さあて、日曜日だな
たまには初歩的教養ヴァージョンを投稿するよ、
このブログを覗いてくれている人のためにね
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たまには初歩的教養ヴァージョンを投稿するよ、
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ヘーゲルは自分が何をやってるのか分かっていなかったのさ。(……)だから彼を解釈しなくちゃいけない。知っての通り、ドゥルーズが哲学者を読むために使った言葉は、アナル解釈だ。オカマを掘らないとな。ドゥルーズが言うように、哲学者を尻から貫通するんだ、汚れのない受胎のためにね。すると怪物が産まれるわけだ。 (ジジェク An Interview with Slavoj ZizekEric Dean Rasmussen、2003、意訳)
オカマというのはよがりますよね。枕カバーがベットリ濡れるくらい涎を流したりするでしょう。するとやっているうちに、こっち側になりたいという気になってくる。だからオカマを抱いちゃうと、大体一割くらいのケースで、オカマになりますね。(野坂昭如ーー岩井志麻子『猥談』より)
哲学者がかつてその本当の最後の意見を書物のなかに表現したとは信じない。
書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるものではないか。(ニーチェ『善悪の彼岸』289番 秋山英夫訳)
偉大な哲学者達は、彼らがはっきりと公表していることはまったく考えていないし、また、たとえばデカルトについても、彼はほとんど神を信じていなかったが、それは彼の注釈家の誰々に都合よかったからだとか、その逆であるとか、など平気で考えるのだということである。(ラカン『同一化セミネール』)
ひとがものを書く場合、分かってもらいたいというだけでなく、また同様に確かに、分かってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にならぬ。おそらくそれが著者の意図だったのだーー著者は「猫にも杓子にも」分かってもらいたくなかったのだ。
すべて高貴な精神が自己を伝えようという時には、その聞き手をも選ぶものだ。それを選ぶと同時に、「縁なき衆生」には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこ起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである。ニーチェ(『悦ばしき知識』秋山英夫訳)
真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)
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◆デリダ・インタビュー(1)、LAWEEKLY, 2002年11月8/14日
【問】映画の中で、あなたにある問いが尋ねられました--「尊敬する哲学者になにでも尋ねることができるとしたら、なにを質問しますか」と。すると「性生活についてですね。決して話そうとしないことですから」と答えておられました。ところがインタビュアーがあなたの性生活について質問すると、答えられませんでした。どこに境界があるのでしょうか。
【答】わたしが答えるのを拒んだのは、それが隠さなければならないことだからではなく、カメラの前で外国語で即興に話しながら、自分の生活のもっとも個人的な側面を明らかにしたくはなかったからです。こうした事柄について話すのなら、文章という自分の道具を研ぎ澄ますでしょう。わたしの書いたものを読んでいただければ、こうした事柄について、わたしなりのやりかたで検討しているのご理解いただけるでしょう。『郵便葉書』や『割礼告白』は自伝的な作品ですし、わたしの生活と欲望は、わたしのすべての文章に刻印されています。
【問】なぜ女性の哲学者はいないのでしょう。
【答】哲学のディスクールというものが、女性、子供、動物、奴隷をマージナルなものとして抑圧し、沈黙させるように組み立てられているからです。これは哲学の構造であり、これを否定するのはばかげたことでしょう。そのために偉大な女性の哲学者が現われないのです。もちろん偉大な女性の思想家はいますよ。でも哲学というのは、思想のうちでもごく特殊な思想、特別な考え方なのです。ただ現代では、こうしたことは変わりつつあります。
ーーと引用すれば、ジジェクによるデリダ罵倒を思い出したよ
デリダにおいて、全体化する例外の論理は、正義の公式においてその最高の表現を見いだすことができる、つまり「脱構築の脱構築されない条件indeconstructible condition of deconstruction」だ。全ては脱構築される、「脱構築の脱構築されない条件」自体以外は。たぶん、これこそが、全ての領野を暴力的に均等化する仕草だ。このようにして、全領域に対して、「例外」としての己れのポジションを形式化している。これは最も初歩的な形而上学の仕草である。(ジジェク、2012,私訳)
まあ、あまり信用するなよ、ラカン派なんてな
私が哲学を攻撃してるだって? そりゃひどく大袈裟だよ!(ラカン、Seminar XVII)
ーー《ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら。》(バディウ、2005)