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2016年2月14日日曜日

男は私のなかになにを見ているのかしら?

人々の妄想の鏡のなかですでにアリスの靴や靴下そして下着まで濡れているんだ(吉岡実「人工花園」 )





…………

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader,1996)の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(”Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ”Paul Verhaeghe,1998,私訳)





ラカン派の男女の差異とは、解剖学的性差ではない。

冒頭のVerhaeghe=Darian Leaderの文を援用していえば、あながた男であっても、カップルが目前を通り過ぎていったとき、あの女をモノにした男のほうにいっそう関心を向けるならーー女に欲望される対象への興味に腐心するならーー、あなたは〈女〉だ。

もちろん、おちんちんのでかそうな色男でかないそうもないな、程度の関心を男にむける場合はあるだろうが、関心の焦点は。常に女自体であるのが男だ。女の場合は、どうもその傾向が少ない、というのがラカン派(あるいはフロイト派)の見解である。

もっとも、父の名〔象徴的権威)の斜陽の現在、多くの男は女になっているという見解もないではない。「20世紀の神経症の時代から21世紀の「ふうつの精神病」の時代へ」(ミレール)というのが正しければ、《精神病者は、女性化という方向に不可避的に追いやられる。これを「女性への推進力」と呼ぶ》。

なぜ女性化なのか、父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている Faute de pouvoir être le phallus qui manque à la mère, il lui reste la solution d’être la femme qui manque aux hommes」(ラカンE.566)からだ、と言われる。

とはいえ、男と女の性差というのは、いまだ厳存すると思わざるをえない。

感情に強調が置かれる女に対して、ロゴスを代表するのが男ではない。むしろ、男にとって、全ての現実の首尾一貫・統一した普遍的原則としてのロゴスは、ある神秘的な言葉で言い表されない X (「それについて語るべきでない何かがある」)の構成的例外に依拠している。他方、女の場合、どんな例外もない、「全てを語ることができる」。そしてまさにこの理由で、ロゴスの普遍性は、非一貫的・非統一的・分散的、すなわち「非全体 pas-tout」になる。

あるいは、象徴的な肩書きの想定にかんして、男は彼の肩書きと完全に同一化する傾向にある。それに全てを賭ける(彼の「大義 Cause」のために死ぬ)。しかしながら、彼はたんに肩書き、彼が纏う「社会的仮面」だけではないという神話に依拠している。仮面の下には何かがある、「本当の私」がある、という神話だ。逆に女の場合、どんな揺るぎない・無条件のコミットメントもない。全ては究極的に「仮面」だ。そしてまさにこの理由で、「仮面の下」には何もない。

あるいはさらに、愛にかんして言えば、恋する男は、全てを与える心づもりでいる。愛された人は、絶対的・無条件の「対象」に昇華される。しかし、まさにこの理由で、彼は「彼女」を犠牲にする、公的・職業的「大義」のために。他方、女は、どんな自制や保留もなしに、完全に愛に浸り切る。彼女の存在には、愛に浸透されないどんな局面もない。しかしまさにこの理由で、彼女にとって「愛は非全体」なのだ。それは永遠に、不気味かつ根源的な無関心につき纏われている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

仮面の下には何もない(象徴界の彼岸には何もない)からこそ、人は仮面の向こうに「神秘的な女性の深淵」があると幻想する。これ自体、男性の論理(例外に論理)である。《無を覆うことによって、この無は何かに転換される》(A. Miller, 1997)。あまりにも完璧な象徴界の住人である女性はーー聖書が言うように、女は大部分、耳で考え、言葉で誘惑されるーーー、この完璧さのゆえに、象徴界を揺り動かす。これがラカンの「非全体 pas-tout」の意味するところの核心のひとつだ。

……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(…)

真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(同 ジジェク,2012,私訳)

ーーこのあたりのことがわかってないと、ひどい痛い目にあうぜ、つまり、女は、男に比べて、はるかにパートナーに依存することが少ないことが。それは、巷間の名言、「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」でもいい。


結局、「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」などといった罵り文句は、「〈女〉は存在しない」という事実、ラカンの言葉を借りれば、彼女が「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい。それは、男性の存在の内、象徴界における女性の役割の内に注ぎ込まれた部分を脅かすのである。この種の中傷に対する男性の極端な、全く法外な反応――殺人を含む――を見てもいいだろう。これらの反応は、男性は女性を「所有物」だと見なしている、という通常の説明で片づけられるものではない。この中傷によって傷つけられるのは、男性がもっているものではなく、彼らの存在、彼らそのものである。(……)「〈女〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男の定義は次のようなものになる――男とは「自分が存在すると信じている女である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』冨樫剛訳)




それと、女というのは、なんでもやりかねないからな、いざとなったら。それだけは気をつけろ、男性諸君! 《私は、女性は男性と同じ超自我を持っていない、そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、男の行動、活動に見られるような限界が無い、という印象を持っている。》(フロイト)

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)
彼女の友だちのひとりが死ぬ …数日後に彼女はその夫と食事をしている …彼女はそいつにぞくぞくする …これこそほんとうに彼女のトリップだ、自慰とともに、しかも彼女はそれを秘密にしたりしない、そこでこそ彼女はほんとうに触れ合っているという感じがする …陰唇に指を突っ込んで…死 …そのとき彼女は熱に浮かされたようになって、ほとんど美しいまでになる、彼女の目は爛々と輝き、ほぼ完全に彼女は催眠状態に満たされる、これが彼女のカルトだ …彼女は、テラテラと光る蛇の暖炉、煤、煙突のなかにいる …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)




女のことになるとまず極まって悪く言っていたし、自分のいる席で女の話が出ようものなら、こんなふうに評し去るのが常だった。――「低級な人種ですよ!」(……)

さんざん苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女を何と呼ぼうといっこう差支えない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。男同士の仲間だと、退屈で気づまりで、ろくろく口もきかずに冷淡に構えているが、いったん女の仲間にはいるが早いかのびのびと解放された感じで、話題の選択から仕草物腰に至るまで、実に心得たものであった。(チェーホフ『犬を連れた奥さん』)


というわけで、GIF画像在庫整理のためのーーこのところおおむねそうだがーー投稿だということが、オワカリニナッタでしょうか? (で、もう、オオムネ飽きたよ)