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2018年10月24日水曜日

穴Ⱥと「穴のヴェールとしての愛の対象」

【aとi(a)】
愛自体は「見せかけ semblant」 に宛てられる(見せかけに呼びかける L'amour lui-même s'adresse du semblant)。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)




問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、「欲望の原因 cause du désir」である。それは愛の対象ではない。

愛について語ることだできるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)
女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](Miller 1997、Des semblants dans la relation entre les sexes)
現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S.18、20 Janvier 1971)


⋯⋯⋯⋯

【イマージュと無 rien】
確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)
イマージュは対象a(欲望の原因としての対象a) を隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).(ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)





・象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage

・現実界は書かれることを止めない le Réel ne cesse pas de s'écrire 。(S25、10 Janvier 1978)
症状(原症状=サントーム sinthome[S(Ⱥ)])は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)
無、たぶん?  いや、ーーたぶん無でありながら、無ではないもの
Rien, peut-être ? non pas – peut-être rien, mais pas rien(ラカン、S11, 12 Février 1964)

ーーBarbara Cassin による超訳、《無ではなく、無以下のもの Pas rien, mais moins que rien (Not nothing, but less than nothing)》

現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない  Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu(Lacan, S23, 16 Mars 1976)


⋯⋯⋯⋯

【モノとȺ】
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)


【 (- φ) と(- J)とモノ】
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)とは、⋯欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre 1962)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を生みだす。(Lacan、AE573、1976)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


【原対象aと穴Ⱥ】
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
穴としての対象a [En tant que trou, l'objet a] (MILLER, J.-A., La Cause du désir, no 94, navarin éditeurs, p. 21)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)
喪われたものune perteとしての「穴 trou」とは、自然に喪われたもの une perte naturelleである。(Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)



【LȺ Mère (斜線を引かれた母なる大他者)と享楽の空胞 vacuole de la jouissance】
僕は海にむかって歩いている。僕自身の中の海にむかって歩いている。(中上健次『海へ』)
海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。(三好達治「郷愁」)





(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959ーーモノと対象a
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)
享楽の空胞 vacuole de la jouissance…私は、それを中心にある禁止 interdit au centre として示す。…私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にあるだ。

ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (⋯⋯)

フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)

※なおここまで二つ示したボロメオ結びの変奏図は、セミネール20における「享楽の図」とボロメオを結合させることによって書き直したものである。


「享楽の図」再考



【去勢 (- φ) と廃墟になった享楽(- J)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


【穴と見せかけ】
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)


MILLER - 09/03/2011

ーー無意識の主体 ICS と享楽 J とのあいだの a は、穴Ⱥーー(- φ) ,(- J)ーーとしての aでもあると捉えられないでもないが、基本的には穴埋めとしての a である(参照:対象aの三義性)。

-φの上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の結合を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)



そもそもS(Ⱥ)自体が、最初の穴埋めのシニフィアン(穴の境界表象)である。

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

このコンテクストにおいては、ミレールは次のように書いている。



 ーーこのあたりは対象aの三意義性を把握していないと、何のことだが分からなくなる。

実際、主流ラカン派の2018年の会議においても、S(Ⱥ)かつ「文字対象a[ la lettre petit a]」に相当する「骨象 L'objet (a),  « osbjet ».が、現実界的対象a として主要議題になっている(L'objet (a), semblant et « osbjet ».)。

骨(骨象)、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]( Lacan, S23、11 Mai 1976)

そもそもラカン注釈の第一人者ミレール自身が彷徨っているという言い方さえでき、ここでわたくしが記していることもあくまで現時点での「想定」である。

ラカンの「大他者の大他者はない」というテーゼは、ラカン理論を支えるものは何もないということでもある。ラカン自身、最晩年には想像界の復権と捉えられないでもないことを言っている。

人は、現実界のイデアを自ら得るために、想像界を使う On recourt donc à l'imaginaire pour se faire une idée du réel 。あなた方は、« イデアを自ら得る se faire une idée »と書かねばならない。私は、《球面 sphère 》としての想像界と書く。想像界が意味するものを明瞭に理解するためには、こうせねばならない。(ラカン、S24 16 Novembre 1976)

あるいはセミネール23においては、真の穴 Vrai Trou としてS(Ⱥ)が位置する場ーー想像界と現実界との重なり箇所ーーを指し示している。




わたくしがここで記しているのは、S(Ⱥ)ーー穴のシニフィアンーーと穴Ⱥとのあいだの識別だが、これが必ずしも正しいわけではない。すくなくともS(Ⱥ)とȺとのあいだには遡及的な関係がある。S(Ⱥ)があってのȺなのである。S(Ⱥ)の最も簡潔な定義として、わたくしは母なる大他者による「身体の上への刻印」という定義をとる。

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」(=原抑圧)あるいは「身体の上への刻印」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)


さて元に戻る。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の現実界)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)



ーー固着とは原抑圧のことである。

ロイトは固着ーーリビドーの固着、欲動の固着ーーを抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 ーーS(Ⱥ)と「S2なきS1」
ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如 manque と穴 trou とのあいだの相違が導入されなければならない。欠如は空間的であり、空間内部の空虚 vide を示す。他方、穴はより根源的であり、空間の秩序自体が崩壊する点を示す(物理学のブッラクホール trou noir におけるように)。ここには欲望と欲動とのあいだの相違がある。欲望はその構成的欠如に基づいている。他方、欲動は穴の廻り・存在の秩序のなかの裂目の廻りを循環する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012ーー欠如と穴(簡略版)


⋯⋯⋯⋯

【血のネプチューンとメドゥーサの首】

愛するものを歌うのはよい。しかしああ、あの底ふかくかくれ棲む
罪科をになう血の河神をうたうのは、それとはまったく別のことだ。


ああ、いかに奇怪なものをしたたらしながらその巨大な頭をもたげたことだろう、
夜を呼び起こして果てしない擾乱へと駆り立てながら
おお、血のネプチューン、恐ろしいその大戟、
おお、ねじくれた法螺貝を吹きどよもす胸底からの暗い息吹よ。

聴け、いかに夜がくぼみ、またえぐられるかを。Horch, wie die Nacht sich muldet und höhlt (リルケ、ドゥイノ、第三の悲歌 手塚富雄訳)

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)
ベンヤミンは、対象を取りかこむアウラは、眼差しを送り返す合図だと注意を促した。彼が素朴にもつけ加えるのを忘れたのは、アウラの効果が起こるのは、この眼差しが覆われ、「上品化」されたときだということだ。この覆いが除かれれば、アウラは悪夢に変貌し、メドゥーサの眼差しとなる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)



私の恐ろしい女主人とメドゥーサの首】
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)
ツァラトゥストラノート:「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf.[Winter 1884 — 85]


⋯⋯⋯⋯


【根源的な愛の対象】
人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)
母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年ーー女性一般と男性の同性愛者における「母との同一化」
女児の人形遊び Spieles mit Puppen、これは女性性 Weiblichkeit の表現ではない。人形遊びとは、母との同一化 Mutteridentifizierung によって受動性を能動性に代替する Ersetzung der Passivität durch Aktivität 意図を持っている。女児は母を演じているのである spielte die Mutter。そして人形は彼女自身である Puppe war sie selbst(ナルシシズム)。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)
我々はフロイトの次の仮説から始める。
・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移 transfert である。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。
我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。(ジャック=アラン・ミレール、愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour、1992)


 欲望の対象 objet du désir と欲望の原因 cause du désir  】
ラカンのセミネールⅩ「不安」にて興味深いのは、愛が、享楽と欲望とのあいだの仲介 médiateurだとされることである。愛は「欲望の原因 cause du désir」としての対象a を置換あるいは歪曲してdéplace ou falsifie petit a 、「欲望の目標 objet-visé」に移行させる。愛は、対象aをアガルマ agalma にするのである。(Introduction à la lecture du Séminaire de L'angoisse de Jacques Lacan、Jacques-Alain Miller、2004)



幻想の役割において決定的なことは、「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の対象-原因 objet cause du désir」(欲望の原因としての対象a)とのあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。「欲望の対象 objet du désir」とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームで言うとすれば、私が欲望する人のこと。逆に「欲望の対象-原因 objet cause du désir」(欲望の原因としての対象)とは、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは「欲望の対象-原因 objet cause du désir」が何なのか気づいてさえいない。――そう、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。

「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の対象-原因 objet cause du désir」の相違というのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これは、フロイトがすでに「唯一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(⋯⋯)

欲望「と/あるいは」欲動が循環する空虚としての対象a、そしてこの空虚を埋め合わせる魅惑要素としての対象aがある。…人は、魅惑をもたらすアガルマの背後にある「欲望の聖杯 the Grail of desire」、アガルマが覆っている空虚を認めるために、対象a の魔法を解かねばならない(この移行は、ラカンの性別化に式にある、女性の主体のファルスΦからS(Ⱥ)への移行と相同的である)。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)

⋯⋯⋯⋯

【愛する理由は「欲望の原因としての対象a」にある】

私はあなたを愛する。だが私は、あなたの中のなにかあなた以上のもの、〈対象a〉(欲望の原因)を愛する。だからこそ私はあなたを八つ裂きにする。Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.(ラカン、S11、24 Juin 1964)
幸いにしてわたしには、八つ裂き zerreissen にされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くzerreisst のだ …… わたしは、そういう愛らしい狂女〔メナーデ Mänaden〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……(ニーチェ『この人を見よ』)
愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている》(プルースト 「見出された時」)。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。

我々はこの道に入り込む。我々は《真理vérité》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルースト とシーニュ』)
われわれの愛は、われわれが愛するひとたちによっても、愛しているときの、たちまちに消え去る状態によっても展開されるものではない。Nos amours ne s'expliquent pas par ceux que nous aimons, ni par nos états périssables au moment où nous sommes amoureux. (……)

われわれの愛には、根源的な差異 différence originelle が支配している。それは恐らく母のイメージ image de Mère であり、女性、ヴァントゥイユ嬢にとっては父のイメージである。しかしもっと深いところでは、根源的な差異とはわれわれの経験を越えた遠いイメージ、われわれを超越するテーマ、一種の原型である。それはわれわれが愛するひとたち、そしてわれわれが愛するただひとりのひとにさえ、分散するにはあまりにも豊かなイメージであり、イデアあるいは本質である。しかしそれはまたわれわれの連続する愛の中で、また孤立して捉えられたそれぞれのわれわれの愛の中で反復されるものである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

⋯⋯⋯⋯


【母と引力(ブラックホール)】

母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。

私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。(⋯⋯)

 ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

 私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」)




私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même .(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung ⋯⋯⋯フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11、 03 Juin 1964 )
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、Colette Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)



2018年6月17日日曜日

大他者なき大他者

ジャック=アラン・ミレールによる『L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)』、2013、pdf)には、ラカンの「大他者」をめぐる思考の推移の簡潔明瞭な説明がある。今まで断片的に訳出引用してはきたが、ここではそれをいくらかまとめて掲げる。

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、「大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre」と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013、pdf

ここでいったん「大他者なき大他者」から離れて、基本的な補足説明をする。

上に文に、《「大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre」⋯⋯これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している》とある。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977 )

Ⱥとは穴のことである。それを徴示するのが、S(Ⱥ)である。

穴Ⱥ とは、《大他者は存在しない A n'existe pas・大他者は非一貫的 A n'est pas consistant》(大他者は非全体 pastout・非関係 non-rapport)(ミレール、 Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre  », 2007 )のことであり、その穴Ⱥを徴示する(シニフィアンする)のが、S(Ⱥ)である。

穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)

要するに、S(Ⱥ)は、「大他者のなかの穴 trou dans l'Autre のシニフィアン」である。他方、Φファルスとは、「大他者のなかの欠如 manque dans l'Autre のシニフィアン」である。

なによりもまず(かりにラカン理論に触れるなら)、この相違を把握することが最も基本である。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan」, 2001、 pdf) 

しかもΦとS(Ⱥ)における「大他者」の意味は異なる。

《Φは、大他者のなかの欠如のシニフィアン》における「大他者」とは、「父なる大他者」(父の法・言語の法等)に主にかかわる。

《S(Ⱥ)は、大他者のなかの穴のシニフィアン》における「大他者」とは、原大他者、すなわち「母なる大他者」(母の法・ララング(母の言葉))に主にかかわり(参照)、さらに「身体」(異者としての身体)である(参照:「身体は穴である」)。

大他者は身体である。  L'Autre …c'est le corps! (ラカン、S14,10 Mai 1967)
我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)

繰り返せば、欠如と穴の相違を把握することが、ラカン理論の基本的理解のための核である。

ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如 manque と穴 trou とのあいだの相違が導入されなければならない。欠如は空間的であり、空間内部の空虚 vide を示す。他方、穴はより根源的であり、空間の秩序自体が崩壊する点を示す(物理学のブッラクホール trou noir におけるように)。ここには欲望と欲動とのあいだの相違がある。欲望はその構成的欠如に基づいている。他方、欲動は穴の廻り・存在の秩序になかの裂目の廻りを循環する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

いまだ日本共同体においては、ラカン理論を否定神学として提示する研究者たちがいるが、ーーおそらく最初期ラカンの思考をもとにしたデリダやドゥルーズらの批判をベースにしてーー、あれは全き誤謬である。

何かがその場所から喪われている。しかし欠如(ファルス)は決してそこから喪われていない。(デリダ, Le facteur de la vérité)
偉大なるファルス le grand Phallus、欠如 le Manque…それは純粋に神話的なものであり、否定神学の〈一者〉のようなものである。le grand Phallus, le Manque …est purement mythique : il est comme l'Un de la théologie négative. (ドゥルーズ&ガタリ、アンチ・オイディプス)

⋯⋯⋯⋯

さてミレールの「大他者なき大他者」に戻る。

なぜラカンは、その教えの出発点で、法への情熱をもったのか。そして「大他者の大他者はない」と言ったとき、なぜそれを捨て去ったのか。ラカンは異なった法(言語、パロール、 言説等の)を我々に教え、この表明に到った。…

第一に、言語学の法がある。ラカンがソシュールから借りてきたものだ。それはシニフィアンをシニフィエから、共時性を通時性から区別することに導く。ヤコブソンに見出した法もまたある。それは、隠喩を換喩から分節化し区別する。ラカンはこれらを法として・メカニズムとして語った。

第二に、弁証法的法がある。ラカンがヘーゲルのなかに探しにいったものだ。この法は告げる、言説のなかで主体は、他の主体の仲介を通してのみ、彼の存在を想定しうる、と。ラカンはこれを承認の弁証法的法と呼ぶ。

第三に、我々はラカンのなかに数学的法を見出す(これはある時期とても評判高かったが、 もはや我々のものではない)。例えば、ラカンが、最初の図式とともに、「盗まれた手紙」についてのセミネールにて探求したような法だ。あの α, β, γ, δ の図式は、無意識の記憶にとってのモデルを提供した。

第四に、社会学的法がある。ラカンがレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』から採用した同盟と親族の法である。

第五に、想定されたフロイトの法、エディプスがある。それは、初期ラカンが法へと作り上げたものだ。すなわち「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる、と。

さて、私は面倒を厭わず、法の 5 つの領域を列挙した。言語学的・弁証法的・数学的・社 会学的・フロイト的である。ラカンが分析経験を熟考し始めたとき、少なくとも主体をめぐっ て教え始めたとき、この法の 5 つの領域は、彼にとって、象徴界と呼ばれるものを構成した。(……)
なぜラカンは、このように法概念に中心的重要性を与えたのか。それは疑いなく、彼にとって法は合理性の条件だからだ。さらに具体的にいえば、科学の条件である。ラカンはあたかも「法がある場にのみ科学はある」という箴言に駆り立てられていたかのようだ。

(……)しかしながら、はっきりさせておかねばならない。ラカンの教えにおいて、(法への情熱に最初に駆り立てられていた後、この法の概念は消滅したことを。ラカンはそれを発明し導入した。それは彼の概念化にとっての基礎として現れた。象徴界・想像界・現実界のあいだの三幅対的分割の基本としてだ。だが彼はそれを持ち続けなかった。

注意しておかねばならない。この秩序の概念、法の 5 つの領域は混淆されていることを。 言い換えれば、秩序という視点からは、それらは、事実上、同じものとして現れる。数学的法、弁証法的法等であれなんであれ。(……)

法がある場に、秩序がある。初期ラカンのシステムにおいて、唯一の秩序とは象徴界である。象徴界的秩序はーーもし人がこのように言うのを好むならーー想像界的無秩序と対立しうる。

象徴界において、各々のもの、各々の要素はその場のなかにある。正確に言えば、象徴界のなかにおいてのみ、場がある。想像界においては、対照的に、要素は場を入れ替える。したがって、事実上、場は区別できない。いや、要素自体が区別されうるかさえ確かでない。

想像界においては、別々の、分離した要素はない。象徴界において分離した要素があるようにはない。これらの用語にて、ラカンは、自我と他者ーー外部にある自身のイメージであるのみの他者ーーとのあいだの関係を叙述した。そこには、自我と他者の相互嵌入がある。想像界は、本質的非一貫性によって徴づけられて現れる。ラカンはかつて「影と反映 ombres et reflets」のみの存在とさえ言った。現実界とは、この秩序と不秩序とのあいだの分割の外部にあるものだ。それは純粋で単純である。
今年、我々は見た(そして、ある意味で、我々はその逆を説明しなければなかった)、象徴秩序の概念が評判のあるものになったことを。それは、確立された秩序の保護をまもろうとする者たちすべてに広まった。 保守主義者たちのあいだでの評判だ。

象徴界によって支配される世界とは何か。それは、 すべてがその場のなかにある世界、父・家父長がすべてを閉じ込める世界だ。不秩序のすべての証拠は、すぐさま想像界的なものとして貶される。言い換えれば、非一貫的で寄生的なものとして。

これが象徴秩序というラカンの概念の使われ方だった…。調和ある秩序を推進すること、 不変の諸法ーー「父の名」に錨をおろした法ーーによって統制された秩序…。そして、人ははっきり言わなければならない。ラカンはこの考え方に自らなすがままになっていた、と。 彼は、その教えの出発点で、この意味での開始を残した。

たとえば、ラカンは言うことができた、私は引用しよう、彼はその出発点でこう言った、ロー マ講演にてだ。すなわち、父の名は「象徴機能の基礎である le support de la fonction symbolique」と。象徴秩序のすべては父の名を持つ。その支えとして、法を具現化する形象の父として。

しかしこれは出発点だ。この後、ラカンの教えの全体は別の方向にむかう。もし、ラカンの教えにサンス(意味=方向)があるなら、絶え間ない・方法論的な・休みない解体である。 そう、象徴秩序の欺瞞的調和の解体だ。ラカンは、父の名の機能を讃え、それに十全の輝きを与えたまさにこの理由で、彼はその後、ひどくラディカルに、父の名を問題視した。
歴史の皮肉、その刻印を残した何かがある。公衆にとって忘れ難いのは、ラカンがフロイトのエディプスに与えた言語学的形式だ。すなわち、父の名によって統治された父の隠喩。 これは、次の事実にもかかわらず忘れ難い。つまり、セミネール VI において導入された裂け目以降のラカンの教えの全体の展開は、父の隠喩の解体、脱構築の方向に向かうという事実にもかかわらず。

数ある要点がこれを明瞭化しうる。

一番目に、とりかかりとして、人は指摘できる。ラカンは父の名と父の隠喩を提唱したのは 精神病にてそれが機能していないことをただ示すためだった。

二番目に、彼は享楽の、対象 a としての、恒久不変性を示した。享楽は父の隠喩からの意味づけから引き出せない。

三番目に、ラカンが IPA によって破門され、「父の諸名(複数の父の名 Noms-du-père)」をめぐるセミネールを放棄し、『精神分析の四基本概念』のセミネールを実施したとき、彼は、とても明瞭に、フロ イトの欲望を攻撃している。父の形象の奉仕としてあるフロイトの欲望に。

四番目に、ラカンはエディプス理論を、去勢を曝露し同時に去勢を隠蔽する神話としての地位を与え、彼はその法を作り上げるのをやめた。彼はエディプス理論を神話とした。言い換えれば、想像的物語、組織されてはいるが、想像界的なものとした。

五番目に、ある仕方で、父の隠喩は、女性の母性的ポジションを覆う男性的な支配の形式のなかに性関係を書き込む。それを彼は「性関係はない」という定式をもって拒絶した。 そしてこの定式は象徴秩序の概念を掘り崩す。

六番目に、最終的に、父の名はサントームとして定義される défini le Nom-du-Père comme un sinthome。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。

七番目で、私は終えよう。私がそれを置く場、実際上、主要な要点であるもの、それは「大 他者の大他者」としての父の名の脱構築が生まれた転換点である。⋯⋯⋯(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013、pdf

2017年9月28日木曜日

二つの根源的な愛の対象

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

もっともフロイトは数頁あと、次のように記している。

人は愛する Man liebt:

1)ナルシシズム型では、

a)現在の自分(自己自身)
b)過去の自分
c) そうなりたい自分
d)自己自身の一部であった人物

2) アタッチメント型 Anlehnungstypusでは、

a) 養育してくれる女性
b) 保護してくれる男性

この時期のフロイトらしくアタッチメント型の(b) に《 保護してくれる男性 schützenden Mann》がつけ加えられている。だが核心はやはり《世話をしてくれる女性 pflegende Weib》、《養育してくれる女性nährende Frau》である。

かつまたナルシシズム型の(d)に《自己自身の一部であった人物 die Person, die ein Teil des eigenen Selbst war》とある。究極の自己自身の一部であった人物とは母にきまっている。

母胎内の時期に触れないまでも、出生後の最初期、乳幼児は、《母の乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない》。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房 Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutter の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年、私訳)

…………

以下、ラカン派による上に記したフロイトの考え方の代表的な注釈をかかげる(ミレール、1992『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』Jacques-Alain Miller、pdfより)

我々はフロイトの次の仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移 transfert である。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。(Miller、1992)

根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental の「置き換え」は、最近の論では「昇華sublimation」という表現で注釈されている。

ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)

フロイトにとっては、学問も芸術も昇華の一種であり、《この種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない》(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』)

故にミレールは次のように言うことになる。

科学があるのは女性というもの la femme が存在しないからです。知はそれ自体「他の性Autre sexs」についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

もちろん他の性とは、男女ともに「女性の性」である、《「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である》(ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)。

ここで次の文をも引用しておこう。

定義上異性愛者とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
 
女が男を愛するのは「倒錯」なのである・・・本能が狂った動物であるヒト族(参照)のなかの雌は、発達段階において、さらにもうひとつ「狂った」のである。最初の愛の対象は、女児にとっても、母=女であるのは瞭然としているのに、父=男への愛に転回するなどとはいかにも奇妙である・・・

そもそも古来からの格言があるではないか、《母は確かであり、父は常に不確かである mater certissima, pater semper incertus》と。

幼児は、性関係 sexuellen Beziehungen において父母が演じる役割の相違を知るようになり、「父性は常に不確実 pater semper incertus est」で「母性は確実 Mutter certissima ist」だと悟る…。(フロイト『ファミリーロマンス』1909)

もちろんこの雌族の有様は「狂った」の二重否定でありーー「否定の否定」とは逸脱の逸脱であるーー、至高の存在、つまり(場合によっては)神でありうる・・・、《精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである》(ラカン、S23、1976)

以下、ふたたびミレール1992年を続ける。

精神分析作業は何に関わるのか? 対象a と対象x とのあいだの類似性、あるいは類似性の顕著な徴に関わる。これは、男は彼の母と似た顔の女に惚れ込むという考え方だけには止まらないしかし最初のレベルにおいては、類似性のイマジネールな徴が強調される。この感覚的徴は、一般的な類似性から極度の個別的な徴へ、客観的な徴から主体自身のみに可視的な徴へと移行しうる。

そして象徴的秩序に属する別の種類の類似性の徴がある。それは言語に直接的に基礎を置いている。例えば、「名」の対象選択を立証づける精神分析的な固有名の全審級がある。さらに複雑な秩序、フロイトが『フェティシズム』論文で取り上げた「鼻のつや Glanz auf der Nase」--独語と英語とのあいだ、glanz とglanceとのあいだの翻訳の錯誤において徴示的戯れが動きだし、愛の対象の徴が見出されるなどという、些か滑稽な事態がある。

類似性の三番目の相は、ひょっとして、より抽象的かもしれないが、愛の対象と何か他のものとの関係に関わる。すなわち主体は、対象x ーー彼が根源的対象ともった同じ関係の状況のもとの対象xに恋に陥ることがありうる。あるいはさらに別の可能性、対象x が彼自身と同じ関係にある状況。

フロイトは見出した、「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…

例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択である。あるいは母が主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む(主体を保護してくれる者への対象選択)。(ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992、pdf)

フロイト文からミレールのいう第二の愛の相である「鼻のつや」箇所を引用しておこう。

ある青年の例…彼はある種の「鼻のつや」をフェティッシュ的条件 fetischistischen Bedingung にしていた。…患者はイギリスで行儀作法をしつけられ、後にドイツにやってきたが、そのときには母国語をほとんど完全に忘れていた。この小児期に由来しているフェティッシュ Fetisch は、ドイツ語でなく、英語で読まれるべきもので、「鼻のつや Glanz auf der Nase」は、本来「鼻への一瞥 Blick auf die Nase」 (glance = Blick)なのである。こうして鼻は、結局、彼から勝手に、他人には分からぬような特殊な輝きをつけ加えられて、フェティッシュ Fetisch となっていた。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)

ミレールは2010年のインタヴューにおいて次のように語っている。

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。

ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。

このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”)

このウェルテルをめぐっては、ロラン・バルトが《われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ》と美しく書いている。

車から降りたウェルテルがはじめてシャルロッテをみかける(そして夢中になる)。戸口を額縁のようにして彼女の姿が見えている(彼女は子供たちにパンを切り分けている。しばしば注釈されてきた有名な場面)。われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ。というのも、ひとめぼれにはどうしても唐突性の記号が必要だからである(それがわたしの責任を解除し、わたしを運命に委ね、運び去り、奪い去るのだ)。(……)幕が裂ける、そのときまで誰の目にも触れたことのないものが全貌をあらわすにする。たちまちに眼がこれをむさぼる。直接性は充溢性の代償となりうるのである。わたしは今、秘密をあかされたのだ。タブローは、やがてわたしが愛することになる対象を聖別 consacre しているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』1977年「魂を奪われるRAVISSEMENT」の項)

…………

女性の場合の愛は、男性にくらべて一見、原初の「母との結びつき・母拘束 Mutterbindung」から逃れているようにみえる。

男性の場合には、栄養の供給や身体の世話などの影響によって、母が最初の愛の対象 ersten Liebesobjekt となり、これは、彼女に本質的に似ているものとか、彼女に由来するものなどによって置き換えられるようになるまでは、この状態がつづく。女性の場合にも、母は最初の対象 erste Objekt であるにちがいない。対象選択 Objektwahl の根本条件は、すべての小児にとって同一なのである。しかし、発達の終りごろには、男性である父が愛の対象となるべきであって、というのは、女性の性の変換には、その対象の性の変換が対応しなくてはならないのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)

だがフロイトはこうも記していることを、ここではラカン派による注釈抜きで、強調しておこう。

………前エディプス präödipal 期と名づけられることのできる、もっぱら母との結びつき(母拘束 Mutterbindung)時期はしたがって、女性の場合には男性の場合に相応するのよりはるかに大きな意味を与えられる。女性の性生活の多くの現れは、以前には十分には理解されていなかったが、前エディプス期までに遡ることによって完全に解明することができるようになった。

われわれがたとえばもうとっくに気づいていたことであるが、多くの女性は父をモデルにして夫を選んだり、夫を父の位置に置き換えたりしておきながら、現実の結婚生活では、夫を相手にして母に対する好ましくない関係を反復している schlechtes Verhältnis zur Mutter wiederholen のである。夫が妻の父から相続するのは父への関係であるべきであろうのに、実際には母への関係を相続しているのである。

これは手近な退行 Regression の一例だと思えば、容易に理解される。母との関係のほうが根源的 Mutterbeziehung war die ursprünglicheであり、そのうえに父との結びつき Vaterbindung がきずきあげられていたのだが、いまや結婚生活において、この抑圧されていた根源的なものが現われてくるのである。母対象から父対象へ vom Mutter- auf das Vaterobjekt の情動的結びつき affektiver Bindungen の振り替えÜberschreibungこそは、女らしさ Weibtum に導く発達の主要な内容をなしていたのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)
非常に多くの女性の場合に、ちょうどその青春時代が母との闘い Kampf mit der Mutterで明け暮れしたように、その成熟期が夫との闘争でみたされているという印象をわれわれがうけるときに、(……)彼女たちの母に対する敵意ある態度 feindselige Einstellung zur Mutter はエディプスコンプレックスという競争意識の帰結ではなくて、それ以前の時期に由来するものであり、エディプス的状況におかれることによってそれが強化され、利用されたにすぎない、ということになる。(同上、『女性の性愛』1931年、私訳)
女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期 präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデルとすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわい、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。

どちらの相も、後に訪れる生に多大な影響を残すのは疑いない。…しかし前エディプス期の相における結びつき(拘束 Bindung)が女性の未来にとって決定的である。(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」第33講『続・精神分析入門講義』1933年、私訳)

ーー上の文に出現する母との結びつき(母拘束 Mutterbindung)と父との結びつき(父拘束 Vaterbindung)とは、フロイトが別の論文で使っている「マザコン/ファザコン(マザーコンプレックス Mutterkomplex/ファザーコンプレックス Vaterkomplexe )」とどう違うのか? ま、似たようなもんじゃないか?

コンプレックスとは、フロイトの朋友ブロイアーに起源があり、《観念複合体 Ideen Complex》という意味である。われわれは何らかの形で母への観念複合、父への観念複合をもって生きてゆくのである。

たとえば後者のファザコンは、ラカン派的に、「父の名」観念複合としてもよい。

言語、それは父の名であり、超自我である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(ミレール、séminaire  96/97)

ファザコンが言語コンプレックスであれば、マザコンは、ララングコンプレックスである。

ララング langage は、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕 éclipse 等々で包む。ララング langage が、母の言葉 la dire maternelle と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、以後の愛の全人生の要と考えた。(コレット・ソレール、2011, Colette Soler, Les affects lacaniensーー「中井久夫のララング論」)

…………

※付記

「父なき時代」以降、男性における《女性への推進力 pousse-à-la-femme》(ラカン)、女性における《男性への推進力 pousse-à-l'homme》(ミレール)の現象がみられるのは事実であるが、ここではそれに触れないまま記した(参照)。

(かつてから超自我なき社会であった日本では、男性における《女性への推進力》、つまり《母との結びつき・母拘束 Mutterbindung》や《母との同一化 Mutteridentifizierung》が欧米にくらべ際立っている。ゆえにフロイト・ラカン理論は、日本においては本来、この観点から調整して読まねばならない)。


2017年8月22日火曜日

女とは「異者としての身体」のこと

《我々にとってマレビトである身体 un corps qui nous est étranger》と記したこと(参照)に異和を言ってくる人がいるので、わたくしが現在とらえているラカンの考え方を出来る限り簡潔に記す。

…………

ラカンにとっての、女とは「異者としての身体」(異物としての身体 corps étranger)のことである。解剖学的な女とは(基本的には)関係がない。

アレンカ・ジュパンチッチは、そのフロイト読解において《厳密な分析的観点からは、実際のところ、一つの性、あるいは一つのセクシャリティしかない》と言っている(Alenka Zupančič、Sexual Difference and Ontology、2012)。

この一つの性に外立するものが、女である(外立 ex-sistenceについては、「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」を参照)。

そして、《精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである》(ラカン、S23、1976ーー神の仮説

またジャック=アラン・ミレール1990年代にすでに次のように言っている。

「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm) 

さて、ラカンにおいて《われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》という表現は、セミネール23(11 Mai 1976)に出現する(この文の前後は「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」を参照)。

別に次のような表現がある。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

この《他の身体 autre corps》が、《われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》と等価なものであると明言しているラカン派は、ネット上で調べる範囲ではいない。だがわたくしは等価である、と今のところ判断している。

ところで《異者である身体 un corps qui nous est étranger 》とは、フロイト用語である。

フロイトは1893年にすでにこう記している。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。

das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

この独原文は仏語では次のように訳されている。

le traumatisme psychique et, par la suite, son souvenir, agissent à la manière d'un corps étranger qui, longtemps encore après son irruption, continue à jouer un rôle actif ». (Freud, 1893)


すなわち「異物 Fremdkörper」=「異者としての身体 corps étranger」。
後年フロイトは次のようにも言っている。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

《異物としての症状 Symptom als einen Fremdkörper》とある。これは上に掲げた《他の身体の症状 symptôme d'un autre corps》のことに他ならない、とわたくしは考える。

ラカンにおいて「他の身体」という表現は、次のような形でも使われている。

…次の考え方は正当化される。すなわちこの「他の身体の享楽 jouissance de l'autre corps」を境界づけるもの、ーーそれがたしかに穴をつくる限りでだがーー、そこに我々が見出すものは、不安である。

S'y justifie que, si nous cherchons de quoi peut être bordée cette jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou, ce que nous trouvons c'est l'angoisse.(Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

「穴 trou」という表現が出現するが、ラカンは同時期に身体は穴である、とも言っている。

身体は穴である corps……C'est un trou(ラカン、1974、conférence du 30 novembre 1974, Nice

かつまた前年には、穴ウマとも言っている、《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」》(S21、19 Février 1974 )

こうして1893年のフロイト文における《トラウマは異物のように作用する》という表現とまぎれようもなくつながってくる。

したがって《他の身体 autre corps》、《われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》とは「穴としての身体」、「トラウマとしての身体」でもある。

これは言語を使用する人間の宿命としてのトラウマである。言語を使用することによって、われわれは身体と切れてしまう。これがラカンにとっての「去勢」である。フロイトの想像的去勢とは異なる象徴的去勢である(参照)。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant

・去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化以外のどの場からも生じない。la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante (ラカン、セミネール17)

ゆえにジャック=アラン・ミレールは、《われわれは皆、トラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(Miller, «Vie de Lacan» , 17 mars 2010)と言うことになる。

以上。

2017年7月31日月曜日

創唱宗教/自然宗教

創唱宗教/自然宗教という区分があるそうだ。宗教学者の阿満利麿氏が『日本人はなぜ無宗教なのか』1996年にて唱えて比較的よく知られるようになったらしいが知らなかった(わたくしは1995年に日本を出ている)。

私はかねてから「自然宗教」と「創唱宗教」という区別が日本人の宗教心を分析する上では有効だと考えている。「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教のことである。(略)代表的な例は、キリスト教や仏教、イスラム教であり、いわゆる新興宗教もその類に属する。これに対して、「自然宗教」とは、文字通り、いつ、だれによって始められたかも分からない、自然発生的な宗教のことであり、「創唱宗教」のような教祖や経典、教団をもたない。
「自然宗教」は「創唱宗教」のように特別の教義や儀礼、布教師や宣教師はもたないが、年中行事という有力な教化手段を持っているといえるのであり、人々もそうした年中行事を繰り返すことによって生活にアクセントをつけ、いつのまにか心の平安を手にすることができたのである。そこでは、とりたてて特別の教義、つまり「創唱宗教」を選択する必要はなかった。ここに「創唱宗教」という意味での宗教には無関心で、「無宗教」を標榜してなんら疑わない理由がある。(阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』1996年)


もう少しどんな内容かと探ってみれば、宗教学者島薗進氏が「日本人と宗教―「無宗教」と「宗教のようなもの」」2014年のコラム記事にて触れている。

いまはもう少し簡潔に書かれた、禅宗系の教師の方らしい木村文輝氏による『現代日本における「宗教」の意味』から引用しておく。

阿満利麿氏は『日本人はなぜ無宗教なのか』(1996)の中で、宗教を創唱宗教と自然宗教に分類するという、宗教学の理論を援用して日本人の無宗教観を読み解いた。すなわち、現代の日本人は、特定の人物が特定の教義を唱え、それを信ずる人々が集まって成立する創唱宗教を好まない。一方、初詣や墓参などのように風俗や習慣となってしまった宗教は「宗教」でないと思いこむことで、自らの宗教を「無宗教」と呼んでいる。しかし、それは自然発生的に成立し、その創始者を特定することのできない自然宗教と呼ばれるものである。つまり、日本人は「無宗教という名の宗教」を持つ「自然宗教」の信者だというのである。たしかに、日本国内に多数存在するお寺は仏教のものであり、それは釈尊によって始められた創唱宗教である。しかし、我が国の仏教は「葬式仏教」とも称される特殊なものであり、それは「自然宗教」のもつ先祖崇拝や霊魂観に仏教の衣を着せたものにすぎないと評される。(木村文輝『現代日本における「宗教」の意味』2014年、PDF

おそらくこの区分において問うべきは、どの国でも古代は自然宗教から始まったはずであるのに(本居宣長の神の定義参照)、創設宗教が自然宗教に衣を着せるようになった国とそうでない国があるのはなぜか、ではないだろうか。

ようは根源には自然宗教があるはずである。その掌のうえに創設宗教/自然宗教(イデオロギー的宗教/無意識的宗教)の対立がある、という図式をまずは記すことができるはずである。


創設宗教/自然宗教
ーーーーーーーーーー
       自然宗教


上に創設宗教をイデオロギー的宗教と記したのは、《経典が絶対の》宗教という意味合いである。この定義はほぼ当てはまるだろうと憶測するが、詳しいことは分からない。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

…………

ところで木村文輝氏の文のなかに、《日本人は「無宗教という名の宗教」を持つ「自然宗教」の信者》とあった。

無神論の真の公式 la véritable formule de l’athéisme は「神は死んだ Dieu est mort」ではなく、「神は無意識的である Dieu est inconscient」である。(ラカン、S11, 12 Février 1964)

ーー「神は存在しない。だが諸神はいる Dieu n'existe pas, mais il y a des dieux」とも言っておこう(後述)。

ラカンの《n'existe pas》とは、象徴的には存在しないということであり、象徴界の彼岸あるいは裂目としての現実界の存否は問うていない。 他方、別に《 il y a 》という言い方もあり、これはハイデガーの鍵表現《es gibt》(外立 ex‐stasis)にかかわる。そしてラカンは《現実界は外立する Le Réel ex-siste 》 (S22)と言っている。

ハイデガーによれば、人間存在とは実存であり、「実存」という語は語源的 に「外に-立つこと(ex-sistence)」として解されえる。換言すれば、ハイデ ガーの見解では、人間存在は、実存的な(外に立ってある )もの、つまり、 その実存のあり方が正に外に立つ脱自(ecstacy)であるような存在者である。(ビジャン・アブドルカリミー、PDF

ラカンの三界の定義は次の通り。

現実界 le réel は外立 ex-sistence
象徴界 le symbolique は穴 trou
想像界 l'imaginaire は一貫性 consistance(ラカン、S22)


《現実界は外立する Le Réel ex-siste 》(S22) の定義における「外立 ex-sistence」 とは、上にあったようにハイデガー用語「外立 Existenz」の仏訳であるが、外立をさらに遡った語源は、ギリシア語の έκσταση であり、Ekstase (エクスタシー・脱自)である。

ラカンは《神の外立 ex-sistence de Dieu》(S22)とも言っていることを付け加えておこう。

ところでラカン派では次のような言い方がされる。《女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes》(ジジェク、2012)

これは上に記したように、同じことが神についても言える、「神は存在しない。だが諸神はいる」と。

したがって象徴的な神、つまりイデオロギー的神を信じない民族でも、「八百万の神」(やおよろずのかみ)の信仰はある。いやむしろイデオロギー的な神の不在の国こそ、「八百万の神」が遍在する(外立する)とさえ言える。

ジャック=アラン・ミレールは、精神病においては、父の名の過剰な現前という現象が生じるといっている。これも上に記した文脈、つまり神経症的な象徴的大他者の支えがなければ、精神病的な現実界的大他者が過剰現前する、という風におそらく捉えうる。

(晩年の)ラカンの「父のヴァージョン=倒錯 père-version」についてのアイロニーは、事実上、古典的なままの精神病理論とは正反対の、ひとつの精神病理論 la psychose une théorie inverse de la théorie restée classiqueを提供してる。

すなわち精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,PDFーー超越的法/超越論的法

ミレールは精神病においても「父の名」(の過剰)と記しているが、これは現実界的大他者のことである。現実界的大他者とは何か。それは事実上は「母なる神」とすることができる(象徴界的大他者は「父なる神」)。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

いまわたくしが「母なる神」と記したのは、上のラカン文に依拠しつつ、さらにジャック=アラン・ミレールの宗教論を参照している、《父は、母なる神の諸名の一つに過ぎない》。

ラカンは、フロイトのトラウマ理論を取り上げ、それを享楽の領域へと移動させた。セミネール17にて展開した命題において、享楽は「穴」を開けるもの、取り去らなければならない過剰を運ぶものである。そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない。

フロイトによる神の系図は、ラカンによって父から〈女〉へと取って変わられた。我々はフロイトのなかに〈女〉の示唆があるのを知っている。父なる神性以前に母なる神性があるという形象的示唆である。ラカンによる神の系図は、父の隠喩のなかに穴を開ける。神の系図を設置したフロイトは、〈父の名〉の点で立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望」と穴埋めとしての「女性の享楽」に至る。こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性、《白い神性 la Déesse blanche》 の諸名の一つに過ぎない、父は《母の享楽において他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003

こうしてここでの問いは、「創唱宗教/自然宗教」とは「父なる神/母なる神」とどう異なるのか、ということになるはずである(あくまで精神分析的な問いではあるのは十分承知している)。

いま記したことを、ラカンのマテームを使って図示すれば次のようになる。





Ⱥを「自然の驚異・脅威」と記したが、これは前回引用した本居宣長の神の定義をめぐる記述を援用しているとともに、フロイトをも参照している(Ⱥのラカン派的意味合いの詳細は、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ)。

フロイトは『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』(旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)の第三章で、《いったい、宗教的観念 religiösen Vorstellungen の独特の価値はどこにあるのだろうか》と問うている。そしてこの第三章のまとめの形として、第四章の冒頭近くで《私が示そうとしたのは、宗教的観念も、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれたのだということである》としている。

ここでは第三章からいくらかの文を抜き出す。

文化が現状でもすでに幾多に点でこの使命をかなりの程度こなしていることはわれわれはよく知っている。…しかし、自然が現在すでにすっかり制御されていると考えるお人好しは誰もいない。…人間のあらゆる規制力を嘲笑するような現象があまりにも多い。

震動し、引き裂き、すべての人間や人間の手になるものを埋没してしまう大地。氾濫すれば万物を押し流し溺れさせてしまう水。進路のあらゆるものを吹き飛ばす嵐。他の有機物からの攻撃によって起こることがつい最近ようやく分かってきたかずかずの病気。そして最後に、悲惨で謎めいた死。いかなる薬によっても対抗することができず、おそらく将来とても対抗することができないと思われるあの死である。

このような暴威をもって自然は、残忍かつ容赦なく、圧倒的な力でわれわれに挑戦し、われわれが文化作業によって免れようと考えている自分の弱さ、寄る辺なさ(無力 Hilflosigkeit)を、改めてわれわれの眼前に突きつける。天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。P.371
(……)このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来』)

科学が進歩して、《自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要》が少なくなれば、宗教的観念も消滅してゆく。だが唐突に「日常」を覆す体験、疫病・地震・津波・空襲等、あるいは愛するものの死などの「非日常」に遭遇すれば、祈りの心持は自ずと生ずる(これが本来の「自然宗教」の姿であろう)。

フロイトは上の論で、「寄る辺なさ(無力 Hilflosigkeit)」という語を頻用している。前年に上梓された論文には、この語は次のような形で現れる。

・経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況と呼ぶ。

・母を見失うという外傷的状況 Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter( フロイト『制止、症状、不安』1926年 )



2017年7月1日土曜日

残存現象と固着

前回(「彷徨える過剰」)、次の文を引用した。

彷徨える過剰は存在のリアルである。L’excès errant est le réel de l’être.(バディウ Cours d’Alain Badiou) [ 1987-1988 ]

以下は、前回記したこととはやや異なった側面からのフロイト・ラカン派による「彷徨える過剰」の資料編である。

…………

【欲動蠢動の拘束】 
心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動蠢動 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

一次過程/二次過程


【欲動蠢動の残存物と対象a
セミネール X 以降のラカンの新しい考え方は、身体の有機的相は、鏡像イメージによって完全には覆われないということである。つまり、身体性の相は象徴界的あるいは想像界的手段では捕獲・支配されえない。鏡像化されず、そして大他者の領野の外部に根源的に横たわるこの残存成分が、対象a と呼ばれる。《この(a) 、小さな(a) は、大他者の場処への主体の生誕のこの全作用のなかで還元されえないままであるものである。そしてそこから、その機能を果たすようになる。c'est (a) : petit(a) est ce qui reste d'irréductible dans cette opération totale d'avènement du sujet au lieu de l'Autre, et c'est de là qu'il va prendre sa fonction》 (S10)

ミレールによれば、このようにして居残った残存物は、欲動蠢動 Triebregungen の残滓として理解されなければならない。ここで特に興味深いのは、ラカンがフロイトの蠢動を始末におえない力能 puissance として理解していることである。《蠢動は刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute》(S10)。従って対象a は、抵抗する身体要素として現れる。その身体要素とは、シニフィアンの秩序性 orderliness によって特徴づけられたすべての致死性 deathliness を再活性化するものである。対象a は、シニフィアンのファルス論理に従わない要素なのである。(Stijn Vanheule, Lacan's construction and deconstruction of the double-mirror device, 2011)


【残存現象と原始時代のドラゴン】
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


【固着と幼児期の純粋な出来事】
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)

《原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる》(ボール・バーハウ、1999)

症状(=サントーム)とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》 (ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569、16 juin 1975)
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
「一」Unと「享楽 」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours, L'être et l'un)


【S(Ⱥ)とサントームΣ】
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN pdf

《原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt》(ラカン、S22, 08 Avril 1975)

《現実界は外立する Réel ex-siste 》 (S.22、17 Décembre 1974)

S(Ⱥ)、すなわち「斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré」。これは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienneである。(ミレール、Jacques Alain Miller, 6 juin 2001, LE LIEU ET LE LIEN, pdf)


【原抑圧とS(Ⱥ)】
原抑圧(原固着)は、S(Ⱥ)にかかわる。(ポール・バーハウ, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)
原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?,1999)


【La femme と S(Ⱥ)】
私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。

…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)


【Une femmeと他の身体の症状】
ひとりの女 Une femme は、他の身体の症状 symptôme d'un autre corpsである。(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである。 une femme est un sinthome (S23, 17 Février 1976)


【トラウマと異物】 
心的トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入 Eindringen から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』1895年)
我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳)
経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況と呼ぶ。( フロイト『制止、症状、不安』1926年 )
現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11)
行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)
(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)


【外密と異物】
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
親密な外部、この外密 extimitéが「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
古く l'Unerkannt(知りえないもの)としての無意識 l'inconscientは、まさに我々の身体 corpsのなかで何が起こっているかの無知 ignorance によって支えられている何ものかである。

しかしフロイトの無意識はーーここで強調に値するがーー、まさに私が言ったこと、つまり次 の二つのあいだの関係性にある。つまり、「我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 」と「円環を為す fait cercle何か、あるいは真っ直ぐな無限 droite infinieと言ってもよい(それ は同じことだ)」、この二つのあいだの関係性、それが無意識である。(ラカン、セミネール 23、11 Mai 1976)
Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001, BYOND GENDER)


【La femmeと J(Ⱥ)】
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(S23、16 Mars 1976)
J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,S23, 16 Décembre 1975)


【欠如と穴】
穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカン教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001, pdf)

 ※ S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴


【原誘惑者と原穴の名】
〈母 Mère〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版、1940、私訳)


2017年5月3日水曜日

四つんばいになった女性の後ろ姿

フロイトの症例狼男の回想の中で特権的な位置にあった女中グルーシャの記憶映像は、床に膝をついてかがみ、尻を突き出した姿勢でふき掃除をしている姿である。つまり「四つんばいになった女性の後ろ姿」。

だがこの姿態に魅惑されない男というものがあるのだろうか(他人のことはわからないが、たぶんあるのだろう・・・)




上の画像はポーズ感があるので、長らく見ているとすこし幻滅してくる。ただしぼってり感にはいささか魅了される。

ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

だが顔が横向きになって撮影者を意識しているのがよろしくない。ようは写真の本質を取り逃がしている。

「撮影者」の本質的な行為は、ある事物または人間を(部屋の小さな鍵穴から)不意にとらえることにあり、したがってその行為は、被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

むしろ次の自然体がよろしい。内股になって恥らい感があるのもよろしい。ただし太腿がーー見えていないがーーあまり豊かではないのではないか。蚊居肢散人は《膝からぐっと太くなる腿》が好みなのであるが。




他方、蚊居肢散人は、乳房のほうにはおおむね不感症である。「鼻のつや」など鼻から御免蒙る。

ある青年の例…彼はある種の「鼻のつや」をフェティッシュ的条件 fetischistischen Bedingung にしていた。…患者はイギリスで行儀作法をしつけられ、後にドイツにやってきたが、そのときには母国語をほとんど完全に忘れていた。この小児期に由来しているフェティッシュ Fetisch は、ドイツ語でなく、英語で読まれるべきもので、「鼻のつや Glanz auf der Nase」は、本来「鼻への一瞥 Blick auf die Nase」 (glance = Blick)なのである。こうして鼻は、結局、彼から勝手に、他人には分からぬような特殊な輝きをつけ加えられて、フェティッシュ Fetisch となっていた。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)

もともと次のたぐいの写真が好みなのである。




フェティシュ Fetisch とは、男児があると信じ、かつ断念しようとしない女性(母)のファルスの代理物 Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) なのである。(…)

喪われている女性のファルス vermißten weiblichen Phallus の代理として、ペニス Penis の象徴となるような器官や物が選ばれることは容易に考えられる。

これはかなりしばしばあることかも知れないが、決定的でないことも確かである。フェティッシュを定めるさいは、かえってある過程が抑止されるようにみえる。これはちょうど、外傷性記憶喪失 traumatischer Amnesieのさいの想起の停止を思わせる。またこのさい、関心が中途半端でとまってしまったような状態をつづけ、あの不気味な unheimlichen 外傷 traumatischen をあたえられた直前の、最後の印象といったものが、フェティッシュとしてとらえられる。

こうして、足とか靴がフェティッシュ――あるいはその一部――として優先的に選ばれるが、これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性性器 weiblichen Genitale のほうへかけて注意深く探っているからである。

毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー瞥見した陰毛Genitalbehaarungの生えている光景を定着させる。これにはあの強く求めていた女性のペニスweiblichen Gliedes の姿がつづいていたはずなのである。非常に頻繁にフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間、すなわち、まだ女性をファルス phallisch のあるものと考えていてよかったあの最後の瞬間をとらえているのである。 (フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927)

もちろん例外はあるもので、蚊居肢散人は次の写真になぜひどく魅せられるのか、その理由をいまだ見出していない。




もっとも狸顔の若い女の髪の結い方、形のよい肢の伸ばし方、中華料理店風の店内のざわめき感を好むが、それはプンクトゥムではなくストゥディウムである。《ストゥディウムは、つねにコード化されているが、プンクトゥムは、そうではない》(バルト)。おそらく女はなかば靴を脱ぎかけており、いかにもストッキングに熟れて香りの高くなった足指を甞めるよう促している、--そのように感じるせいではなかろうか、とは疑っている・・・

かつまた蚊居肢散人の女王様になってくれそうな気配、いやその資質がないではないとの錯覚に閉じ籠りうるタイプの女性である・・・



いずれにしろ人にはそれぞれ「愛の条件 LiebesBedingung」があるのである。だが人はなぜそんな当たり前のことを知らないふりか忘れたふりをしているのか。かつてソクラテスの時代には、《愛とはアフロディーテの一撃 APHRODITE qui frappe だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった》(ラカン、セミネール9)のに。

ところで以下のミレールの文には、愛の自動性という表現がでてくる。これは前回記したマルクスの「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」とほぼ相同的ではなかろうか・・・もしそうだとすると、マルクスは隠れた至高の「愛の思想家」でもあったことになる・・・

◆愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour' 、Jacques-Alain Miller、1992、pdf

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動性 l' automaton de l'amour」である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。

Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように。
ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちの一群に食事を与えている瞬間に出会った刻限だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…

フロイトは見出したのである、対象x(≒対象a)、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。

このそれなりに魅力のある文にて、ミレールはフロイトの発見を強調しているが、いささか強調し過ぎ感がないでもない。

たとえば、

・或る男は人妻のみを欲望しうる。
・貞淑な既婚女性のみを愛する、
・あらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。

などとは、我が国の名言、「一盗、二婢、三妾、四妓、五妻」が示していることである。

さらにまた仏国にも、フロイトと同程度にはすぐれた愛の心理家がいるのではないか。

出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている。(プルースト「逃げ去る女」)
ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける。(プルースト「逃げ去る女」)
知りあう前に過ちを犯した女、いつも危険な状態にひたりきった女、恋愛の続くかぎり絶えず征服し直さねばならない女がとくに男に愛されるということがある。(プルースト「 囚われの女Ⅱ」)
相手の人間に愛をそそられるよりも、相手にすてられることによって愛をそそられるのは、ある種の年齢に達した者の運命で、その年齢は非常に早くくることがある。(……)われわれが愛していることを発見するためには、またおそらく、愛するようになるためにさえも、しばしば離別の日の到来が必要だということなのである。(プルースト「逃げさる女」)
それにしても、われわれの欲望は、相手の女たちに、いつもおなじ力ではたらくとはかぎらない。ある夜は、われわれは、その女なしではすまされないが、それが過ぎると一、二か月のあいだは、その女のことで心を乱されることはほとんどないだろう。それに、交替の法則というものがあって、いまここはそれを研究する場ではないが、肉体の愛による大きな疲労のあとには、われわれに一時的な老衰がくることになる、そしてそんな時期にわれわれの映像につきまとう女は、ほとんどその額にくちづけしたにすぎないような女なのである。(プルースト「ソドムとゴモラⅠ」)

さらに20世紀後半の「すけこまし作家」クンデラの「愛の心理学」も、蚊居肢散人の珍重するところである。

三という数字のルールを守らなければならない。一人の女と短い期間に会ってもいいが、その場合はけっして三回を越えてはだめだ。あるいはその女と長年つき合ってもいいが、その場合の条件は一回会ったら少なくとも三週間は間をおかなければならない。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)
相手が女だと、憎しみの情に、好奇心や、親しくなりたいという欲望、最後の一線を越えたいという願望などといった、好意のあらわれを刻みつけることができる。(クンデラ『冗談』)
ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。(クンデラ『笑いと忘却の書』)
媚態〔コケットリー〕とは何であろうか? それは相手に性的な関係がありうるとほのめかし、しかもその可能性はけっして確実なものとしてはあらわれないような態度と、おそらくいうことができるであろう。別ないい方をすれば、媚態とは保証されていない性交の約束である。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)
「何も恐れることはない。どんなときでも君をまもってあげるよ。昔柔道をやっていたのでね」と、いった。

重い椅子を持ったままの片手を頭の上へまっすぐのばすのに成功すると、サビナがいった。「あんたがそんな力持ちだと知って嬉しいわ」

しかし、心の奥深くではさらに次のようにつけ加えた。フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。

サビナは椅子を高くかざしたまま部屋中を歩きまわるフランツを眺めたが、その光景はグロテスクなものに思え、彼女を奇妙な悲しみでいっぱいにした。

フランツは椅子を床に置くとサビナのほうに向かってその上に腰をおろした。

「僕に力があるというのは悪いことではないけど、ジュネーブでこんな筋肉が何のために必要なのだろう。飾りとして持ち歩いているのさ。まるでくじゃくの羽のように。僕はこれまで誰ともけんかしたことがないからね」とフランツはいった。

サビナはメランコリックな黙想を続けた。もし、私に命令を下すような男がいたら? 私を支配したがる男だったら? いったいどのくらい我慢できるだろうか? 五分といえども我慢できはしない! そのことから、わたしにはどんな男もむかないという結論がでる。強い男も、弱い男も。

サビナはいった。「で、なぜときにはその力をふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。

サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)




2017年3月26日日曜日

三種類の穴埋め師:S(Ⱥ)- I(Ⱥ) - F(Ⱥ)

◆Logic of Sexuation, Ellie Ragland,2012,PDFより




Ellie Raglandはどんな方だったか?



ははあ・・・

彼女は Lacan.com の常連、つまりミレール傘下の方ではある。すなわち信頼するに値する。わたくしはいくつか小論を読んだだけだが、たとえば、最近の「What Lacan thought Women Knew: The Real and the Symptom」など素晴らしい。

だがここでは、わたくしにはやや難解なところがある Logic of Sexuation からである。

In his Seminars on James Joyce, Lacan maintained that Joyce sought to fill the void by making the real voice suture all the crevices in being and body: ∅/a.(Logic of Sexuation, Ellie Ragland,2012)。

と彼女は記しているが、この ∅/a という記述に則れば、他のふたつも、Φ/a、−φ/aとなるはずだ。

とはいえ、Φ/a はまだしも、−φ/a は一般には逆の形に記されてきた、a/−φと。

たとえば、ポール・バーハウ2001には次の図がある。


これはいわゆるファルス化された対象aを示しており、a の多様な位置づけのせいでこのように記述されるし、ミレールにもしばしば同様の記述がある。

だが、−φ/aにおける a をリアルな対象a、あるいは穴と捉えれば、−φ/a と記しても、おそらく何の問題もない、とわたくしは思う。すなわち対象aのいくつかある定義のなかの一つは《シニフィアン化される前の、すなわち S(Ⱥ) 以前の Ⱥ 》(Lorenzo Chiesa、2007)であり、このように捉えた場合のaである。

セミネール7の《親密な外部、この外密が「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(S7)、つまり《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(S.16)としての対象a、あるいはセミネール11におけるラメラ神話の叙述箇所の《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》としての原リアルな対象a、これらはファルス化された対象aや剰余享楽としての対象a とは異なり、原初の対象a [objets a primordiaux]にかかわる。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらは原初の対象a [objets a primordiaux]の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre Athens, May 2013)

(究極の)対象a は穴 trou である、とラカン自身も言っている。

C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel, qui est mis en question pour nous dans sa relation au sujet. (Lacan、S16, 27 Novembre 1968)

とはいえ、ラカン派の方々は、ボロメオの環の図について一般的にあまり饒舌ではない。たとえば次のようなことさえ言われる。

後期ラカン読むときに結び目の理論を勉強する必要はまったくないと思う。あれを真面目に受け取ってるのはヴァップローとか一部の超マニアックなラカニアンだけで、ミレールはじめ普通のラカニアンはあれを無視した上で、singularitéの議論とか、使えそうなところだけを取り出してる (松本卓也氏ツイート)

いずれにせよーーEllie Ragland がマニアックなのか否かは知らないがーー、彼女のように空集合マーク ∅を使っている人は初めて見た。

女は空集合なのだから、これも別に何の問題はない。

Mais La femme c'est… disons que c'est « Toutes les femmes », mais alors c'est un ensemble vide, parce que cette théorie des ensembles, c'est quand même quelque chose qui permet de mettre un peu de sérieux dans l'usage du terme « tout ». Ouais…(ラカン、S22、21 Janvier 1975)

そして「一のようなものがある Ya d’l’Un」 とは、女 la femme のことである(参照:「一の徴」日記⑥:誰もがトラウマ化されている)。

Ya d’l’Unは、S(Ⱥ)でもある(参照:S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un)。

つまり、 ∅ はS(Ⱥ)である。

上に究極の対象aは穴であることを見た。 穴trouとは、Ⱥとも書かれる。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

すなわちボロメオの真ん中のaは、Ⱥとすることができる。

ゆえに、∅/a は、S(Ⱥ)/Ⱥと記すことができる。

次に、「「父の名/母の欲望」→「S1/S(Ⱥ)」 、「I(Ⱥ)/S(Ⱥ)」」で見たように、父の名は、I(Ⱥ) とも記せる(ミレールによる Idéal du moi(自我理想)のマテーム)。

とすれば象徴的ファルスΦは、I(Ⱥ)と記してもよいことになる。

さて最後に残った想像的ファルス−φ を、(Ⱥ)を使って記すにはどうしたらいいか?

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S10)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)


F(Ⱥ)と記してみたらどうだろう?






いやあ、実に整然としたーーȺを中心にしたーーボロメオの環である。

もちろんもともとのラカン自身による記述である、S(Ⱥ)をJȺ、I(Ⱥ) をJΦとするのが正当的であるには決まっている。ここでの肝は、JsのポジションにおけるF(Ⱥ)である。




肝とはようするに、フェティシストを自認する蚊居肢散人の正当的なポジションをボロメオの環のなかに見出しえたことである。

われわれの生は、どれかを選択して生きている。Ⱥというブラックホールの吸引力に怯えつつ、なんらかの穴埋めをするために。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ジイドのように、どの穴埋め=コルク栓も取れてしまえば、そこに現れるのは、女性の享楽である。女性の享楽(身体の享楽)は一般的に、S(Ⱥ)とされるが、ここでわたくしが言いたいのは、Ⱥのことである。

女の享楽 la jouissance de la femme は、非全体の穴埋め une suppléance de ce « pas-toute » を基礎としている。彼女は、非全体であるという事実を基礎にして、この享楽にとってのコルク栓 le bouchon を見出す。(Lacan, S20, 09 Janvier 1973)

 この穴埋めの三つのタイプが 、S(Ⱥ)、 I(Ⱥ) 、 F(Ⱥ)である。S(Ⱥ )であれば精神病、I(Ⱥ) であれば神経症、F(Ⱥ)であれば倒錯である。

ーーというわけだが、この図、あるいは注釈は、まったく間違っている可能性が多分にあるので信用しないように。このあまりにも分かりやすく変更された図が、間違っていなかったら誰かがとっくの昔にこう記しているはずである。いまはどこか間違っているのか思案中である・・・

…………

ボロメオの環について、最晩年のラカンは次のように言い残していることを付記しておこう。

ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(Lacan, séminaire XXVI La topologie et le temps 、9 janvier 1979、[原文])

かつまたーー、21世紀のボロメオの環は、腰抜け・妄想家・詐欺師、あるいは脆弱 – 妄想 – 詐欺 Débilité – délire – duperieーー《これが、21世紀の分析臨床上の、《想像界・象徴界・現実界の結び目の谺、鋼鉄製の三幅対》[Débilité – délire – duperie, telle est la trilogie de fer qui répercute le nœud de l'imaginaire, du symbolique et du réel]である》(ミレール、2014ーー腰抜け・妄想家・詐欺師)、などという話もある。

私が上に記した叙述が正しいとすれば、そしてミレールのいささか過激な記述に依拠すれば、

S(Ⱥ)、すなわち精神病者は、腰抜けー詐欺師としての穴埋め師
I(Ⱥ)、すなわち神経症者は、妄想家ー詐欺師としての穴埋め師
F(Ⱥ)、すなわち倒錯者は、腰抜けー妄想家としての穴埋め師

ということになる。

この三種類の類型とは、各人それぞれ異なった仕方で性関係の不在の穴埋め(昇華)をして生きているという意味であり、タイプが異なるだけで(上に記した混合型だけではなく純粋型もあるだろうが)、穴埋め師から免れることはない。

…………

※付記

ボロメオの環のJȺは、S(Ⱥ)と等価である。このJȺについてもラカン派で饒舌な人は少ない。その少ない例外のなかで、ロレンツォ・キエーザ2007は、JȺ をサントームとしている。サントームは、S(Ⱥ)である(ミレール、2002)。

JȺは、大他者の享楽 la jouissance de l'Autreでは決してないことに注意。そうではなく「他の享楽 l'autre jouissance」である。

J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない。大他者の大他者はないのだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,Séminaire XXIII Le sinthome Décembre 1975)

※参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)


2017年3月24日金曜日

「父の名/母の欲望」→「S1/S(Ⱥ)」 、「I(Ⱥ)/S(Ⱥ)」

ラカンのセミネールⅤには、おそらくラカンを掠め読んだだけの者でも、さらにはラカンの初心者向け解説書のみを読んだだけの者でさえ、ほとんど誰もが知っているだろう、次の図がある。




この図は、ラカンの記述に則って、通常は次のように書き直される。





だが、母の欲望の下に「主体のシニフィエ」とあるのは、後のラカンからいえば、やや問題があるのであって、たとえば、セミネール17にはこうある。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(S17)

S1とは、このセミネール17の時点のラカンにとって父の名、あるいは(象徴的)ファルスであり、その前段階の 母の欲望が「来るべき主体」を徴示する(シニフィアンする)ときは、いまだ正式の「主体」はない。

その意味で、たとえば向井雅明氏の1990年代の論文(精神分析と心理学)の次の図のように、(ラカンの記述に則って)「x」としておくほうが、より正しい。



「x」とは、幼児が母とのイマジネールな関係においての困難さを示す、《l'enfant va assumer la difficulté de la relation imaginaire à la mere》。ようは《母が行ったり来たりするのは何なんだろ? Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?》(S5)に直面した来るべき主体の原不安、呼んでもやってこなかったり、呼ばないときにやってくる不気味な存在ーーそれにもかかわらず「生死」にかかわる必要不可欠な存在ーーへの不安感覚である。

ラカンはのちに《(構造化されていない)不安、その鋭い切り傷 L'angoisse c'est cette coupure même》(ラカン、S10)としているが、これを Ⱥ の原初的出現と呼ぶ。

かつまた《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(S10)とも呼んでおり、後にはいっそう簡潔に《欠如の欠如 Le manque du manque》(AE573、1976)としている。ようするにブラックホールのことであり、原初の母の(幼児にとっての)全能性の言い換えである。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”)

そして図の右側の(A)、つまり大他者によってシニフィエされる「ファルス」とは、母の欲望の対象であり(le phallus est objet du désir de la mère)、象徴的ファルス Φ ではなく、想像的ファルス −φ を示している。



とはいえ、この図にいくらか問題があるのは、1959年以降、父の名の意味合いが変わったことに由来する。

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネールⅥ で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013年ーー超越的法/超越論的法

この意味で右辺の、



は、もはや素直には使いがたい。つまり「大他者A」の「大他者(父の名)」はないのだから(超越的父の名から超越論的父の名への移行)、この図は誤解を招きやすい。

他方、左辺の


あるいは、



は、これは今でもよく使われる。とくに後者は次のような略号で頻出する。




これらの変奏として、最初に掲げた「DM/X」の図式のほうを、たとえば次のように記してもよいはずである。




こういう風に記している人をわたくしは直截には知らないが、この図の起源は、次の三つに由来する。



超自我とは確かに「法」である。しかし鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「単一」unary のシニフィアンとしての法である。…超自我は、独自のunique シニフィアンから生まれる形跡・パラドックスである。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

「母なる超自我」( surmoi mère) ……思慮を欠いた法としての超自我は、父の名によって隠喩化され支配される以前の「母の欲望」にひどく近似している。超自我は、法なき気まぐれな勝手放題 capricious whim without law としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996,PDF)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)

ーー母の法、母なる超自我が、S(Ⱥ) と相同的ということである。

もうひとつ、NP/DM、つまり「父の名/母の欲望」の図式の変奏は次のようになる。




これもラカン文を援用した、「父なる超自我S1」/「母なる超自我S(Ⱥ)」という想定である。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

コレット・ソレールの最近のセミネールの表現をとれば、S(Ⱥ)とは、「原リアルの名」、「原穴の名」に相当する。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

そのときȺとは何か。それは、上のポール・バーハウ1999の図にあった「トラウマ的現実界」であると同時に、たとえば「身体の享楽」である。

「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ジャック=アラン・ミレールは、S1/S(Ⱥ)の図に相当するものとして、次のようなことを(どこかで)言っているらしい。出典不明だが、Esthela Solanoによる次のような指摘がある。

J.-A. Miller a produit le mathème suivant : I(A) barré sur S(A) barré.(Un exercice de lecture、Esthela Solano, PDF)

 I(A) barré sur S(A) barré とは、S(Ⱥ) の上に I(Ⱥ) を課すということである( I(Ⱥ)とは、 Idéal du moi(自我理想)のマテーム )。

すなわち、


である。

これは結局、以前掲げた次の図と同じことを言っている。



ここで肝腎なことの一つは、S1も I(Ⱥ)ーー自我理想シニフィアンーーも、後年のラカンにとってはどんなシニフィアンでもよくなったことだろう。

すなわち S1 は、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことであり(S17)、それが父の機能(縫合機能)を持てば、なんでもよい。

c'est très précisément cette insistance du Maître, cette insistance en tant qu'elle vient à produire… et je l'ai dit : de n'importe quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître.(ラカン、S.17)

実際、われわれの具体的な人生においても(標準的には)、父に同一化したり祖父母に同一化したり、その後、教師、思想家や芸術家に同一化したりしてゆくだろう(例外的に(?)母なる超自我に同一化したまま人生を送る人もいるが)。

倒錯者の不安は、エディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安としてしばしば解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

いずれにせよS1との同一化、それはS(Ⱥ)を覆い隠すためである。そのことを別の観点から、「昇華」や「脚立」といったりもする(参照:芸術家集団による美の「脚立 escabeau」)。

超自我・父の名・自我理想の関係については、次の文を参照されたし(フロイト自身は、超自我と自我理想を区別をしていないが)。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School
超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)

※より詳しくは、「二種類の超自我と原抑圧」を参照。

そして《原抑圧はS(Ⱥ)にかかわる》(PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST?、1999)。

S(Ⱥ)は、後期ラカンにおいてはΣ(サントーム)のことでもあり(ミレール、2002)、ラカンはセミネール23にて、サントームと原抑圧を関連づけている(参照:S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un)。

こうして現代ラカン派では次のような考え方がなされるようになる。

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事 un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress 2012ーー「二種類の超自我と原抑圧」)

とはいえ驚くことに、固着(原固着)や、欲動の根とは、初期フロイトの境界表象にかかわる概念であることだ(バーハウ、1999)。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(フロイト書簡、1896年)

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung, (Freud, Briefe an Wilhelm Fliess,1896)

すなわち「境界表象 Grenzvorstellung」(境界シニフィアン)とは、ラカンのS(Ⱥ)、「一のようなものがある Y'a d'l'Un」、サントームΣ と(ほとんど)同じものである。

《サントーム……それはYadlunと等価である》(ミレール2011)ーーであるなら、サントームは「境界表象」でありうる。

とはいえ《身体の出来事 un événement de corps》(ラカン、AE.569、1975)が、サントームあるいは原抑圧(原固着)であるとして、それは具体的に、どんな出来事なのだろうか。

おそらく、幼児にとっての最初の大他者(母なる大他者)の介入による欲動興奮の《馴化》あるいは《拘束》にかかわる、《リビドーによる死の欲動のかかる馴化(飼い馴らし) Bändigung des Todestriebes durch die Libido》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924年)

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

「一次過程」とは、現代ラカン派が原抑圧と等価のものとする「我々の存在の核」にかかわる(この表現が出て来る『夢解釈』の時期には、フロイトはいまだ原抑圧概念はないが)。

私は心の装置における心的過程の一方を第一次的過程と名づけたが、私がそう名づけたについては、地位の上下や業績能力を顧慮したばかりではなく、命名によって時間的関係をも同時にいい現わそうがためであった。

第一次過程しか持たないような心的装置はなるほどわれわれの知るかぎりにおいては存在しないし、また、その意味でこれは一理論的仮構にすぎない。しかし第二次過程が人間生活の歴史上で漸次形成されていったのに反して、第一次過程は人間の心のうちにそもそもの最初から与えられていたということだけは事実である。そしてこの第二次過程は第一次過程を阻止してそれを覆い隠し、そしておそらくは人生の頂上をきわめるころおいにおいてはじめて完全に第一次過程を支配するにいたるものなのである。第二次過程の、こういう遅まきの登場のために、無意識的願望衝動からなっているところの我々の存在の核 Kern unseres Wesens)は、無意識に発する願望衝動にもっとも合目的的な道を指し示すという点にのみその役割を制限されているところの前意識にとっては把握しがたく、また、阻止しがたいものとなっている。(フロイト『夢解釈』1900年)

原抑圧とはシステム無意識にかかわり、抑圧がシステム前意識にかかわる(ここでは簡略して記すが、この関係は、おおむね S(Ⱥ)とS1の関係でもある)。

・前意識システム System Vbw においては、二次過程 Sekundärvorgang が支配している。

・一次過程 Primärvorgang(備給の可動性 Beweglichkeit der Besetzungen)は、無時間的であり、外部の現実を心的現実に置換する。これはシステム無意識 System Ubw に属する過程のなかに見出しうる。(フロイト『無意識』1915年)

…………

※付記

以下の文に力動的無意識とあるのは、「システム前意識 System Vorbewußt (Vbw)」のことである。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。

フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ポール・バーハウ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnosticsーー非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)