【Lorenzo Chiesa2007による対象aの五つの定義の要点】
①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象
①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象
②主体から想像的に切り離されるうる部分対象
③シニフィアン化される前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥ
④母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望
⑤アガルマ、すなわち隠された秘宝、あなたのなかにあってあなた自身以上のもの(ただし厳密にはやや異なる)。
ーー私が出会った論文のなかで最も詳細にわたって対象aをめぐる叙述がなされているものだが、これがいかに説明されるかを、下に掲げる。
まずそのまえに対象aの「標準的な」説明では次ぎのように言われることが多い。
以下、個人的資料とはいえ、二つの用語の定義めいたものーーおそらくこれ自体異論があるだろうーーだけを先に示しておく。
【S(Ⱥ) 】:
すなわち、S(Ⱥ)/Ⱥと記すことができる(大他者のなかの欠如のシニフィアン/大他者の欠如)。
ーー私が出会った論文のなかで最も詳細にわたって対象aをめぐる叙述がなされているものだが、これがいかに説明されるかを、下に掲げる。
まずそのまえに対象aの「標準的な」説明では次ぎのように言われることが多い。
対象aの概念は、たぶんラカンによる精神分析理論への最もオリジナルな貢献である。小文字の "a," "autre,"の最初の文字は、他者との本質的な関係を示すとともに、数学的な意味での、アルジェブラの変数、あるいは「機能」を示すことが意図されている。(……)
たぶん対象aの最も挑発的な側面は、その閾的な特徴である。そしてそれは二つの意味において、である。まず、対象aは奇妙にも主体と他者のあいだに宙吊りになる。どちらにも属しているし、どちらにも属していない。同時に、〈他者〉のなかにある最も他者的なものを示すのだが、しかしそれは主体自身に親密につながれている。(……)
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。
しかし、対象aはまた二番目の意味でも限界的である。それはラカンの基礎的なカテゴリー、想像界、象徴界、現実界の三つのすべてに関与しつつ、そのどれにも限定的には属さない。想像界において、いかにも身体のイメージされた部分(乳房、糞便…)として、最も原初の表象を見いだす対象aではありながら、ラカンによって意図されているのは想像的なものの限界を徴づけもする。(Richard Boothby, Freud as Philosopher, 2001”より“FIGURATIONS OF THE OBJET”)
以下、個人的資料とはいえ、二つの用語の定義めいたものーーおそらくこれ自体異論があるだろうーーだけを先に示しておく。
【S(Ⱥ) 】:
「大他者 のなかの欠如のシニフィアン」[ signifiant d'un manque dans l'Autre ](Lacan, Écrits p.818)
すなわち、S(Ⱥ)/Ⱥと記すことができる(大他者のなかの欠如のシニフィアン/大他者の欠如)。
S(Ⱥ) ーー〈他者〉のなかの欠如のシニフィアン。〈他者〉は構造的に不完全であるので、欠如は〈他者〉の固有の特徴である。しかし、その欠如はつねに主体に明白であるわけではないし、明白であるときでさえ、つねに名づけ得ない。ここで我々はその欠如を名付けるシニフィアンをもつ。それは、全ての象徴秩序、全ての他のシニフィアン (S2)の「錨を留める点anchoring point 」であり、しかし精神病においては(父の名として)排除されている。女の構造のラカンの議論においては、それは、言語の物質性もしくは実体により関係(そしてsignifiernessとしての対象aに関係)があるようにみえる。(Fink,1995)
ラカンのテキストにおけるシンボルの意味は、長い年月をかけて、しばしば驚くほど変貌していく。私は提案しようと思う、セミネールⅥとⅩⅩの間で、S(Ⱥ)は、〈他者〉の欠如もしくは欲望を意味するものから、“最初の”喪失のシニフィアンsignifier of the "first" loss.36を意味するものになっている、と(そのシフトは審級の変化に相当する。それはあまりにもしばしばラカンの仕事の事例である。すなわち象徴界から現実界である。すべての要素は“男たち”の下ではシンボリックにかかわり、“女たち”の下ではリアルにかかわるのが見出されることに注意を促しておく)。最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。
それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。
最初に除かれたシニフィアンの地位は、明らかに他のシニフィアンたちの地位とはまったく異なる、ーーそれは(象徴界と現実界のあいだの)境界現象以上のものーーそして原初の喪失、あるいは主体の起源にある欠如のシニフィアンと強い類縁性をもっている。こうして私は提案しようと思う、最初の除外、あるいは喪失は、ともかくも代表象あるいはシニフィアン、すなわちS(Ⱥ)に見出すことができる、と。(同上)
《〈大他者〉の最初の形象は母なのだから、「〈他者〉はいない」ということの最初の意味は母は去勢されているということである。》(ジジェク、2012)
【(基本的な)幻想】
幻想とは象徴界に抵抗する現実界の部分に意味を与えようとする試みである(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN)
ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「眼差し」自体である。(ジジェク、Conversations with Žižek, with Glyn Daly)
幻想の中にあらわれた欲望は主体自身の欲望ではなく他者の欲望、つまり私のまわりにいて、私が関係している人たちの欲望だということである。幻想、すなわち幻の情景あるいは脚本は、「あなたはそう言う。でも、そう言うことによってあなたが本当に欲しているものは何か」という問いへの答である。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹、おじ、おばが、彼のために戦いを繰り広げる。母親は息子の世話と通して、息子の父親にメッセージを送る、子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのかは、理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。どんな単純な幻想も、私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。どんなに単純な幻想の中にも、この幻想の相互主観的な性格を見てとることができる。たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)
…………
◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa(2007)よりの私訳。
【(1)】対象aは、基本的な幻想のなかの欠如の想像的表象である。S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目cutのイメージである。そのようなものとしてまた、去勢 (−ϕ)の結果consequenceとしても理解されるべきだ。
【(2)】 対象aは、主体から想像的に切り離される取りはずし可能な部分対象である。そして定義上、「人がもはや持っていないもの」“what one n'a plus”(Le séminaire livre X, p. 139)である。
この意味で、(1) とは逆に、対象aと想像的ファルスϕは、互いに排他的なものではない。セミネールVIで、ラカンは明確に定義している、対象aを、象徴的ファルスΦによってもたらされた去勢の「効果effect」であり、かつ去勢の「対象」としての想像的ファルスϕであると。
しかしながらこの区別は、部分対象もまた対象aと呼ばれる事実、とりわけ部分対象のひとつがまさに想像的ファルスϕであることによって複雑化される(これに加え、基本的な幻想が形成されたとき、前性器的な対象である乳房と糞便が、ϕを通して遡及的にファルス化される)。(R. Boothby , Freud as Philosopher,2001)
【(3)】対象aは、現実界の欠如real lackであり、幻想のなかでのその想像(界)化imaginarizationに先行する。対象aは、シニフィアン化signifierizationされる前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥであり、それが上記の(1) を生み出す。この意味で、対象aは、喪われた現実界の対象real objectである。それは先ずなりよりも母の乳房であり、その喪失は想像的ファルスϕーー現実界Realのなかで喪われていない唯一の部分対象ーーを通した基本的な幻想のなかで遡及的にファルス化される。
人はかんたんに主張するかもしれない、 (2) と (3) の機能は、結局ひとつであり同じ要点だと。しかしながら、このような区別は教育上は興味深いものだ。それが示すのは、いかにラカンがーーセミネールVIの最後に向けて、そして特にセミネールXにおいてーー、漸進的に、対象aの現実界的側面を仮定することを余儀なくされたか、象徴界のなかの欠如としての現実界、《〈他者〉の他者性alterityの結局唯一の支えである「非合理的な残余」》(séminaire X)を仮定することを余儀なくされたかが分かる。いうまでもなく、対象aの最初の二つの(相反する)機能は、論理的にはこの三番目の機能に依拠している。
【(4)】 対象aは母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望である(See Seminar VI, lesson of June 3, 1959; Le séminaire livre X , p. 35.)。これが機能 (3)にいかにかかわるかは容易に理解されるだろう。乳房は、母なる〈他者〉の欲望が原初の欲求不満を引き起こしたときに、子どもによって初めて喪われる。すなわち、この欲望は後に、窮乏privationの瞬間にそれ自体として感知される。そして、去勢の後に遡及的に意味作用化signifierized/“緩和化mitigated"される。
対象aのこの四番目の機能は、いかにそれが主体の欲望の「原因」として理解されうるかを明白に証明している。それは「欲望の背後」、どんな「内面化」(Le séminaire livre X, pp. 120‒122)にも先行する「外部」に横たわっている。主体の欲望の出現の後にはじめて、対象aとしての母なる〈他者〉の欲望は欲望の対象となる。
【(5)】自己意識においては、対象aはラカンが呼ぶところのアガルマに関係する。アガルマ、すなわち隠された秘宝、他者のなかにあって彼自身以上のもの、そしてその理由で、主体は究極的に彼を欲望する。これは余儀なく隠蔽された部分対象ϕ以外のなにものでもない。それは自己意識のなかではつねに失われている対象である。そしてアガルマは、ただ想像的ファルスの欠如−ϕとして否定的にのみそれ自身を顕す。
ここで把握すべき最も重要な点は、主体はリビドーの注ぎ込みを、身体の非鏡像的な残余non-specular remainderの上に継続的に投影していることだ。それは理想自我によって維持される鏡像的関係を越えたものである(Le séminaire livre X, pp. 50‒52, p. 74)。
そのような注ぎ込みは、次のどちらの場合にも作用している。主体が要求の弁証法に囚われたままーー彼はつねに「なにか他のもの」を要求し、直接にはアガルマを求めていないーーそんな時。もうひとつは、彼が表立ってアガルマを欲望しているーー他者のなかにあって他者自身以上のもの、他者のなか/の空虚(彼自身の欲望)としてのアガルマを欲望していれる時。
注:《これ明白にふたつの異なった主体のポジションである。一方において、主体はつねに新しいことを要求しつづける。しかし彼はどの要求も「彼がほんとうに欲しいもの」と見なしている。他方においては、主体は(一時的に)、彼の愛をもとめる要求の満足の不可能性を想定する。そして、他者が彼に提供するものに対して「いいや、それじゃないんだ…」と言うことにより、彼は(空虚の)純粋欲望に接近する。
言い換えれば次のふたつを区別するのは必須である。たんなる欲求不満の結果である新しい想像的な同一化ーー日常生活において「数多くの「ナルシシスティックな」仮面がある、不満足の形式と同様に」 (Le séminaire livre V , p. 333)ーー、そしてもうひとつ、「恋に陥る」(相互の)経験に従った同一化。後者は、空虚としての現実界、アガルマが、想像的-象徴的な現実のヴェールを引き裂き、自己意識のなかに現れる束の間の瞬間との同一化である。
究極的にこの相違は、〈他者〉の要求(我々の要求において欲求不満にとらわれて、彼になにかを要求する、その結果として彼に同一化すること)と〈他者〉の純粋欲望(そして純粋に欲望する)への一時的なかかわりとのあいだの相違である。…》
しかしながら、Safouanは、アガルマは、厳密に言えば、隠蔽された部分対象としての対象a(あるいはϕ)とは異なることを正しく観察している。それは《部分対象aが現れない限りでのみ、アガルマとしての特質を保持する》xである(Safouan, Lacaniana)。注)あるいはむしろ、《対象aが、一時的に現れた後、すばやく消滅する限りでのみの》x
言い換えれば、xとしてのアガルマは、喪われた現実界の対象としての部分対象の「他の側」、意識の側である。ラカン曰く、《我々は「基本的な幻想」の「無意識の」ステージにいつもいるわけではない。ステージがとても遠くまで拡がる、夢の領域にまで拡がるときでさえ、そうではない。そして無意識のステージではなく、「意識の」側のままであるとき…我々はxとしての欠如だけを見出す》(Le séminaire livre X, p. 127)。
他方、部分対象が自己意識のなかにそれ自体として現れるのは、アガルマの空の場x、自己意識のなかの−ϕの直接の結果が、ある縁、ある開けーーそこでは鏡像イメージの構成はその限界を示すーーによって外接されうるときのみである。「窓」はこのようにして空虚に開かれる。
これが意味するのは、空虚それ自体が境界を画され、自己意識のなかで「物質化される」ということだ。ラカンはこの過程の生産物を「欠如の欠如」(−ϕの中断)という用語で簡潔に定義した。これは「不安の選択的坐」(Le séminaire livre X, pp. 127‒128)である。…
注:《セミネールVIにおける対象aの最初の詳細にわたる分析にて、ラカンははっきりと関連づけている、前性器的な部分対象を遡及的にシニフィアン化する「特権的な」部分対象をファル的ゲシュタルトに。これは数年後、確かにもう当てはまらくなった(ここでセミネールXIにおける欲動回路の議論を想い出すだけで十分だろう、そこでのラカンによる詳述には四つの部分対象のあいだにファル的ゲシュタルトは含まれていない)。
では我々はどのように理解すべきなのか、意識的な生活で究極の欲望の対象としてのアガルマの錯覚的「視覚効果」を作りだす隠された部分対象a(あるいは想像的ファルスϕ)を。定義上、鏡面性を超えるものとして、隠された部分対象a(あるいはϕ)は、眼差し以外のなにものでもない。
ラカンにとって、a としての眼差しは、ファルス的部分対象である。それは、基本的な幻想と個体形成が去勢を通して同時に出現したとき、想像的に失われた対象である。すなわち、眼差しは特権的な「性器的」対象aであり、それは遡及的に二つの種類の「前性器的」対象a(乳房と糞便)をファルス化したものである。
言い換えれば、すべてを網羅する性器的/ファルス的欲動それ自体はない。むしろ、性器偏重ーーポストエディプス欲望ーーは、視姦部分欲動partial scopic driveによって(そして対象aとしての声のまわりを循環する呼びかけ欲動invocatory drive によって)支えられている。すなわち人が「ファルス的に」恋に陥るのは、愛された者の目と声を超えたところに横たわっている言葉で言い表されないものje ne sais quoi によってである・・・。》
重なり合っているものとしての (4) と (5) の機能を理解することにより、対象aとしてのアガルマを欲望する主体は、ただ空虚/欠如としての〈他者〉の欲望を欲望しているに過ぎないことに気づく。ラカンはセミネールVにおいてはやくもこれを認知していたーー《欲望は欠如の欲望であり、その欠如は〈他者〉のなかの別の欲望を指す》(Le séminaire livre V , p. 329)ーーにもかかわらず、彼は通常このような定義がいかに二つの相反する意味をもつかを指摘しなかった。
もし欲望が欠如の欲望としての〈他者〉の欲望the desire of the Otherであるなら、これは、人の幻想の対象ーー欠如を表象する対象としての〈他者〉の欲望Other's desireを欲望することに等しい。かつまた〈他者〉の欲望Other's desireの純粋欲望に等しい。純粋欲望、すなわち還元不能な現実界の欠如、象徴界のなかの前幻想的なリアルな空虚、最初の場処において主体の欲望を生み出すものである。
とりわけ重要なことは、「幻想の操り人形」のレヴェルにおける主体の欲望と〈他者〉の欲望(“緩和化された”空虚としての)の同一化は、別のより本質的なレヴェルのものと混同すべきではないことだ。その別のレヴェルでは、幻想化を蒙っているにもかかわらず、〈他者〉の欲望は主体に知られないままであること、その欲望に遭遇したとき、不安が引き起こされる。
やや異なった観点から見れば、この区別が理解させてくれるのは、基本的な幻想における〈他者〉の欲望としての主体の欲望は、いかに未だ承認欲望のままであるかだ。結果として、承認欲望を擬似ヘーゲル的な意識的欲望概念ーーラカンが1950年代前半に受け入れたものーーへと追いやるのは間違っている。
ラカンが、欲望は欠如としての〈他者〉の欲望の欲望desire of the Other's desire as lackと言ったとき、これは次の可能性を必ずしも除外してはいない。すなわち、基本的な幻想において、同じ欲望が、同時に、無意識的承認の欲望であることを。
複合的な幻想の特性ーーそこでは逆説的にも欠如が表象されるーーのせいで、無意識的欲望は欠如への欲望であると同時に、この欠如を縫合sutureする欲望でもある。欠如が幻想のなかで縫合される限りで、欠如としての〈他者〉の欲望の欲望としての主体の欲望subject's desire as desire of the Other's desire as lack は、(幻想化された)承認欲望のままである。ーー欲望されることの欲望、よりよく云えば、〈他者〉に愛されることの欲望である。
主体の基本的な幻想が欠如を縫合するのは、$(斜線を引かれた主体)が同時に(主体の幻想のなかで)〈他者〉の欲望の対象aである限りである。
要点をふり返ってみよう。幻想のレヴェルにおいて、主体の欲望は〈他者〉の欲望であり、またその逆に、〈他者〉の欲望は主体の欲望である。これゆえ、(1) 主体の欲望は〈他者〉の欲望の対象aであり、さらに重要なのは、 (2) 主体の欲望は、究極的には、〈他者〉の欲望の対象aとなることの欲望である。
反対に、純粋欲望は〈他者〉のなかで「欲望すること(le désirant)」を欲望する、何を欲望するのかといえば、無意識的承認の幻想的なヴェールを超えたところに横たわっている〈他者〉のリアルな他者性alterityである。
このすべては次のように言うことによって再定式化できる。欠如としての〈他者〉の欲望への欲望としての〈他者〉の主体の欲望the subject's desire of the Other as desire for the Other's desire qua lackは、欲望を再生産する欲望としての〈他者〉の主体の欲望the desire for the Other as the desire to reproduce desire以外のなにものでもない、と。
すなわち、人が欠如としての〈他者〉の欲望を欲望し続けることができるのは、ただ幻想の式$◇a(そこではa は、「飼い馴らされた」欠如としての〈他者〉の欲望を表している)のなかで欲望を再生産し続けるときのみである。幻想を超えた「なまの欠如」として思い描かれる〈他者〉に欲望に直面しようとするどんな直接の試みも、不安を解き放ち、我々が見てきたように、逆説的な欲望の終結をもたらす。