2016年2月13日土曜日

生垣の「結び目をほどく」詩人

ラカンの「科学的言説のなかに穴を開ける現実界」«Réel qui fait trou dans le discours scientific » (Lacan,séminaire, livre XVIII).とは「象徴界のなかに穴を開ける現実界」« Réel qui fait trou dans le symbolique »と言い換えられる。

これは、言ってしまえば、欲望(象徴界)の垣根に穴を開ける享楽(現実界)のことだ。

ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)
神話において禁止の形式をとるものは、元来、失われたものです。禁止は失われたものについての神話です。「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir aux haies de la jouissance]」 とラカンが上品に呼んでいるのはこれです。欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、それはトカゲの尻尾のように落ちます[ca tombe]。これが-φの素晴らしい表現であり、また、対象a の表現でもあることを認めなければなりません。対象a とは、すなわち、空虚を埋める失われた対象です。また、ここで「同一化は欲動を満たすことなしに欲望によって決定される」とラカンが言うとき、フロイトの第二局所論についてのラカンの読みがその真価を発揮します。

欲望と欲動は混同されてはならない二つの異なった秩序なのです。(ジャック=アラン・ミレールーー「欲望と欲動(ミレールのセミネールより)」)

よく知られているように? 西脇順三郎もほとんど同じことをいっている。言語(象徴界)の垣根に穴を開ける「永遠=詩」と。

人生の通常の経験の関係の世界は
あまりいろいろのものが繁茂してゐて
永遠をみることが出来ない。
それで幾分その樹を切りとるか、
また生垣に穴をあけなければ
永遠の世界を眺めることが出来ない。
要するに通常の人生の関係を
少しでも動かし移転しなければ、
そのままの関係の状態では
永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「詩情」)

西脇順三郎の垣根に穴を開ける仕方とはたとえばこんな具合である。

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃

ーー西脇順三郎「旅人かへらず」

この象徴界のなかのいっけん淡々とした詩の運びの中途であらわれる「ああかけすが鳴いてやかましい」に震えないでいられる人がもしいるなら、享楽不感症というものである。

これは何も西脇順三郎だけではない。すぐれた詩人たちはそのことをとっくの昔から知っている(参照:神々しいトカゲ)。たとえば、谷川俊太郎の「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」には、こうある。

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに

ごめんね

エリオットは、詩の意味とは、「読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだ」と言っているが、これも生垣に穴をあけるのと同じことをいっている。

谷川俊太郎を重ねて引用すれば「意識のほころび」とはそのことだ。

詩はなんというか夜の稲光りにでもたとえるしかなくて
そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ
意識のほころびを通してその向こうにひろがる世界を

「理想的な詩の初歩的な説明」より 

反哲学者、反科学的言説のラカンの《哲学的存在論と平行して動いている存在の「裏面 l'envers 」にて--、パラ存在(横にずれてあること[être à côté]) 》(参照)も、これらのヴァリエーションであるに相違ない。


このことが、かりに無意識的にせよ分かっているのは、なにも詩人たちだけではない。すぐれた「芸術家」たちは当然わかっている。

……だからぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。(岡崎乾二郎ーー共同討議「『ルネサンス 経験の条件』をめぐって」『批評空間』 第3期第2号,2001ーー「得体の知れないものは形式化の行き詰り以外の何ものでもない」)

この文を、たとえば、ジジェクの現実界の説明と「ともに」読んでみよう。ほとんど同じことを言っているのが分かるだろう。

ラカンにとって、現実界は、形式的論理を通してのみ、明示されうる。それは、直接的な方法ではなく、論理的形式化の袋小路を通してのみ、否定的に示されうる。すなわち、現実界は、裂け目・対立 antagonism の見せかけのなかにのみ、見分けうる。現実界の根源の地位は、障害物の地位である。現実界は、失敗の不在の原因ーーそれ自身のなかに、どんなポジティブな存在論的一貫性もない原因であり、しかし、その効果 effects を通してのみ/効果のなかにのみ、顕れるものである。簡潔に言えば、人は現実界を形式化しようと努め、失敗する。そして、現実界はこの失敗である。これが、ラカンの現実界において、対立物が合致する理由だ。つまり、現実界は、象徴化できないものであると同時に、この象徴化を邪魔する障害物である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ここで忘れてはならない肝腎なことは、象徴界にのみ汲々とする科学的言説や哲学的言説などは無意味であるなどと思い込み、無闇に詩や芸術を顕揚してしまうマヌケにならないことだ。詩や芸術は、科学的言説の支配があってはじめてその効果を生む。それは、あくまで象徴界の生垣の「結び目を解く」作用をもたらすのであり、科学的言説や哲学的言説がなければもともこうもない。

哲学によって支えられた伝統的な存在論は、ある程度は、超えがたいものだ。パラ存在論は、その名がはっきり示しているように、哲学的存在論を打ち負かしたり揚棄するものではない。哲学的存在論が…無意味だとして、それを除去しようとする動きを装っているのでさえない。(……)そうではなく、パラ存在論はむしろ、哲学的存在論の「全体化への欲望」を弁証する(結び目を解く unsuture)のだ。そして、文字の偶然性と物質性を指差し、その裏面 envers を暴く。……(Lorenzo Chiesa、2014ーー「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち)


ーーというわけで、オレは還暦近くになってようやくこんなことに気づいたよ、いささか遅すぎたな。とはいえ、フロイトの「死の欲動」は60歳時の仕事だし、ラカンの「享楽」も事実上、60歳以降だからな、真の「詩人」という例外の種族以外は、この年頃に気づくのさ


…………

※附記

オクシモロンも、象徴界に穴を開けるひとつの手法だろう。

修辞学で言うオクシモロンoxymoronという言葉は、語源の上ではギリシャ語で「鋭い」を表すoxyと「愚か」の意味のmOrosとが結びついたもので、「無冠の帝王」とか「輝ける闇」などの表現のように、通念の上では相反する、あるいは結びつき難い意味を持つ二つの言葉が結びつき、ぶつかりあいながら、思いがけない第三の意味を生み出すという一つの表現技法である。撞着語法とも、矛盾語法とも呼ばれる。(安永愛「 ポール・ヴァレリーのオクシモロンをめぐって」)

【シェイクスピアの例】

ああ喧嘩しながらの恋 、ああ恋しながらの憎しみ、ああ無から創られたあらゆるもの、ああ心の重い浮気、真剣な戯れ、美しい形の醜い混沌、鉛の羽根、輝く煙、燃えない火、病める健康、綺麗は汚い、汚いはきれい……


【ヴァレリーの例】

魅惑の岩、豊かな砂漠、黄金の闇、さすらふ囚われびと、おぞましい補ひ合ひ、昏い百合、凍る火花、世に古る若さ、はかない不死、正しい詐欺、不吉な名誉、敬虔な計略、最高の落下(以上、中井久夫訳ヴァレリー『若きパルク 魅惑』巻末の「「オクシモロンー覧表」」


「海辺の墓地」の鳩歩む海だって、その冒頭一連がオクシモロンのようなものだ。

鳩歩む この静かな屋根は
松と墓の間に脈打って
真昼の海は正に焔。
海、常にあらたまる海!
一筋の思ひの後のこの報ひ、
神々の静けさへの長い眺め 

最終連になって、鳩は、三角帆の漁船(foc)であることが知れる。

風が起こる……生きる試みをこそ
大いなる風がわが書(ふみ)を開き、閉じ、
波は砕けて岩に迸る!
飛び去れ、まこと眩ゆい頁(ページ)!
砕け、高波、昂(たか)まる喜びの水で
三角(さんかく)の帆がついばんでゐた静かな屋根を! (中井久夫訳)