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2016年2月2日火曜日

「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち

《私が哲学を攻撃してるだって? そりゃひどく大袈裟だよ!》(ラカン、Seminar XVII)

…………

まず「哲学書の読み方」で引用したいくつかの文を再掲する。

ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら。(バディウ、2005)
デリダにおいて、全体化する例外の論理は、正義の公式においてその最高の表現を見いだすことができる、つまり「脱構築の脱構築されない条件indeconstructible condition of deconstruction」だ。全ては脱構築される、「脱構築の脱構築されない条件」自体以外は。たぶん、これこそが、全ての領野を暴力的に均等化する仕草だ。このようにして、全領域に対して、「例外」としての己れのポジションを形式化している。これは最も初歩的な形而上学の仕草である。(ジジェク、2012,私訳)

こうしてデリダの脱構築でさえ、例外の論理として、貶められる。

この批判、ラカンがセミネールⅩⅩにて公式化した男性の論理/女性の論理にかかわる。

男性の論理が〈例外〉を伴う〈不完全性〉の論理、女性の論理は境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の論理だ。

ラカンは、性差を構成する非一貫性を、「性差の式」にて詳述した。そこでは、男性側は、普遍的な機能とその構成要素である例外とによって定義される。そして女性側は“すべてではない”(pas‐tout)のパラドックスによって定義される(例外はなく、そしてまさにその理由によって、すべてではない、すなわち、非-全体化される)。想いだしてみよう、ウィトゲンシュタインの語り得ぬものの移りゆく地位を。前期ヴィトゲンシュタインから後期ヴィトゲンシュタインの移動(家族的類似性)とは、「すべて」(例外を基盤とした普遍的全体の領域)から、「すべてではない」(例外なしでその理由で非-普遍的、非-全体の領域)への移動である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHINGーー「“A is A” と “A = A”」)

…………

というわけで、ラカン派の観点からはほとんどの哲学者がその批判の餌食になる。いま流行りのメイヤスーも同じく。

ラカン派の立場からは「必然性は非全体である」(非一貫性の論理)だが、メイヤスーの「すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は」とは、「無神論者の神」つまり、「神がいないことを保証する神」だ、と(例外の論理)。

メイヤスーの観点…すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)

我々は、不在の〈原因〉absent Causeの絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。それは、すべての法(則)の偶然性を保証するのだ。我々は「無神論者の神」のような何かを扱っている。つまり、「神がいないことを保証する神」を。

(これに対して)ラカンの無神論とは、(あらゆる)保証の不在、もっと正確に言えば、外的(メタ)保証の不在という無神論である。つまり支え(保証)は、それが支えるもののなかに含まれている。どんな独立した保証もない。それは、保証(あるいは絶対的なもの)がないと言っているわけではない。これが、構成的な例外という概念とは異なって、非全体(pas-tout)概念が目論むことだ。すなわち、そこでは、ひとつの論証的理論を論駁しうる。そして論証的領野内部から来る別のものを確認しうる。

(……)例外の論理・或る「全て」を全体化するメタレヴェルの論理(全ては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は)の代わりに、我々は「非全体」の論理を扱っている。ラカンの格言、それは「必然性は非全体である」と書きうるが、それは偶然性を絶対化しない。…(ジュパンチッチ、Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、2014, PDF)
……メイヤスーが、嫌味たっぷりに、いかにカント的な観念論者の「理性的形而上学」が「非合理的信念主義」にとっての空間を開くかに注目するとき、彼は奇妙にも見過ごしている、同じことが彼自身のポジションにとっても真実であることを。すなわち、相関主義 correlationism への唯物論者の「批判」もまた新しい神性 divinity を開くのではないか? (我々はメイヤスーのほとんどは未発表のテキスト--存在しない潜在的な神 inexistent virtual God をめぐるテキストーーから知るように)。(ZIZEK、LESS THAN NOTHING、2012、私訳ーー「神の復活(神の死の死)」)

ーーという具合だ。

ところで、上に引用したジュパンチッチ、2014の論文が掲載されている“Lacan and philosophy : the new generation / edited by Lorenzo Chiesa”の編集者ロレンツォ・キエーザによる序論にはこうある。

もし、一方で、哲学は、m'être (私-在、私-支配)の言説を典型的に表すなら、つまり、「私は私自身の主人maîtreである」という妄想的な信念の言説、もっと正確に言うなら、《m'être à moi même》(Lacan,S.17)という言説であるなら、他方で、精神分析はこの支配 mastery の古臭い存在論ーーそれは、ボククラシー[je-cratie]も同然である:ーー、《理想のボクの神話、支配するボクという神話、少なくとも何かがそれ自身、つまり話し手と一致するというボクの神話》(Lacan,S.17)--を代替すべきだとする。それは、par-être の言説への代替である。パラ存在 para-being としてある言説、横にずれてある[être à côté]言説だ。(Lorenzo Chiesa、2014) 

《m'être à moi même》とは訳しにくいのでそのままにしたが、《我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる》(S.17)言説という意味だ。 ラカンには、 petit Maître, comme « moi »(S.17) という表現もあり、つまりボククラシー(je-cratie)の言説とは、〈私〉という小さな主人を信じる言説(言表行為と言表内容の一致)がその典型例のひとつということになる。

(この je-cratie というラカン造語の意味は、デモクラシーが大衆による支配であることを想起すれば判然とする、つまり「私を支配する」ということ、「私が自らの言説の主人となる」妄想ということだ。)

このボククラシー(je-cratie)の言説とは結局、自己という共同体の言説であるだろう(自己意識と共同体的である)。

超越論的な自己は、……自己意識ではない。自己意識は、たしかに自分の属している世界をこえる。しかし、それは反省にすぎず、つまり鏡像のなかにあるにすぎない。したがって、《超越論的》であることは、たんに自己関係(自己言及)的であるのではなく、共同的なシステムに対して自己関係的であるのでなければならない。(柄谷行人『探求Ⅱ』P.178)
……誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる共同体の外と間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(同『探求Ⅱ』p201-202)

このように男性の論理/女性の論理は、超越的/超越論的の対比としても捉えうる。

ここで中井久夫が、ヴィトゲンシュタインの家族的類似性を範例指向性と呼んだことを思い出しておこう。

分類には、共通項による分類のほかに、1930年代に論理哲学者ヴィトゲンシュタインが抽出した「家族類似性」という、共通項のない分類がある。(……)分類についての、個々人の基本的な構えも、各自異なる。究極には「世界を一つの宇宙方程式に還元する」ことをよしとする人と「世界は多様であること」をよしとする人があるのであろう。(……)前者を「公理指向性」、後者を「範例〔パラダイム〕指向性」と呼んだことがある。「単一精神病」論者と多数の「下位群」を抽出する人との間には心理的因子の相違がある。おそらく気質的因子もあるだろう。(中井久夫『治療文化論』)

ジュパンチッチのメイヤスー批判は、彼の「公理指向性」(あるいは「統合指向性」)姿勢批判でもある。

もとより ”統合指向性” による解決に適した問題も存在する。しかしすべての問題をこの解決法に委ねるならば事態は急速に悪夢化する。とくに、自我同一性を決定すべき思春期から青年期にかけては、個物をつねに全体との関係において多少とも一般的・抽象的に位置づける”統合指向性” が、世界の中を実践的に動きまわって実例を探り、枚挙・比較・考量する ”範例指向性paradigmatotropism” によって補完されなければ、現実原則の枠内では解決しえない問題が続々と生起し、自我同一性を危殆に瀕せしめるであろう。ここで悪夢化とは、いうまでもなく、心的事態が深淵にのぞむような不安と激越な自律神経症状を伴い、しかも三者が相互誘発的に破局的な強度にむかって一意的に進行することである。 (中井久夫「精神分裂病状態からの寛解過程」『分裂病』所収 )

さて話を元に戻せば、上の文でロレンツォが言っている「哲学的言説」とは、フロイトの決定的な文、《自我は自分の家の主人ではない“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”》(『精神分析入門』)、あるいは、フロイトの公式のラカン版“Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”(シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する)を真に受けとめていない言説ということもになる(参照:現前と再現前(表象)by Alenka Zupancic)。これらが、冒頭近くに引用したバディウの《ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら。》の意味合いのひとつのはずだ。

他方、ボククラシー(ボクらしい)言説でないバラ存在論の言説とは何だろう。横にずれてある[être à côté]言説とされているように、まずこの表現からユーモアの言説を思いおこす。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)

ユーモアの言説とは横にずれること、視差(パララックス)、超越的ではなく超越論的な言説である。《超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ》(柄谷行人『探求Ⅱ』)(参照:「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」)。


ここでもう一度、ロレンツォ・キエーザの序論に戻ろう。

パラ存在論とは何か? それは、なによりもまず、シニフィアン(文字としての)の偶然性と物質性、その結果として、そのシニフィアンの上に乗る言語の法の偶然性と物質性にかかわる横方向からの lateral 存在論である。

(……)パラ存在論でさえ、必然性の存在論に陥る危険はある。それは、文字の偶然性という必然性の存在論だ。だから反哲学的「悪魔払い」は…結局のところ充分ではない。

ラカンは充分にこの危険に気づいていた。たとえば、セミネールXVIIにて、彼はこう言う、《哲学によるどんなアカデミックな言明、…もしそれが哲学ならいずれにせよ、ボククラシー[je-cratie]が避けがたく出現する》。

しかしながら、ラカンは同じように気づいていた、彼もそれを避けられない事実を(同様に、彼の精神分析的言説もまた、同じレヴェルで、原支配 Ur-mastery の言説だという印象を完全には追い払いえないという事実を)。

要するに、我々はまず、哲学的存在論を m'être(私-存在)の言説として読むことを学ぶべきだ。それは、究極的に、つねにを「一」としての「世界 uni-verse(一界)」を支配しようとする挫折される試みを前提としている。したがって、その存在論に沿って、いやむしろその傍らでーー哲学的存在論と平行して動いている存在の「裏面 l'envers 」にて--、パラ存在(横にずれてあること[être à côté])を見いだすべきだ。

しかし、最も重要なのは、我々はまた、次のことを認めねばならないことだ。一方で、《言語は、哲学的言説の領野、その言説がそれ自身を繰り返して刻むたんなる領野より、その資源のなかにはるかに豊かさを証している》のだが、それにもかかわらず、「哲学的言説によって言い表されたある参照点」は存続する。《その言説は、どんな言語の使用からも完全には消去することは難しい》(S.17)から。

哲学によって支えられた伝統的な存在論は、ある程度は、超えがたいものだ。パラ存在論は、その名がはっきり示しているように、哲学的存在論を打ち負かしたり揚棄するものではない。哲学的存在論が…無意味だとして、それを除去しようとする動きを装っているのでさえない。(……)そうではなく、パラ存在論はむしろ、哲学的存在論の「全体化への欲望」を弁証する(結び目を解く unsuture)のだ。そして、文字の偶然性と物質性を指差し、その裏面 envers を暴く。……(Lorenzo Chiesa、2014) 

このようにラカン自身、みずからの言説が原支配 Ur-mastery の言説であることを怖れていたわけで、実際、そうみえないこともない。かつまた、ラカン派の連中が安易に「非全体」の論理を強調すれば、それは非全体の論理の絶対化にみえなこともない。

だが、非全体の論理とは、本来は、「知りたいという欲望」、「全体化への欲望」の結び目を解くことを促す考え方なのだ。それはユーモアの言説・視差の言説も同様だ(参照:言説の横断と愛の徴)。

おそらく、このようなことがわかってしまっている「哲学者」は、論文形式からエッセイー形式に向かおうとするだろう。

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

…………


参照1、ロレンツォのいっているシニフィアンの物質性をめぐっては、「純シニフィアンの物質性」を見よ。たとえば、

(身体部分への)記銘 inscription はシニフィアンの体制 order には属していない(そしてそれ故、大他者には属していない)。しかしその記銘は、ラカンが「文字」として理解しようと奮闘するなにかを通して、起こる。ここでは「使用価値」が「交換価値」よりはるかに重要である。(……)

文字は後々まで、大他者の非全体 pas-tout の内部に外立 ex-sisting し続ける。(ポール・ヴェルハーゲ、2002)

参照2、ジュパンチッチとロレンツォ両者の議論の根のひとつについては、「構造とメタ構造、現前と再現前(表象)presentation and representation とのあいだの関係性」をめぐっており、「現前と再現前(表象)by Alenka Zupancic」を見よ。