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2017年7月12日水曜日

魔女の厨房

このところフロイトの1920年以降の代表論文のいくつかを読んだのだが、以下はその派生物である。主に精神分析臨床にかかわる箇所なので、わたくしは具体的には関知しない部分だが、ここに備忘の形として残しておく。

…………

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第三章、1937年)

ーー《するとやはり魔女の厄介になるのですな》とはもちろんゲーテの『ファウスト』「魔女のくりや(魔女の厨房)」におけるメフィストフェレスの発言である(いまの訳は鴎外による)。

この文は、フロイトは最晩年まで欲動という手に負えないものに降参していることを示している。

フロイトが分析経験において拓いたこれらの道、彼は生涯これらの道を追及し、約束の地と呼べるものに最後に到達します。しかしながら、彼が約束の地に入場できたとは言えません。彼の遺書 son testament とみなすことができる『終りある分析と終りなき分析』を読むと、彼が意識していたなにものかがあるとしたら、自分がこの約束の地へと入場できなかったことであることがわかります。(ラカン、S1, 13 Janvier 1954)

では最後のラカンはどうであろうか。約束の地に至ったのであろうか?

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。

Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.(Lacan, “Conférences aux USA,1976)

これが最後のラカンである。以下の文も同様。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)

ここでの症状とは原症状のことである。つまりフロイトの遺書曰くの「原始時代のドラゴン」(後述)との同一化しつつ、なんとか折り合いをつけてドラゴンから距離をとることがラカンにとっての「分析の終り」である。

このラカンによる「分析の終り」は、ジジェクの「否定的なもの=死の欲動」という思考におけるヘーゲルの「否定的なものに留まること否定的なもの Negativen に留まる verweilt 」にほぼ相当するはずである(臨床と哲学的思考の区別はもちろんある)。

精神は、否定的なものを見すえ、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)

ここで再度ゲーテのファウストから引用して、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」と強調しておこう。

ところでラカンは、「分析の終りは症状の同一化である」といった半年後、次のように言うことになる。

馬鹿げたことじゃない、精神分析がペテン escroquerie に陥りうると言うのは。c'est pas absurde de dire qu'elle peut glisser dans l'escroquerie. (ラカン、S24、15 Mars 1977)
精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないかい? 

…… la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?(S24、19 Avril 1977)

フロイト、ラカンの両者とも「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」という治癒不能のものには対応仕切れなかったのである。このドラゴンの存在が、現代ラカン派内でいわれる「症状のない主体はない」の真の意味である。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外立するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., 1975, pp.106-107.摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。《私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine》(S22, 18 Février 1975)。ラカンは対象aよりも症状概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)

さて何度か引用しているフロイトの「残存現象 Resterscheinungen」と「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」の叙述箇所を再掲しておこう。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年ーー残存現象と固着)

この「原始時代のドラゴン」を家畜化するには、「魔女の厄介」にならなければならない。だがフロイトにとってこのドラゴンは具体的に何だろうか?

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験を、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第二章)

ーー「すべての神経症的障害」とあるが、これはラカン的な「精神病・倒錯・神経症」の三区分における神経症でではない。すべての症状ということである。

フロイトの神経症には二区分がある。現勢神経症と精神神経症である。これがフロイトにとって、(ほぼ)すべての症状である。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、ことに精神神経症 Psychoneurosen がおきやすいことが分かる。自我は、しばらくのあいだは、宙に浮かせたままの不安を、症状形成によって拘束し binden、閉じ込めるのである。外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第八章、1926年)

ーーほかにも「ホロコースト生存者の子供たちのPTSD」に現勢神経症にかかわる記述をいくらか拾っている。

 フロイトは現勢神経症を扱い得なかった。概念だけは継続的にある。なぜ扱い得なかったかといえば、原始時代のドラゴンにかかわる症状だから。

フロイトが《原始時代(の) Urzeit wirklich》、あるいは「太古の archaischen」というときは、欲動にかかわるエスのことである。

「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただ エス Es のことを考えているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

くり返せば、原始時代のドラゴンの完全な家畜化は不可能である。ゆえに(人によって)ときおりにか常にかは別にして、野獣は回帰する。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

フロイトはこうも言っている。

自我の強度が病気、疲労などによって弱まれば、それまで幸いにして飼い馴らされた欲動 gebändigten Triebe のすべてはふたたびその要求の声を高め、異常な方法でその代償満足を求めることになる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第三章)

ここで、2001年に出版されたRICHARD BOOTHBYの『哲学者としてのフロイト、ラカン後のメタ心理学』の結論部分のとてもすぐれた叙述を抜き出しておこう。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象 representations に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰 unrepresented excess」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

RICHARD BOOTHBYが簡明に言っていることとは、ようするに人には治癒不能の(欲動にかかわる)原症状が誰にでもあるということである。そしてこれは思いの外、ポストフロイト世代には忘れられている。BOOTHBYがいうように、《フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方》だったせいもあるのかもしれないが。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)

この文は上に引用した残存現象とほぼ同じことを言ってはいるが、フロイトにおいてこういう形では稀にしか表現されていない、ということは言えるのかもしれない。《発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである》(フロイト、1937)。

だが、そもそも頻出する「現勢神経症」概念でさえ忘れられているのだから、結局もはやフロイトはたいして読まれていないということだろう。

…………

最後にわたくしが理解する範囲での「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」についての、いくらか具体的なラカン派の処方箋を掲げておこう。

精神分析の実践は、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを症状との同一化とした。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)

ラカン自身であるなら、たとえば次のように言うことになる。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le pere」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である。あなた方が好むなら、サントームと言ってもよい le père est un symptôme ou un sinthome, comme vous le voudrez》(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

この文脈のなかで« père-version »父ヴァージョン(父の倒錯)ともいっており、ようするに父との同一化、エディプス的症状、理念や神を信じ込むのも倒錯の一種ということになる。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23、11 Mai 1976)

 ラカンは別に「正常な」性関係を、《norme-mâle》ーー男の規範とも言っている。これは悪い規範 norme mal と読めもする。すなわち正常な性関係とは、「父」の介入による前性器的「多形倒錯 polymorphe Perversität」--もちろんフロイト用語であるーーの男根化(ファルス化)である。

…………

結局、人間は原ドラゴンを飼い馴らすために、「倒錯」という症状が必要不可欠なのである。ミレール用語の「ふつうの精神病」とは、これもまた結局「倒錯」のことにすぎない。

倒錯は欲望に起こる偶発事ではない。すべての欲望は倒錯的である。いわゆる象徴秩序がそうしたいようには、享楽はけっしてその場のなかにないという限りで。

La perversion n'est pas un accident qui surviendrait au désir. Tout désir est pervers dans la mesure où la jouissance n'est jamais à la place que voudrait le soi-disant ordre symbolique.(L'Autre sans Autre par JACQUES-ALAIN MILLER,2013)


2016年3月20日日曜日

写真のエクスタシー

ある種の写真に私がいだく愛着について……自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりその場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥムと呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕〔ステイグマ〕》が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間」である。「写真」のノエマ(《それは=かつて=あった》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象である。

※参照:ベルト付きの靴と首飾り (ロラン・バルト)





ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》

私が想像するには(私は写真家ではないから、私にできるのは想像してみることだけである)、「撮影者」の本質的な行為は、ある事物または人間を(部屋の小さな鍵穴から)不意にとらえることにあり、したがってその行為は、被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる。(……)写真の《衝撃》は(……)精神的外傷を与えることよりも、むしろ、非常にうまく隠されているため、当事者さえも知らないかまたは意識していない事柄を、暴露することにあるからだ。(……)

写真は、それがなぜ写されたのかわからなくなるとき、真に《驚くべきもの=不意を打つもの》となる。(参照:写真の本質の飼い馴らし、あるいは白痴が微笑む世界)





社会は「写真」に分別を与え、「写真」を眺める人に向かってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとする。その目的のために、社会は二つの方法を用いる。

一つは「写真」を芸術に仕立てる方法である、というのも、芸術は決して狂気ではないからえある。そこで写真家は、絵画の修辞法やその昇華された提示法を取り入れ、あくまで芸術家と張り合おうとする。実際、「写真」は芸術となることができる。だがそうなると、「写真」にはもはや狂気はいささかも含まれず、「写真」のノエマは忘れ去られ、したがって「写真」の本質が私に働きかけるということはなくなる。(……)

「写真」に分別を与えるもう一つの方法は、「写真」を一般化し、大衆化し、平凡なものにすることによって、ついには「写真」の前に他のいかなる映像も存在しなくなるようにする方法である。そうなれば、「写真」を他の映像との関連において特徴づけ、その特殊性、その異常さ、その狂気を主張することはできなくなる。(……)





狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリズムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌をめくること)によって弱められ、相対的なレアリズムにとどもるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリズムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始原的なレアリズムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるのなら、「写真」は狂気となる。つまりはそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、(……)これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。

以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)


さて、バルトは「エクスタシー」や「プンクトゥム」という言葉で何を言おうとしているのか。

たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。

それは、〈私〉を引き渡すものだ。




生活欲はともあれ、若い性欲が世間の活気と、もどかしく立てる唸りと、没交渉であるわけもない。だいぶ年の行ってからのこと、私と同年配の男がごく若い頃のことだがと断わった上で、今ではまともに拭きつけられれば顔をそむける車の排気のにおいも、昔はにわかに人恋しさをつのらせて、その一日の残りをやり過ごしかねたばかりに、幾度、つまらぬ間違いをおかすはめになったことか、ともらした。しばらくばつの悪そうな間を置いてから話をつないで、それよりはまたすこし前のことになるが、車が走りながら油を零していく、その油が路上に虹よりも多彩な輪をひろげて、それが玉虫色に揺れ動く、あれを見るともう、と言って笑うばかりになった。聞いて私は、においと言えば昔、二人きりになって初めて寄り添った男女は、どちらもそれぞれの家の、水まわりのにおいを、いくら清潔にしていても、髪から襟から肌にまでうっすらとまつわりつけていたもので、それが深くなった息とともにふくらむのを、お互いに感じたそのとたんに、いっそ重ね合わせてしまいたいと、羞恥の交換を求める情が一気に溢れたように、そんなふうに振り返っていたものだが、車の排気と言われてみればある時期から、街全体をひとしなみに覆うそのにおいが、家々のにおいに取って代わっていたのかもしれない、と思った。(古井由吉『蜩の声』)


ギリシア語の έκσταση とは、Ekstase (エクスタシー・脱自)と訳されている。

それは、ハイデガーにより、Existenz(外立)とされ、ラカンによってさらに、ex-sistence(現実界 le réel )とされた。

バルトの写真のエクスタシーの「エクスタシー」は、おそらく、ただ単に官能的、絶頂という意味ではなく、この文脈のなかで捉えうる。

ラカンの変奏としては、Extimité(外密) があり、objet a(対象a)がある。

それは、私の中にあって最も親密 intimate なものでありながら、しかも私自身以上のものである。ハイデガーとラカンの言葉を援用していえば、私の非一貫性(非全体 pas-tout)中に、外立ex-sistする現実界le réelである。

まさに、バルトの言うとおり、《私自身を引き渡す》ものだろう。


(侯孝賢+辛樹芬)

対象 a の概念は、たぶんラカンによる精神分析理論への最もオリジナルな貢献である。小 文字の "a," "autre,"の最初の文字は、他者との本質的な関係を示すとともに、数学的な 意味での、アルジェブラの変数、あるいは「機能」を示すことが意図されている。

対象 a のコンパス内で、ラカンはよく知られている精神分析の部分対象を一つ一つ拾うの だが、フロイトの発展段階にかかわる口唇、肛門、ファルスだけでなく、彼自身によるいく つかをつけ加える。ラカンが対象 a の形象化として引き合いに出すのは、「乳首、糞便、フ ァルス(想像的対象)、小便(尿流)、音素、眼差し、声」(E, 315)である。

たぶん対象 a の最も挑発的な側面は、その閾的な特徴である。そしてそれは二つの意味 において、である。まず、対象 a は奇妙にも主体と他者のあいだに宙吊りになる。どちらにも属しているし、どちらにも属していない。同時に、〈他者〉のなかにある最も他者的なもの を示すのだが、しかしそれは主体自身に親密につながれている。

ラカンは対象 a を糸巻きにたとえた。フロイトの孫が母の出発と出現を再演したあの糸巻き (Fort- Da いないないばあ)である。内部と外部、自身と異物の矛盾において、対象 a は 「主体の小さな部分、彼をそれ自身から切り離すもの、いまだ彼のままであり、いまだ失われないままでありながら。」 (FFC, 62)ということになる。

おそらく対象 a を思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密な intimate 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の 外 ex に現れ、捉えがたいものだ。 (Richard Boothby, Freud as Philosopher, 2001)



われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

2015年7月5日日曜日

ファルスΦと対象aの相違、あるいは二重の欠如

「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」に引き続く。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]).
ファルスは対象ではなく、他の源泉、すなわち対象aから来る享楽を統制する事例instanceである。これらの享楽は、ファルスのシニフィアンによって解釈されることを通して統制され、ファルスの快楽に変わる。構造的に、この象徴化は不完全のままである。対象aは、象徴化に抵抗する現実界の部分である。(Verhaeghe, P. & Declercq, F. (2003). Lacan's analytical goal: "Le Sinthome" or the feminine way)

ーーΦ(象徴的ファルス)=S1(主人のシニフィアン)でありうるのは、「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」にて見た。以下の文の主人のシニフィアンは象徴的ファルスとして読もう。


◆ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012(私訳)より

…… (ふたつのあいだの)形式的な相同性、主人のシニフィアンの再帰的な論理ーーシニフィアンの欠如のシニフィアン、欠如の代替物(充填物)として機能するシニフィアンーー、そして対象aの論理も、またラカンによってくり返して定義されたように、欠如の充填物である。その地位は純粋にヴァーチャルであり、それ自体のどんな実体的一貫性もなく、ただ象徴秩序における欠如の実体化positivizationである。

何かが象徴秩序から逃れさる。そしてこのXが、対象a、私がしらないものje ne sais quoi として実体化される。それが、私にある物や人を欲望させる。(……)

しかしながら、主人のシニフィアンと対象aのあいだのこの形式的な類似に騙されるべきではない。どちらの場合も、欠如を埋める実体entityとして扱えるようにみえるが、対象aを主人のシニフィアンと分け隔てるものは、対象aの場合、欠如が二重化されていることだ。すなわち、対象aは、二つの欠如の重なり合いの結果である。その二つの欠如とは、〈大他者〉(象徴秩序)にある欠如と対象にある欠如である。ーー例えば、視覚領野において、対象aとは、我々が見ることのできないもの、絵画にかんするなら我々の盲点である。

二つの欠如の各々は互いに独立して作用しうる。我々はシニフィアンの欠如を持ちうる、例えば「言葉が行方不明になる」という豊かな経験をしたときに。あるいは我々は視覚において欠如を持ちうる。その欠如のために、まさに主人のシニフィアンと名づけられるシニフィアンがある。それは、対象の不可視の領域を再捕獲するようにみえる神秘的なシニフィアンである。

そこには、主人のシニフィアンの錯覚 illusionがある。すなわち主人のシニフィアンは対象aと合体する。そして主体の〈大他者〉/〈主人〉は、主体が欠如しているものを所有しているようにみえる。これをラカンは疎外と呼んだ。すなわち、主体が欠けているものを所有している〈大他者〉との主体の遭遇である。疎外にひき続く分離においては、対象aもまた〈大他者〉から、主人のシニフィアンから分離する。すなわち、主体は見いだすのだ、〈大他者〉もまた彼に欠けているものを持っていないことを。ラカンに従って金言を掲げれば、「aなしの私はないno I without a」である。〈私〉(たった一つの特徴unary feature、主体を表象するシニフィアン化の徴)が出現するときはいつでも、〈a〉が伴うのだ、リアルの意味作用における喪われたものの代替物としての〈a〉が。

それでは、対象aは、S1の、主人のシニフィアンのシニフィエだろうか。一見そのようにみえるかもしれない。というのは、主人のシニフィアンは、まさに図り知れないXーー「ふつうの」シニフィアンたち (S2)の連鎖によってシニフィエされる一連の実体的な属性から逃れるXを意味づけるsignifiesのだから。しかし、より精緻にみると、我々はその関係はまったく正反対であることが分かる。すなわち、シニフィアンとシニフィエのあいだの分解にかんして、対象aはシニフィアンの側にあり、それはシニフィアン“の中の/の”欠如を埋める。他方、主人のシニフィアンは、シニフィアンとシニフィエのあいだの「縫合点」であり、その点において、シニフィアンはシニフィエのなかに落ちる。


※ジジェクは、“the signifier falls into the signified.”(シニフィアンはシニフィエのなかに落ちる)と記しているが、引用元の記載はない。

ただし、ラカンのセミネール20に次の表現はある。《il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié》

il y a du signifiant qui passe sous la barre. S'il n'y avait pas de barre vous ne pourriez pas voir qu'il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié

(フィンク英訳)

Were it not for this bar above which there are signifiers that pass, you could not see that signifiers are injected into the signified.

(フィンク注)

Lacan's French here, vous ne pourriez pas voir qu'il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié, is rendered a bit odd because Lacan doesn't say a signifier or several signifiers, but rather some signifier, in the sense un which we speak in Enghsh about "some bread" or "some water," in other words, as an unquantifiable substance. Here, signifier is injected into the signified, apparently like fuel is injected into an engine.

ーーー「シニフィアンがシニフィエのなかに投入される」とは、見たところ、「ガソリンがエンジンのなかに投入される」というようなものだ、とされている。

…………

※附記:「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」より

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテールLituraterre」(Autres écrits所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S とJを永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊specterである。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際littorale」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテールLituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際littoraleがある」と言うとき、jouis‐senseの喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式signifying formula of enjoymentに還元された文字のjouis‐senseを、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

※附記2:

象徴秩序、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、〈一者One〉を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。システムとしての象徴秩序は、差異をもとにしている(ソシュール参照)。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。それ故、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に〈一者〉と非一者である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二項対立の論拠、ある者かそのある者でないか、を適用することによって、一体化の形で作用する。(ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaeghe、Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2002 私訳)
性の差異が、ファルスのシニフィアンにどう関係するのかのパラドックス…。我々がシニフィアンとしてのファルスを考えるとき、そして能力、肥沃性等々のイメージ(シンボル)としてのみ考えるのではないとき、我々は先ずは次のように考えるべきである。すなわち、ファルスとは、女性はペニスが欠けているといまさにその事実のせいで、彼女に属する(もっと正確にいえば、母に属する)何かだと。

だから、こうではないのだ、最初の瞬間、男は「それを持っている」、そして女は「持っていない」、そして次の瞬間、女は「それを持つ」ことを幻想する、ーーこうではない。ラカンは『エクリ』のまさに最後のページでこう書いている、「母のペニスの欠如が、《ファルスの特性natureが現れる場処である》。我々はこの指摘を最重要なものとして扱わねばならない。それはまさにファルスの機能とその特性を区別するのだから」( Miller, “Phallus and Perversion”)

そしてここである、我々が、フロイトのフェティッシュという人を迷わす「ナイーヴな」概念を修復すべきなのは。それは、主体が女にペニスの欠如を見る前に見た最後のものとしてのフェティッシュである。フェティッシュが覆うものは、単純に、女におけるペニスの不在ではない。そうではなく、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者」的な意味で、差延的differentialであるという事実だ。
ファルスのシニフィアンをこのような複雑な概念にしているのは、象徴界、想像界、現実界の局面が絡み合っているだけでなく、「否定の否定」の過程を不可思議にも模倣するような二重の自己再帰段階があるからだ。それは三つの水準に要約される。

(1)ポジション:喪われた部分、主体がシニフィアンの秩序に入る(あるいは帰順する) とともに喪いかつ欠けてしまった何かのシニフィアン。 (2) 否定:この欠如のシニフィアン。 (3) 否定の否定:欠如する/喪うlacking/missingシニフィアン自体。

ファルスは象徴界への入場に伴って喪われた(犠牲にされた)部分である。と同時に、この喪失のシニフィアンである。 (このように、ファルスのシニフィアンと父の名、父の法のあいだにはリンクがある。ここでもまた、ラカンは同じ自己再帰的な反転を成し遂げている。父の禁止はそれ自体禁止されなければならない、と)。なぜこれはそうなのだろう? なぜ禁止自体が禁止されなけれならないのか? 答えは次の通り。すなわち、「メタ言語はない」から。……(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)
ファルスの用語に関して、ラカンは、セミネールⅩⅩにて、ファルスを、シニフィアンとシニフィエ (S/s)のあいだの横棒と同じものとして扱っているのに注意しよう.(Bruce Fink  “KNOWLEDGE AND JOUISSANCE ”)

2015年7月4日土曜日

享楽 (a) とファルス化された対象a(Paul Verhaeghe)

「幼児のセクシャリティは自体愛的ではない(Paul Verhaeghe)」補遺。

表題を「享楽 (a)とファルス化された対象a」としたが、この観点は次ぎの通り(論者によっては、二つどころか、より精緻に対象aの五つの定義を示す場合さえあるのは「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」で見た)。

……フロイトと対照的に、ラカンは欠如を二重化する。一方で、現実界的な対象aの喪失がある。他方、それは、二次的な欠如を通して象徴界と現実界の混淆において加工される(“ファルス化された”対象a)。(Paul Verhaeghe、Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real,1999)

「ファルス化された対象a」とあるが、ファルスは対象aの一形態である(ただしそれだけではない(「特別の地位」。ジジェク2012も同様の見解を示している)。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001])

以下、もちろんのこと一つの解釈であり、別の(多様な)見解があることはいうまでもない。


◆Paul Verhaeghe ,OBSESSIONAL NEUROSIS. The Quest for Isolation 2001より(私訳)

どの神経症も、いやさらにどの神経症の症状でさえ、次のふたつのレヴェルをもっている。一方で、現実界の核、たとえば欲動の根あるいは固着、他方で、象徴界-想像界のレヴェルでのーーたとえば〈他者〉のレヴェルでのーーその防衛的な作り直しworking-overである。私の読み方では、神経症の一般的なスキーマは次の通り。



原防衛を通して、享楽 (a) と主体のあいだの最初の内的葛藤(a →$) は、主体と他者のあいだの関係に接続する。すなわち、$◇A。

菱形紋 ( ◇ )は、主体-他者の関係における疎外(結合/同一化)と分離にあいだのフライホイールflywheelの動きを示す。

この二つのレヴェルを通して、さらにまた別の対立が作用する。すなわち欲動自体の内的対立である。フロイトが快と不快にかんして抱いた問題ーー何が快で何が不快なのかーーは、この内的な矛盾に密接にかかわる。

生の欲動あるいはエロスは、融合を目指す。それは緊張の増大をもたらす。このことは、〈他者〉との融合として理解される疎外過程の基礎を形づくる。死の欲動あるいはタナトスは、分離を目指す。それは緊張の低下をもたらす。このように、フロイトによって使用された用語の観点にては、我々はパラドックスを押しつけられたままである。

いわゆる死の欲動は、(a) とAから隔離されるとはいえ、自我にとっての生の継続を目指す。他の欲動であるエロスは、自我の死を意味する。というのは、それは、融合を通して、(a) とA のなかに自我が消滅することを余儀なくさせるから。

(a) と主体のあいだの関係(a →$) の最初の防衛的エラボレーションは、エディプス構造を通して遡及的に処理される。こうして、その関係はファルス的-性的な関係に変わる。

原防衛は、(a)の享楽それ自体に向かったが、二次的な防衛は、つねにファルス的なもの(a/− φ)にかかわる。今度は、主体と〈他者〉のあいだなのである。彼(女)自身を分離あるいは疎外(タナトス/エロス)しなければならない代わりに、主体は部分対象へと向かうことが可能になる。

ここでのエロスが《自我の死を意味する。というのは、それは、融合を通して、(a) と大他者A のなかに自我が消滅することを余儀なくさせる》とは、ヴェルハーゲ解釈では次の文にかかわる。

エロスとタナトスの二つの欲動は、全く反対の目的を目指す。一方で、融合することが、フロイトがエロスと呼んだものであり、分離することがタナトスである。そしてそれぞれ独自の快を持っている。この観点から、我々はなぜ「とことんまでall the way」行かないのかという我々の問いへの答えを示唆しうる。

まず最初に二つの相克する方向のせいであり、第二にどの方向も主体にとって堪え難い最終的な代償があるせいである。

タナトス欲動は理解するのに簡単だろう。それは解放とゼロテンションにむけて励む。それは最終段階としての死、そして死に向かった強烈な踏み台としてのオーガズムである。フロイトにとって、タナトスの目標とは分離であり、より大きな統一体からより小さな断片への絶え間ない分裂である。主体の水準において、これが意味するのは、他者からの分離であり、強化された個人的特性ーー私はここにいる、独立した人間として存在する、である。

エロスの目標は全く反対だ。それは融合であり、異なった要素を統合して、より大きな全体とすることである。そこでは個々の要素は、その個人的特性を失う傾向にある。生は、絶えず増大する緊張の集合体であり、それは純粋な享楽である。もっとも個人にとってはそうではない。個人は集合体へと消滅してしまう。個人はこの消滅をきわめて怖れることになる。

単独でタナトス欲動に従えば、我々は孤立して最終的には死ぬ。もっぱらエロス欲動に従えば、同様に我々は消滅する。今度はより大きな統合に飲み込まれるのだ。どちらもそれぞれ固有の享楽がある。どの人間も彼(女)自身の道の地図を作らねばならない。フロイトは、標準的な環境においては、二つの欲動は混ぜ合わされ(欲動融合Triebmischung)、各個人の人生において絶え間なく変化するカクテルだと言う。

ラカンはこのフロイトの論拠を引き継ぐ。享楽と死はきわめて近いものだ。享楽への道は、死への道である(Lacan, [1969-70], p. 18)。享楽それ自体、生きている主体には不可能である。というのはそれは自身の死を意味するのだから。唯一残された可能性は遠回りの道筋を取ることだ。目的地への到達を可能なかぎり遠くに延期してその道筋を行ったり来たりすることである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains(「古い悪党たちの新しい研究 2009)ーー「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって」)

ヴェルハーゲは、2004年に書かれた論文では(いささか挑発的に?)次のようにさえ言っている。

生の欲動(エロス)は死に向かい、死の欲動(タナトス)は生に向かう。

life drive aims towards death and the death drive towards life (『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』ーー部分欲動と死の欲動をめぐる覚書)

挑発的としたがーーすなわち一般的な「常識」から外れる見解にようにみえるが、これは最晩年のフロイトのエロスとタナトスの解釈に基づく。

アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳)

エロスは、《現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め》る。この融合によって個人としては死ぬ。タナトスは、《統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》、すなわち個人の生へと向かう。

この観点をとると、幼児の初期にあるだろう融合不安と分離不安が豊かに解釈できる。

フロイトとともに、私はこの移行に、はるかに基本的な動機を見分ける。すなわち、最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。る(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009ーー「幼児のセクシャリティは自体愛的ではない(Paul Verhaeghe)」)

※他の参照としては、「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)」を見よ。



2015年7月3日金曜日

対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)

【Lorenzo Chiesa2007による対象aの五つの定義の要点】

①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象 
②主体から想像的に切り離されるうる部分対象 
③シニフィアン化される前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥ 
④母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望 
⑤アガルマ、すなわち隠された秘宝、あなたのなかにあってあなた自身以上のもの(ただし厳密にはやや異なる)。

ーー私が出会った論文のなかで最も詳細にわたって対象aをめぐる叙述がなされているものだが、これがいかに説明されるかを、下に掲げる。

まずそのまえに対象aの「標準的な」説明では次ぎのように言われることが多い。

対象aの概念は、たぶんラカンによる精神分析理論への最もオリジナルな貢献である。小文字の "a," "autre,"の最初の文字は、他者との本質的な関係を示すとともに、数学的な意味での、アルジェブラの変数、あるいは「機能」を示すことが意図されている。(……)

たぶん対象aの最も挑発的な側面は、その閾的な特徴である。そしてそれは二つの意味において、である。まず、対象aは奇妙にも主体と他者のあいだに宙吊りになる。どちらにも属しているし、どちらにも属していない。同時に、〈他者〉のなかにある最も他者的なものを示すのだが、しかしそれは主体自身に親密につながれている。(……)

おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。

しかし、対象aはまた二番目の意味でも限界的である。それはラカンの基礎的なカテゴリー、想像界、象徴界、現実界の三つのすべてに関与しつつ、そのどれにも限定的には属さない。想像界において、いかにも身体のイメージされた部分(乳房、糞便…)として、最も原初の表象を見いだす対象aではありながら、ラカンによって意図されているのは想像的なものの限界を徴づけもする。(Richard Boothby, Freud as Philosopher, 2001”より“FIGURATIONS OF THE OBJET”)

以下、個人的資料とはいえ、二つの用語の定義めいたものーーおそらくこれ自体異論があるだろうーーだけを先に示しておく。


【S(Ⱥ) 】:

「大他者 のなかの欠如のシニフィアン」[ signifiant d'un manque dans l'Autre ](Lacan, Écrits p.818)

すなわち、S(Ⱥ)/Ⱥと記すことができる(大他者のなかの欠如のシニフィアン/大他者の欠如)。

S(Ⱥ) ーー〈他者〉のなかの欠如のシニフィアン。〈他者〉は構造的に不完全であるので、欠如は〈他者〉の固有の特徴である。しかし、その欠如はつねに主体に明白であるわけではないし、明白であるときでさえ、つねに名づけ得ない。ここで我々はその欠如を名付けるシニフィアンをもつ。それは、全ての象徴秩序、全ての他のシニフィアン (S2)の「錨を留める点anchoring point 」であり、しかし精神病においては(父の名として)排除されている。女の構造のラカンの議論においては、それは、言語の物質性もしくは実体により関係(そしてsignifiernessとしての対象aに関係)があるようにみえる。(Fink,1995)
ラカンのテキストにおけるシンボルの意味は、長い年月をかけて、しばしば驚くほど変貌していく。私は提案しようと思う、セミネールⅥとⅩⅩの間で、S(Ⱥ)は、〈他者〉の欠如もしくは欲望を意味するものから、“最初の”喪失のシニフィアンsignifier of the "first" loss.36を意味するものになっている、と(そのシフトは審級の変化に相当する。それはあまりにもしばしばラカンの仕事の事例である。すなわち象徴界から現実界である。すべての要素は“男たち”の下ではシンボリックにかかわり、“女たち”の下ではリアルにかかわるのが見出されることに注意を促しておく)。最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。

それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。

最初に除かれたシニフィアンの地位は、明らかに他のシニフィアンたちの地位とはまったく異なる、ーーそれは(象徴界と現実界のあいだの)境界現象以上のものーーそして原初の喪失、あるいは主体の起源にある欠如のシニフィアンと強い類縁性をもっている。こうして私は提案しようと思う、最初の除外、あるいは喪失は、ともかくも代表象あるいはシニフィアン、すなわちS(Ⱥ)に見出すことができる、と。(同上)

《〈大他者〉の最初の形象は母なのだから、「〈他者〉はいない」ということの最初の意味は母は去勢されているということである。》(ジジェク、2012)


【(基本的な)幻想】

幻想とは象徴界に抵抗する現実界の部分に意味を与えようとする試みである(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN)
ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「眼差し」自体である。(ジジェク、Conversations with Žižek, with Glyn Daly)
幻想の中にあらわれた欲望は主体自身の欲望ではなく他者の欲望、つまり私のまわりにいて、私が関係している人たちの欲望だということである。幻想、すなわち幻の情景あるいは脚本は、「あなたはそう言う。でも、そう言うことによってあなたが本当に欲しているものは何か」という問いへの答である。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹、おじ、おばが、彼のために戦いを繰り広げる。母親は息子の世話と通して、息子の父親にメッセージを送る、子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのかは、理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。どんな単純な幻想も、私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。どんなに単純な幻想の中にも、この幻想の相互主観的な性格を見てとることができる。たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

…………

◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa(2007)よりの私訳。

【(1)】対象aは、基本的な幻想のなかの欠如の想像的表象である。S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目cutのイメージである。そのようなものとしてまた、去勢 (−ϕ)の結果consequenceとしても理解されるべきだ。

【(2)】 対象aは、主体から想像的に切り離される取りはずし可能な部分対象である。そして定義上、「人がもはや持っていないもの」“what one n'a plus”(Le séminaire livre X, p. 139)である。

この意味で、(1) とは逆に、対象aと想像的ファルスϕは、互いに排他的なものではない。セミネールVIで、ラカンは明確に定義している、対象aを、象徴的ファルスΦによってもたらされた去勢の「効果effect」であり、かつ去勢の「対象」としての想像的ファルスϕであると。

しかしながらこの区別は、部分対象もまた対象aと呼ばれる事実、とりわけ部分対象のひとつがまさに想像的ファルスϕであることによって複雑化される(これに加え、基本的な幻想が形成されたとき、前性器的な対象である乳房と糞便が、ϕを通して遡及的にファルス化される)。(R. Boothby , Freud as Philosopher,2001)

【(3)】対象aは、現実界の欠如real lackであり、幻想のなかでのその想像(界)化imaginarizationに先行する。対象aは、シニフィアン化signifierizationされる前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥであり、それが上記の(1) を生み出す。この意味で、対象aは、喪われた現実界の対象real objectである。それは先ずなりよりも母の乳房であり、その喪失は想像的ファルスϕーー現実界Realのなかで喪われていない唯一の部分対象ーーを通した基本的な幻想のなかで遡及的にファルス化される。

人はかんたんに主張するかもしれない、 (2) と (3) の機能は、結局ひとつであり同じ要点だと。しかしながら、このような区別は教育上は興味深いものだ。それが示すのは、いかにラカンがーーセミネールVIの最後に向けて、そして特にセミネールXにおいてーー、漸進的に、対象aの現実界的側面を仮定することを余儀なくされたか、象徴界のなかの欠如としての現実界、《〈他者〉の他者性alterityの結局唯一の支えである「非合理的な残余」》(séminaire X)を仮定することを余儀なくされたかが分かる。いうまでもなく、対象aの最初の二つの(相反する)機能は、論理的にはこの三番目の機能に依拠している。

【(4)】 対象aは母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望である(See Seminar VI, lesson of June 3, 1959; Le séminaire livre X , p. 35.)。これが機能 (3)にいかにかかわるかは容易に理解されるだろう。乳房は、母なる〈他者〉の欲望が原初の欲求不満を引き起こしたときに、子どもによって初めて喪われる。すなわち、この欲望は後に、窮乏privationの瞬間にそれ自体として感知される。そして、去勢の後に遡及的に意味作用化signifierized/“緩和化mitigated"される。

対象aのこの四番目の機能は、いかにそれが主体の欲望の「原因」として理解されうるかを明白に証明している。それは「欲望の背後」、どんな「内面化」(Le séminaire livre X, pp. 120‒122)にも先行する「外部」に横たわっている。主体の欲望の出現の後にはじめて、対象aとしての母なる〈他者〉の欲望は欲望の対象となる。

【(5)】自己意識においては、対象aはラカンが呼ぶところのアガルマに関係する。アガルマ、すなわち隠された秘宝、他者のなかにあって彼自身以上のもの、そしてその理由で、主体は究極的に彼を欲望する。これは余儀なく隠蔽された部分対象ϕ以外のなにものでもない。それは自己意識のなかではつねに失われている対象である。そしてアガルマは、ただ想像的ファルスの欠如−ϕとして否定的にのみそれ自身を顕す。

ここで把握すべき最も重要な点は、主体はリビドーの注ぎ込みを、身体の非鏡像的な残余non-specular remainderの上に継続的に投影していることだ。それは理想自我によって維持される鏡像的関係を越えたものである(Le séminaire livre X, pp. 50‒52, p. 74)。

そのような注ぎ込みは、次のどちらの場合にも作用している。主体が要求の弁証法に囚われたままーー彼はつねに「なにか他のもの」を要求し、直接にはアガルマを求めていないーーそんな時。もうひとつは、彼が表立ってアガルマを欲望しているーー他者のなかにあって他者自身以上のもの、他者のなか/の空虚(彼自身の欲望)としてのアガルマを欲望していれる時。

注:《これ明白にふたつの異なった主体のポジションである。一方において、主体はつねに新しいことを要求しつづける。しかし彼はどの要求も「彼がほんとうに欲しいもの」と見なしている。他方においては、主体は(一時的に)、彼の愛をもとめる要求の満足の不可能性を想定する。そして、他者が彼に提供するものに対して「いいや、それじゃないんだ…」と言うことにより、彼は(空虚の)純粋欲望に接近する。

言い換えれば次のふたつを区別するのは必須である。たんなる欲求不満の結果である新しい想像的な同一化ーー日常生活において「数多くの「ナルシシスティックな」仮面がある、不満足の形式と同様に」 (Le séminaire livre V , p. 333)ーー、そしてもうひとつ、「恋に陥る」(相互の)経験に従った同一化。後者は、空虚としての現実界、アガルマが、想像的-象徴的な現実のヴェールを引き裂き、自己意識のなかに現れる束の間の瞬間との同一化である。

究極的にこの相違は、〈他者〉の要求(我々の要求において欲求不満にとらわれて、彼になにかを要求する、その結果として彼に同一化すること)と〈他者〉の純粋欲望(そして純粋に欲望する)への一時的なかかわりとのあいだの相違である。…》

しかしながら、Safouanは、アガルマは、厳密に言えば、隠蔽された部分対象としての対象a(あるいはϕ)とは異なることを正しく観察している。それは《部分対象aが現れない限りでのみ、アガルマとしての特質を保持する》xである(Safouan, Lacaniana)。注)あるいはむしろ、《対象aが、一時的に現れた後、すばやく消滅する限りでのみの》x

言い換えれば、xとしてのアガルマは、喪われた現実界の対象としての部分対象の「他の側」、意識の側である。ラカン曰く、《我々は「基本的な幻想」の「無意識の」ステージにいつもいるわけではない。ステージがとても遠くまで拡がる、夢の領域にまで拡がるときでさえ、そうではない。そして無意識のステージではなく、「意識の」側のままであるとき…我々はxとしての欠如だけを見出す》(Le séminaire livre X, p. 127)。

他方、部分対象が自己意識のなかにそれ自体として現れるのは、アガルマの空の場x、自己意識のなかの−ϕの直接の結果が、ある縁、ある開けーーそこでは鏡像イメージの構成はその限界を示すーーによって外接されうるときのみである。「窓」はこのようにして空虚に開かれる。

これが意味するのは、空虚それ自体が境界を画され、自己意識のなかで「物質化される」ということだ。ラカンはこの過程の生産物を「欠如の欠如」(−ϕの中断)という用語で簡潔に定義した。これは「不安の選択的坐」(Le séminaire livre X, pp. 127‒128)である。…

注:《セミネールVIにおける対象aの最初の詳細にわたる分析にて、ラカンははっきりと関連づけている、前性器的な部分対象を遡及的にシニフィアン化する「特権的な」部分対象をファル的ゲシュタルトに。これは数年後、確かにもう当てはまらくなった(ここでセミネールXIにおける欲動回路の議論を想い出すだけで十分だろう、そこでのラカンによる詳述には四つの部分対象のあいだにファル的ゲシュタルトは含まれていない)。

では我々はどのように理解すべきなのか、意識的な生活で究極の欲望の対象としてのアガルマの錯覚的「視覚効果」を作りだす隠された部分対象a(あるいは想像的ファルスϕ)を。定義上、鏡面性を超えるものとして、隠された部分対象a(あるいはϕ)は、眼差し以外のなにものでもない。

ラカンにとって、a としての眼差しは、ファルス的部分対象である。それは、基本的な幻想と個体形成が去勢を通して同時に出現したとき、想像的に失われた対象である。すなわち、眼差しは特権的な「性器的」対象aであり、それは遡及的に二つの種類の「前性器的」対象a(乳房と糞便)をファルス化したものである。

言い換えれば、すべてを網羅する性器的/ファルス的欲動それ自体はない。むしろ、性器偏重ーーポストエディプス欲望ーーは、視姦部分欲動partial scopic driveによって(そして対象aとしての声のまわりを循環する呼びかけ欲動invocatory drive によって)支えられている。すなわち人が「ファルス的に」恋に陥るのは、愛された者の目と声を超えたところに横たわっている言葉で言い表されないものje ne sais quoi によってである・・・。》

重なり合っているものとしての (4) と (5) の機能を理解することにより、対象aとしてのアガルマを欲望する主体は、ただ空虚/欠如としての〈他者〉の欲望を欲望しているに過ぎないことに気づく。ラカンはセミネールVにおいてはやくもこれを認知していたーー《欲望は欠如の欲望であり、その欠如は〈他者〉のなかの別の欲望を指す》(Le séminaire livre V , p. 329)ーーにもかかわらず、彼は通常このような定義がいかに二つの相反する意味をもつかを指摘しなかった。

もし欲望が欠如の欲望としての〈他者〉の欲望the desire of the Otherであるなら、これは、人の幻想の対象ーー欠如を表象する対象としての〈他者〉の欲望Other's desireを欲望することに等しい。かつまた〈他者〉の欲望Other's desireの純粋欲望に等しい。純粋欲望、すなわち還元不能な現実界の欠如、象徴界のなかの前幻想的なリアルな空虚、最初の場処において主体の欲望を生み出すものである。

とりわけ重要なことは、「幻想の操り人形」のレヴェルにおける主体の欲望と〈他者〉の欲望(“緩和化された”空虚としての)の同一化は、別のより本質的なレヴェルのものと混同すべきではないことだ。その別のレヴェルでは、幻想化を蒙っているにもかかわらず、〈他者〉の欲望は主体に知られないままであること、その欲望に遭遇したとき、不安が引き起こされる。

やや異なった観点から見れば、この区別が理解させてくれるのは、基本的な幻想における〈他者〉の欲望としての主体の欲望は、いかに未だ承認欲望のままであるかだ。結果として、承認欲望を擬似ヘーゲル的な意識的欲望概念ーーラカンが1950年代前半に受け入れたものーーへと追いやるのは間違っている。

ラカンが、欲望は欠如としての〈他者〉の欲望の欲望desire of the Other's desire as lackと言ったとき、これは次の可能性を必ずしも除外してはいない。すなわち、基本的な幻想において、同じ欲望が、同時に、無意識的承認の欲望であることを。

複合的な幻想の特性ーーそこでは逆説的にも欠如が表象されるーーのせいで、無意識的欲望は欠如への欲望であると同時に、この欠如を縫合sutureする欲望でもある。欠如が幻想のなかで縫合される限りで、欠如としての〈他者〉の欲望の欲望としての主体の欲望subject's desire as desire of the Other's desire as lack は、(幻想化された)承認欲望のままである。ーー欲望されることの欲望、よりよく云えば、〈他者〉に愛されることの欲望である。

主体の基本的な幻想が欠如を縫合するのは、$(斜線を引かれた主体)が同時に(主体の幻想のなかで)〈他者〉の欲望の対象aである限りである。

要点をふり返ってみよう。幻想のレヴェルにおいて、主体の欲望は〈他者〉の欲望であり、またその逆に、〈他者〉の欲望は主体の欲望である。これゆえ、(1) 主体の欲望は〈他者〉の欲望の対象aであり、さらに重要なのは、 (2) 主体の欲望は、究極的には、〈他者〉の欲望の対象aとなることの欲望である。

反対に、純粋欲望は〈他者〉のなかで「欲望すること(le désirant)」を欲望する、何を欲望するのかといえば、無意識的承認の幻想的なヴェールを超えたところに横たわっている〈他者〉のリアルな他者性alterityである。

このすべては次のように言うことによって再定式化できる。欠如としての〈他者〉の欲望への欲望としての〈他者〉の主体の欲望the subject's desire of the Other as desire for the Other's desire qua lackは、欲望を再生産する欲望としての〈他者〉の主体の欲望the desire for the Other as the desire to reproduce desire以外のなにものでもない、と。

すなわち、人が欠如としての〈他者〉の欲望を欲望し続けることができるのは、ただ幻想の式$◇a(そこではa は、「飼い馴らされた」欠如としての〈他者〉の欲望を表している)のなかで欲望を再生産し続けるときのみである。幻想を超えた「なまの欠如」として思い描かれる〈他者〉に欲望に直面しようとするどんな直接の試みも、不安を解き放ち、我々が見てきたように、逆説的な欲望の終結をもたらす。


2015年6月25日木曜日

「糸巻き」としての対象a


ラカンは対象aを糸巻きにたとえた。フロイトの孫が母の出発と出現を再演したあの糸巻き(Fort- Daいないないばあ)である。内部と外部、自身と異物の矛盾において、対象aは「主体の小さな部分、彼をそれ自身から切り離すもの、いまだ彼のままであり、いまだ失われないままでありながら」 (FFC, 62)というものである。

ここでは基本に戻って、フロイトの糸巻き=対象aをめぐる叙述をいくらか拾ってみよう。

…………

フロイトの『快感原則の彼岸』にでてくる「いない-いた Fort- Da」遊びは、フロイトに関する理解度をはかる上で恰好のテストになるかもしれない。標準的な解釈によれば、フロイトの孫は、糸巻きを投げることによって、母親の不在と回帰を象徴化している。「いない Fort!」──そして糸巻きをたぐり寄せて──「いた Da!」というふうに。したがって、事態は明確であるようにみえる。母親の不在というトラウマを経験した子供は、その不在を象徴化することによって不安を克服し、状況を操作するのである。母親を糸巻きに置き換えることによって、この子供は、母親の出現と消失を演出する舞台監督になるのだ。かくして不安は、子供がこの支配力を嬉々として行使するなかで、首尾よく「止揚される aufgehoben」。(ジジェク『操り人形と小人』中山徹訳)

以下続くが、手元に邦訳がないのでーー上の文はインターネット上で拾ったーー私訳(ZIZEK ,The Puppet and the Dwarf,2003)。

しかしながら事態はほんとうにそんなにはっきりしているのだろうか? 糸巻きが母の身代りではなく、ラカンが対象aと呼んだものの身代りだったらどうだろう。私のなかにある究極的な対象、母が私のなかに見るもの、私を母の欲望の対象にさせるものだったら? フロイトの孫が自らの消滅と回帰を上演しているのだったら?

この正確な意味で、糸巻きはラカンが呼ぶところの「二等分線biceptor」である。それはまさに子どもにも母にも属していない。二つの間のなかin-between、二つの組から締めだされた交線である。ここでラカンの名高い言葉を取りだそう、「私はあなたを愛する。だがあなたのなかには、私が愛するあなた自身以上のなにか、対象aがある。だから私はあなたを滅ぼす」。ーーこれが、あなたからあなたの存在のリアルな核を摘出する試みとしての、現実界への破壊的情熱の基本的な定式である。

これが〈他者〉の欲望との遭遇において不安を引きおこすものである。すなわち、〈他者〉が目指しているものは、たんに私自身ではなく、私のリアルな核である。それは私はのなかにあって私以上のもの、そして彼(女)はその核を摘出するために私を滅ぼす…。これは、対象aの究極の外-親密ex-timate的特徴の映画的表現ではないだろうか。私のなかにあって「エイリアン」ーー同じ名の映画のそれーーであるもの、まったく文字通り「私のなかにあって私自身以上のもの」、私自身のまさに中心にある「異物 foreign body」、それゆえ、私の破滅の代償を払ってのみ私から摘出されうるものでは?

したがって、我々は標準の配置をひっくり返すべきである。すなわち本当の問題は私(彼女の子ども)を享楽する母なのである。そしてこのゲームの本当の賭け金は、この閉鎖から逃げだすことである。ほんとうの不安は、こうやって〈他者〉の享楽に囚われていることなのである。

だから、私の母を失うことについての不安ではないのだ。(糸巻き遊びとは)私が母の出発/到着を支配しようとする試みではない。そうはなく、母の圧倒的な現存presenceについての不安である。私は必死になって空間を切り開こうとするのだ、その空間にて母への距離を獲得しうるように。そうしてやっと私の欲望を維持できるようになる。

こうして我々はまったく異なった状況を見ることになる。ゲームを支配する子どもの代わりに、かつまた母の不在のトラウマを処理する子どもの代わりに、我々は母による息が詰まるような抱擁から逃れ、欲望するための開かれた空間を構築中しようとする子どもを見る。「いないいないばあ Fort- Da」の冗談めかした交換の代わりに、二つの軸のあいだーーどちらの軸も満足をもたらさないーーそのあいだの必死の揺れ動きを見るのだ、あるいはカフカ(エリオット? :訳者→参照)が書いたように、「私はあなたと一緒では生きられない。そしてあなたがいなくても生きられない」。そしてこれが心の認知科学において失われている側面、「いないいないばあ Fort- Da」遊びの最も初歩的な側面である。

このジジェク(あるいはラカン)の糸巻き遊びの捉え方は、一見やや極論すぎるという見方もあるかもしれない。《母の圧倒的な現存presenceについての不安》、はたしてそれだけだろうか、母がいなくなってしまう不安もあるのではないか。

たとえばその問いは、ポール・ヴェルハーゲによって、「融合不安/分離不安」として定式化されている(参照:古い悪党フロイトの女性論)。融合不安だけではなく、分離不安もあるに相違ない、と。

もっともヴェルハーゲ自身、90年代には、母との融合不安を強調していた。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。 (Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)

さて、ジジェク(あるいはラカン)のいわゆる極論、《私の母を失うことについての不安ではないのだ。(糸巻き遊びとは)私が母の出発/到着を支配しようとする試みではない。そうはなく、母の圧倒的な現存presenceについての不安である。私は必死になって空間を切り開こうとするのだ、その空間にて母への距離を獲得しうるように》について、いささか是正しうるなら、次ぎのヴェルハーゲの叙述がその核心部分である。

すなわち、「母を失うことについての不安」を分離不安、「母の圧倒的な現存presenceについての不安」を融合不安として読もう。

最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。

ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる〈他者〉 (m)Otherに享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。フロイトの受動的ポジションと同様に、である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009「古い悪党たちの新しい研究」)

ここで、フロイトにとって融合/分離とは、エロス/タナトスにかかわる用語であることにも注意しておこう。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

《ますます大きな統一に包括しようと努》めることは、「融合」であり、かつエロス欲動である。

《統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》ことは、「分離」であり、タナトス欲動である。

さて、われわれには、おそらくヴェルハーゲの解釈のほうが(一見は)納得的にみえるのではないか。だがジジェクは最近でもこう強調している。

最も根源的には、フロイトが語った小さな子どもについての無力helplessnessは、身体的な無力、自らの必要needsに備えることの不能力ではなく、〈他者〉の欲望の謎に直面した無力、〈他者〉の享楽の過剰に無力感にとらわれて竦むことである。(Zizek,LESS THAN NOTHING,2012)

分離不安も融合不安もあわせて、《〈他者〉の欲望の謎に直面した無力、〈他者〉の享楽の過剰に無力感にとらわれて竦むこと》とできないわけではなさそうだ。

このあたりの相剋は、欲動二元論/欲動一元論の立場の相違にもかかわってくるはずだ(参照:フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって)。

通常、哲学派(超越論者)は欲動一元論(タナトス一元論)をとることが多い。他方、臨床派(経験論者)は、欲動二元論(エロス/タナトス)をとる傾向にある(あるいは「死の欲動」概念にそもそも抵抗を示して触れないままであることも多いようにみえる)。

…………

※附記1:

◆フロイトによる糸巻き遊びの叙述箇所(『快感原則の彼岸』1920)より

子どものfort-da(いないいないばあ)の糸巻き遊びの箇所だが長くなるので、なぜfort(いない)だけが倦むことなく繰り返される場合があるのか、という問いが書かれた後の文。


こうなれば遊戯の意味は、ほぼ解かれたもおなじである。それは子供のみごとな躾の効果と関係があった。つまり母親が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動断念(欲動満足に関する断念)を子供がなしとげたことと関係があった。子どもは自分の手のとどくもので、同じ消失と再来を上演してみて、それでいわば欲動断念を埋め合わせたのである。この遊戯を情動の面から評価するさい、子供がみずから案出したのか、それとも何かに誘発Anregungされてわがものにしたのかは、むろん問題ではない。われわれの関心は、他の一点にむけられるであろう。母親の出発Fortgehenは、子供にとって好ましかったはずはなく、またどうでもよかったこととも考えられない以上、子供が苦痛な体験を遊戯として反復することは、どうして快感原則に一致するのであろうか。出発はよろこばしい再出現の前提条件として演じられるのに相違なく、再出現にこそ本来の遊戯の目的があったはずだ、と答えたくなるかもしれない。しかし、最初の行為、つまり出発が単独で遊戯になって演出され、しかもそれが、快い結果にみちびく完全形よりも、比較にならないほどたびたび演じられたという観察は、その答に矛盾することになるだろう。

このようなただ一つだけの場合の分析から、確実な結論はみちびけない。しかし、偏見なしに観察すれば、子供は別な動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受け身だったのであって、いわば体験に襲われたのであるが、いまや能動的な役割に身を置いて、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として反復しているのである。この志向は、記憶そのものが快に充ちていたかどうかには関わりのない、征服Bemaechtigung欲動に帰することもできるかもしれない。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供〈のもと〉から出発fortgehenした母親にたいする、日ごろは禁圧された復讐欲動の満足でもありうる。さあ、出発fortgehenしろよ、お母さんなんかいらない、ぼくがお母さんをあっちへやっちゃうんだ、という反抗的な意味をもっているのかも知れないのだ。(……)ここで論議されたいくつかの例では、この衝迫が不愉快unangenehmな印象を遊戯のなかに反復したのは、この反復に、種類がちがってはいるが、ある直接的な快獲得が結びついているからでしかないかもしれないからである。

(……)子供たちは、生活のうちにあって強い印象をあたえたものを、すべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者になることは、明らかである。しかしこの反面、彼らの遊戯のすべてが、この彼らの年代を支配している願望、つまり大きくなりたい、大人のようにふるまいたいという願望の影響下にあることも充分に明白である。また、体験が不快だからといって、その不快という性格のせいで、体験を遊戯に利用できなくなるとはかぎらないことも観察されている。たとえば医者が子供の喉の中をのぞきこんだり、ちょっとした手術を加えたりすると、この恐ろしい体験は確実にすぐあとの遊戯の内容になるであろうが、そのさい他の理由から快感を獲得することも見落とすわけにはいかない。子供は体験の受動性から遊戯の能動性に移行することによって、遊び仲間に自分の体験した不快を加え、そして、この代理のものに復讐するのである。(フロイト『快感原則の彼岸』p156-158 人文書院旧訳)


※附記2:

◆FIGURATIONS OF THE OBJET (A Freud as Philosopher. New 2001,Richard Boothby)より

フロイトのdas Dingのラカンによる再概念化は、Nachtraglichkeitのフロイト理論をラディカルに拡張し一般化する。フロイトが、子どものトラウマの遅延した効果にとりわけ関心があった一方、ラカンにとって遡及性Nachtraglichkeitの一般的機能が、人間としての主体のまさに存在自体を構成する。ラカンのNachtraglichkeitは、言語と知覚とのあいだの関係にかかわる。

Nachtraglichkeitの本質的な活動は、イメージに対する言葉の優位性にかかわる。言語のシニフィアンーーもっとも、それは幼児によって十分に獲得されていないものであり、長い時を経て、ようやく知覚の機能が人格形成の決定的な効果をもたらすのだがーーそのシニフィアンは、つねに、すでに、決定的な役割をもっていると言いうる。シニフィアンの訴求性が意味するのは、どんな純粋かつ無垢な経験論もない、言語の構造化する影響によって汚染されていないどんな人間の知覚の生産物もない、ということだ。言葉の力は、いつも-すでに、イメージのいずれの記録の先鞭を付けている。そのオリジナリティを絶対化しようとする感覚についてのどんな主張も、劣質の思考によるものと烙印を捺されることになる。

さて我々は最後の決定的な話題に移ろう。言語の遡及性によって開かれた空間において、際立ったフォーム、イメージと言葉のあいだの交点の生産物が出現する。ラカンはそれを“対象a”と呼んだ。対象aはdas Dingの谺である。それはシニフィアンのシステムを循環している。ジジェク曰く、《対象aは〈モノdas Ding〉が象徴化のプロセスを被ったのちの〈モノ〉の残余を示す》(Slavoj Zizek, The Plague of Fantasies , 1997)。〈モノ〉と同じように、対象aは不確定性の座の徴である。それは身体的構造に繋がっているが、またあらゆる化身とは決定的に区別される。それがすべてのシニフィアン化の彼方を徴づける範囲で、意味作用のどの活動の構成要素である。


2015年6月24日水曜日

譲渡できる対象objet cessibleとしての対象a(Richard Boothby)

《譲渡できる対象objet cessibleーこれがobjet aです》(荻本芳信、セミネール不安をめぐる)

…………

以下、メモ。下に引用(私訳)した譲渡できる対象をめぐる叙述が核心だが、その前段の対象aの一般的な説明箇所も掲げる。フロイトの糸巻き遊びFort- Daの糸巻きがラカンにとっては対象aだったことを忘れないでおこう。


◆“Richard Boothby, Freud as Philosopher, 2001”より“FIGURATIONS OF THE OBJET”の章から(私訳)(JACQUES LACAN Critical Evaluations in Cultural Theory Edited bySlavoj Zizek 2003所収)

対象aの概念は、たぶんラカンによる精神分析理論への最もオリジナルな貢献である。小文字の "a," "autre,"の最初の文字は、他者との本質的な関係を示すとともに、数学的な意味での、アルジェブラの変数、あるいは「機能」を示すことが意図されている。

対象aのコンパス内で、ラカンはよく知られている精神分析の部分対象を一つ一つ拾うのだが、フロイトの発展段階にかかわる口唇、肛門、ファルスだけでなく、彼自身によるいくつかをつけ加える。ラカンが対象aの形象化として引き合いに出すのは、「乳首、糞便、ファルス(想像的対象)、小便(尿流)、音素、眼差し、声」(E, 315)である。

たぶん対象aの最も挑発的な側面は、その閾的な特徴である。そしてそれは二つの意味において、である。まず、対象aは奇妙にも主体と他者のあいだに宙吊りになる。どちらにも属しているし、どちらにも属していない。同時に、〈他者〉のなかにある最も他者的なものを示すのだが、しかしそれは主体自身に親密につながれている。

ラカンは対象aを糸巻きにたとえた。フロイトの孫が母の出発と出現を再演したあの糸巻き(Fort- Daいないないばあ)である。内部と外部、自身と異物の矛盾において、対象aは「主体の小さな部分、彼をそれ自身から切り離すもの、いまだ彼のままであり、いまだ失われないままでありながら。」 (FFC, 62)ということになる。

おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。

しかし、対象aはまた二番目の意味でも限界的である。それはラカンの基礎的なカテゴリー、想像界、象徴界、現実界の三つのすべてに関与しつつ、そのどれにも限定的には属さない。想像界において、いかにも身体のイメージされた部分(乳房、糞便…)として、最も原初の表象を見いだす対象aではありながら、ラカンによって意図されているのは想像的なものの限界を徴づけもする。、「欠如しているもの(としての対象a)、それは、非 -反射的non-specularであり、イメージのなかで把握されない」(S.I, 218)。



さらにまた、対象aは言語にかんするシニフィアンと密接に関係しており、意味作用の構成的効果でもある。こうしてラカンは次のように主張することになる、「(対象aは)、〈他者〉の座における主体の構成の残余として定義される。主体が自身を話す主体、斜線を引かれた主体$として構成する限りにて、である」(S.X, 6-12-63)。しかし、シニフィアンなしでは存在しないにもかかわらず、対象aはまた本質的に象徴化に抵抗する。

ラカン曰く、対象aは「シニフィアンの領域内で、つねにそれ自身を失われたものとして表す。意味作用への失われたものとしてである」(S.X, 3-13-63)。対象aは、想像界あるいは象徴界のどちらによっても吸収されえない残余、屑、滓なのだ。そういうものとして、対象aは現実界に起因する。ラカンがときに言うように、不可能な対象、逆説的にそれそのものとしてはけっして現れない対象である。

ラカンは、対象aを欲望の「対象-原因」として描写しつつ、その遡及的な特徴を強調している。この遡及性の効果において問題となっているのは、主体それ自体の構造以外のなにものでもない。

文法上の慣習に根ざしたコモンセンスの風潮としては、欲望が定着する対象のどんな問いがありうる前に、最初に主体があるにちがいないと思いこんでしまう。逆にラカンが主張するのは、欲望する主体が最初に構成されることにかかわる対象、その対象がいつも-すでにあるということだ。しかしそれはただのどんな対象でもない。欲望の原因として機能する対象は、原初に失われたもの、あるいは本質的に欠けている対象、底から否定的な対象なのである。それは不在である。それが現れうる前に不在なのであり、その非-存在non-beingはその存在beingに先行する。

その逆説的な構造のために、対象aは、そのまわりを欲動がまわる永遠に不在の座 として、トポロジカルに描写するしかない。こういうわけで、対象aはすぐれて精神分析的な対象である。

「…対象aは、主体が、自らを構成するために、器官として分離する何かだ。これは欠如のシンボルとして働く。いわばファルスのようにーーファルスそのものではないが、それが欠如している限りでファルスのように。それゆえまずは分離できる対象、次に欠如とある関係がある対象である」(FFC, 103) 。

ここまでの準備段階の指摘を要約しよう。対象aは主体の他者との関係において特殊な不可欠物として現れる。フロイトの〈モノ〉das Dingのようにーー対象aは〈モノ〉の一種の世襲物あるいは後継者であるーー、対象aは、表象プロセスから、吸収できない「何か他のもの」、考えられないものの座として、はじき出される。それは、想像界と象徴界と限界において絶えまず生みだされものである。


◆同Richard Boothby, Freud as Philosopherより「譲渡できる対象objet cessible」をめぐる

ここで再読解における鍵となる点は、「譲渡できる対象」(objet cessible)概念である。どの段階でも、子どもは母の胸や糞便などの対象を「譲渡する」、あるいは諦める。決定的な中心点は、「譲渡」それ自体の行動である。賭けられるのは、まさに主体とその欲望の構成である。

ラカンの念頭にあったことをよりはっきりと見るために、彼の乳離れの議論を取り上げよう。それは格別挑戦的なものである。少なくともフロイト派の教えの伝統的な解釈にとって。

標準的な見方、一般に流通している精神分析理論のクリシェの一つによれば、幼児は可能なかぎり母の胸に執着し、乳離れによって引き離さなければならない。(……)

対照的に、母の胸を「譲渡できる対象」として再構成しつつ、ラカンは、子どもが手放す、あるいは諦める何かとして、我々に考えるように促す。彼の見解は次の通り。「子どもが乳離れさせられるというのは本質的には真実ではない。彼は自ら乳離れする、乳房から距離をおく。彼は遊戯する、…乳房から距離を置いたり、ふたたび取りついたりと。」(S.X, 7-3-63).

この仮定から数多くの魅惑的かつ思い掛けない拡がりをもつ思考に馳せることができる。たとえば我々は思い起こさせられる、フロイトの『文化のなかの居心地の悪さ』の最初の箇所の議論を。そこでフロイトは自我が外部の世界から自らを漸やく分離していく過程を叙述している。

フロイト曰く、

《今日われわれが持っている自我感情は、自我と外界の結びつきが今よりも密接であった当時にはふさわしかったはるかに包括的なーーいや、一切を包括していたーー感情がしぼんだ残りにすぎない。多くの人々の心にこの第一次的な自我感情がーー多かれ少なかれーー残っているものと考えてさしつかえないならば、この感情は、それよりも狭くかつ明確な境界線を持った成熟期の自我感情と一種の対立をなしながらこれと並んで存続するだろうし、またこの感情にふさわしい観念内容とは、無限とか一切のものと結びついているとかいう、まさに私の友人が「大洋的な」感情の説明に用いたのと同じ観念内容であろう。》(フロイト『文化への不満』p434)

我々はまた生贄の議論…を想起させられる。ラカンの観点では、乳離れは生贄の原初の行動と等しい。子どもはある意味で母にその胸(自らのものとして見なされた母の乳房)を捧げるのだ。実に「譲渡できる対象objet cessible」のラカン概念の光の下では、世界の全ては主体の譲渡あるいは放棄の行動に起源をもつと想定することに導かれる。

究極的には、世界自体が犠牲の対象である。誰への、何のための生贄か?対象は不安を避ける方法として譲渡されるceded。ふたたび精神分析理論の常識ーー不安は喪失によってひき起こされるーーに反するラカンのアプローチは、不安は対象の喪失に先行するというものだ、「不安の機能は対象の譲渡に先立っている」(S.X, 7-3-63)。

さらに、対象は、まさに不安を静めるために譲渡されるceded。なぜか? 理由はラカンの際立った解釈に見いだされる、「不安は…私は〈他者〉の欲望にとってどんな対象aであるかわからないという事実につながっている。」(S.X, 7-3-63)

乳房に縋りつく幼児は、なによりも母の欲望の測りがたい問いに遭遇する。この問いへの直面において、母はdas Dingの深淵であると想定される。想像的対象、鏡像イメージの小さな他者ではなく、知りえない、支配されえない、怪物的な〈大他者〉として。

露骨に考えれば、この点における幼児の戦略は、トカゲのそれと比較できる。その戦略とは、捕食者の手中から逃れて、再生が可能であるように自らの尻尾を諦めることである。

このように、今までは幼児の自我それ自体だった母の胸は放棄される、もしくは譲渡されるceded。しかしラカンの視点はもっと微妙である。譲渡の行動はより不安定で曖昧だ。幼児は、全体を失なわないでいるために身体の一部を切断して、自身の身体から母の胸を引き離すのではない。むしろ母の胸からの分離、譲渡に伴って初めて身体としての自身を経験するようになる。

こうしてラカンは「この、分離した断片としての諦められた対象の機能…それは主体の構成と見なされる」(S.X. 6-23-63)と言う。

最も慎重を要する点は、幼児へ審級agencyを授けることにかかわる。あたかも譲渡する行為が生存のための意図的な戦術として考えられる…ということだけではない。ラカンの要点ははるかにラディカルで逆説的である。母の胸を自発的にあるいは故意に手放す幼児としての主体が(先に)存在するどころか、対象を放棄した瞬間にのみ初めて主体が存在しうるようになるということなのだ。

「この原初の神話的な主体、彼は最初に、(母なる〈モノ〉das Dingとの)遭遇において彼自身を構成しなければならないのだが、それを我々は決して把握できないーーはっきりした理由があるーーというのは、小さなa [little] a が主体に先行しているのだから。かつまた、この原初の代替によって徴づけられる仕方自体が〈彼方〉をふたたび出現させるに違いないのだから 」(S.x~ 6-26-63)

対象を譲渡することにおいて、主体の座がはじめて現れる。部分の喪失が全体を、ヴァーチャルに、否定的に、遡及的に、確立する。ここで賭けられているのは、ラカンが主張するように、「人が呼ぶところの主体の最もラディカルな本質性」(S.X, 6-26-63)である。

生贄の語彙に戻って言えば、生贄行為者の存在は、生贄の行動によって引き起こされた喪失に伴ってのみ、はじめて出現する。この問題のパラドックスは、他の視点から見ることもできる。対象の放棄と欲望の起源とのあいだの関係を考えることによってである。

対象が譲渡されるのは、すでに形成された欲望を保持するためではない。そうではなく、最もラディカルな意味で、欲望はまさにこの譲渡に起源がある。対象は、欲望されうるために、追いだされなければならぬ。…欲望は逆説的に、制限においてまた制約を通して生まれる。このように、欲望の沸き立ちは制止と合致する。

ラカンは続けている、「このように、欲望の最初の発展的形式はそれ自体、制止のオーダーに膚接している。欲望が最初に現れるとき、それはそれ自体を対立させる、まさに、その欲望としてのオリジナリティが導入されることを通した行動に対して、である。」(S.X, 7-3-63)

ラカンははっきりと譲渡しうる対象を生贄の対象とつなげている…。生贄の真の機能は、彼が主張するに、特別な処理、他者との代償quid pro quoを上演することであるよりは、〈他者〉を欲望を与えてくれる存在として決定づけることだ。特別な交換をもたらすものであるよりは、まさに交換の可能性を確立することにある。

生贄は、リアルから、das Dingの怪物的な領域から、他者の欲望をもたらす。そして象徴秩序のなかに欲望の錨を下ろさせる。こうしてラカンは言い放つ、「生贄は運命づけられているが、それは捧げ物や贈物では毛頭ない。…そうではなく欲望のネットワークにおけるそれ自体としての〈他者〉の捕獲としてである」(S.X, 6-5-63)

母の胸を譲渡することCeding。母なる〈モノ〉das Dingのリアルとの不安なる遭遇を避けるために、である。子どもは母にかんして反復するのだ、古代の神への生贄の本質的な仕草を。主体の譲渡は主体の欲望を見出す、まさに、それがフォームを与えるという範囲で。それは、対象の仲介を通して、〈他者〉の欲望へと向かうフォームである。

「すべての問いは知ることだった、これらの神は何を欲望しているのかを。生贄は彼らが我々のように欲望するかの如く振舞うように構成する…。これは意味しない、神たちが彼らに生贄にされたものを食べてしまうだろうことを。さらには、神たちに何の役に立たないことを意味するわけでもない。しかし重要なことは、彼らはそれを欲望するということだ。私はさらに言おう、これは彼らに不安を引き起こすのではない。…神を欲望の罠のなかで飼い馴らすこと、それは本質的なことだ、と」 (S.X, 6-5-63)。

ラカンの観点では、主体は、ある種の残余、対象を諦めることにおいて穿たれた否定的な空間の効果として、現れる。対象aとして、この対象は、主体と同じものではない。そうではなく、主体にとっての否定的な代役である。対象aは「主体の代替物 (suppleant) である」(S.X, 6-26-63)。

だが対象aが主体の代替物であるということは、またそれらのあいだのある分離をも意味でする。欲望の維持は、欲望の式$◇aのポワンソン(錐印)によって示された、差異、否定の瞬間による。

このように、ある関係の意味を見出すことができる。それはラカンの仕事に親しいどの読者をも驚かすにちがいない。その関係とは、ラカンの議論、譲渡されるcedable対象と“cedable”という語への彼の他の依存の関係である。後者は、「欲望において譲渡しないこと」という論点として精神分析の倫理的重要性を特徴づけるものだ。

「精神分析の視点からみれば、 我々が有罪であるとすれば,それはひたすら,欲望に関して譲渡したからである」 " la seule chose dont on puisse être coupable, au moins dans la perspective analytique, c'est d'avoir cédé sur son désir "

我々はこの二つの譲渡の使用法を、互いに関連付けて読めないだろうか? ここでの要点は、ラカン的主体は、欠如によって残された否定的空間を諦めるのではなくて、対象を諦めることを命令されているのではないか? ふたつの譲渡の出来事momentsは、まさに互いに補い合うものだ。主体は、欲望において譲渡cedeしないために、対象を譲渡cedeしなければならない。

ここにあるフロイト起源の「母なるdas Ding(不可能なる怪物的な〈大他者〉」概念は、後年のラカンにとっては、いささか捉え方の変更があることに注意(とくにセミネールⅩⅦ以降)。それにもかかわらずこのセミネールⅩ(不安)をめぐる叙述は示唆溢れる。


以下、セミネールⅩⅦにおける態度変更をめぐるポール・ヴェルハーゲの叙述(詳しくは「子どもを誘惑する母(フロイト)」を見よ)。

彼女の小さな子どもをplus-de-jouirへ導くのは、〈他者〉としての母なのである。すなわち(限定された)享楽の道は、想定された原初の全体的享楽を断念するという条件のみで、子どもに開かれている。それは、今後、母の場にあると想像されるのだ。

これらの考え方をラカンのより以前の母-女の役割の理解と比較するならば、その相違は歴然としている。以前には、女-母、現実界、欲動、そして享楽は、多かれ少なかれ、共通の不安を掻き立てる恐怖を示していた。それに対する保護は、何らかの形で、男-父、象徴界、ファルスのシニフィアンから来ると期待された。そしてふたたび、これらの用語は、多かれ少なかれ、共通の制度を示していた。

後期ラカンの理論では、母は、ある役割を割り当てられた人物に降格される。彼女はその役割を求められることも、拒絶の可能性を殆どないままに割り当てられる。彼女は欲望される対象になるかもしれない。だが同時に、彼女はとりわけ禁じられた対象になる。ひとは、ひどく危険だとされるこの対象に、この禁止を超えて到達すべきか。こうして宿命の女La femme fataleがこのエディプスの劇場の生産物として現れる(Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe,2006)