡大し性交の失敗に限定しないなら、すべての男性をここに加えうるかもしれない。つまり、行為には失敗しないが、行為から特定の快感を得ずに行う男性、この状態は人が考えるより一般的である。この類推として膨大な数の冷感症の女性[frigiden Frauen]も加えうる。》(フロイト『性愛生活がだれからも貶められることについて』第2章、1912)



で、マザコンでない男っているんだろうか。


大体、文学は古今東西、本当の意味でのマザコンのものだと思うんですよ。マザコンがないと文学は成り立たない。それは大地母神と言ったり、聖母だとかいうようなものの、女が母に通じていかないと、色気が出ないんですよね。(古井由吉「文芸思潮」2010 初夏)

一人の女性とうまくいかないと、すぐに次を求める。常に女性がそばにいて欲しいわけですよ。これは簡単に言えばマザコン。母性を求めてしまう。母子関係の繰り返しみたいなものですよね。相手を人間として、ちゃんと見ていないんですよね。(谷川俊太郎インタビュー「語る 人生の贈りもの」朝日新聞、2018


母として[quoad matrem]、すなわち《女なるもの》は、性関係において、母としてのみ機能する[quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère »](Lacan, S20, 09 Janvier 1973



ま、いずれにせよ一般的に、《男たちは愛する場では欲望しない。そして欲望する場では愛しえない[Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben]》である一方で、女たちは《愛されると同時に欲望されたい[être désirée en même temps qu'aimée]》(Lacan, E694, 1958)であり、ラカンの《性関係はない[il n'y a pas de rapport sexuel]》とは何よりもまずこの含意がある。


というわけでクリスティヴァの旦那がこう言っている、ーー《「男と女のあいだは、うまくいかんもんだよ」、ファルスは始終それを繰り返していたこれは彼の教義の隅石だった。彼はそれをいつまでも声高に主張していた》(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)


もともとうまくいかないもんをフェミニストたちはすべて男のせいにするってのはね、実に不幸な歴史だなぁ。


フロイトを研究しないで性理論を構築しようとする女たちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである[Trying to build a sex theory without studying Freud, women have made nothing but mud pies](カミール・パーリアCamille Paglia  "Sex, Art and American Culture", 1992年)

驚くべきは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである[It is striking how little attention has been paid to the drive and to sexuality in contemporary gender studies.](ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe「ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 2005年)

ジェンダー理論は性差からセクシャリティを取り除いてしまった。ジェンダー理論家は性的実践を語り続けながら、性を構成するものへの問いを止めた[Gender theory [...] it removed sexuality from sexual difference. While gender theorists continued to speak of sexual practices, they ceased to inquire into what constituted the sexual; ](ジョアン・コプチェク Joan Copjec "Sexual Difference" 2012年)


最低限ーー少し前に触れたーーこうでないとな。

女性運動が、「コミュニティの永遠のアイロニー」(ヘーゲル)となり、腰を据えているものへの絶えざる異議申し立てとなり、ユーモアや笑い、フェミニズムも含めた自己批判になるならば、運動は存在理由をもつ。

Par contre le mouvement des femmes aurait une autre raison d'être s'il était une « éter nelle ironie de la communauté » (Hegel), une con testation permanente de ce que est assis, installé; un humour, un rire, une critique de soi-même, du féminisme y compris... (ジュリア・クリステヴァ「unes femmes」 1975年インタビュー女の時間』所収« Le Temps des femmes » de Julia Kristeva.


つまり泥まんじゅうに腰を据えてしまったフェミニズムをいくらなんでももう自己批判しないとな、もう年も年なんだからチツ子ちゃんは死ぬまでにやっとけよ。どっかで道に迷ったんだよ、初期にはいいこと言ってたんだからさ、▶︎上野千鶴子語録