身体の記憶
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私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)
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過去のうちで、私をいちばん魅惑するのは自分の幼年期である。眺めていても、消えてしまった時間への後悔を感じさせないのは幼年期だけだ。なぜなら、私がそこに見いだすものは非可逆性ではなく、還元不可能性だから。すなわち、まだ発作的にときおり私の中に存在を示すすべてのものだからである。子どもの中に、あらわに私が読み取るもの、それは、私自身の黒い裏面、倦怠、傷つきやすさ、さまざまの(さいわいに複数の)絶望への素質、不幸にもいっさいの表現を断たれた内面的動揺。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
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幼児期の身体の出来事(リビドー固着)
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分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23講「症状形成への道」1916年)
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症状(=原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 16 juin 1975)
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異物(異者身体)としての症状
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たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
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われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
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不変の刻印として永続する外傷的記憶としての異物
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PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
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外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年)
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トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
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「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」…
これらは、標準的自我のなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
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享楽という身体の出来事
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サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un- 30/03/2011)
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
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享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽(身体の出来事)はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。( J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
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身体の出来事(身体の記憶)の反復強迫
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享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (Lacan, S23, 10 Février 1976)
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現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)
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サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
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サントームsinthomeは、…反復的享楽 La jouissance répétitiveであり、…身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(Miller, L'être et l'un, 23/03/2011)
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固着による無意識のエスの反復強迫
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(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es になるる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
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分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (Miller, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
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フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)
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ここで古井由吉にも一文だけ登場願おう。
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幼少の砌の髑髏
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頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。
小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)
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外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。
しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年)
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外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。
これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…
この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。
我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)
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ラカン派による固着の最も簡潔な定義は、《固着とは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないこと》(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)である。
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最後にフロイトが固着という語を使わないままで、ほとんど同じことを語っている文を三文掲げておく。
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心的装置によるエスの拘束(翻訳)の失敗
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(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになるだろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)
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自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識 eigentliche Unbewußte としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
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人の発達史と人の心的装置 psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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フロイトがこのように繰り返している意味は、リビドー固着の「原無意識」(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)についてほとんど理解されなかったためであり、それは現在に至るまで、フロイト学者のあいだでさえそうである。ましてや思想家やら文学者やらのいう無意識とは殆どすべて、たんなる「抑圧された無意識」(力動的無意識)にすぎない。バルトのような稀有の才のみが身体の記憶としての「抑圧されていない」真の無意識を把握していた。もちろんラカンの友人だったということも大きい。この相においては、たとえばフーコーやらデリダやらはほとんどゼロである。例えばラカンは「リチュラテール lituraterre」(1971年)で、デリダの名を出さずに(だが明らかにデリダに向けて)、《勘弁していただきたいものだ Qu'on me l'épargne Dieu merci !》と口に出している。
さらにいえば、1960年代後半に原抑圧と固着についてすぐれた洞察を示したドゥルーズ だが、1970年以降のドゥルーズもかなり怪しい。日本言論界においては、フロイト学者どころかほとんどのラカン学者でも頓珍漢のままである。
何に対して頓珍漢なのか?原抑圧にかかわる固着の無意識(原無意識)とは抑圧された無意識ではなく、フロイトが1923年『自我とエス』で初めて明示した「抑圧されていない無意識 nicht verdrängtes Ubw 」だということについてである。それは彼らが原抑圧あるいはリビドー固着(欲動固着)という語を口に出すことがきわめて稀な事実が証している。
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以上、要するに次の文の真意を把握している学者や言論人は、100年近くたっても、稀なのである。
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リビドー固着という引力
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われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
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われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)
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発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…
いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓 Reste が保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
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2019年7月22日月曜日
バルトと中井久夫で補われたフロイトラカン
以下、バルトと中井久夫で補われたフロイトラカンである。バルトと中井久夫の向こうにはプルーストがいるが、ここではプルーストには触れず、簡潔に徹する。
2019年2月21日木曜日
身体の記憶と身体の出来事
匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps。(ロラン・バルト「南西部の光」)
⋯⋯⋯⋯
「身体の記憶」では敢えて記さなかったけど、身体の記憶≒身体の出来事だよ。
症状(サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントーム、すなわちリビドー固着。
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)
「固着を置き残す」とは、身体的なものが心的なものに移行されず、冥界(エス)に居残ること。冥界、すなわち、《内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenwelt 》(『制止、症状、不安』1926年)。
リビドー固着は、別の言い方なら、幼児型記憶、あるいは構造的トラウマ記憶による「異物」。
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。…時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。
構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なもの(異物)として、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)
異物、すなわち、トラウマ的記憶。
トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
「幼児型記憶/外傷性フラッシュバック」、あるいは「構造的トラウマ/事故的トラウマ」とは、フロイトの表現なら、「病因的トラウマ(への固着)/外傷的事故への固着」。
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…
このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され…標準的自我 normale Ich のなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)
「トラウマへの固着」=「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」とあったけど、この刻印が永遠回帰する。
もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
幼児期の身体の記憶がなかったら、個性がないってことだ、
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011[参照])
以下の用語群は全部同じ意味(参照)。
バルトがすばらしいのは、自らの経験に資して詩的な文を記しているところで、精神分析的に(散文的にいえば)こういうこと。
2019年2月20日水曜日
身体の記憶
バイヨンヌ、バイヨンヌ、完璧な町。河に沿い、響きゆたかな周囲(ムズロール、マラック、ラシュパイエ、ベーリス)と空気の通じあっている町。そして、それにもかかわらず閉じた町、小説的な町。(……)幼い頃の最初の想像界。スペクタクルとしてのいなか、匂としての“歴史”、話しかたとしてのブルジョワジー。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
過去のうちで、私をいちばん魅惑するのは自分の幼年期である。眺めていても、消えてしまった時間への後悔を感じさせないのは幼年期だけだ。なぜなら、私がそこに見いだすものは非可逆性ではなく、還元不可能性だから。すなわち、まだ発作的にときおり私の中に存在を示すすべてのものだからである。子どもの中に、あらわに私が読み取るもの、それは、私自身の黒い裏面、倦怠、傷つきやすさ、さまざまの(さいわいに複数の)絶望への素質、不幸にもいっさいの表現を断たれた内面的動揺。(『彼自身』)
ロラン・バルトには、わたくしがお気に入りの「身体の記憶」という表現がある。
匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps。(ロラン・バルト「南西部の光」)
「身体の記憶 la mémoire du corps」、これこそプルーストの無意志的記憶、レミニサンスである。それは心的装置よる「想起」ではない。
フロイトはこの身体の記憶、無意志的記憶に相当するものをシステム無意識と呼んだ。
欲動蠢動(欲動興奮Triebregungen)は、(力動的無意識ではなく)すべてシステム無意識 unbewußten Systemen にかかわる。ゆえに、その欲動蠢動が一次過程に従うといっても別段、事新しくない。また、一次過程をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価とするのも容易である。
その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。
この拘束の失敗は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。
しかしそれまでは、興奮を圧服 bewaeltigenあるいは拘束 bindenするという、心的装置の(快原理とは)別の課題が立ちはだかっていることになり、この課題はたしかに快原理と対立しているわけではないが、快原則から独立しており、部分的には快原理を無視することもありうる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
いま見たように「身体の記憶」とは、快原理内の記憶ではなく快原理外の記憶であり、外傷性記憶である。
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
この記憶は反復強迫するのである。
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
現実界は、(心的装置に)同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )
この現実界の反復強迫こそ、死の欲動である。死の欲動とは「死」そのものとは基本的には関係がない。
プラトンの想起を初めとして、身体の記憶としてのレミニサンスは、哲学的言説が現在にいたるまでひどく苦手な記憶である。
真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)
「享楽という原マゾヒズム」とは、欲動のなすがままになること(受動的な状態)にかかわり、この表現は能動的な記憶としての想起に対する受動的な記憶、強制された想起(無意志的記憶)に直接的にかかわる。
『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。
(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)
こうして、《強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)》(『プルーストとシーニュ』)、あるいは《強制された運動 le mouvement forcé ⋯⋯それはタナトスあるいは反復強迫であるc'est Thanatos ou la « compulsion»》(ドゥルーズ『意味の論理学』)という表現が生まれる。
「想起/レミニサンス」、あるいは「心的装置内の記憶/心的装置外の記憶(身体の記憶)」とは、ドゥルーズ=プルーストの表現なら、「理知の記憶/魂に刻まれた記憶」でもある。
プラトンの想起の出発点は、相互に捉えられ、その生成と、変化と、不安定な対立と、《相互融合 fusion mutuelle》とにおいて把握された性質と、感覚的関係の中にある(たとえば、或る点では不平等な平等、小さくなる大きなもの、軽いものと不可分な重いものなど)。しかしこの質的生成は、どうにかこうにか、またその力にしたがってイデアを模倣する物の状態、世界の状態を示している。そして、想起の到達点としてのイデアは、安定したエッセンスであり、対立したものを分離し、全体の中に正しい尺度(平等でしかない尺度)を導入する物それ自体である。イデアが、たとえあとから見出される場合でさえも、常に《前に avant》あり、常に前提とされているのはそのためである。出発点は、到達点をすでに模倣できるという能力によってのみ価値がある。その結果、いくつかの能力を分断して用いることは、それらの能力全体を同じひとつのロゴスに統一する弁証法への《前奏 prélude》にほかならない。それは円弧の部分を作ることが弧全体の回転を準備するのに似ている。弁証法に対する批判の全部を要約してプルーストが言うように、理知は常に先にくるのである l'Intelligence vient toujours avant。
『失われた時を求めて』においては、これとは全く同じではない。質的生成、相互融合、《不安定な対立 instable opposition》は、魂の状態の中に刻まれた inscrits dans un état d'âme のであって、もはや、物や世界の状態の中に記されるのではない。夕陽の斜めの光線・匂い・味・空気の流れ・束の間の質的複合体は、それらが入り込んで行く《主観的側面 côté subjectif》においてのみ価値を持つはずである。それが、レミニサンス réminiscence が介入してくる理由である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)
ドゥルーズは、《無意志的記憶 la mémoire involontaire の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない》(『プルーストとシーニュ』)というが、その理由は、上にみたように、無意識的記憶は外傷性記憶だからである。
彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラ」)
以下、バルトの「南西部の光」を、先ほど引用した文をふくめてその前段をいくらか長く引用する。
ある兆で私は自分が家の敷居をまたいで、幼児期の郷里に入ったことを知らされる。それは、道の脇の松林、家の中庭に立つ棕櫚の木、地面に影をおとして人間の顔のような表情を映し出す独特の雲の高さ。そこから南西部の大いなる光が始まる。高貴でありながら同時に繊細で、決してくすんだり淀んだりしない光(太陽が照っていないときでさえ)。それはいわば空間をなす光で、事物に独特の色あいを与える(もう一つの南部はそうだが)というより、この地方をすぐれて住み心地のよいものにするところに特徴がある。明るい光だ、それ以外にいいようがない。その光はこの土地でいちばん季節のいい秋にみるべきだ(私はほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ)。液体のようで、輝きがあり、心を引き裂くような光、というのも、それは一年の最後の美しい光だから。
⋯⋯私の身体というのは、歴史がかたちづくった私の幼児期なのだ mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。その歴史は私に田舎の、南部の、ブルジョワ的な青春を与えてくれた。私にとって、この三つの要素は区別できない。ブルジョワ的な生活とは私にとって地方であり、地方とはバイヨンヌである。田舎(私の幼児期)とは、きまって遠出や訪問や話の網を織りなすバイヨンヌ近郊のことだ。
こうして、記憶が形成される年頃に、私はその《重大な現実 grandes réalités》から、それらが私にもたらした感覚のみを汲みとっていった。匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、現実のうち、いわば無責任なもの、後に失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないものばかり(私がパリで過ごした幼年期はまったく異なるものだった。金銭的困難がつきまとい、いってみれば、貧しさの厳しい抽象性をおびていて、その頃のパリの《印象》はあまり残っていない)。
私が、記憶をとおして私の中で屈折した通りの南西部について語るのは、「感じる通りに表現するのではなく、記憶している通りに表現すべきである」というジュベールの言葉を信じているからだ。
⋯⋯⋯たとえば、私の記憶の中で、ニーヴ河とアドゥール河にはさまれたプチ=バイヨンヌと呼ばれる古い一角の匂いほど重要なものはない。小さな商店の品物がすべていり混じって、独特の香りを作り出していた。年老いたバスク人たちが編むサンダルの底の縄(ここでは《エスパドリーユ》という言葉は使わない)、チョコレート、スペインの油、暗い店舗や細い道のこもった空気、市立図書館の本の古い紙。これらすべては、今はなくなってしまった古い商いの化学式のように機能していた(もっとも、この一角はまだ昔の魅力の一端をとどめてはいるが)、あるいはもっと正確にいうと、今現在その消失の化学式として機能している。匂いを通じて私が感じとるもの、それは消費の一形態の変移そのものである。すなわち、サンダルは(悲しいことにゴム底になってしまって)もう職人仕事ではなくなったし、チョコレートと油は郊外のスーパーで買い求められる。匂いは消えてしまった。あたかも逆説的に、都市汚染の進行が家庭の香りを追い出してしまったかのように。あたかも《清潔さ》が汚染の陰湿な一形態であるかのように。
⋯⋯⋯私は子供のころ、バイヨンヌのブルジョワジーの家庭と数多く知り合いになった(当時のバイヨンヌはどこかバルザック的な雰囲気があった)。彼らの習慣、しきたり、会話、生活様式も知ることができた。この自由主義的ブルジョワジーは偏見こしありあまるほどもっていたが、資本の方はあまりなかった。この階級のイデオロギー(まったく反動的な)とその経済的ステータス(ときに悲惨な)とのあいだにんは一種の不均衡があったのだ。社会的、政治的分析は粗い濾器のように機能し、社会的弁証法の《機微 subtilités》は逃してしまうので、こうした不均衡は決して取り上げない。
ところが、私はこうした機微ーーあるいはこうした「歴史」の逆説ーーを、表現こそできなくても、感じ取っていたのだ。私は南西部をすでに《読んでいた》。ある風景の光やスペインからの風が吹く物憂い一日の気怠さから、まるまる一つの社会的、地方的言説の型へと発展していくそのテクストを追っていたのである。というのは、一つの国を《読む》ということはそもそも、それを身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだからである c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps。私は、作家に与えられた領域は、知識や分析の前庭だと信じている。有能であるよりは意識的で、有能さの隙自体を意識する plus conscient que compétent, conscient des interstices même de la compétence のが作家である、と。それゆえ、幼児期は、私たちが一つの国をもっともよく知り得る大道なのである。つまるところ、国とは、幼児期の国なのだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年『偶景』所収)
2018年12月26日水曜日
あれなくしてエロというものはあるんだろうか?
男女の関係が深くなると、自分の中の女性が目覚めてきます。女と向かい合うと、向こうが男で、こちらの前世は女として関係があったという感じが出てくるのです。それなくして、色気というのは生まれるものでしょうか。(古井由吉『人生の色気』)
◆第402回 スーパーコンパニオンよりも 代々木忠(2018年10月05日)
女がセックスで10感じるとしたら男は1くらいしか感じないというのが喧伝されてきた。まぁ10倍以外にも、数倍から数百倍までかなり幅はあるものの、要は女の快感は男の比じゃないというわけである。
しかし、僕はこれまで現場で男が女と同じくらい感じ、失神までするのを何人も目にしてきた。加藤鷹、日比野達郎、チョコボール向井、平本一穂、青木達也……。女と同等の快感を体験した彼らに共通しているのは、そのとき「受け身だった」という一点である。
いま男たちはセックスに自信がないとか、興味がないという。恋愛も難しく、セックスにまで至るのは至難の業だとも。夫婦もセックスレスがもう当たり前の時代だ。さんざん書いてきたことだが、とりわけ男はつねに考えて考えて、思考主導で生きざるを得ないという現実がある。だから、恋愛もできない。
セックスでも男が女を満足させなければならない、そうじゃないと男としてカッコ悪いという刷り込みがある。だから、そのプレッシャーに腰が引ける。本当はそうじゃないのに。もっと言えば「かくあらねばならぬ」という思考が作り出した既成概念を捨てて、感じるまま女の前でヨガッてみれば、もう虚勢を張る必要もなく、本当の自分のままラクに生きられるのに……。
老子の言葉に「跂者不立」というのがある。「跂(つまだ)つ」とは「爪先立つ」の意。つまり、自分をよく見せようと背伸びして爪先で立とうとすれば、かえって足元が定まらないという意味だ。こんな生き方は“道”から見れば余計なことであり、「無為自然」がいい――と老子は言う。これはそのままセックスにも当てはまる。なぜならば、セックスもまた自然に属しているからである。
女はヨガる男をけっして見下したりはしない。それどころか、これは余談だが、今回の撮影で卓と玉木が面接に来た女の子から攻められているとき、彼らが声を出すたびに後ろにいるエキストラたちから吐息とも溜め息ともつかぬ「ああ~」という声が聞こえてきた。男がヨガッていると、思わず声が出てしまうくらい彼女たちも共鳴していたのである。
◆加藤鷹『イケない女神たちーーAV男優のセックスノート』1994年
ボクは四年前、代々木監督の『いんらんパフォーマンス 密教昇天の極意』という作品で、イクということをはじめて体験した。この作品は、男のオーガズムを追求するという意図でつくられたものだった。
ボクと相手役の栗原早紀は、いつにも増して、自分の中へ中へと意識を下ろしていった。努力することを放棄して、期待することを放棄して、とにかくあらゆる意識を放棄して、同じ殻の中にいることを実感として感じながら求めあった。ほどなくして、意識が性器からふっと離れたとき......。そこからの記憶がない。何をどうして、自分がどうなっていたのかがまったくわからなくなってしまった。ただ、たとえようのない快感、幸福感に包 れて浮かんでいた。射精とはまったく違う感覚。それとは較べようもないほどの満足感と充実感で身体が満たされているのを実感した。性別をこえた快感。根拠はないのだが、そう実感できた。
…栗原早紀がこういった。「鷹、おぼえてる? わたしがおちんちんさわろうとしたら『さわらないで。そのまま抱きしめて』っていったのよ」まるで記憶になかった。ボクの性器は、これ以上は小さくなれないほどに縮み上がっていて、射精もしていなかった。身体中に鳥肌がビッシリと立っていた。気がつくと涙もこぼれていた。男の幸福感はかならずしも射精にあるわけではなかった。性器を使わなくても達するセックスがある。予想していたこととはいえ、ショックだった。と同時に、ことばにあらわすことができないほどの至福のときに包まれてもいた。
⋯⋯⋯⋯
さて、代々木忠の言う《女と同等の快感を体験した彼らに共通しているのは、そのとき「受け身だった」という一点である》をまずはめぐる。
マゾヒズムは三つの形態がある。…性感的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen である。第一の性感的マゾヒズム、すなわち苦痛のなかの快 Schmerzlustは、他の二つのマゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年)
この「苦痛のなかの快 Schmerzlust」がラカンの「享楽」概念の最も代表的な意味合いのひとつである。
私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)
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| (PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999) |
私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel(ラカン、S23, 10 Février 1976)
(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の心的生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
《フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼岸には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。》(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、 1998年)
ーー上の図でバーハウは、フロイトの「受動的立場」とラカンの「女性の享楽」を等価なものと置いている。女性の享楽とは女性的マゾヒズムあるいは女性の受動性のことだという想定だ。これですべてだとは言わないが、たぶん大半の理解はこれでいける。身体の欲動蠢動(欲動興奮)になすがままになるのも受動性である。これこそまさに反復強迫=女性の享楽である。
心的無意識のうちには、欲動蠢動(欲動興奮 Triebregungen )から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
※Triebregungen という語のフロイトの使い方の他のサンプルは、「原抑圧・固着文献」を見よ。
メカニズムとしては「異物」が肝腎。それは、「内界にある自我の異郷 ichfremde」で集中的に記した。
リビドー固着(欲動固着)と異物の関係とは、より詳しく記せば次のような形にある。
欲動固着は欲動興奮を最初に飼い馴らす母による「身体の上への刻印」。これは誰もが知っていることだ。幼児の身体的な興奮をなだめる鞍を母が置くことは。
だがすべての欲動興奮が飼い馴らされるというわけにはいかない。固着の残滓がエスのなかに居残ること、これがサントーム=女性の享楽にとって決定的である。
この残存物=異物によって、トラウマへの固着と同じメカニズムの反復強迫が起こる。
→リビドーのトラウマへの固着
だがすべての欲動興奮が飼い馴らされるというわけにはいかない。固着の残滓がエスのなかに居残ること、これがサントーム=女性の享楽にとって決定的である。
この残存物=異物によって、トラウマへの固着と同じメカニズムの反復強迫が起こる。
→リビドーのトラウマへの固着
そして、大きなファルスや小さなファルスというのは、欲動固着をさらにカバーすること。
最も簡単にいえば次のことだ。
「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽(=女性の享楽)は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)
ーーこれは父の名≒父の機能だけの話だが、フェティッシュも同様。
繰り返せば、エスの奔馬の完全な飼い馴らしは不可能で、かならずリビドー固着の残存現象(異物)がある。それが、ラカンの対象aだ(参照:ラカンの対象aとフロイトの残存現象)。
⋯⋯⋯⋯
閑話休題(あだしごとはさておき)。
荒木の撮った石倭裕子さんってのはじつにすばらしいな。
ネットには小さな画像しか落ちていないのだが、とくに左の写真の表情ってのは、めったに出会えない。切なくなるね。彼女は《悲しく、一途で、おびえた目 yeux tristes, jaloux, peureuxでレンズを見ている regarde l'objectif。なんと不憫で切なく思慮深い様子であろう quelle pensivité pitoyable, déchirante! だが実は何も見ていないのだ il ne regarde rien。そのまなざしは愛と恐れを心のうちに引きとめているのである il retient vers le dedans son amour et sa peur。》(バルト『明るい部屋』)
荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。(石倭裕子ーー桐山秀樹『荒木経惟の「物語」』1998年)
ーー昔からよく言われるが、やっぱり赤い耳が肝腎なんだろうな、ほかは演技できるって言ったのは吉行淳之介じゃなかっただろうか。
で、なんの話だっけ・・・
大他者の享楽の対象になること être l'objet d'une jouissance de l'Autre、すなわち享楽への意志 volonté de jouissance が、マゾヒスト masochiste の幻想 fantasmeである。(ラカン、S10, 6 Mars 1963)
他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier 1963)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823、1960年)
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16, 26 Mars 1969)
倒錯者 inverti たちは、女性に属していないというだけのことで、じつは自分のなかに、自分が使えない女性の胚珠 embryon をもっている。(プルースト「ソドムとゴモラ」)
よく希っていれば、望みはかなうねえ! それもまだ僕たちが若さを失ってしまわないうちに! (大江健三郎「大いなる日に」第一章『燃え上がる緑の木』第三部)
僕ハ、ズット、コノヨウナ性交ヲ夢見テイタヨ。コレマデズット、ズット…… 生レル前カラ、ズット、ダッカカモ知レナイホド。(大江健三郎「大いなる日に」第二章)
娘ノ扮装ヲサセテ若衆ニ鶏姦サレルコト……、アルイハ娘ニ張形ヲツケサセテ鶏姦サレルコト (大江健三郎「大いなる日に」第五章)
大江が書いていること以上に男にとって肝腎なのは、「嫐られる」である。「嬲る」ではないのである。
⋯⋯⋯⋯
オカマというのはよがりますよね。枕カバーがベットリ濡れるくらい涎を流したりするでしょう。するとやっているうちに、こっち側になりたいという気になってくる。だからオカマを抱いちゃうと、大体一割くらいのケースで、オカマになりますね。(野坂昭如ーー岩井志麻子『猥談』より)
きみたちもはやいところやっとかないとダメだよ、ーー《それなくして、エロというのは生まれるものでしょうか?》
フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。⋯⋯⋯結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,(Lacan, S23, 11 Mai 1976)
上にも図を貼り付けたように、女性の享楽=自閉症的享楽というのを前回みたところだが、女性の享楽は多形倒錯でもあるんだな。
フロイトの多形倒錯 perverse polymorpheとは、自らの身体を自体性愛的 auto-érotiqueに享楽することである。…この多形倒錯は、私が「自閉的症状 symptôme autiste」と呼ぶものの最初のモデルである。自閉的症状とは、他のパートナーを通さない身体の享楽 jouir du corps を示し、人は性感帯の興奮のみに頼る。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
さらに言えば、人はひとつの性だけ愛するなんていう究極のヘンタイにならないようにしなくちゃな。
ラカンの答えは《男の規範 norme-mâle》のせいだ。これは「悪い規範 norme mal」のことでもある。
晩年ゲイ男に惚れたデュラスはこう言っている。
男性のセクシャリティや女性のセクシャリティはない。一つのセクシャリティしかない。すべての関係はこの一つの性のなかで泳いでいる、同性愛的単独性が防水加工されてるわけはない。Il n’y a pas de sexualité masculine ou féminine. Il y a une seule sexualité dans laquelle baignent tous les rapports. La singularité homosexuelle n’est pas étanche. (デュラスMarguerite Duras: «The Thing» (entretien au «Gai Pied», 1980)
男というものと女というものはない。ただ男性性と女性性の異なった度合い、異なった色合いがあるだけである。There are no Men and Women, only different degrees, different shades of masculinity and femininity.(アレンカ・ジュパンチッチAlenka Zupancic『性とは何か What IS Sex? 』2017)
人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋の男性または女性 reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年註)
バイセクシャル Bisexualität の相と親しむようになってから、わたしはこれこそ決定的要因と見なし、バイセクシャルの考慮なしで、男性と女性の性的表出 Sexualäußerungen von Mann und Weibを理解するようになることは殆ど不可能だと考えている。(フロイト『性欲論三篇』1905年本文)
…この意味で、すべての人間はバイセクシャルである。人間のリビドーは顕在的であれ潜在的であれ、男女両方の性対象のあいだに分配されているのである。alle Menschen in diesem Sinne bisexuell sind, ihre Libido entweder in manifester oder in latenter Weise auf Objekte beider Geschlechter verteilen.(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
2018年12月13日木曜日
男性の同性愛における母との同一化
愛自体は見せかけに宛てられる(見せかけに呼びかける L'amour lui-même s'adresse du semblant)。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
以下、同性愛をめぐる文献集である。
問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。
ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、欲望の原因である。それは愛の対象ではない。
愛について語ることができるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。
この理由で、男性の同性愛の事例について議論することが可能である、男性の同性愛とは「愛」と言えるのかどうかと。他方、女性の同性愛は事態が異なる。というのは、構造的理由で、女性の同性愛は「愛」と呼ばれるに相応しいから。どんな構造的理由か? 手短かに言えば、ひとりの女は、とにかくなんらの形で、ほかの女たちにとって大他者の価値をもつ。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)
ーー今こうやって、ミレールを引用したが、この見解に全面的には納得できているわけではない。女性の同性愛については理解できる。
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
だが男性の同性愛については十分には納得できていない。
⋯⋯⋯⋯
フロイトにおける男性の同性愛の記述を列挙する。
・同性愛の対象選択 homosexuelle Objektwahl は本源的に、異性愛の対象選択に比べナルシシズムに接近している。
・われわれは、ナルシシズム的型対象選択への強いリビドー固着 starke Libidofixierung を、同性愛が現れる素因のなかに包含する。 (フロイト『精神分析入門』第26章 「Die Libidotheorie und der Narzißmus」1916年)
フロイトは男性の同性愛についてほとんど同じ内容を繰返している。以下、四つの論文から引用する。ほとんど同じ内容だが、細かい用語遣いの相違をみるために四つとも引用する。
女性一般についても「母との同一化」があるだろうことは、「マザコンとナルコンの対決」にて見た。女性一般と男性の同性愛者は、フロイトの考え方においては、同じ「母との同一化」仲間であり、同じナルシシストなのである。
われわれが調べたすべての事例について確認されたのは、のちに性対象倒錯者になった者は、その幼児期の初めの数年に、非常に強烈な、だが短期間の女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着)の時期をへてきていることである。そしてその女への固着を克服して、女との同一化 sie sich mit dem Weib identifizieren をし、自分自身を性対象 Sexualobjekt として選ぶようになる。すなわち、ナルシシズムから出発して、自分自身に似た男性を探し求める。そしてこの母との同一化した者たちは、母が彼らを愛したように、この彼らに似た若い男を愛する。
さらに、われわれはまた実にしばしば見出したのは、この性対象倒錯者たちが女性の魅力 Reiz des Weibesにまったく無感覚なのではなく、女性によって惹起された興奮 Erregung をたえず男性の対象に移行させている männliches Objekt transponierten ということである。彼らはこうして、その全生涯にわたって性対象倒錯を成立させたメカニズムを反復している。男性への強迫的追求 zwanghaftes Streben は、彼らの「やむことなき女からの逃避 ruhelose Flucht vor dem Weibe」によって決定づけられていることがわかった。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)
女性一般についても「母との同一化」があるだろうことは、「マザコンとナルコンの対決」にて見た。女性一般と男性の同性愛者は、フロイトの考え方においては、同じ「母との同一化」仲間であり、同じナルシシストなのである。
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1916年)
母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
われわれが調査したすべての同性愛者には、当人が後でまったく忘れてしまったごく早い幼年期に、女性にたいする、概して母にたいする非常に激しいエロス的結びつき erotische Bindung があった、ーー母自身の過剰な優しさ Überzärtlichkeit によって呼び醒まされたり、あるいは助長させられたりして、さらにはまた幼児の生活中に父親があまり出てこないということによって。
サードガーの主張するところでは、彼の扱った同性愛患者たちの母親は、しばしば男まさりの女であった。つまり精力的な性格の女たちで、亭主を尻に敷いてしまうような女たちだったという。私も往々同様のことを観察した。しかしそれよりも強い印象をうけたのは、父親が最初からいなかったとか、早くいなくなってしまうかして、その結果、男の子がもっぱら女性の影響 weiblichen Einfluß ばかりを受けたような事例である。もし力強い父親 starken Vaters がいたならば、息子は異なったジェンダー entgegengesetzte Geschlecht の対象選択 Objektwahl という正しい決定 richtige Entscheidung をしていただろうと思われるのである。
さて、この予備段階の後に一つの変化が起こる。この変化の機制はわれわれにはわかっているが、その原因となった力はまだわかっていない。
母への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧Verdrängungの手中に陥る。子供は自分自身を母の場に置きindem er sich selbst an deren Stelle setzt、母と同一化 Mutter identifiziert し、彼自身をモデルVorbild にして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母への愛を抑圧する verdrängt die Liebe zur Mutter。このようにして彼は同性愛者になる。
いや実際には、彼はふたたび自体性愛 Autoerotismus に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代理 Ersatzpersonenであり更新 Erneuerungen に他ならないのだから。
言わば少年は、愛の対象Liebesobjekteをナルシシズムの道 Wege des Narzißmusの途上で見出したのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソスNarzissusと呼んでいる。
心理学的にさらに究明してゆくと、このようにして同性愛者となった者は、無意識裡に自分の母の記憶映像に固着 Erinnerungsbild seiner Mutter fixiert したままである、という主張が正当化される。母への愛を抑圧(放逐)することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠 der Mutter treu な者となる。
彼が恋人としては少年のあとを追い廻しているように見えても、じつは彼はそうすることによって、彼を不忠誠にしうる他の女たちから逃げ廻っているのである。Wenn er als Liebhaber Knaben nachzulaufen scheint, so läuft er in Wirklichkeit vor den anderen Frauen davon, die ihn untreu machen könnten.
われわれはまた直接個々の場合を観察した結果、一見男の魅力しか感じない者も本当は標準的な男性と同様、女の魅力のとりこになることを証明しえた。しかし彼はそのつど急いで、女から受けた興奮を男の対象に書き換えてvom Weibe empfangene Erregung auf ein männliches Objekt zu überschreiben、彼がかつて同性愛を獲得したあの機制をたえず繰り返すのである。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910年)
男性の同性愛の発生は、多くの事例において、次のようになる。少年は、エディプスコンプレックスの意味において、長いあいだつよく母に固着 Mutter fixiert している。けれども思春期の終了後、ついに母を他の性的対象 Sexualobjekt と取りかえる時期がくる。
そのさい、突然の方向転換が起こる。少年は母を捨てないで verläßt nicht 自分を母と同一化 identifiziertして、彼女の中に自分を転化してwandelt 、いまや彼の自我の代理となるような対象を求め、その対象を彼が母から経験してように愛し慈しむ lieben und pflegen のである。
これは、しばしば起こる過程であって、時に応じて、たしかめることができる。この過程は、突然の方向転換をひきおこす生物学的衝動力 organische Triebkraftや、その動機に関するどんな仮説とも関係なく起こるのである。
この同一化で目立つことは、その豊かさAusgiebigkeitである。自我を、きわめて重要な特徴höchst wichtigen Stückをもったもの、つまり性的性質 Sexualcharakter をもったものに、これまでの対象(母)を手本Vorbildにしてつくりかえる。そのさい対象そのものは放棄されるaufgegeben が、徹底的に放棄されるのか、それとも無意識には保たれているという意味で棄てられるのか、それはここでは議論しない。放棄された対象あるいは喪われた対象 aufgegebenen oder verlorenen Objektの かわりに、その対象を自我に取り入れることIntrojektionは、けっして珍しいことではない。このような過程は小児について直接に観察される。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)
同性愛。同性愛の器質的要因を認めたとしても、同性愛が成り立つときの心的過程を研究する努めをまぬかれたことにはならない。すでに無数の症例で確認された定型的過程はこうである。これまで固く母に固着 Mutter fixierteしていた 少年が、思春期をすぎて二三年後に方向転換をして自らを母と同一化 Mutter identifiziertし、そして愛の対象をさがし求めるが、その対象のうちに自分自身を再発見し、かつて母が彼を愛したようにその対象を愛するようになる、ということである。この過程の特徴として、彼が方向転換をした年頃とおなじ年頃の男性の対象をもつことになる。この性愛の条件 Liebesbedingung がふつうは長い年月つづく。
こういう結果になるには、さまざまな要因があって、それがいろいろな強さで作用することが分かっている。まず最初に母への固着 Mutterfixierung があって、これが他の女性対象Weibobjektへ移りゆくのを妨げる。母との同一化 Identifizierung mit der Mutter は、母との対象結合 Objektbindung の終末 Ausgang であるとともに、この最初の対象にたいしてある意味で忠誠をまもることを可能にしている。ついで自己愛的対象選択 narzißtischen Objektwahlの傾向がくるが、これは一般に異性へ向きを変えるよりは手近であるし実現もしやすい。こうなる契機の背後には他のもっと強力なものが隠れているか、または重複している。それは男性の性器をたかく評価することであり、愛の対象にそれのないことを諦められないことである。女性軽視、女性嫌悪、さらに女性憎悪 Die Geringschätzung des Weibes, die Abneigung gegen dasselbe, ja der Abscheu vor ihm も、女性はペニスをもたないという幼時に見つけた発見につながるものである。
後になってわれわれは、同性愛的な対象選択の有力な動機として、父への配慮や父にたいする不安があるのを知った。女性への愛を諦めることは、父(または彼が出会うすべての男性)との競争を避けるという意味があるからである。ペニスがあるという条件Penisbedingungの固執と男との競争の回避と、この二つの動機は去勢コンプレクスにかぞえられよう。母との結びつきMutterbindung――ナルシシズムNarzißmus――去勢不安 Kastrationsangst、このなんら特別のことのない契機を、これまでわれわれは同性愛の心理的な病因のうちに見出してきたが、これに加えて早期のリビドー固着 Fixierung der Libido をもたらす誘惑 Verführung の影響があり、また性愛生活 Liebesleben において受身の役割 passive Rolleを助長する器質的な要因がある。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)
※誘惑 Verführung については、母なる「最初の誘惑者 Verführerin」を見よ。
⋯⋯⋯⋯
ラカンの「異性愛」の定義がある。
定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
男性一般と女性の同性愛者は女を愛する。女性一般は男を愛しているようにみえるが、実は自らを愛している(ナルシシズム)。すなわち女性一般も女を愛している。
だが男性の同性愛がナルシシズムだとすれば、彼らだけが男を愛しているということになり、男性の同性愛者のみが異性愛者ではない、ということになる。したがってラカン派の観点からは、女性の同性愛者と男性の同性愛者を同列に扱うことはできない、ということになる。
もっとも上に引用したフロイト観点からは、男性の同性愛者は、《母への愛を抑圧(放逐)することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠 der Mutter treu な者となる》とあったように、真に母への愛の忠誠者は、男性の同性愛者のみということになる。
今、わたくしはロラン・バルトのことを考えている(参照)。
母の病気のあいだ、私は母を看病し、紅茶茶碗よりも飲みやすいので母の気に入っていたお椀を手にもって、お茶を飲ませてやった。母は私の小さな娘になり、私にとっては、最初の写真に写っている本質的な少女と一つになっていたのだ。(……)母と私は、互いに口にこそ出さなかったが、言葉がいくぶん無意味になり、イメージが停止されるときこそ、愛の空間そのものが生まれ、愛の調べが聞かれるはずだと考えていた。あんなに強く、私の心の「おきて」だった母を、私は最後に自分の娘として実感していた。(……)私は実際には子供をつくらなかったが、母の病気そのものを通して母を子供として生み出したのだ。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
ここでフロイトの記述のなかには、《放棄された対象あるいは喪われた対象 aufgegebenen oder verlorenen Objekt の かわりに、その対象(母)を自我に取り入れること Introjektion》ともあったことを強調しておこう。
バルトには、「喪の日記」カード群がある。1977年10月26日――バルトの母が亡くなった翌日――にはじまり、ほぼ二年間書きつがれたものだ。
母の死の翌日の日付のカードにはこうある。
新婚初夜という。
では、はじめての喪の夜は?
その次の日はこうだ。
「あなたは女性のからだを知らないのですね?」
「わたしは、病気の母の、そして死にゆく母のからだを知っています。」
⋯⋯⋯⋯
◆付記:中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談・鷲田清一とともに」(2003年)
鷲田 ……先生何度か男性女性のそれぞれの身体の経験の仕方、あるいは感じ方の差異についてお話になっていて、それは実は私流の翻訳の仕方をすると、時代ごとにかなりデフォルメされて出てくる。純然たる生理学的身体っていうものの性差というようなことは、あまりお考えでないように思うんですが。
中井 いや、僕はやはりティレシアスのようなギリシャ神話の人みたいに両方になったことはないですからね、まあ。
鷲田 ディドロが「ダランベールの夢」の中で、レスピナス嬢に語らせているとても面白い言葉があって、「男性は女性の奇形であり、女性は男性の奇形である」、これは面白いなあと。
中井 ただ、私はあまり女性のことを、全く判決文みたいな文章、言葉で理解しないところに女性との繋がりというのはあるような気がします。男性同士でそういう問題はないというのも幻想でしょう。同性愛が長続きしないのはおそらく見えすぎるという幻想、これも幻想でしょうけれども、持ってしまうことでしょうね。つまり「快楽の道具としての身体」については全く鏡面像的なふうになりますから。
鷲田 あまりにもステレオタイプな男女というその時代のイメージを強調したような形になりませんか。
中井 うーむ、どちらかといえば同性愛のほうがステレオタイプではないかと思いますねえ。
鷲田 いや、私が言っているのそれです。同性愛のほうがその時代のステレオタイプな男性、女性像をさらに強化するような形で演じているということは……。
中井 いや、そうと私、必ずしも思いませんが、そうかもしれないとは思いますね。
鷲田 いずれせよ、そういう性差というものが、図式触覚的、エピクリティカルのところでしたか、実はこの一から二十八までのそれぞれにある意味で波及、いろんな形で波及している。
中井 いや、あの性差ですか。
鷲田 はい。
中井 それはあるのでしょうけれども、私にはやはり、ジ・アザー・セックス、ジェンダーは謎のままにして置きたいですね。
鷲田 謎のままですか?
中井 謎のままです。
鷲田 謎のままで。いやさっきも控え室で話題になっていたのですけれど、摂食障害というのにどうしてこう性の間に非対称性があるのかとか。
中井 他でも非対称性はいろいろありますよね。
鷲田 そうなんです。異常性愛といわれるものはなぜかほとんど男性のものにされたりとか。
中井 レスビアンというのはそんなに問題にされてこなかったでしょうね。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談・鷲田清一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)
2017年9月28日木曜日
二つの根源的な愛の対象
人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)
もっともフロイトは数頁あと、次のように記している。
人は愛する Man liebt:
1)ナルシシズム型では、
a)現在の自分(自己自身)
b)過去の自分
c) そうなりたい自分
d)自己自身の一部であった人物
2) アタッチメント型 Anlehnungstypusでは、
a) 養育してくれる女性
b) 保護してくれる男性
この時期のフロイトらしくアタッチメント型の(b) に《 保護してくれる男性 schützenden Mann》がつけ加えられている。だが核心はやはり《世話をしてくれる女性 pflegende Weib》、《養育してくれる女性nährende Frau》である。
かつまたナルシシズム型の(d)に《自己自身の一部であった人物 die Person, die ein Teil des eigenen Selbst war》とある。究極の自己自身の一部であった人物とは母にきまっている。
母胎内の時期に触れないまでも、出生後の最初期、乳幼児は、《母の乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない》。
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房 Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。
最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutter の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年、私訳)
…………
以下、ラカン派による上に記したフロイトの考え方の代表的な注釈をかかげる(ミレール、1992『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』Jacques-Alain Miller、pdfより)
我々はフロイトの次の仮説から始める。
・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移 transfert である。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。
我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。(Miller、1992)
根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental の「置き換え」は、最近の論では「昇華sublimation」という表現で注釈されている。
ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)
フロイトにとっては、学問も芸術も昇華の一種であり、《この種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない》(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』)
故にミレールは次のように言うことになる。
科学があるのは女性というもの la femme が存在しないからです。知はそれ自体「他の性Autre sexs」についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)
もちろん他の性とは、男女ともに「女性の性」である、《「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である》(ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)。
ここで次の文をも引用しておこう。
定義上異性愛者とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
そもそも古来からの格言があるではないか、《母は確かであり、父は常に不確かである mater certissima, pater semper incertus》と。
幼児は、性関係 sexuellen Beziehungen において父母が演じる役割の相違を知るようになり、「父性は常に不確実 pater semper incertus est」で「母性は確実 Mutter certissima ist」だと悟る…。(フロイト『ファミリーロマンス』1909)
もちろんこの雌族の有様は「狂った」の二重否定でありーー「否定の否定」とは逸脱の逸脱であるーー、至高の存在、つまり(場合によっては)神でありうる・・・、《精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである》(ラカン、S23、1976)
以下、ふたたびミレール1992年を続ける。
精神分析作業は何に関わるのか? 対象a と対象x とのあいだの類似性、あるいは類似性の顕著な徴に関わる。これは、男は彼の母と似た顔の女に惚れ込むという考え方だけには止まらない。しかし最初のレベルにおいては、類似性のイマジネールな徴が強調される。この感覚的徴は、一般的な類似性から極度の個別的な徴へ、客観的な徴から主体自身のみに可視的な徴へと移行しうる。
そして象徴的秩序に属する別の種類の類似性の徴がある。それは言語に直接的に基礎を置いている。例えば、「名」の対象選択を立証づける精神分析的な固有名の全審級がある。さらに複雑な秩序、フロイトが『フェティシズム』論文で取り上げた「鼻のつや Glanz auf der Nase」--独語と英語とのあいだ、glanz とglanceとのあいだの翻訳の錯誤において徴示的戯れが動きだし、愛の対象の徴が見出されるなどという、些か滑稽な事態がある。
類似性の三番目の相は、ひょっとして、より抽象的かもしれないが、愛の対象と何か他のものとの関係に関わる。すなわち主体は、対象x ーー彼が根源的対象ともった同じ関係の状況のもとの対象xに恋に陥ることがありうる。あるいはさらに別の可能性、対象x が彼自身と同じ関係にある状況。
フロイトは見出した、「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…
例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択である。あるいは母が主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む(主体を保護してくれる者への対象選択)。(ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992、pdf)
フロイト文からミレールのいう第二の愛の相である「鼻のつや」箇所を引用しておこう。
ある青年の例…彼はある種の「鼻のつや」をフェティッシュ的条件 fetischistischen Bedingung にしていた。…患者はイギリスで行儀作法をしつけられ、後にドイツにやってきたが、そのときには母国語をほとんど完全に忘れていた。この小児期に由来しているフェティッシュ Fetisch は、ドイツ語でなく、英語で読まれるべきもので、「鼻のつや Glanz auf der Nase」は、本来「鼻への一瞥 Blick auf die Nase」 (glance = Blick)なのである。こうして鼻は、結局、彼から勝手に、他人には分からぬような特殊な輝きをつけ加えられて、フェティッシュ Fetisch となっていた。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)
ミレールは2010年のインタヴューにおいて次のように語っている。
――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?
最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。
ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。
このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”)
このウェルテルをめぐっては、ロラン・バルトが《われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ》と美しく書いている。
車から降りたウェルテルがはじめてシャルロッテをみかける(そして夢中になる)。戸口を額縁のようにして彼女の姿が見えている(彼女は子供たちにパンを切り分けている。しばしば注釈されてきた有名な場面)。われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ。というのも、ひとめぼれにはどうしても唐突性の記号が必要だからである(それがわたしの責任を解除し、わたしを運命に委ね、運び去り、奪い去るのだ)。(……)幕が裂ける、そのときまで誰の目にも触れたことのないものが全貌をあらわすにする。たちまちに眼がこれをむさぼる。直接性は充溢性の代償となりうるのである。わたしは今、秘密をあかされたのだ。タブローは、やがてわたしが愛することになる対象を聖別 consacre しているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』1977年「魂を奪われるRAVISSEMENT」の項)
…………
女性の場合の愛は、男性にくらべて一見、原初の「母との結びつき・母拘束 Mutterbindung」から逃れているようにみえる。
男性の場合には、栄養の供給や身体の世話などの影響によって、母が最初の愛の対象 ersten Liebesobjekt となり、これは、彼女に本質的に似ているものとか、彼女に由来するものなどによって置き換えられるようになるまでは、この状態がつづく。女性の場合にも、母は最初の対象 erste Objekt であるにちがいない。対象選択 Objektwahl の根本条件は、すべての小児にとって同一なのである。しかし、発達の終りごろには、男性である父が愛の対象となるべきであって、というのは、女性の性の変換には、その対象の性の変換が対応しなくてはならないのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)
だがフロイトはこうも記していることを、ここではラカン派による注釈抜きで、強調しておこう。
………前エディプス präödipal 期と名づけられることのできる、もっぱら母との結びつき(母拘束 Mutterbindung)時期はしたがって、女性の場合には男性の場合に相応するのよりはるかに大きな意味を与えられる。女性の性生活の多くの現れは、以前には十分には理解されていなかったが、前エディプス期までに遡ることによって完全に解明することができるようになった。
われわれがたとえばもうとっくに気づいていたことであるが、多くの女性は父をモデルにして夫を選んだり、夫を父の位置に置き換えたりしておきながら、現実の結婚生活では、夫を相手にして母に対する好ましくない関係を反復している schlechtes Verhältnis zur Mutter wiederholen のである。夫が妻の父から相続するのは父への関係であるべきであろうのに、実際には母への関係を相続しているのである。
これは手近な退行 Regression の一例だと思えば、容易に理解される。母との関係のほうが根源的 Mutterbeziehung war die ursprünglicheであり、そのうえに父との結びつき Vaterbindung がきずきあげられていたのだが、いまや結婚生活において、この抑圧されていた根源的なものが現われてくるのである。母対象から父対象へ vom Mutter- auf das Vaterobjekt の情動的結びつき affektiver Bindungen の振り替えÜberschreibungこそは、女らしさ Weibtum に導く発達の主要な内容をなしていたのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)
非常に多くの女性の場合に、ちょうどその青春時代が母との闘い Kampf mit der Mutterで明け暮れしたように、その成熟期が夫との闘争でみたされているという印象をわれわれがうけるときに、(……)彼女たちの母に対する敵意ある態度 feindselige Einstellung zur Mutter はエディプスコンプレックスという競争意識の帰結ではなくて、それ以前の時期に由来するものであり、エディプス的状況におかれることによってそれが強化され、利用されたにすぎない、ということになる。(同上、『女性の性愛』1931年、私訳)
女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期 präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデルとすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわい、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。
どちらの相も、後に訪れる生に多大な影響を残すのは疑いない。…しかし前エディプス期の相における結びつき(拘束 Bindung)が女性の未来にとって決定的である。(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」第33講『続・精神分析入門講義』1933年、私訳)
ーー上の文に出現する母との結びつき(母拘束 Mutterbindung)と父との結びつき(父拘束 Vaterbindung)とは、フロイトが別の論文で使っている「マザコン/ファザコン(マザーコンプレックス Mutterkomplex/ファザーコンプレックス Vaterkomplexe )」とどう違うのか? ま、似たようなもんじゃないか?
コンプレックスとは、フロイトの朋友ブロイアーに起源があり、《観念複合体 Ideen Complex》という意味である。われわれは何らかの形で母への観念複合、父への観念複合をもって生きてゆくのである。
たとえば後者のファザコンは、ラカン派的に、「父の名」観念複合としてもよい。
言語、それは父の名であり、超自我である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(ミレール、séminaire 96/97)
ファザコンが言語コンプレックスであれば、マザコンは、ララングコンプレックスである。
ララング langage は、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕 éclipse 等々で包む。ララング langage が、母の言葉 la dire maternelle と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、以後の愛の全人生の要と考えた。(コレット・ソレール、2011, Colette Soler, Les affects lacaniensーー「中井久夫のララング論」)
※付記
「父なき時代」以降、男性における《女性への推進力 pousse-à-la-femme》(ラカン)、女性における《男性への推進力 pousse-à-l'homme》(ミレール)の現象がみられるのは事実であるが、ここではそれに触れないまま記した(参照)。
(かつてから超自我なき社会であった日本では、男性における《女性への推進力》、つまり《母との結びつき・母拘束 Mutterbindung》や《母との同一化 Mutteridentifizierung》が欧米にくらべ際立っている。ゆえにフロイト・ラカン理論は、日本においては本来、この観点から調整して読まねばならない)。
2017年5月6日土曜日
染みとプンクトゥム
ラカン的な主題が(たとえば)、彼に東京の市街を思い起こさせることはまったくない。けれども東京は、彼にラカン的な主題を思い起こさせる。こういうなりゆきは、いつも決まってそうなる。すなわち彼がまず観念から出発して次にその観念に似合う映像を見つけるということは、まれである。彼は官能的な対象から出発し、そのあと、自分の仕事の中で、その対象にふさわしい《抽象》形式を見いだす可能性にめぐり会うことを期待する。その時期の知的文化の中から採取される抽象形式のひとつを見いだそうとするのだ。そういう次第で、哲学とはもはや、数々の特殊な映像、数々の観念的虚構の、貯蔵庫にすぎない(彼が借りるのは対象であって推理ではない)。マラルメは「観念の身ぶり」について語った。が、彼はまず身ぶり(身体の表現)を、その次に観念(文化の、テクスト関連の、表現)を、見つける。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
…………
《シミが現れるとともに、欲望の領野において、その背後に隠されたものの蘇りの可能性が準備される。Avec la tache apparaît, se prépare la possibilité de résurgence, dans le champ du désir, de ce qu'il y a derrière d'occulte》(ラカン、S10、5 Juin l963)
一人の立派なハジ(聖地巡礼をすませた回教徒の尊称)。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真っ白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。
しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかなしみがある。純白の頭巾に。une tache, un léger frottis de merde, comme un besoin de pigeon, sur la capuche immaculée.(ロラン・バルト『偶景』1969年テキスト、死後出版1982)
作家はいつもシステムの盲点(盲目の染み la tache aveugle)にあって、漂流 dérive している。それはジョーカーjokerであり、マナmanaであり、ゼロ度degré zéroであり、ブリッジのダミーle mort du bridge、つまり、意味に(競技に)必要ではあるが、固定した意味は失われているものである。(『テクストの快楽』1973年)
《享楽 jouissance は欲望に応えるもの(満足させるもの)ではなく、欲望の宙吊りsurprend・踏み越え excède・逸脱 déroute、漂流 dérive させるもののことである。》(『彼自身によるロラン・バルト』)
《私は、欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。》(ラカン、S.20、08 Mai 1973)
《トカゲの自傷、苦境のなかの尻尾切り。享楽の生垣での欲望の災難 l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance》(Lacan,E 853)
ーー切り落とされたトカゲの尻尾が対象aである。
この本が何でてきているのか、私は知らない。無意識とイデオロギーか。どちらも他人たちの声によってしかおのれを語らぬものだ。私は、私の中を通り過ぎて行くシンボル系とイデオロギー系列を、《そういうものとして》は舞台上に(テクストに)演出して見せることができない。というもの、私自身がそれらの残す盲目の染み la tache aveugle だからだ(私に固有のものとして属しているのは、《私の》想像界、《私の》幻想界であり、すなわちこの本の由来である)。
それゆえ精神分析学と政治批判の取りあつかいに関しては、私にはオルフェウスの流儀しかないのだ。すなわち、決して振りかえらず、決してそれらを見つめず、それらを公言しないことを(決してではないにしても、想像界の進行するところに私の解釈をふたたび導入するのに必要なだけ、ほんのわずかだけ)である。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことでもありーーしかもまた、骰子の一振りcoup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
・それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 un éclair qui flotte なのである。
・ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻 fulgurationである。
・ある何ものかが一閃して quelque chose a fait tilt、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのである。(『明るい部屋』)
…………
ある時期のラカンの対象aの定義(のひとつ)は、「絵のなかのしみ tache dans le tableau」--《 il se fait tache, il se fait tableau, il s'inscrit dans le tableau》 (S11, 04 Mars 1964)である。
対象aは奇妙な対象で、じつは対象の領野に主体自身が書き込まれることにすぎない。それは染みにしか見えず、この領野の一部が主体の欲望によって歪められたときにはじめて明確な形が見えてくる。
ある物をまっすぐに、冷静に、偏見を捨てて、客観的に見ると、ぼんやりした染みしか見えない。「ある角度から」、「関心をもって」、つまり欲望に支えられ、貫かれ、「歪められ」た視線で見たときにはじめて、はっきりした形が見えてくる。このことは〈対象a〉、すなわち欲望の対象=原因の完璧な説明になっている。(ジジェク『斜めから見る』1991年)
次の文にはシミという語は現れない。が、「絵の中のシミ」が描写されている、と読めないだろうか?
・列車のバーテンダーが、ある駅で降り、赤いジェラニウムの花を摘み、水を入れたコップにさして、汚れた茶碗やナプキンを放り込んでおくかなり汚い物入れとコーヒー沸しの間に置いた。
・手はもうすでに少し分厚いが、華奢で、ほとんどなよなよした少年が、突然シャッターのようにすばやく、男であることを表す仕草――爪の裏でたばこの灰を落とすーーをする。(ロラン・バルト『偶景』1969年)
『彼自身によるロラン・バルト』における「想起記述 anamneses」も類似した試みとすることができるかもしれない。
おやつのときの、つめたい砂糖入りミルク。古い白い茶碗の底に、陶器のきずがひとつあった。かきまわすときにスプーンに当たったものはそのきずだったか、それとも、溶け残りか洗い残しの砂糖のこびりついたものだったろうか。
手紙で借りる話をまとめておいた家具つきのアパルトマンが、ふさがっていた。彼らは、パリのある十一月の朝、ド・ラ・グラシエール街で、トランクと手荷物をかかえて途方に暮れる羽目となった。近所の乳製品のおかみさんが、うちへ入れて、あついショコラとクロワッサンをご馳走してくれた。(『彼自身によるロラン・バルト』)
だがバルトは《艶消し》とも記している。
私が《想起記述》を呼んでいるものは、被験者が、稀薄な思い出を《拡大もせず、それを振動させることもなしに》ふたたび見いだすためにおこなう作業―――享楽と努力の混合―――である。それは俳句そのものだ。《伝記素》とは、つくりものの想起記述以外の何ものでもない。私が自分の愛する著作者に想定する想起記述である。
これらのいくつかの想起記述は、程度の差はあるがともかく、みな《つや消し》である(意味作用を発揮していない、すなわち意味を免除されている)。それらをうまくつや消しのものにすることに成功すればそれだけ、それらは想像界からうまく逃れることになる。(『彼自身によるロラン・バルト』)
俳句とあるが、ロラン・バルトは三度の日本旅行(1966年5-6月、1967年3-4月、12-1月)で、俳句に魅せられたのである。
俳句は、羨望をおこさせる。どれほど多くの西欧の読者が夢みたことだろうか。手帳をたずさえて、あちこちで「印象」を書きとめながら歩きまわることを実生活でしてみたいものだ、と。その「印象」記では、簡潔さは完璧さを保証するものとなり、素朴さは深遠さを証明するものとなるだろう。(……)
俳句においては、意味は一瞬の閃光、光の浅い傷跡にすぎない。シェイクスピアは「見えない世界を照らしだした閃光とともに、意味の光が消えてゆくとき」と書いていたが、俳句の閃光にはなにも照らしださないし、明らかにもしない。(ロラン・バルト『記号の国』1970年)
さてバルトの「プンクトゥム」とラカンの「対象a」はどう異なるのだろう?
たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(『明るい部屋』)
もちろんそれぞれ微妙な差異はあるに決まっている。だが重なるところは多いのは、ここまで見て来た通り。
場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来る…。ラテン語には、そうした傷 blessure、刺し傷 piqûre、鋭くとがった道具によってつけられた徴 marque を表す語がある。…句読点を打たれたような効果 effet comme ponctuées、ときには斑点状 mouchetées になってさえいる、感じやすい痛点 points sensibles、…それゆえ、ストゥディウム studiumの場をかき乱しにやってくるこの第二の要素を、私はプンクトゥム punctum と呼ぶことにしたい。
ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
冒頭にかかげたバルトの文にあるように、観念から出発するのではなく、まずは具体的に、そして誰にでもあるだろう〈あなた〉を突き刺すもの、それを問うことから始めればよいはずである。
…………
バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、ラカンのオートマンとテュケーへの応答である。Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché(ミレール2011, jacques-alain miller 2011,L'être et l'un)
写真は絶対的な「個 Particulier」であり、反響しない、ばかのような、この上もなく「偶発的なもの Contingence」であり、「あるがままのもの Tel」である(ある特定の「写真」であって、「写真」一般ではない)。要するにそれは、「偶然 Tuché(テュケー)」の、「機会 Occasion」の、「遭遇 Rencontre」の、「現実界 Réel」の、あくことを知らぬ表現である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
テュケー Tuché の機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ)
…………
オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーはオートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る偶然性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。そしてこの感知されがたい微かな欠片が、喜劇が最大限に利用する素材である。(ムラデン・ドラー、喜劇と分身、2005年、私訳)
ラカンは、よく知られたセミネール11 の講義にて、偶然(経験上の偶発性)と絶対的遇発性とのあいだの区別をしている。…アリストテレスの『自然学』第4、5章から引用して、彼は二種類の偶然性、 automaton と tyche があると主張している。
オートマンはシニフィアンの論理(象徴界)に属し、この水準では、恣意性は究極的に常に見かけにすぎない。というのは共時的構造が、通時性のなかに「選択的効果 effets préférentiels」を促し、定まったカードで主体を戯れさせるだけだから。
テュケーは現実界に結びつけられる。よりよく言えば、象徴構造への現実界の侵入にかかわる。それは純粋で無条件的(絶対的)である。
しかしながら、科学とは異なり精神分析は、言語は非全体 pas-toutであり全体化されえないと仮定する。したがって、シニフィアンのネットワーク内部での蓋然的偶然としてのオートマンは、テュケーによって可能・支えられていると同時に、テュケーによって土台を崩される。すなわち、物質的原因として理解されなければならない構造の穴の絶対的遇発性によって。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF )
※参照:プンクトゥム=テュケー
上に掲げたラカン派三者(ミレール・ドラ―・ロレンツォ)の観点に依拠するとすれば、蓮實重彦の「ストゥディウム」と「プンクトゥム」を二元論として扱う記述はいささか許容しがたい。
例の「ストゥディウム」と「プンクトゥム」という二元論が写真をめぐる言説にどれほど有効な視点をもたらすかどうかも、主要な話題とはなりがたい。(蓮實重彦『表象の奈落』、P.348)
バルトは《ストゥディウム studium は、つねにコード化されているが、プンクトゥム punctum は、そうではない》と言っている。
試しにこう言ってみよう、ーープンクトゥムはストゥディウムの内部にあるが、この内部の異者である。プンクトゥムは、分節化されたストゥディウムの非一貫性の領域に外立する、と。
Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))
ここでバルトの「エクスタシー」という表現に注目しておこう。
狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリズムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌をめくること)によって弱められ、相対的なレアリズムにとどもるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリズムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始原的なレアリズムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるのなら、「写真」は狂気となる。つまりはそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、(……)これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。
以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
『明るい部屋』は写真論の体裁をとっているが、それだけでは決してない。
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