このブログを検索

2015年7月6日月曜日

現代日本の「自由のアマゾンヌ」たち




いい女がそろってるねえ
デモというのは、どうして女たちのほうが絵になるんだろ




おい、若い男ども、写真を撮りにいくだけでもいいから参加しろ!




総理がSEALDsを非常に気にしている。これまでネットの意見で若い世代に憲法改正を望む声が強いことから、総理は自分の路線が若者に支持されていると考えていた。選挙権の年齢引き下げも自民党に有利に働くとの読みがあった。

 しかし、渋谷のデモに多くの若者が参加するなど、予想に反する動きが広がっている。このままでは70年安保の新宿フォークゲリラ、神田カルチェ・ラタンのように、今後は渋谷が若者の反対運動拠点になりかねないと心配している。(裸の首相 裸だと指摘する者はメディアでも子供でも黙らす

現代日本版「自由のアマゾンヌ」に魅了されてヘボ男どももーーシツレイ!--参加すれば、こうなるのも夢じゃないぞ。





‏@bcxxx 7月3日この連ツイ、さっき途中で電池が切れてしまった。なぜこれを書いたかと言うと、TLで「15日に強行採決だとするとあと金曜日は2回しかない!」みたいな悲痛な声をいくつか見たからです。…全然違う。むしろ衆院で強行採決されてからが本番です。

衆院で強行採決をすれば、安倍の支持率は猛烈に低下する。そこからさらに参院で「みなし否決」までの60日を、安倍政権は国民の猛反対に晒されながら過ごすことになる。与野党共に政界にも様々な軋みが出てくる。政界地図に激変が起きるかも知れない。

安倍はこの夏を、民衆の怒りの炎に焼かれて火だるまになりながら進む道を選んだわけです。その間に、恐らくよほどのことがなければ安倍は総裁に無投票再選されるでしょう。そこまではもうレールが敷かれている。まずゆらがない。しかしその後がいよいよ安倍降ろしの本番です。

強行採決はガソリンです。安倍が頭からガソリンをかぶってくれる。火を点けて煽りまくり、焼き尽くすのは国民です。だから本当に衆院の強行採決は過程でしかない。むしろスタートラインでさえある。そして安保法制が最終的に可決されても、それもまたスタートラインであり、プロセスの途中に過ぎない。

学生さんたちは、他の世代が決して経験しなかった、凄い夏休みを経験することになる。一生の思い出に残る、日本の歴史の1ページに残る夏休みです。思う存分青春を爆発させてください。勤労者のおじさんたちも頑張って頭数になるよ。やってやろう!

それともお前らこっち系か?

@hazuma: 安倍政権にNOはいいけれど、というかぼくもそりゃNOなんだけど、それでつぎだれ/どの政党に政権任すの?という具体的な名前がないままに運動しても、それはやっぱり無責任のそしりは免れないわけでね。。(東浩紀)

ようするにデモに参加しないことの言い訳だな、これは。

※「野田やめろデモ」に向けての声明 (柄谷行人起草)

 野田が辞めたら、もっとひどい者が出てくる、自民党に戻ってしまう、という意見があります。しかし、そのときは、もっと反対すればよい。また、前任者が大衆的な反対運動で辞めた場合、新任者は同じことをやれないでしょう。それに対して、われわれが現政権をバカにするだけで、何もしないでいるなら、結局、マスメディアにおいて大衆的な人気のあるデマゴーグに政権を与えることになる。それこそ最悪です。




 Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.--Samuel Beckett "Worstward Ho" (1983)

何度やってもダメだったからって、それがどうしたのだ。もう一度やって、もう一度ダメになればいいのだ。以前よりマシならば、それでいいのだ。(ベケット)

昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです。だから、ネットの世界でも議会政治と同じようになります。それが、この3月11日以後に少し違ってきた。以後、人々がデモをはじめたからです。インターネットもツイッターも、デモの勧誘や連絡に使われるようになった。

 たとえば、中国を見ると、「網民」(網はインターネットの意味=編集部注)が増えているので、中国は変わった、「ジャスミン革命」のようなものが起こるだろうと言われたけど、何も起こらない。起こるはずがないのです。ネット上に威勢よく書き込んでいる人たちは、デモには来ない。それは日本と同じ現象です。しかし、逆に、デモがあると、インターネットの意味も違ってきます。たとえば、日本ではデモがあったのに、新聞もテレビも最初そのことを報道しなかった。でも、みんながユーチューブで映像を見ているから、隠すことはできない。その事実に対して、新聞やテレビ、週刊誌が屈服したんだと思います。それから段々報道されるようになった。明らかに世の中が変わった。しかし、それがインターネットのせいか、デモのせいかと問うのは的外れだと思います。(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」



ーー「エジプト革命」後4年経ってどんな具合になっているかだって? 
では、あの「奇跡」はなかったほうがよかったとでもいうのだろうか。

季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。(……)

「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、16の時にはもう存在していなかったパレスチナを。(ジャン・ジュネ『シャティーラの4時間』)