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2015年10月14日水曜日

「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)

ポール・バーハウによるラカンの「四つの言説」論の概説箇所を、 “From Impossibility to Inability. Lacan's Theory of the Four Discourses ”(Paul Verhaeghe、FROM The Letter: Lacanian Perspectives on Psychoanalysis(1995))から私訳にて掲げる。

ーーかなり以前の論文だが、すくなくとも英語圏では(最近になってさえも)四つの言説を理解する上での代表的論文として参照されることが多い。たとえばラカンの第五番目の「資本家の言説」を語るときでさえ、まずはバーハウの論が基本となる。参照→Lacan’s fifth Discourse, introducing the Capitalist Discourse)。

実はかなりまえから用意していて、いつでも投稿できる形になっていたのだが、どうもこのたぐいのあまりにも明快な解説を素直に掲げる気にはならなかった。だが四つの言説をめぐるヒドイ誤解がウェブ上に流通しているのを垣間見たのでーーそれなりに権威をもっているらしいラカン研究者の口からであるーーあえて掲げることにする(この明晰すぎる議論を提示する反動として記されたのが、前投稿「《残された時間が少ない》(ロラン・バルト)」である)。

いずれにせよ、このバーハウの概説を読んだだけでわかったつもりになってはならないとはいえーーとくに「大学人の言説」部分がやや弱いーー、四つの言説の基本となる形式構造と各々の言説の基本を理解するには最適な論文のひとつである、とわたくしは思う。

以下の訳文の前段は、「簡略版:四つの言説」の後半箇所にある。たとえば冒頭にある「言説のバッグ」とはここだけ読むと奇妙な言い方だが、次ぎの文から引き続いている。

四つの言説があるように、四つの異なった社会的紐帯がある。先に進む前にふたたび強調したいのは、いずれの言説もア・プリオリに空無であることだ。それらは特定の形式をもった空のバッグ以外のなにものでもない。その形式自体が人がバッグに入れる内容を決定する。

…………

【四つのポジション】

さて我々の言説のバッグはどのようなものだろう? それぞれのバッグは四つの異なった区画compartmentsがあって、そこに物thingsを入れることができる。区画はポジションpositionsと呼ばれる。物は用語termsである。

ポジションから始めよう。四つのポジションがあり、互いに固定された関係がある。最初のポジションはとても論理的なものだ。それぞれの言説は発話する誰かで始まる。ラカンはそれをエージェント(動作主、代理人)と呼ぶ。人が話せば、 誰かに向かって話す。それが二番目のポジションだ。それは他者otherと呼ばれる。この二つのポジションはどの発話行為にもある意識的な表現以外のなにものでもない。その意味で、どのコミュニケーション理論にも見出せる。




話し手と受け手、動作主と他者とのあいだの最低限の関係内にて、人はある効果effectを目指す。すなわち言説の目的である。この帰結resultは効果effectとして可視化される。これが次のポジションをもたらす。それは産出物productと呼ばれる。



例えばあなたが息子に「学校で一所懸命勉強しろ」と言うとする。結果としてあなたの息子は次から次へと不首尾failureを産みだす。この点までは、我々はいまだ古典的なコミュニケーション理論の内部にいる。四番目のポジションのみが精神分析的な見取り図を導入する。実際のところ、それは四番目ではない。最初のポジションなのだ。すなわち真理のポジションである。



事実、フロイトが我々に示してくれたのは、人が話すとき、我々自身には知られていない真理によって駆り立てられているdrivenということだ。この真理のポジションが、いずれの言説においても動因 motor として、出発点として、機能する。

真理のポジションはアリストテレス的な原動因であり、すべての言説構造に影響を与える。その最初の帰結は、エージェント(動作主)はどう見てもただのエージェント(代理人)に過ぎないということだ。自我は話さない。自我は(何かによって)話させられる。もちろんこの結論は自由連想の過程にて観察できるが、ふつうの発話行為でさえ同じ結果を生む。実に私が話すとき、私は何を言っているのか知らない。もし私が暗記してその話を覚えていないのなら。あるいは書かれた物から話を読んでいないのなら。

そうでないなら、私は話すのではなく、話させられている。そしてこの話は欲望によって駆り立てられている。意識的な同意があろうとなかろうとそうである。これはシンプルな観察による事実だ。だが人のナルシシズムを根本的に傷つける。だからフロイトは人間における第三番目のナルシシズムの屈辱と呼んだ(コペルニクスが人間を宇宙の中心から追い出し、ダーヴィンが人間を生物界の特権的位置から追い出したのに引き続く第三の屈辱である)。

フロイトはそれをとてもはっきりとした表現で刻印している、“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”、「私は自分の家の主人ではない」と。フロイトの公式のラカン版は次の通り。“Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”(シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する)。

物差しのこの再調整において、定義のなかで前面に立っているのは主体ではない。むしろすべての重要性はシニフィアンへ向かう。ラカンは主体を、シニフィアンの連鎖の受動的な効果effectであり、シニフィアンの連鎖の主人では全くない、と定義するのだ。

こういうわけで、言説のエージェントは偽のエージェント、“un semblant(見せかけ)”、詐欺師にすぎない。本当の駆り立てる力driving forceは下に横たわっている、真理のポジションに。

この駆り立てる力の導入の第二番目の帰結は、言説の伝達配列が崩れ去ることだ。人はほぼ論理的なラインを期待する。エージェントが真理をメッセージに翻訳して他者に向け、その結果として産出物をもたらすと。そして産出物はフィードバックの動きにおいて送り手に戻ると。だがそんなことは起こらない。

ラカン理論においては、完全に言葉にできる真理などというものはない。反対に、真理のまさにその性質は言葉でほとんど言い表されがたいものである。ラカンはこの特徴を “le mi-dire de la vérité”、「真理は半分しか話せない」とした。これは本質的にフロイトの考えである。すなわち真理の完全な言語化は不可能である。なぜなら原抑圧が原初の対象を決定的に言語の領野の外部に置き続けるからだ。このことが同時に意味するのは、快原理の彼方ということであり、結果として絶え間ない反復強迫、言語化できないものを言語化しようとする終わることのない試みとしてあるということだ。

この帰結が “mi-dire de la vérité”の終わりのない執拗さであり、キルケゴールが美しく表現した「反復は人が決して飽きることのない愛された妻」である。結果として、どの言説も限界のないopen-ended構造をもっており、この無限界が作因要素として機能する。すなわち構造的欠如のせいで、言説は廻りつづける。もしあなたがラカンの有名な11番目のセミネールを学んだなら、あなたは悟るだろう、言説のこの特徴のなかに、彼が1964年に言い表した“béance causale”、作因的機能に付随した裂け目の過程としての無意識、開いたり閉じたりする典型的な動きのなかの無意識を。


【二つの乖離】

これらの四つのポジション以外に、言説の形式的構造は二つの乖離disjunctionsで成り立っている。それが表しているのは、伝達の流れの遮断である。この乖離は最も重要でかつ最も難解な部分である。言説の上部のレヴェルにおいて、我々は不可能性impossibilityという乖離を見出す。下部のレヴェルにおいて、不能性inabilityという乖離に遭遇する。この二つはもちろん相互に関連がある。




※inabilityについてはincapablityなどとも英訳されることがあるが、ラカンの仏原文の記述は、 impuissance(インポテ)である。フロイトの「死の欲動≒享楽」概念と限りなく近いのニーチェの 「権力への意志Willen zur Macht」は、「〈力〉puissanceへの衝動impulse」とすることができるのをここで想起しておこう(クロソウスキーやドゥルーズの指摘による)。

それはニーチェの著述には情動Affektという語で表れている。 

《権力への意志が原始的な情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態であること(ニーチェ遺稿 1888年春)

– daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle andern Affekte nur seine Ausgestaltungen sind》

不可能性という乖離について:エージェント、すなわちだだの見せかけmake-believe のエージェントは、彼の真理を構成している欲望に駆り立てられる。この真理は完全には言語化されえない。結果としてエージェントは彼の欲望を他者に伝えることはできない。言葉での完全なコミュニケーションは論理的に不可能である。これが古典的コミュニケーションの困難さのラカン的解明である。

その上、不可能性というこの乖離ははるかに遠くまで我々を連れてゆく。ラカンがここで表現していることは、有名な “Il n'y a pas de rapport sexuel”(性関係はない)以外のなにものでもない。この言明は、すでに全理論のとてつもなく濃密な要約なのだが、さらにいっそう濃縮されて言説の上部の乖離にて現れている。この不可能な性関係についてはここでは深入りしない。

今は次のように言うだけにしておこう。すなわち、エージェントと他者のあいだの橋は常にあまりに遠く離れた橋である。それは、エージェントは不可能な欲望に囚われままという事態の重要な結果として、あまりにも遠いのだ。

これが重要なのは、それぞれの言説を特徴づける個別の社会的紐帯の基本を形作るためである。だから四つの言説それぞれは、個別の欲望の個別の不可能性を通して、諸主体の集団を統合するだろう。

次に、下部レヴェルにおいて、我々は不能性という乖離を見出す。この不能性は産出物と真理のあいだの繋がりにかかわる。他者に向けられた言説の結果としての産出物は、エージェントの真理とはなんの関係もない。もしエージェントが彼の真理を他者に向かって完全に言語化できるなら、他者は妥当な応答をしうるかもしれない。この前提が実現されないので、産出物は真理のポジションに横たわるものとは 決して合致しえない。(……)


既に言ったように、この二つの乖離disjunctionsは、ラカンの四つの言説理論の最も難解で最も濃密な部分である。そこにはフロイトの主要な発見が凝縮されている。すなわち快原理の絶え間ない失敗とその失敗の帰結である。この失敗は不能性という乖離にてその表現が見出される。その帰結は不可能性impossibilityである。人はフロイトが呼ぶところの “die primäre Befriedigungserlebnis”、すなわち「原初の満足経験」に決して回帰できない。

人がこの回帰を遂行できないのは原初のSpaltung分裂、言語による主体の分割のためである。それにもかかわらず人は試み続ける。そしてこの過程の道筋から抜け出せない。その途上に人は不可能性を経験するのだ。どの伝記もこの不可能性についての物語として読むことができる。

さて、人間の条件を嘆き悲しむのは辞めにして、はるかに肝腎なのはこの不可能性についての決定的な事を理解することだ。すなわちその不可能性とは下部に横たわる不能性inabilityのたんなる上部の層layerなのである。その全体性のなかの構造structure in its totalityは保護的なものなのである。

もし我々が享楽の原初の経験に回帰可能なら、完全な共生関係が実現されるだろう。それが意味するのは主体としての我々の存在の消滅である。この理由で言説構造を共有していない精神病の主体は、大他者(例えばmOther)のなかに消滅する絶え間ない危険への個別の解決法を見出さなければならないのだ。

標準的に分割された主体divided subjectは、この危険に対して保護されている。率直に言えばこうだ、我々が消滅するだろう全てを抱擁する享楽の至福、その道の途上において、我々はオーガズムの時点で身動きができなくなる。その意味は、その時点で享楽は終わるということだ。そして我々はまた最初からやり直すことをくり返す。一定の割合の人びとは、それさえひどく恐れてオーガズムの点に至らない。もっと道のりの前の段階で立ち往生してしまう。

※この不可能な享楽へ向う死の欲動の定義として、《灯火にむれる蛾のように、灯火を目ざしてはそれてゆく、その反復運動》と表現されることがある。すぐれた詩人たちは、ニーチェと同様、すでにとっくの昔からそのことを知っている。

《……かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。》(萩原朔太郎「青猫」序より)


【四つの用語、四つの言説】

この意味で四つの言説は、主体が快原則の失敗に向かって取る立場の四つの異なった方法である、それが上部のレヴェルである。そして享楽を避ける四つの異なった方法、それが下部のレヴェルである。このように、四つの言説それぞれがある欲望と欲望の失敗を明示している。それが典型的な社会的紐帯をもたらす。



これを理解するために、われわれはまず用語を学ぶことから始めなければならない。四つのポジションと二つの乖離disjunctionsは、四つの異なった言説を通して常に同じままである。相違は用語の位置にある。より詳しく言えば、ポジションの上に用語の循環がある。用語自体はとてもはっきりしている。それらの用語は無意識と言語の構造についての前期ラカン理論に起源がある。

あなたは、最低限の言語構造をもつために、少なくとも二つのシニフィアンが必要である。だから二つの用語がすでにある。それがS1とS2だ。S1は最初のシニフィアン、フロイトの「境界シニフィアン(境界語表象)border signifier」、「原シンボルprimary symbol」、さらに「原症状primary symptom」とさえ言えるが、特別な地位をもつ。それが主人のシニフィアンであり、欠如を埋めようとし、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。その意味で、S1は “le savoir”、その連鎖に含まれている知の分母denominatorである。

※参照:

《〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。》(ジジェク、Less than nothing、2012)

次の二つの用語はともにシニフィアンの効果である。実際、我々がいったん二つのシニフィアンをもつとき、主体の存在にとっての必要不可欠な状態が満たされる。思い出ししておこう、《シニフィアンはほかのシニフィアンに対して主体を代表象する“Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”》と。こういうわけで、三番目の用語は分割された主体$である。

最後の用語、実に最後でありながらその重要性は決して劣るわけではない用語は、失われた対象であり、対象aである。言語の獲得の結果とは「自然」と呼ばれる原初の状態の喪失である。あなたが話す瞬間から、あなたは言語の主体になる(言語によって分割された主体)。あなたは言語を超えてある対象を掴みとろうとする。いやもっと正確にいえば、主体と対象のあいだの分離separationを超えた状態に至ろうとする。

この対象は欲望自体の最後の用語を表象する。それはシニフィアンの領野を超えて、かつまた快原則を超えて横たわっており、呼び戻しようもなく失われている。その意味で、対象aは我々を永遠に動かし続ける動力源を構成している。ラカンにとって、それは我々人間にとっての因果律・作因causalityのあらゆる形式を構成する。

さてこうして我々は四つの用語をもつことができる。すなわち、S1 と S2, $ と a である。これらの用語の順番は固定されている。四つの用語が四つのポジションを回転すれば、異なった四つの言説をもたらす。五番目の回転は用語の順番が固定されているせいで、出発点に戻る。






【主人の言説】

さあ、最初の言説、主人の言説から始めよう。最初というのは、この言説が象徴秩序そのものを基礎づけるからだ。そしてこれがエディプスコンプレックスと主体の構造の形式的表現を我々に与えてくれる。この言説において用語とポジションは合致しているように見える。

エージェント(動作主)は主人のシニフィアンであり、〈一者〉と見せかける。すなわち分割されていないundivided者と偽装する。ラカンが言ったように、この独自のシニフィアンは、我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる、 “maître/m'être à moi-même”(S.17)。

この言説の欲望は、実に〈一者〉、分割されていない者としてありたいということだ。この理由で、主人のシニフィアンは他者のポジションにあるS2に結びつこうとする、S1 →S2

この欲望は不可能だ。いったん二番目のシニフィアンがあれば、主体は二つのシニフィアンのあいだで必然的に分割されてしまう。これが分割された主体が真理のポジションにある理由である。主人の隠蔽された真理とは、彼でさえ分割されているということだ。





フロイト用語で言えば、父はまた去勢の過程を甘受させられる。原父はただ主体の構築物に過ぎない。

シニフィアンを通して、〈一者〉でありたい、分割されていない者でありたいという彼の不可能な渇望の結果は、ただひたすらパラドックスに過ぎない。それは絶え間なく増えつづける対象a、失われた対象の産出に終わる。



この対象a、すなわち欲望の原因は、$という分割された存在との関係をもたらすことは決してない。

結末は主人の言説はそのまさに構造自体において基本的幻想を締め出すことだ。$◇a は可能ではない、にもかかわらず主人はこの関係性を想定しえない。この点において彼は構造的に盲目である、 $ / / a。彼は自分のアイデンティティの想像的部分を承認しえない。

この言説の最も興味深い点のひとつは、エージェントの場にある主人のシニフィアンS1と他者の場にあるS2とのあいだの関係である。これが意味するのは、知もまた他者の場に位置していることだ。すなわち他者は主人の錯覚illusionのなかの主人を支えなければならない。錯覚は彼が分割されていない者という錯覚であり、他者の場にある知がこれを支える。門人が主人を支える。あるいはヘーゲル流に言えば、奴隷が彼の知によって主人のポジションを堅固としたものとする

※参照:《ひとびとはある人を王(S1)として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々(S2)が彼を王として取り扱うから、彼は王(S1)なのだ。》(マルクス『資本論』)





古典的事例、Jean Clavreulによって研究されて以来の例は、医者の言説にかかわる。医師は主人のシニフィアンとして機能する。彼は主体として分割されていない者として振る舞う。彼の分割は底に位置する、すなわち隠された真理の部分に。医師が主人のシニフィアンとして機能するとき、彼は患者を彼の知の対象に還元する。彼が使う用語がそれを示している。例えば患者を「心不全症者」と言及するとき。

この言説の正味の結果は失われた対象である。この意味は、主人は決して彼の欲望の原因を想定できないということだ、もちろん彼がこの言説内部にとどまっている限りでだが。もし彼が欲望の原因を想定したいのなら、別の言説へと向きを変えなければならない。が、その瞬間から、彼はもはや以前の言説内部では機能しえない。

例えば、私の患者の一人は腫瘍学者であり、彼は癌患者としての彼の父に直面した瞬間、腫瘍学者としてのキャリアを中断しなければならなかった。その瞬間、彼は分割された主体としての己れの存在に呆然自失したのだ。彼の絶え間なく遠のいていた真実と遭遇したということである。そして彼は向きを変えて主人のシニフィアンを探し求めた( 主人の言説S1→S2を45度時計回りに回転させれば、$→S1となる)。その主人のシニフィアンが彼に満足した答を提供してくれるようにと。彼は主人の言説とヒステリーの言説を交換しなければならなかった。そのとき彼は本当に分析を始めたのだった。


【ヒステリーの言説】

我々は用語を4分の1前に回転させれば、ヒステリーの言説を得る。するとエージェントのポジションには、分割された主体を見出す。この意味は、この言説の欲望は欲望自体だということであり、それはどんな満足も超えた欲望である。この言説の社会的紐帯 social bond は、フロイトが叙述したところの不満足な欲望との同一化としての紐帯である。

典型的な例は『夢判断』、肉屋の妻の鮭の夢などに見出される。同一化についてのフロイト理論は『集団心理学と自我の分析』に書かれた。実にこの同一化という現象は集団行動をもたらす。それは常に集団ヒステリーなのである。

このように、社会的紐帯としてのヒステリーは、欲望の不可能性を前面に置く。この言説は、エディプス的主人の言説の論理的継起 sequence であり、同時にすべての標準的な神経症者の言説でもある。人が話すとき、人は原初の対象を失い、シニフィアンのあいだで分割される。この過程の正味の結果は、絶え間なく不安定なアイデンティティと絶え間なく己れを主張する insisting 欲望である。それは決して満足されえず、また消滅しえない。フロイトが『夢判断』の最後で見出した通りである。



原初の喪失に起源があるこの欲望は、他者へ向かう要求 demand の形でそれ自身を表現しなければならない。言説の用語にて言えば、人は答を得るために、他者を主人のシニフィアンに変えなければならない。それゆえ、ヒステリー的主体は他者から主人を作りだす。すなわち答を産出せねばならぬS1である。


1968年の5月反乱にて、ヒステリー的な学生がラカンのセミネールを邪魔したとき、まさにラカンは言説理論を準備中だった。ラカンは彼らにとても冷たく応じた、"Vous voulez un maître, vous l'aurez"(君たちは新しい主人を求めるている、やがて君たちはきっとそれを見出すだろう》と。彼らがそれを理解するのに20年要した。

主人に向けられる問いは(外観上は)とても異なったものありうるが、それらは基本的には同じ「私に教えて! 私は誰なのかを。私に教えて! 私の欲望を」である。男としての私、女としての私、父としての、母としての、娘としての、息子としての私は誰なの? 教えて! もっとも主人はいろいろな場に見出されうる。彼(女)は司祭だったり、医者、科学者、分析家だったりする。夫でありさえもする。それらにはすべて共通なひとつのことがある。主人は知っている者と想定され、答を生みださなければならない。これは産出物のポジションに知を見出す理由である。


悲しいかな、この応答は常に的を外している。S2は、真理の場にある対象aの、特定の駆り立てる力driving force についての特定の答を産みだし得ない。

この不首尾は、決して終わることのない闘争を避けがたく齎す。その闘争とはヒステリー的主体と当該の主人のあいだのものだ。とくに後者が主人のポジションを護ろうとするならなおさらである。この理由で、革命は常に新しい主人を設置することで終わる、ふつうは前よりは少し冷酷無情な主人に。そしてまたどの主人も、遅かれ早かれ予期しない場所に彼の頸を置くことに終わる。

構造的に、ヒステリーの言説は、ヒステリー的主体の疎外と主人の去勢をもたらす。主人による応答は常に的外れである。というのは本当の答は対象a、永遠に失われた対象にかかわり、それは言葉で言い表されないものなのだから。

この行き詰りへの主人の古典的反応は、さらにいっそうシニフィアンを産みだすことである。それはもちろん、真理のポジションにある失われた対象からの更にいっそうの距離を作り出すだけだ。これが代わりに齎すのは、一方で主人と、他方でシニフィアン連鎖における根本的欠如とあいだにあるものとの遭遇である。すなわちシニフィアン連鎖は最終的な真理を言語化できないという不可能性である。

この不可能性は主人の失脚、そして象徴的去勢を起す。そうこうしている間に、S1として他者のポジションにある主人は、増えつづけるS2を産みだし、知の体系 a body of knowledge を育む。この知がしばしばヒステリー的主体にとっての根本的疎外(同一化)を決定づける。

ヒステリー的主体の特定の問いへの応答として、彼(女)は科学テキスト理論、宗教…などを受けとる。それを承諾しようがしまいが、答は疎外を起こすもの alienating one である。産出物としての知は真理のポジションにある対象aについて何の有意義なことも言えない、a // S2。歴史を通して、おおよそ grosso modo 次の進化は次の通りに見出すことができる。



思いがけない贈物 bonus は増えつづける知の体系である。科学のヒストリー history を観察するなら、それをヒステリー史 hystory として解釈できる。科学はつねに実存的 existential 問いに答えようとしてきた。そしてその試みの結果はただ科学自体にすぎない…。これがいっそう明瞭なのは人文科学においてであり、たとえば精神分析でさえヒステリーの産物である。同じことがどの知の発展にも言える。厳密に個人のレヴェルに限ってさえそうである。成長してゆく主体は彼の分割 division についての答を知りたい。この理由で、彼は読みつづけ話しつづける。彼は相当の知の体系 a considerable body of knowledge とともに終わるだろう。だがその知は、真理のポジションにある己自身の失われた対象については、たいしたことを教えてくれない。



【大学人の言説】

この知は、大学人の言説において、エージェントのポジションをとる。実際、主人の言説における要素を、4つの固定されたポジションの上に4分の1後ろに回転させれば、主人の言説の「退行」として、この大学人の言説となる。それはまたヒステリーの言説の左右上下があべこべの言説である。

エージェントは確立された知だ。そして他者は、単なる対象、欲望の原因に還元される。

大学人の言説において、社会的紐帯は、知を通して失われた対象に到ろうとする欲望から生じる。この知は、蓄積され組織された透明な統一体として現われる。それはテキストから我々にまっすぐに来る。隠された真理は、この知が機能しうるのは、人が主人のシニフィアンの支えを持っているときのみであるということだ。


知のどの領野内でも、そのような支え(保証)の恩恵によって機能する。たとえば我々の領野なら、「ラカンは云々と言った」、「フロイトは云々と言った」の類だ。知と主人のシニフィアンのあいだにある関係の主要な事例はデカルトである。デカルトは、彼の科学の正当性を支えるために神を必要とした。より最近の例であれば、アインシュタインである。彼は量子力学の結論を拒絶して、「神はサイコロを振らない」とした。

他者のポジションには、失われた対象a、欲望の原因を見出す。この対象aとシニフィアンの連鎖は、構造的に不可能な関係である。対象aはまさにシニフィアンを超えた要素、〈モノ Das Ding〉なので、シニフィアンの連鎖はその対象に到るために最も妥当性の欠けたエージェントである。

結果として、この言説の産出物は主体の絶え間なく増幅する分割である。対象に到ろうとして知を使用すればするほど、人はシニフィアンのあいだで分割されてしまう。そして家、つまり欲望の原因から遠くに離れて行くばかりだ。主人は、彼の主体性とのどんな関係性もなく、シニフィアンを分泌する。

これは科学の古典的必要条件のひとつである。いわゆる客観性ということだが、この言説はそれがたんなる錯覚 illusion にすぎないことを示している。



【分析家の言説】

さて最後の言説、分析家の言説である。これは主人の言説と上下左右が逆転だ。エージェントのポジションには、対象a、欲望の原因がある。この失われた対象が分析家の聞くポジションを基礎づける。それは他者を自らが分割された存在であることを考慮するように余儀なくさせる。この理由で、我々は他者のポジションに分割された主体を見出す。
エージェントと他者のあいだのこの関係性は不可能である。というのはそれは分析家を他者の欲望の原因へと変える、つまり主体としての彼を抹殺して、シニフィアンを超えた単なる残余、屑にさえ還元するのだから。

ここにラカンが、分析家であることは不可能であり、あなたができる唯一のことは限られた時間のあいだ誰かにとってそのように機能することだけだ、と明言した理由のひとつがある。対象aから分割された主体へのこの不可能な関係は、転移の展開を基盤とする。転移を通して、主体は彼の対象の周りを廻るencircle his object。これが分析の目的のひとつ、"la traversée du fantasme 幻想の横断"、基本的幻想を通した旅である。

ふつうは、すなわち規範を設置する主人の言説に従えば、主体と対象とのあいだの関係は無意識的であり、不能の乖離 $ // aを構成する。

分析家の言説は、主人の言説を反転することで、この関係性を逆の形で前面にもってくる。不能から不可能へ向かう。 それはひとつの不可能である。とはいえ分析家の言説の効果のなかで探索し得る不可能である。 “Ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrireそれは書かれぬことをやめぬもの”なのだ。

この言説の産出物は主人のシニフィアンである。フロイト用語では、その主体にとってエディプス的な決定因的な点determinant particular だ。主体をこの点までもってくるのが分析家の機能である。もっとも逆説的な方法であるが。分析的ポジションは主体としての非-機能を通して機能するのであり、対象のポジションに還元された存在を通して機能するのだから。

これが分析家の言説の最終結果がラディカルな相違がある理由である。見せかけの世界、“ le monde du semblant”、そこでは人は皆ナルシシスティックに相似しているが、その世界を超えて、我々は根源的に異なるようになる。

分析家の言説はひとつの主体を産みだす。分析過程を通して、それ自身を構築したり脱構築したりしながら。他の関係者は踏み石にすぎない。

私に想い起こさせるのは、いくつかの民話や妖精の物語だ。そこでは愛された人、欲望の対象はあれやこれやの理由でもはや話すことができない。そのため主人公は解決策を創造しなければならない。その解決策において、彼は、以前には知られていなかった彼自身の存在に遭遇する。

この言説における知のポジションは注目に値する。フロイト理論と実践における大きな転回は、まさに分析家が自分の知をいかに使用するかにかかわる。

この方法は分析家の言説によって示されており、それはとても逆説的な方法である。

知は真理のポジションにて機能する。しかし、ーーエージェントの場は対象aに占められているようにーーこの知は分析に取り込めない。

分析家は知っている、もちろんそうだ、彼は知っている。しかし、彼が分析家のスタンスを取るかぎり、その知で多くのことをし得ない。これが理由だ、この知はDocta Ignorantia、「学識ある無知」という言葉にて刻印されたのは。それは15世紀のCUSAのニコラスがそう呼んだものだ。彼は賢明にも無知を学んだ。そしてこれが他者のための道を開いたのだ、彼らの主体性を決定する独自の方法へと立ち入るための。

…………

ーー以上、まず最初の避けねばならぬ誤解は、「言葉」に惑わされてはならないということだ。主人の言説のエージェントにあるマテームS1は支配者やフロイトの原父などでは決してないということだ。

主人の本質は、彼が何を欲しているのか知らないことである。これが主人の言説の真の構造を構成している。(ラカン、S.17)

……l'essence du Maître, à savoir qu'il ne sait pas ce qu'il veut. Car c'est cela qui constitue la vraie structure du discours du Maître.
意味から分離され,意味を成すものすべてを支える対のシニフィアン,シニフィアン連鎖において無意味のレベルに残るもの,すなわち主人のシニフィアン S1 です.(エリック・ロラン「疎外と分離」)

バーハウの文を再掲すれば次のようにある。

……“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”、「私は自分の家の主人ではない」と。フロイトの公式のラカン版は次の通り。“Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”(シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する)。

このフロイトの公式のラカン版、シニフィアンの定義の公式は「主人の言説」に最も明確にあらわれている。



ラカンは、このS1をめぐって、つまりmaster signifiers(主人のシニフィアン)を、‘points de capiton’(クッションの綴じ目)と呼んでいる。解釈者あるいは訳者によって、ボタンの結び目、ネクタイピンなどどもされる。

すなわちひとびとの語り、シニフィアンのネットワークをピンで留めるシニフィアンであり、それは個々の主体だけではなくより広く社会においてもそうである(Stavrakakis 1999)。

それがあるために社会(あるいは個人)は整合化(秩序化)される(ジジェク)。

どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する(ジジェク)。

”anchoring point”(船が碇を下ろすポイント:ジジェク)とか“suture”(縫合:ミレール)などの言い方がされるときもある。

なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。

この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)
――たとえば、certainty, the good, risk, growth, globalisation, multiculturalism, sustainability, responsibility, rationality等々が”master signifiers“である。


さらに上に掲げたバーハウの文に《m'être, m'être à moi-même》とあった。

エージェント(動作主)は主人のシニフィアンであり、〈一者〉と見せかける。すなわち分割されていないundivided者と偽装する。ラカンが言ったように、この独自のシニフィアンは、我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる(S.17)、“maître/m'être à moi-même”。

バーハウはより近年の論文(2006年に上梓されてセミネールⅩⅦ英訳の解説論文)にも次ぎのように記している。

…この段階(セミネールXⅦ)において、ラカンは重要なニュアンスをつけ加える。それによって「父の名」に関する以前の理論の相当な変化がもたらされる。すなわち、主人のシニフィアンはどんなシニフィアンによっても生みだされる(144)。このニュアンスは彼の理論の次の「進化」から理解することができる。「父の名」から「父の諸名」(複数の父の名)へと、さらには最終的には「主人の事例instance」(101)によるS1として生みだされる限りどんなシニフィアンでもいい、と。

はっきりしているのは、我々は「父の名」という排他的なシニフィアンから長い道のりを歩んだことだ。(Paul Verhaeghe, (2006). Enjoyment and Impossibility ポール・バーハウ「享楽と不可能性」より、2006,私訳

たとえば “maître/m'être à moi-même”はセミネールⅩⅦに次ぎのように現われる。

Ce qui fait le Maître, c'est ceci : c'est ce que j'ai appelé, en d'autres termes « le cristal de la langue ».

Pourquoi ne pas utiliser ce qui en français peut se désigner sous l'homonymie de l'« m apostrophe être » m'être, m'être à moi-même ?

C'est de là que surgit le signifiant-m'être, dont je vous laisse le deuxième terme à écrire comme vous le préférerez.

Pour commencer d'articuler comment ce signifiant unique opère de sa relation avec ce qui est là déjà, déjà articulé, de sorte que nous ne pouvons le concevoir que d'une présence du signifiant déjà là, je dirais, de toujours.

Car si ce signifiant unique… le signifiant du Maître, à écrire comme vous voulez …s'articule à quelque chose d'une pratique qui est celle qu'il ordonne, cette pratique est déjà tissée, tramée, de ce qui, pas encore certes, ne s'en dégage, à savoir l'articulation signifiante qui est au principe de tout savoir, ne pût-il d'abord être abordé qu'en savoir-faire. 

他にもこのセミネールには“petit Maître, comme « moi »”という表現がでてくる。この意味はS1は自我のことで(も)あるのを示している。

これらのことにさえ無知な者ーーシツレイながらわかっていないとしか思われないラカンを30年以上読んでいるらしいラカン研究者ーーが(わたくしの誤解でなければ)いることは「ラカンの形式化殺しのラカン派」でみた。


主人の言説が「主人=支配者」の言説ではないように、ヒステリーの言説はヒステリー症者の言説ではなく、大学人の言説は、教育機関の大学に所属している者たちの言説ではない。

分析家の言説も同様であり、夫の発言に無言で聴き入る妻は分析家の言説として機能しうる。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? (ジジェク、2012)

ここでラカン派ではないが、売春婦が精神科医像が重なるとする次ぎの中井久夫の文を掲げておこう。

私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。

患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。

精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。

実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。(中井久夫『治療文化論』)

ーー売春婦が場合によって「分析家の言説」として機能することが説明されていると言ってよいだろう。

ふたたびジジェクを掲げれば、彼によれば、かつての黒人の召使いは「分析家」である(これもジジェク流の思いがけない指摘だが、全面的に肯定しないまでも、そういうことがありうるのかもしれないだろうな、という頭の体操を促す文として読もう)。

さあここでいくらか悪趣味な事例で説明してみよう。市民戦争以前のアメリカの南部の話からだ。ジェイムズ・ボールドウィンの小説を読んだんだ。市民戦争前の古いニューオーリンズの古い南部の娼家の話さ。そこではアフリカン・アメリカンの黒人の召使いは、人間と見なされていなかったのだけれど、たとえば白人のカップルーー娼婦と彼の客――はまったく気にしなかったんだな、黒人の召使いが飲み物を部屋に運んできたって。彼らはシンプルに自分たちの「仕事」を続けていたんだ。性交やらなんやらをね。というのは召使いのまなざしはほかの人間のまなざしとは見なされていなかったわけでね。そしてこの意味で、分析家とは黒人の召使いと同じなんだな。

われわれは分析家に向かって話をするとき、自分の恥のすべてを取り除く。愛や憎悪などの最も深い秘密を打ち明けることができるようになる。分析家との関係はまったく個人の感情を交えず、真のフレンドシップの親密さが欠けているにもかかわらずね。これはもっとも決定的なことだと私は思うね。分析家との関係は、きみはたぶん知っているだろうけど、相互主観的な関係ではないのだな。というのはまさに分析処理中の分析家は、他の主体ではないのだから。この意味で分析家は対象の役割を占める。われわれは彼らのなかに私自身を打ち明けるのだな、いかなる親密なフレンドシップもなしにね。(Zizek 『Connections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture』冒頭より私意訳

…………

「言説」とは、前期ラカンの「間主体性」--この用語をラカンは後年使わなくなったーーの代案であり、言語とパロールの間にある概念である。言説には言語が必要あるが、パロールなしにも言説は成り立つ。

《la psychanalyse, c'est un discours sans parole》(セミネールⅩⅥ)

パロールなしに機能するのは分析家の言説だけではない。各々の言説構造の場に置かれれば、無言のままでもそれぞれの言説として機能する。

逆に分析家でさえまったくパロールなしで成り立つことは稀であろう、たとえばスカンション、あのセミコロンとあのダッシュの渦巻く力の効用さえも、ある程度のパロールが使用されるはずだ。ラカン自身、《分析家であることは不可能であり、あなたができる唯一のことは限られた時間のあいだ誰かにとってそのように機能することだけ》と明言したのは上に見たとおり。

聞き手としての分析家の能力は注目に値するものである。分析家は、分析主体の発言を「単なる」要求である以上のものとして絶えず「聞き」つづけることによって、要求の下や、要求の背後に垣間見える欲望の存する空間を開くことができる。実際、(……)分析の極度に重要なゴールは、要求の不変性と固着を通り抜け、欲望の可変性と可動性へと向かうことなのである。つまり、欲望を「弁証法化」することである。 (Bruce Fink『A Clinical Introduction to Lacanian Psychoanalysis: Theory and Technique』)

いずれにせよ、ラカンの「主体」概念は言語の中にかつ言語によって構成されている。つまりそれ自身、社会の産出物だ。だから主体に負わされた欲望や苦しみなどは、社会構造を解く鍵になる。つまり決して精神分析の臨床の場のみの道具にしてならない。ラカンはこの1968年前後にもっとも政治に近づいている。

最後にくり返し引用しているが次の文を再掲しておこう(参照:シェイクスピア、ロラン・バルト、デモ(ヒステリーの言説))。

今日の主要な話題はヒステリーなので、ヒステリーの主体を吟味してみましょう。もちろん彼もしくは彼女はコンサルティングルームにやって来ます、典型的なヒステリーの言説ですね($→S1)。その言説だと他者はマスターのポジションととることを余儀なくされます。そして知識を垂れ流して去勢されることに終わります。他方、同じヒステリーの主体が主人の言説をもってその場面に現われることもあります。それは格別異例のことではありません。この場合、患者は自身を彼、もしくは彼女の主人、すなわち主人のシニフィアンの症状と同一化しています。他者はそのシニフィアンについての引受人として機能することになります、すなわち主人のシニフィアンについての知識を持っているものと想定されるわけです。「わたしは産後うつ病になっています。わたしは産後うつ病なんですの。先生はそれについて知っている(S2)専門家ですわね。さあどうぞ! わたしを治してください。先生のお好きなように。ただしわたしは主体としてのゲームに入り込む気はありませんからその限りで。」(S1→S2

三番目に、同じヒステリーの主体は大学人の言説でやってくることがあります。彼もしくは彼女はすくなからぬ知識を持ってわたしたちを印象づけます。その知識をもって彼もしくは彼女は他者を強制的に沈黙した対象に陥れます(S2→a)。そのことによって彼もしくは彼女は、真実のポジションにおかれた隠された主人を見つめることを避けようとします(S2/S1)。このようにヒステリー者をヒステリーの言説にのみ転化させるのは間違っています。これはすべての言説に言えます。真実は半分しかいえない“le mi-dire de la vérité”のですから、車輪は回り続けています。セミネールアンコールの第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から$ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ、と。その考え方とともに、あとはよろしく!(ポール・バーハウ,1995、私訳)

…………

ところでここに記されたわたくしの文はなんの言説だろう?

ーーいっけん、テキストS1を真理のポジションにして語る「大学人の言説」S2→aであるが、それにみせかけた「ヒステリーの言説」$→S1である(参照:シェイクスピア、ロラン・バルト、デモ(ヒステリーの言説))。

ジュパンチッチはヒステリーの言説の四つの基本的動因として凡そこうまとめている(”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value"(Alenka Zupancic)

①〈私〉は不正を蒙っている。
②主人は無能である。
③シニフィアンは常に真理の説明に失敗する。
④満足は常に偽の満足である。

ーーすなわち権威としてふるまう主人S1は無能の輩ばかりが揃っている(そもそもわたくしのブログ記事はこのヒステリーの言説の構造の場におかれているものがほとんどだ)。だがこんなことをしても偽の満足しか訪れない・・・


◆続き→ ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)