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2015年11月13日金曜日

言説の横断と愛の徴

…ce discours psychanalytique, y'en a toujours quelque émergence à chaque passage d'un discours à un autre.t……l'amour c'est le signe de ce qu'on change de discours (Lacan,Séminaire ⅩⅦ Staferla 版 P.33)



セミネールアンコールの第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から $ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ、と。その考え方とともに、あとはよろしく!(ポール・ヴェルハーゲ,1995、私訳

…………

人はそのつど言説を変えている。いや変えなくては、分析家の言説はあらわれない。

分析家の言説? なんだ、それは。

ーー何も精神分析治療の話をしたいわけではない。分析家の言説とは、究極的には、〈あなた〉が、以前には知られていなかった〈あなた〉自身の存在に遭遇することである。

…………

言説とは、まずは間主体的な発話行為の「形式」であり、その言説の場に置かれれば、自らがどう思っていようと、必然的にある言説の「場」を占める。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」)

ここでラカンが後年示した斜交いの矢印をふくめた四つの言説の基盤にある形式的構造の説明を示しておこう。


Serge Lesourd は次ぎのようなとても簡明な解釈をしている。

話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )


さてもとの文脈にもどれば、たとえばヒステリー者がヒステリーの言説をつねに話すわけではない。ときに主人、ときに大学人の言説を話す。

ところでどうやって言説を移行させるのか。

技法的にいえば、主人の言説ーー言説構造の基本であり、四つの言説の基盤である形式的構造と重なるーーにおけるシニフィアンの動き(S1-S2)において必然的に生じてしまう剰余としての対象aの位置を変えて言説を転回する、というふうに捉え得る。

具体的にいえば、ある人が他人から質問を受けるとする。問いとはヒステリーの言説であり、その受け手は、構造的には、主人の場に立たされる($ → S1)。すなわち質問の受け手は、S1だ。

そのままS1として語れば、S1 → S2 という主人の言説になる。これは構造的には、主人→奴隷の言説だ。

それを大学の言説に移行させるとは、欲望の原因 a に向けて語るということだ(S2 → a )。その a を真理のポジションにもってくれば(抑圧され隠蔽された真理として扱うということ)、ヒステリーの言説になる。



ーーたとえば家族の会話を思い浮かべよ。息子は父へ向けて何かを問う。これは構造的には $ → S1だ。父が息子の問いにシンプルに応じれば、どうしても手始めは「主人の言説」(S1 → S2、つまり主→奴)になりがちだ。それを移行させるにはどうしたらよいか、と。

aの位置を移行させて、息子を欲望の原因(あるいは飼い馴らされていない主体 a)として扱えば、大学人の言説になる(S2 → a)。

そしてこれはジジェク流の捉え方だが、自らを欲望の原因 a として差し出して分裂した主体 $ に向ければ、分析家の言説の変種である倒錯者の言説になる。

倒錯の言説の公式は、分析家の言説の公式と同じである。ラカンは倒錯をひっくり返した幻想として定義した。ラカンによる倒錯の公式は a – $ であり、それはまさに分析家の言説の上部にある。

倒錯者と分析家の社会的紐帯 social link のあいだの相違は、ラカンにおける対象a の根源的な両義性に根ざしている。対象a は、イマジネール・幻想的な囮/スクリーンでもあれば、この囮が曖昧化されたもの、囮の背後にある空虚であったりする。

こういうわけで、我々が倒錯から分析家の社会的紐帯へと移行するとき、エージェント(分析家)は自身を空虚に還元する。空虚、すなわち主体を彼の欲望の真理に直面するように誘い込む空虚である。(ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)


いずれにせよ、みずからの置かれたポジションをふり返ってみること。そしてそのポジションを移行させてみること。これはユーモア的態度をとるということでもある。

ユーモアとは、同時に自己であり他者でありうる力の存することを示すこと。(ボードレール)

ユーモアとは笑いとは関係がない。

ヒューモアとは、フロイトがいうように「精神的姿勢」であって、むしろ「笑い」とは関係がない。たぶん、われわれにとって、子規の『死後』を読んで笑うことは難しい。しかし、ある条件のもとでは、それがひとを笑わせることはあるだろう。たとえば、ソクラテスの死に立ち会ったとき、弟子たちは笑いをこらえることができなかったといわれる。また、カフカが『審判』を読み上げたとき、聴衆は笑いころげ、カフカ自身も笑いころげたという(ドゥルーズ『サドとマゾッホ』)。子規の友人たちもあのエッセイを読んで笑いころげたかもしれない。そうだとしたら、それは、彼らがそこに「同時に自己であり他者でありうる力」を感じとったからである。(柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』)

ユーモアとは、横にずれることだ。ラカンによる言説の移行のすすめとは、ユーモア的な「精神的姿勢」としても捉え得る。かつまた、それは超越的(イロニー的)ではなく、超越論的(ユーモア的)である。

他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを”超越的”な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ。デカルトは、そのような人々の間にまじって「真理」を説くことを回避したが、というのも、彼の懐疑は、どのような共同体(システム)にを属さない空=間においてしか根拠がなかったからである。それは、さまざまな真理を幻想とみなすメタレベルではありえない。

夢のなかで夢をみていることを自覚しても、なおひとが夢をみていることには変わりない。デカルトは、ひとが完全にめざめる(夢の外部に出る)ことができるなどとは考えない。つまり、彼は超越的立場を斥ける。彼の方法は、カントやフッサールの用語でいえば、超越論的なのである。超越論的な方法によってしか、幻想を幻想とみなす、逆にいえば真理を基礎づけることはできない。が、超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

たとえば、身近なところではツイッターでの発話。えんえんと同じ言説で語るのではなく、--これはマジメなインテリなどにたまに見られる、彼らはえんえんと大学人の言説で語っているーー自らの発話の形式を振りかえってみること。わずか140字のなかでさえ、その言説構造を前半と後半で移行させることさえできる。

ラカンはセミネールⅩⅦで、ヘーゲルの例を出して、ヘーゲルはヒステリーの言説だとか、大学人の言説だとか、はてさて主人の言説だとか、あれやこれやと言っている。なんだ、いい加減にしてくれよ、いったいヘーゲルのスタイルはなんなのだ、と言いたくなる。

そのラカンの首尾不一貫性ぶりをジジェクは次ぎのように説明している。

Spinoza, Kant, Hegel and... Badiou! Slavoj Zizek より

ラカンはセミネールXVII(精神分析分析の裏面)で、いっけん非一貫的な叙述をしている。最初はヘーゲルを「最も崇高なヒステリー者」とし、数頁のちに、典型的な主人の形象とする。そして最後に、何十頁もあとで、大学人の言説のモデルとしている。ーーそして各々の叙述が、それ自身の用語において、いかに正当化されているのかを見ることができる。

①大学人の言説:ヘーゲルのシステムは、個別の話題をそれ自身の正当な場に配置しつつの、あらゆるものを網羅する普遍的知の究極の事例だ。

②主人の言説:もし哲学の歴史において、聳え立つ主人の形象があるなら、それはヘーゲルだ。

③ヒステリーの言説:そしてヘーゲルの弁証法的な一連の処理方法は、半永久的なヒステリー化として最もよく決定づけられる。すなわち、ヘゲモニーを握った主人の形象へのヒステリー的な絶えざる問いとして。

とすればこれらの三つのポジションのどれが、「本当の」ヘーゲルなのか? 答は明瞭だ。四番目のポジション、分析家の言説だ。(……)

ラカンは主張している、分析家の言説はたんに四つのなかのひとつではない、と。それは同時に、ある言説からほかの言説へと移行するとき現れる(たとえば、主人の言説から大学人の言説へ)。分析家の言説がある言説から別の言説への通り抜け、移行においてまさに位置づけられるのなら、ヘーゲルの本当のポジションーー主人であったり、ヒステリーであったり、大学人の言説のエージェントであったりする彼のポジションは、これらの三つをひっきりなしに通り抜けるポジション、分析家のポジションだろ?


なぜこんなことを考えるのか、ふつうにやったらいいじゃん? --そうだろうな。自然にできている人もいるのだから。その人物はユーモア的(超越論的)態度がふんだんにあるのだよ。

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

…………

さて、ある言説からほかの言説へと移るということは、誰でもやっているが、たとえばポール・ヴェルハーゲは比較的長く大学人の言説を続ける。

だがジジェクはそれに耐えられない。みずからのひどい「超自我的性格」(“I am a sort of superego personality”『ジジェク自身によるジジェク』にすぐさま恥じ入るからだ。

飼い馴らされていないお勉強家の諸君には、大学人の言説で続けてくれるほうがわかりやすいさ。ジジェクのわかりにくさは、言説のたえまない移行にある。

私の深い不信は、ハイデガーのようなパセティックなスタイルだ。私には物事を俗化させたい純然たる強迫がある。その俗化とは、物事を単純化するという意味ではなく、<物>へのパセティックな同一化を崩壊させたいという意味である。だから私は、最も高級な理論から、最も低劣な事例に、唐突に飛ぶのを好むのだ。(『ジジェク自身によるジジェク』2004 私訳)

だからお勉強家の諸君には、不向きなんだよ

でもジジェクの言説の移行を楽しまなくっちゃな。その「楽しみ方」は、パララックス・ヴュー(視差的視点)を取るということだ。

以前に私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した、今私は自分を自分のでない外的な理性の位置において、自分の判断をその最もいそかなる動機もろとも、他人の視点から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢』ーー括弧入れとパララックス(超越論的態度)(柄谷行人=ジジェク)

いずれにせよ、「イロニーの頂点は真面目であることだ」(シュレーゲル)であり、そこにはユーモアがない。 それとあの連中な、ーー庶民的正義派の連中のツイートというのは、めったに言説の移行がない、

《恋する人とテロリストにはユーモア感覚が欠如している。》(アラン・ド・ボトン『恋愛をめぐる24の省察』)


…………

※附記

【分析家の言説】をめぐって

さて最後の言説、分析家の言説である。これは主人の言説と上下左右が逆転だ。エージェントのポジションには、対象a、欲望の原因がある。この失われた対象が分析家の聞くポジションを基礎づける。それは他者を自らが分割された存在であることを考慮するように余儀なくさせる。この理由で、我々は他者のポジションに分割された主体を見出す(a → $)。

エージェントと他者のあいだのこの関係性は不可能である。というのはそれは分析家を他者の欲望の原因へと変える、つまり主体としての彼を抹殺して、シニフィアンを超えた単なる残余、屑にさえ還元するのだから。

ここにラカンが、分析家であることは不可能であり、あなたができる唯一のことは限られた時間のあいだ誰かにとってそのように機能することだけだ、と明言した理由のひとつがある。対象aから分割された主体へのこの不可能な関係は、転移の展開を基盤とする。転移を通して、主体は彼の対象の周りを廻るencircle his object。これが分析の目的のひとつ、"la traversée du fantasme 幻想の横断"、基本的幻想を通した旅である。

ふつうは、すなわち規範を設置する主人の言説に従えば、主体と対象とのあいだの関係は無意識的であり、不能の乖離 $ // aを構成する。

分析家の言説は、主人の言説を反転することで、この関係性を逆の形で前面にもってくる。不能から不可能へ向かう。 それはひとつの不可能である。とはいえ分析家の言説の効果のなかで探索し得る不可能である。 “Ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrireそれは書かれぬことをやめぬもの”なのだ。

この言説の産出物は主人のシニフィアンである。フロイト用語では、その主体にとってエディプス的な決定因的な点determinant particular だ。主体をこの点までもってくるのが分析家の機能である。もっとも逆説的な方法であるが。分析的ポジションは主体としての非-機能を通して機能するのであり、対象のポジションに還元された存在を通して機能するのだから。

これが分析家の言説の最終結果がラディカルな相違がある理由である。見せかけの世界、“ le monde du semblant”、そこでは人は皆ナルシシスティックに相似しているが、その世界を超えて、我々は根源的に異なるようになる。

分析家の言説はひとつの主体を産みだす。分析過程を通して、それ自身を構築したり脱構築したりしながら。他の関係者は踏み石にすぎない。

私に想い起こさせるのは、いくつかの民話や妖精の物語だ。そこでは愛された人、欲望の対象はあれやこれやの理由でもはや話すことができない。そのため主人公は解決策を創造しなければならない。その解決策において、彼は、以前には知られていなかった彼自身の存在に遭遇する。……(「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)

《分析家の言説が「産出する」ものは、主人のシニフィアンである。患者の知の「脱線-逸脱物 swerve」、患者の真理のレヴェルでの知の場にある剰余要素である。主人のシニフィアンが産出されたのち、知のレヴェルではなにも変わらなくてさえ、以前と「同じ」知が異なったモードで機能しはじめる。》(ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)